遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
by dostoev
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地獄の鉤付

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昨日の朝、車についた氷の結晶を撮影してみた。車のエンジンをかけて少し経過した後の撮影だった為、多少溶けてはいる。この結晶を見て、自分はスギナを思い出してしまった。

「つくし誰の子 すぎなの子」という歌詞の童謡とがあったが、伊能嘉矩「遠野くさぐさ」「杉菜の根」という題名でスギナの事が記してあった。

「木賊科植物なる杉菜の根(実は地下茎)は、尤も深く地下に入り、地により六尺七尺以上に及ぶことあり。されば此の特徴に本づきて杉菜の根は、地獄の鉤付となりつゝありと言ひなせり。」
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地下茎が深く、簡単に掘りだせない事から地の奥底深く根付いているという感覚が、地獄または根の国底の国、黄泉国、霊界などのイメージが重なったものと思われる。地獄の鉤付という名称は、どうやら地獄の閻魔大王が囲炉裏で自在鉤として使用しているのでは?というくらい深い事を強調した為の様。スギナは地下茎で増えるので、その駆除には難儀する様だ。今は除草剤などがあるが、昔は簡単に除去出来ない=退治できない、魔界の植物の様に思われていたのかもしれない。ただ今は、そのスギナさえ目にする事の出来ない、死の季節のようでもある。この冬の白い大地に、地獄の鉤付でもよいから緑色の植物が芽生える春が待ち遠しいものである。

# by dostoev | 2018-01-16 12:39 | 民俗学雑記 | Comments(0)

どんと、ハレの日

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今日、1月15日は「どんと焼き」の日。早い時間から、正月飾りや御札を持った人達が集まって来ていた。
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用が済んで、帰る人もチラホラ。自分も神事までは居る事が出来ないので、すぐに帰った組だった。
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どんと焼きが始まるまで待つ人達は、こうして火に暖まりながら待っている。
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受付の場所には、それなりに多くの正月飾りなどが集まっている。
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火にくべられていた薪の中に、カワラタケがびっしり生えている薪があった。クワガタ飼育をしていた人にはわかるとは思うが、思わず勿体ないと思ってしまった。
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すでに帰る人と、これから来る人。今日は、どんと焼きのハレの日。これで正月気分も抜けるだろうか。

# by dostoev | 2018-01-15 16:09 | 遠野体験記 | Comments(0)

遠野の義経&弁慶伝説

義経&弁慶伝説は広範囲に広がっており、遠野にも調べればかなりの数の義経&弁慶伝承とその遺跡が多く点在する。全て確認してわけではないが、まだまだ他にも伝承を発見できそうな気がする。この遺跡を探すだけで、かなり時間を浪費しそうだ。義経&弁慶に興味ある方は、探してみると面白いかも。



【遠野町】

1.鍋倉山の弁慶足跡岩
2.館林家の義経の書(掛け軸)
3.白幡神社(源氏の白旗に因むが、義経が祀ったとされる。)

【小友町】
1.不動岩の上にある義経の下駄の跡
2.黒内の伝承(九郎判官義経が家に入ったという伝承)
3.小黒の墓(義経の愛馬を祀った地)
4.続がり岩(弁慶が載せたという大岩)
5.義経の愛馬小黒の鞍を掛けた(鞍掛石)
6.義経が休んだ石(義経の休み石)


【綾織町】
1.弁慶が載せた岩(続石)
2.弁慶が昼寝した岩(弁慶の昼寝石)
3.続石の前に笠岩を載せられ泣いたという(泣き石)
4.弁慶の下駄の跡(弁慶の下駄跡岩)
5.弁慶が手玉にとったという巨大な玉石(弁慶の手玉岩)
6.義経が建立したという神社(愛宕神社)
7.弁慶の太刀割石

【青笹町】
1.弁慶の足型石

【上郷町】

1.弁慶の足型石(現在某家の庭石)
2.義経の愛馬を祀った駒形神社
3.義経を風呂に入れたという風呂家
4.伊豆神社
5.日出神社(義経の娘、日出姫が建立)
6.仙人峠(義経休み石)

【土淵町】

1.弁慶の手形石
2.義経の愛馬が狼に襲われ爪を食われたとされる(爪喰野)
3.義経が愛馬の鞭に使ったという桜の枝に根が付いて(爪喰野の桜)

【附馬牛町】

1.弁慶の太刀割石
2.弁慶の手形岩
# by dostoev | 2018-01-15 11:41 | 遠野の義経&弁慶伝説 | Comments(1)

キタガメ

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往時は今の土淵村を中心とし、松崎村の一部、附馬牛村の一部を総称してキタガメ(Kitagame)といへり。キタガメは、蓋し「日高見」即ち「北上(Hitakami=Kitakami)」と同源の夷語に出でたる地名として見るべき如し。

                    「遠野くさぐさ(キタガメ)」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
阿曽沼氏以前の遠野は、土淵が中心であった。その土淵から北へ伸びるラインの先に、早池峯が聳えている。早池峯神社の末社であった常堅寺の近くには、早池峯古参道跡が今でも残っている。それは、早池峯へと延びる北への道であった。日高見という語は、「東日流外三郡誌」で多く使用される言葉であり、また史書や祝詞にも日高見という語は、いくつか登場する。気になるのは、例えば遠野では「ひろ子」という名前の女性の場合、この名が転訛した場合「しろ子」もしくは「すろ子」と「は行」が「さ行」に転訛され呼ばれる場合がある。これが「ひたかみ」であれば、「しだがみ」または「すだがみ」と濁音を含んでの転訛が有り得る筈だ。故に伊能嘉矩の説に、違和感を覚える。また「竈神」はそのまま「カマドガミ」と発音する。「神」が「ガミ」と発音するのは、例えばそれが「北亀」であった場合、やはり「キタガメ」となり、普通であろう。つまり「キタガメ」は、そのまま「北亀」でいいのではなかろうか。ただ問題は、「北亀」が何を意味するかであろう。北の亀で思い出すのは、北を護る玄武であろう。ただ昔の遠野に、いきなり玄武と話しても通用しないと思われる。ただ「北を亀が護っている。」と伝えれば、ある程度は伝わるとは思うが、それがそのまま地名になるとは思えない。

それでは「亀」ではなく「甕」であった場合はどうだろう。北は、早池峯の麓とする猿ヶ石川の源流で、昔の猿ヶ石川は水量も豊富で、かなり広大であったらしい。松崎の松崎沼も養安寺の下まで広がる広大な池であったようだ。また附馬牛の大出(オオイデ)と小出(コイデ)はどうやら「生出(オイデ)」という水が涌き出る地名が変化し、大出と小出に分けられたようだ。本来はどちらも「オイデ」であったよう。土淵村を中心と考えた場合、土淵を流れる小烏瀬川と猿ヶ石川を比較した場合、余りにも川の規模が違う。そう考えると、土淵側から見れば、北に位置する松崎から大出・小出は、まるで水をなみなみと湛える甕の様でもある。もしかして「キタガメ」とは「北の甕」を意味するのではなかろうか。
# by dostoev | 2018-01-13 19:02 | 民俗学雑記 | Comments(0)

「遠野物語92(早池峯への道程)」

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昨年のことなり。土渕村の里の子十四五人にて早池峯に遊びに行き、はからず夕方近くなりたれば、急ぎて山を下り麓近くなる頃、丈の高き男の下より急ぎ足に昇り来るに逢へり。色は黒く眼はきらきらとして、肩には麻かと思はるゝ古き浅葱色の風呂敷にて小さき包を負ひたり。恐ろしかりしかども子供の中の一人、どこへ行くかと此方より声を掛けたるに、小国さ行くと答ふ。此路は小国へ越ゆべき方角には非ざれば、立ちとまり不審する程に、行き過ぐると思ふ間もなく、早見えずなりたり。山男よと口々に言ひて皆々遁げ帰りたりと云へり。

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「注釈遠野物語」によれば、この話を提供したのは土淵小学校校長鈴木重男(1881~1939)であったという。小学校の校長であるから、子供達から実際に早池峯へ行き、山男らしきと遭遇した話を聞いたのであろうとは思える。ただ「注釈遠野物語」にも書いている様に、土渕の早池峯参道から歩いたとしても一昼夜はかかる。ましてや、小学生の子供達の足でとなると、疑問に思うのが普通だ。ただしだ、早池峯というスケールをもっと大きく見積もれば、あながち嘘では無いのかとも思える。通常の早池峯山への道は、古参道通りに歩いて、早池峯神社経由で行くのが普通なのだろう。そうなればまず、子供足ではどう考えても無理だと思う。しかし、早池峯山ではなく、早池峯として考えた場合、例えば前薬師という名称からわかるように、早池峯があってこその薬師である。つまり、薬師もまた早池峯に属する山であると考える。

そして、現在の荒川高原へ向かう道もまた、早池峯への道となる。途中には不動明王を祀る神社があり傍には渓流と不動の瀧がある。修験者は、川沿いの道を開発して奥へと進み、途中にあった滝や大岩に大抵は「不動」という名前を付けて進んでいった。

荒川の不動明王を祀る神社の背後は萬幡(ヨロズバタ)という地名がある。そして何故か、早池峯であり薬師岳の麓にある又一の滝へと向かう途中もまた萬幡という同じ点名がある。この点名は古来からの呼称を、そのまま採用したようだ。又一の滝は、早池峯山と共に早池峯神社の御神体の一つでもある。つまり又一の滝も早池峯の山麓でありながら早池峯に属する地である。そういう意味から考えれば、荒川の不動明王を祀る神社と滝のある地もまた、早池峯に属する地と考えて良いのではなかろうか。
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土渕から、早池峯山までは歩いた事は無いが、果たしてどれだけかかるのだろうか?通常であれば、どこかで一泊して進むというのが一般的であろう。以前の冬、耳切山の中腹に車を止めて雪で埋まった道沿いを歩いて荒川高原の馬の放牧地まで歩いて行った事がある。雪のせいで難義した為に、車から往復8時間かかった。これが雪の無い道であれば、その半分で済んだであろう。それでは同じ8時間をかけて歩くなら、土渕の早池峯古参道跡の鳥居から、荒川までは恐らく往復8時間程度で済みそうな気がする。明治時代に水筒があったかどうか定かでは無いが、必要なのは水である。耳切山経由では、水場が道沿いには無い。ましてや、明治時代に道路が開発されていたのかも定かでは無いが、附馬牛町から進む荒川の道は、先に記した様に川沿いを山伏が開発した道であり、明治時代であるのならば当然、道もあった筈だ。土渕の早池峯古参道跡から附馬牛の町までは、歩いても1時間以内で歩ける距離にある。そこからは、いつでも水を飲む事が出来る、荒川渓流沿いの道を進むのが、子供達にとっても合理的な道であると思う。
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平成の初期に、荒川高原の道は舗装道路となり、タイマグラ経由で小国まで道が開発された。それ以前はでこぼこ道で、車で行くのにも、かなり難義した。そしてその途中、小国と小田越方面への分岐路がある。その分岐路まで歩くとしたならば、日の出前に歩き始めれば、休憩を数度交えても、昼までには到着するものと思える。であれば、小田越方面へとそこから進めば、早池峯登山口までの行程は可能であろう。その帰りの分岐点辺りで山男らしきと遭遇し、小国へ行くという言葉とは裏腹な方向へと進んだとしても、あの附近であれば、麓に近いという供述は納得できるものだ。よって土渕村の子供達は、荒川高原経由で早池峯山まで行ったであろうが、恐らく登山口まででは無かっただろうか。
# by dostoev | 2018-01-13 16:52 | 「遠野物語考」90話~ | Comments(0)

白見山は朝倉岳

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伊能嘉矩「遠野くさぐさ(白見山の山男)」において、「白見山は、一に白美山と書し、本名を朝倉岳といふ(海抜一千二百メートル)」と記されてあった。これが正しければ、いろいろと思うところがある。また「白見山は、上閉伊(土渕金沢)・下閉伊(小国)両部の中間に横はる峰嶺にして、山勢幽深を以て名であり。山の中部を大白見といひ、一の大沼あり。」という記述の中の"大白見"という名称は、意味深である。

まず朝倉岳という山名だが、以前「朝倉トイウモノ」で、朝倉は星見・月見の意であろうと書いた。これを考え合せ、何故に白見山で"二十六夜待ち"という月の出を待ち見る習俗があったのか疑問であったものが解消される。
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この「白見山の山男」では、白見山の山男が二種類あると記している。「一をミツヤマと呼び、一身三頭を有し、一をヨツヤマと呼び、一身四頭を有すともいへり。」。普通であれば、こういう化物はいないものと誰もが思うであろう。しかし何か意図して書いているとすれば、その意図は何かという事。ここで思い出すのは北斗七星である。北斗七星の俗称に"四三の星(しそうのほし)"というものがある。野尻抱影「日本の星(星の方言集)」には四三の星の詳細が書き記してあるが、元々は双六の賽子の目から始まった言葉であるようだ。双六が伝わったのは文武天皇の時代と言う事から、7世紀には既に賽子があったのだろう。双六で四三の目は、そう出るものではないとされている。とにかく北斗七星の七星を、四つと三つに分けたのが四三の星という事。ここで画像の北斗七星を見ればわかるように、北斗七星の形は変わらずとも、北極星を中心として回転している。その北斗七星を山際で見た場合、三つの星だけが見える場合と、四つの星が見える場合がある。恐らく山男のミツヤマとヨツヤマは、この北斗七星を意図して想像された山男ではあるまいか。ただし、遠野側から東に聳える白見山を望んでも、北斗七星は見えない。これは遠野の反対側の金沢で作られた話であるかもしれない。
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また「白見山の山男」には、こういう化物も紹介されている。

其の他、仁科(土淵村に属す)の佐々木七右衛門(明治二十年六十余歳にて死す)といふ者、壮時或る夜中、同山の支脈なる梯子山の中にて山男に出会ひしことありしが、地上を抽くこと一丈余ある地竹の上に、尚ほ上体を一丈余りも高く挺んでて、頭上に方言オトコヤマといふ笠を被りつゝ往くを見たり。驚き恐れて其のまゝ家に逃げ帰りしことありともいふ。

大入道の話にも取れるが、この話は「日本書紀」で斉明天皇の死後「朝倉山の上に鬼有りて、大笠を着て喪の儀を臨み視る」を模したものではないかとも思える。笠を被る天体としては、月が有名だ。この「白見山の山男」の話も「日本書紀」の話も、どちらも笠を被った大入道という事から、浮かび上がるのは月であろう。「古事記」では伊弉諾が左目を洗って誕生したのが月読尊という事だが、月は一つ目であるという事。世に多くの一つ目の大入道の話があるが、確かに月を目であるとした話もある事から「大笠を着て喪の儀を臨み視る」とは、笠を被った月の意であるのかもしれない。

先に紹介したように、白見山の本来の山名は朝倉岳であったよう。朝倉については「朝倉トイウモノ」で書いたが、朝倉には太陽の運行の軌道、もしくは月の運行の軌道に太白を重ね合せた思考があった。もしや冒頭で紹介した"大白見"とは、"太白"を意図してのものであろうか。そして朝倉が星見・月見を意図するものであるならば、月や星を擬人化、いや擬妖化したもので、白見山の怪異を表現したのかもしれない。確かに白見山は遠野側から見れば東に聳える山で、白見山近辺からの太陽や月の出を確認できる。また反対側の金沢からは、日の入り、月の入り、そして北極星と北斗七星を確認できる。それは古来から伝わる朝倉の意に対応するものであるから、朝倉岳と命名したのは、その知識があったであろう阿曽沼時代ではないか。
# by dostoev | 2018-01-12 10:06 | 民俗学雑記 | Comments(0)

化け物馬

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伊能嘉矩「遠野くさぐさ」に、「南部大馬の事」という題名で、他の多くの馬を喰い殺した大馬の話があった。大馬とあるが、それは七尋の馬であったとされる。一尋は約180センチであるから、とんでもない大馬の伝説であるが「三戸手引草」では、尋では無く尺の誤であろうという訂正記事が載っているようだ。ただ林田重幸「中世の馬について」を読むと、古今要覧によれば「四尺(121センチ)の馬を世の常の馬とするがゆえに是を子馬といい、四尺五寸(136.4センチ)を中馬、五尺(151.5センチ)を大馬といい、五尺より上の馬は得がたがるべし」とある。であるから例え七尋が七尺の馬になったとしても、有り得ない大きさの馬の話という事になる。ちなみに、遠野市小友町にある源義経の愛馬の墓とされている小黒だが、恐らくは源義経の愛馬の大夫黒が、小黒になっているのではなかろうか。その大夫黒の大きさが五尺六寸であった事から、鎌倉時代の馬の殆どが四尺から四尺六寸であったとの記録から、源義経の愛馬小黒は、その時代ではかなりの大型馬という事になるのだろう。

ところでこの大馬、他の馬を喰い殺したので、さぞかし残虐かと思えば、さにあらず。悪馬種を絶やす為、明神の命を受けてのものとされ、今でも有戸村に大馬塚があって祀られているらしい。その明神の正体は不明だが、どうやら仏教思想の入り込んでいる事から、仏教説話として広まったものだろうか。ただその明神の正体だが、南部駒の産地としての六ヶ所村は、南部氏の本拠とは目と鼻の先である。その南部氏が信仰していた櫛引八幡宮であるが、その八幡大神が御神輿にてまず、御前神社の明神に挨拶に伺う神事がある事から、明神の正体とは御前神社に祀られる水神であろう。その水神の正体は「早瀬川と白幡神社」に書いている。
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中村禎里「ウマの神性と魔性」読むと、藁馬は、豊穣の神を招く馬であろうとしている。盆の行事で、祖霊を送迎するのが藁馬の元来の役割とされているが、時代を遡ると馬とは特権階級の象徴であり、もしくは神が乗るものとされていたようだ。それ故に仏教的に悪事を働いた人の堕ちゆく先は、馬では無く牛であったようだ。ただ室町期になって、人が馬に堕ちる話が登場するようになったという事であるから、遠野の善明寺に伝わる牛になった男の話「真似牛の角」は、鎌倉時代以前に作られた話であろうか。

それ以前の古代では、馬は水神と結び付いていた。水を支配し、水田耕作の豊凶を左右する神でもある水神と馬が結び付いていた。その豊穣神が馬に乗って、山と里を行き来する信仰が生まれた。これは山神が春になり田に降りて田の神になり、秋に山へと帰り、山神になるという話と同じである。早池峯神社の大祭では、神輿が担がれ、境内の外に出る前に駒形神社に寄るのは、早池峯大神が馬に乗る為でもある。つまり早池峯大神と馬は、セットでもあるという事。
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この大馬の産地は、陸奥国上北郡六ヶ所村は、古来から名馬を生産する地であり、源頼朝が所有した名馬”生食(いけずき)”の産地であるとしているが、生食の産地は、他地域の説もある。「いけづき」という名に生食という漢字があてられているが、池月という名が別にある。ただ「生食」は”生き物をも食らうほどの猛々しさ”を意図している事から、もしかしてこの六ヶ所村の仏教説話が「生食」の名の出所であろうか。草食の馬が肉をくらう事は無いのだが、人を喰らう馬の話は「小栗判官」の話にも登場する。この「小栗判官」に登場する人を喰らう馬は死後、馬頭観音として祀られる事から、もしかして有戸村の大馬塚には同じく馬頭観音碑があるのではなかろうか。遠野市小友町に入り口には、沢山の馬頭観音碑が並んでいる。ただこれは道路工事の際、散らばっていた馬頭観音碑をまとめたものであるというが、大抵の場合、馬頭観音碑は村境に置かれるものだとされる事から、元々は小友の町の入り口に建てられたものを一ヶ所にまとめられただけなのだろう。遠野市二日町の駒形神社の御神体は、巨大な石の男根である。一般的に勃起した男根は魔除けの力があるとされるが、人間の男根よりも巨大なのは馬の男根である。それ故に、二日町の駒形神社の御神体である男根は、馬の男根を意識しているものと思える。その疑似馬の男根が馬頭観音碑となるのならば、村境に魔除けとして置かれるのは当然の事だろう。コンセイサマで有名な山崎のコンセイサマもまた、より大きな自然石の男根が発見されれば、その御神体の座を譲るとも云われる。世に大きな男根は魔除けであるなら、人間よりも大きい馬。その馬の中でも巨大な馬はもはや神の領域であろう。先に紹介した大馬の話は、元々神馬の話が歪曲され伝わったのではとも思えてしまうのだ。そうでなければ、明神の意を汲んだ大馬が、その死後に塚が作られ祀られる筈もないではないか。
# by dostoev | 2018-01-10 22:23 | 民俗学雑記 | Comments(0)

「遠野物語拾遺237(山の神)」

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この地方では産婦が産気づいても、山の神様が来ぬうちは、子供は産ま
れぬといわれており、馬に荷鞍を置いて人が乗る時と同じ様にしつらえ、
山の神様をお迎えに行く。その時はすべて馬の往くままにまかせ、人は
後からついて行く。そうして馬が道で身顫いをして立ち止まった時が、山
の神様が馬に乗られた時であるから、手綱を引いて連れ戻る。場合によ
っては家の城前ですぐ神様に遭うこともあれば、村境あたりまで行っても
馬が立ち止まらぬこともある。神様が来ると、それとほとんど同時に出産
があるのが常である。

                   「遠野物語拾遺237」

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山の神が馬に乗るというのは、暗に馬とは神の乗り物という意味合いを示している。上記の写真は、柳久保遺跡から出土したもので、馬に乗っている神をあらわしているという。それが征服した騎馬民族の姿なのかどうかわからないが、古代の東北には馬がいなかった。考古学的には、弥生時代以前には馬は日本に存在しなかったとの事。「魏志倭人伝」においても、日本に馬はいないとの記述がある事から、3世紀に日本には馬はいなかった…。

では、いつから馬が東北に入り込み、神の乗り物として存在するようになったのだろうか?「遠野物語拾遺237」では出産にかかわる話である事から、山の神が人の生死に関わる存在であり、それに繋がりを持つのが馬という事なのだろう。
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遠野の駒木という地域に、蒼前神社というのがある。こここで祀られているのは馬であり、それも葦毛の馬だ。この神社の創建の由来は、八幡太郎義家が桔梗が原で狩りをしている最中、愛馬が脛を折った為にこの地に神社を建立し祀り「脛折り蒼前」と名付けたという説と、この神社の北東の方向にマンコという長者がいて、その愛馬が倒れ死んだ為に、供養する為神社を建立したという説の二つがある。ただしいずれにせよ「蒼前」という名前が付く。ところで蝦夷の歴史を調べると、渤海との交流が盛んであったようだ。

これは偽書と云われる「東日流外三郡誌」の記述ではあるが「安部一族遠征録」という項目に、貞応元年(1222)5月7日に、粛慎国に渡り、太刀と交換して、17頭の名馬を船積みして、8月16日十三浦に帰港したという記述がある。実際に安部氏一族は、十三湊を拠点として貿易に従事していただろうと云われる事から、この「東日流外三郡誌」もあながち嘘を書いていないのだと思う。


神亀4年(727年)9月に渤海使節団が初来日したという。出羽国北部に着いた後、宝亀2年(771年)やはり渤海の使節団325人が17隻の船で野代湊に着いたと、平安時代前期まで、何度も出羽に来航している。当時の朝廷は、何度も九州に来航するよう勧告したようだが、渤海側の意図は、安全な航海という意図から出羽への航路が伝統的に安全であったようだ。だからこそなのか、当時の朝廷との交流よりも渤海は蝦夷との交流を深めていったようだ。何故なら、いつも温かく出迎えていたのは蝦夷の民であったのだろうから。

遣唐使や遣隋使が合計12回しか行われなかったのだが、渤海の使節団は200年間に渡って、分かっているだけで35回もの来航を果たしている。もしかしてだが、歴史に残らない蝦夷との国交を含めれば、かなりの数の来航を果たしていたのかもしれない。渤海は、高句麗滅亡後に建国された国だ。つまり高句麗の息吹を受け継いでいる国であったという事だ。渤海は馬の飼育が重視されていた。これは軍事的な需要の他、駅站交通や貿易需要からもかなりの数が生産されていた事が知られている。そしてそれ以前の高句麗もまた馬の生産を重視していた。
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平壌近郊に徳興里古墳があり、壁画には流鏑馬の場面が描かれている。様々な馬の壁画の中で際立った1頭の馬が描かれているという。それは、他の馬よりも馬体が大きく、姿態も躍動的な葦毛馬だという。高句麗でも渤海でも、葦毛の馬が尊ばれた歴史というか信仰に近いものがあったと伝えられている。その伝説の葦毛馬の名前を「騣騚(そうぜん)」と呼ばれる。

先に記した「蒼前神社」など、何故か東北には「そうぜん」と音読する神社などが鎮座している。高句麗て神秘の馬とされた騣騚は、日本国…いや、蝦夷の国の中で神の馬として信仰された。この「そうぜん」は、中世以降、馬頭観音と結び付き、明治時代の神仏分離で駒形神社と改名したりと、本来の実名である「蒼前(そうぜん)」という実名を失ってきてはいるものの、未だに…例えば遠野の駒木地域の蒼前神社のように本来の名前を保っているのもある。
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ここからは仮説になるのだが、とにかく日本に馬が入ってきたのは漠然としているが弥生時代以降という事。また渤海との交流が深かったと記したが、蝦夷の馬を考えた場合、それ以前の高句麗との関係があったと考えるのが普通だと思う。高句麗でも馬を神聖視する信仰があった。だから柳久保遺跡で出土した絵は、やはり神が馬に乗っている姿であると考える。

つまり、蝦夷の国に馬が登場した時の蝦夷の民の馬を見る眼差しというものは、既に神がかっていたのではないだろうか?オシラサマの話の原型は、中国の「捜神記」と云われる。確かに遠野などに伝わるオシラサマの話とそっくりだ。オシラサマの話は獣婚という国津罪に加え、娘を抱いて天に昇るという龍との結び付きも見られ、神がかり的である。そこに登場する蚕は、養蚕の奨励とも取れるが、日本古来から続いている穢れ祓いの人形の元でもある這子という人形に辿り着く気がする。これは「古事記」においてイザナギとイザナミが最初に産み落としたヒルコと同じもので、足の立たないもの。つまり、足の立たない這子をヒルコと見立てたもので、やはり人の罪の深さを示すものであると考える。その人の罪を運ぶものは馬であり、それも葦毛の馬だ。馬の最高位は龍となるのだが、オシラサマの話を考え合わせても、その人の罪を運ぶものは白馬であり白龍となるのだと考える。

馬は人を”乗せる”ものであるのだが、実は人を”運ぶ”ものだという考え方も成り立つ。人の罪を運ぶ媒体としての白馬。つまり神の使いとしての白馬は白龍でもあり、だからこそオシラサマの話は受け入れら蝦夷の国であった東北に根付いた。つまりそれ以前には既に、神の乗り物、もしくは神そのものとしての神馬として蝦夷の国に馬は訪れたのかもしれない。

ところで「遠野物語拾遺237」に立ち返るが、遠野だけでは無いのだが祖霊信仰というものがあり、人は死んだら御山に帰るというものがある。だから神と云えば大抵の場合、山神となってしまう。また山に対して豊穣を願うのも、山そのものが生命の根源であると信じられていたからだ。

山というものは、樹木を生み出し、木の実やキノコを生み出し、獣を生み出し、また水をも生み出す。その山から生み出された水が里に注ぎ、人々の命を育んでいる。つまり、山そのものが、生死を司る存在である。だからこそ、その山に鎮座する山神に認められてこそ新たな命が育まれるのだという信仰心が芽生えたのだと考える。その山神を乗せる生き物が、やはり神の乗り物としての馬であり、白馬だ。そして遠野の場合、山神といえば、遠野の北に聳える早池峯という御山であり、その姿として表わされるのが、白馬に乗った女神の姿となる。いや、馬は姿を変えて龍となる事もあるのだ。
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ところで山を生活の生業とする者にマタギというものがいる。このマタギを漢字表記すると”股木”となって、山中で二股に分かれた木は山の神の神木として扱うからきている。例えば、動物を殺生した場合、股木の塔婆を立てて供養する。つまり、山から生まれたモノの生き死にに関わる者としたのマタギという意味となる。二股の木というものは、女性の股を意味し、そこから生命が生まれる。つまり、生き物を殺しても供養する事によって再び生まれ変わる儀式を行うのがマタギという生業に携わる者達の掟でもあった。ただし山の神信仰には二通りあり、山に携わる者の山の神信仰と、農民等の信仰する山の神信仰だ。山に携わる者の信仰は産に関する信仰が無く、女を避け、男だけが祀るものとなる。

また何故か六という数字を山の神が好むのは、山の神を助けたのが6人のマタギであり、それ以来1つ増えての7という数をマタギは嫌うのだと。もしもマタギが7人いる場合は、同行した犬の数を数え足して7人では無いという事を山の神に示すという。

マタギの妻などが出産した場合”赤不浄”と云い、タギは7日間猟を休んで山に入ってはいけない。この七日間は先ほどの7という数字が忌み嫌われる数字だからだ。また現在も遠野では、妻の出産に伴い、旦那は仕事を休まなければいけないとの決まりがあるのだが、これは建築系の仕事に携わる人にだけ今尚伝わっている。

現在の遠野では、大抵の場合、山の神とは女神であるという認識の元に成り立っている。ただし、遠野にはいくつか山神神社なるものが山裾などに建立されており、大山祇神を祀っている場合がある。

ところで大山祇神だが「古事記」において木花之佐久夜毘売は大山祇神の娘という事になっている。

「あはえ白さじ。わが父大山津見の神ぞ白さむ。」

木花之佐久夜毘売の別名は、神阿多都比売といい「神」は”神聖”な意味を表わし「阿多」は地名だ。これと似たような呼び名の姫が一人いる。阿蘇神社に祀られている健磐龍命に嫁いだ阿蘇津姫だ。やはり嫁いだ為に阿蘇という地名を受けて阿蘇津姫となっているようだが、どうも神阿多都比売と同じ方式で名乗っている気がするのだが。ところで嵯峨天皇は810年に、こう述べている。


「素尊はすなわち皇国の本主なり。故に日本の総社と崇めたまいしなり」


ところが愛媛県の大山祇神社には「記紀」の成立以前に建立されているのだが、社記には、こう記されている。


「和多志大神と称せられ、地神、海神兼備の霊神であるので

     日本民族の 総氏神として、古来日本総鎮守と御社号を申し上げた。」



嵯峨天皇の記述と、愛媛県の大山祇神社の社記の意味を考えると、大山祇神も素戔男尊も同列になっているのだが、本来伝わっているのは皇国の本主は天照大神であり、日本の総社は伊勢神宮となるのが一般的だ。

九州のある地域での山の神とは、素戔男尊であるという。ところが東北では漠然とただ「山の神」と記されて、たまに大山祇神が祀られているのだが、素戔男尊が山の神として祀られている例はまったく無いと思われる。だがどちらにしろ、山の神のイメージとしては男神になるのだが、何故か東北では女神とされる。しかし、山神神社で祀られている神像の大抵は男神であるのは何故であろう?

山神は、男か?女か?という話となっているが、吉野裕子著「山の神」では、何故「古事記」と「日本書紀」においてのヤマトタケル記で登場する山神の使いは、イノシシであったりヘビであったりするのか?という疑問に答えている。

十二様とも呼ばれる山の神を十二支に例えれば、十二番目が亥となる。亥とは陰陽五行に照らし合わせると全陰となり、女を示す。その対極にあるのは巳であり、全陽を示し男となる。そしてもう一つ、吉野裕子は提言している。ヤマトタケル記の背景には、古代日本を動かしていた二つの信仰があると。その一つは、男に対して持つ女の力と、もう一つは山の神の巨大な力だと。ヤマトタケルは姨である倭姫命から贈られた贈り物によって難を次々と逃れているいるのは、オナリ神の典型的なものであり、山の神に唯一対抗する手段が女の力でもあった。

またヤマタノヲロチの尾から出てきた草薙剣は山の神の象徴でもあり、それを携えなかったヤマトタケルは命を落とした。つまりこれこそが、最終的強者であり、絶対的存在とは山の神であったろうと語っている。

東北での山の神とは、女神であるから山で男根を露出したり、海のオコゼを見せると願いが叶うとされた。これは後付けだろうが、オコゼとは月偏を使用する漢字で「鰧」と書き表し、音読みでは「トウ」と読む。これは「刀」からの変化した漢字であるようだ。「刀」の本来は、あの反った形が三日月をイメージしており、月の変若水とも結び付き、いわゆる地母神を現し、山の神と深い関わりを持つ。またオコゼは「虎魚」とも書き記すのは、聖なる山の守護獣の資格を持つものであり、金の鯱(シャチホコ)が城の守護を果たすのと同じ意味を持つ。ところで何故に後付けかというと、以前の
朝廷側の剣は両刃の直刀であり、後に蝦夷の角度のついた蕨手刀の技法を取り入れ日本刀の原型となった為、時代的に山の神を考えた場合、オコゼと刀と三日月を結び付けたというのは、やはり後の時代からだと思うからだ。

また熊野を有する和歌山の沿岸区域では、ヒメオコゼを「イザナギ」と呼ぶというのは、イザナギそのものが海人族の信仰する神であり、それがいつしか山の神と結び付いたのだと思う。オコゼを調べると、海オコゼと山オコゼという二種類ものがあるのがわかった。海オコゼは、海のオコゼそのものであるが、山オコゼとは気味の悪いもの全般を称して山オコゼと言ったらしい。そしてその山オコゼの中に、実は”蝮(マムシ)”が含まれていた。マムシは頭が三角形という、ヘビの典型的な象徴であり、まさに山で男根を露出するというものと、オコゼを捧げるとは同義であった。

そうなれば、気持ち悪いものとして後に海のオコゼが注目を浴びて、いつしか山の神に供えるものとして成り立ったのだろうが、何故海の魚を「オコゼ」と呼ぶようになったのか?「オ」は敬称だとしても「コゼ」とはと調べたら、希望を表わす接尾命令形の古語として、「…シテクレヨ」というものがある。例えば…「それ、よコセ!」というものは、正しくは「それをよこシテクレヨ!」となる。つまり、希望・願望を叶える言葉としての「シテクレヨ」=「コセ」が山の神に対する願いを託す時の「オコゼ」として広まったのではなかろうか?
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「日本書紀」の五十猛の登場する神代の第八に、こうあった…。


素戔男尊の曰はく、「韓郷の嶋には、是金銀有り。若使吾が兒の所御す國に、
浮寶有らずば、未だ佳からじ」とのたまひて、乃ち鬚髯を抜きてた散つ。即
ち杉に成る。又、胸の毛を抜き散つ。是、檜に成る。尻の毛は、是柀に成る。
眉の毛は是櫲樟に成る。巳にして其の用ゐるべきものを定む。乃ち稱して曰
はく、「杉及び櫲樟、此の两の樹は、以て瑞宮を爲る材にすべし。柀は以て
顯見蒼生の奥津棄戸に將ち臥さむ具にすべし。夫の噉ふべき八十木種、皆
能く播し生う」とのたまふ。



つまり、素戔男尊の体の毛を放ち、毛という毛から、様々な樹木が生えて、また樹木の神でもある五十猛命も素戔男尊の息子であるから、日本国に樹木植えて、緑を広げたのは素戔男尊だった。その素戔男尊の息子である五十猛命はやはり「日本書紀」の神代第八段で…。


初め五十猛神、天降ります時に、多に樹種を將ちて下る。然れども韓地に殖
ゑずして、ことごとくに持ち歸る。遂に筑紫より始めて、凡て大八洲國の内に、
播殖して靑山に成さずといふこと莫し。所以に、五十猛命を稱けて、有功の
神とす。即ち紀伊國に所坐大神是なり。



これより、日本国中を森林の国にしたのは素戔男尊と、その息子である五十猛命によるものだったのがわかる。そしてその森林が発生する山の神として素戔男尊が祀られるというのは納得するものだった。

この「日本書紀」を読むと、まず筑紫から森林を植え始めたとある。現在の九州だ。だから原初の山の神は素戔男尊であった可能性はあり、九州の一部で山の神は素戔男尊であると祀られているのは、日本古来の原初の信仰が残っていたからなのだろう。つまり、だんだん北上するにしたがい、素戔男尊の名前が薄れてきて、単なる山の神という呼称になさって伝わっただけなのかもしれない。いや、今でも東北にはかなりの素戔男尊を祀る神社があるというのは、古代の東北においての山というものは絶対的な信仰の対象であった為、その山の神である素戔男尊の名前だけが残って信仰されてきたのかもしれない。

ここで気になるのは、素戔男尊の毛から生えていない松の木の存在だ。古代日本には松の木は無かったという。それが弥生時代となって輸入されたのが松の木だった。中国・朝鮮半島では松の木は、常緑樹であり、不変の木、神の依代として信仰された木だった。だから、神話や伝承、もしくは能楽などにおいても松の木が珍重されているのはある意味、古代日本の樹木信仰文化を大和朝廷が乗っ取ったという証なのかもしれない。

「日本霊異記」や「今昔物語」などでも、町を覆う大木によって農民が困る為に伐採する話が数多くあるのは、農民=弥生人という文化である為に、縄文文化の駆逐の意味合いが深かったのかもしれない。つまり素戔男尊が山の神であるというのも、大和朝廷にとっては隠しておきたいものであったのだろう。だからこそ祭神を隠し、古代からの信仰された樹木から、新たに輸入された松の木に、その信仰を移動させたのだろう。それは例えば「天女伝説」を普及させ、天女の羽衣が松の木にかけてあるのは、神の依代であるという意識を持たせての伝説の伝播となったのではないだろうか?本来、天女伝説などは全て日本古来の伝説では無いのだから…。
# by dostoev | 2018-01-10 22:07 | 「遠野物語拾遺考」230話~ | Comments(0)

縁結びと縁切り(瀬織津比咩)

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縁結びと云えば、今では綾織町の卯子酉神社が有名だ。赤い布切れを左手だけで祈願すると縁が結ばれるとされる。しかしそれは綾織町の事で、遠野の町での縁結びの神とは、多賀神社になっていた。多賀神社の祭神は、伊弉諾と伊邪那美の夫婦神となっている為だ。しかし、伊弉諾と伊邪那美は黄泉国で袂を分かった夫婦神であるから、縁結びには向いていない気がする。また厳密に言えば、多賀大社から分霊されてきた祭神は、多賀大社からの記録によれば、伊弉諾と弥都波能売神となっている。伊弉諾は、伊邪那美を捨てて、弥都波能売神という水神を選んだのだろうか? この弥都波能売神だが、本来多賀神社には御神水が涌き出ており、それによって神社を建てたとの話もある。その多賀神社の眼下には、猿ヶ石川が流れていた。弥都波能売神はいつしか、灌漑用水に祀る水神として扱われるようになったようだ。その為か、天保年間には猿ヶ石川の護岸工事において水神の碑として弥都波能売神の神名が刻まれている。これは多賀神社に影響されたとも聞くが、本来こういう川に対する石碑は、川の水源神に対してのものであるという。先に紹介した卯子酉神社は、この水神の碑の近くにある。その卯子酉神社も、本来は水神に対して縁を祈願するものであった。その祈願する水神もまた、猿ヶ石川の水源神である。古来から、猿ヶ石川の水源は又一の滝から始まったとされるが、それは早池峯大神でもある瀬織津比咩という水神である。熊野大社を調べても、本来祀るのは熊野川の水源神であったというが、その上流に祀られている神は、天河弁財天社の天照大神荒御魂であり、別の神名を瀬織津比咩と云う。

では何故に縁結びであるかという事だが、縁結びで有名なのは出雲大社である。神無月には、出雲に八百万の神々が集まり相談するのだと。主にその相談とは、人間達の縁を結ぶ為のものだと云われている。遠野に伝わる話に、山神が縁を結ぼうとする話があるが、遠野における山神の頂点は早池峯である。早池峯山頂手前に、賽の河原という場所がある。これは人は死んだら魂は山へと昇るとされたものに対応する為、仏教が普及してから名付けられものであったが、本来は神々が集まる祭礼の場所であったようだ。それはどういう事かと言うと、遠野の早池峯は神無月ではなく神在月の地であったという事。つまり、早池峯の神は出雲の神であったという事になる。出雲大神とは大国主が奉斎する神の事をいうのだが、その神とは熊野大神の事になる。熊野大神は熊野川の源流神でもあるが、広義的には那智の滝神でもある。その那智の滝神を祀る本来は飛竜権現社のようだが、熊野三山年中行事には、三月二十一日に飛竜権現社で瀬織津比咩祭が行われている事から、出雲大神=熊野大神=早池峯大神=瀬織津比咩という事になるのだろう。

縁を結ぶのが山神であり水神である早池峯大神になるのだが、縁を切る場合、有名な神社が京都にある。それは橋姫神社で、その祭神は瀬織津比咩であった。つまり、瀬織津比咩とは、人の縁を結び、また、その縁を切る事も出来る女神でもあるという事。縁を結ぶとは、子宝にも恵まれる事に繋がる。そしてこの縁を結ぶ祈願をする者達の殆どが女性である事から、いつしか瀬織津比咩は女性に信仰される神にもなったようである。
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# by dostoev | 2018-01-09 21:34 | 瀬織津比咩雑記 | Comments(0)

河童と瀬織津比咩(其の十三)結(其の二)

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恐らくだが、遠野で一番古い河童の伝説は、光興寺に住む人達に語られていた「猿ヶ石川物語」ではなかろうか。河童が全国に流行したのは江戸時代になってからであるが、九州などの地域では、それ以前から伝わっている。遠野もまた、江戸時代から明治時代にかけて河童の話が出回っているが「猿ヶ石川物語」は恐らく、高清水山の麓に阿曽沼が城を築いた時代まで遡る事が出来るのではなかろうか。以前、高清水の麓である光興寺近辺の古老に聞くと、大抵「南部は嫌いだ。」と答える。阿曽沼が没落して400年程経った今でも、阿曽沼に想いを抱く光興寺近辺に住む人達にとって、昔から語り継がれていた伝承もまた大切なものであるのだろう。

阿曽沼時代の横田城では、常に目の前に猿ヶ石川が流れていた。その阿曽沼の信仰には、日光中禅寺湖の蛇神の存在があり、それは琵琶湖を舞台にした、俵藤太伝説に繋がるものであった。その蛇神とは、白龍であり白蛇。宇迦御魂命とは、白蛇の梵語である。九州地域では、瀬織津比咩の異称とされるのが白龍である。その白龍に関する話が「猿ヶ石川物語」に載っている。その「猿ヶ石川物語」の始めは、又一の滝から始まっている。早池峯に祀られる瀬織津比咩は、滝の女神でもある事から、猿ヶ石川の根源は、早池峯の滝神から始まったと捉えても良いだろう。
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猿ヶ石川と早瀬川の合流点である落合には、"河童の座石"という石があり、いかなる洪水でも水に隠れる事は無いと云われる。ここは別に「女ヶ淵」と云われ、女河童が出るとされていた。これは女河童が石の上に座り休むと云う意味合いでもあろうが、例えば「遠野物語拾遺29」「淵の中に大きな白い石があるが、洪水の前などにはその岩の上に、白い衣装の婦人が現われて、髪を梳いているのを見ることがあった。(抜粋)」また「遠野物語拾遺30」「前にいう松崎沼の傍には大きな石があった。その石の上へ時々女が現われ(抜粋)」というように、猿ヶ石川に他にも石の上に忽然と現れる女の話があり、それは女河童か?と問われれば、そういう訳では無い。そして今回の河童の座石がある女ヶ淵も、本来は女河童が出るからと女ヶ淵と呼ばれたわけではないようだ。この「女ヶ淵」には伝承があり、基本は「遠野物語拾遺25」と同じなのだが、別伝承では三姉妹のうち、末の妹が猿ヶ石川の主に貰われて行った事になっている。これがどうも、遠野三山の三女神伝説に重なりそうで、末娘が早池峯山を女神になるものに対応するかのように、女ヶ淵では末娘が早池峯を源流とする猿ヶ石川の主のものとなる話になっている。猿ヶ石川の主は、龍神だ河童だとする説があるが、その猿ヶ石川の始まりが又一の滝である事から、主の正体はあきらかだろう。

女ヶ淵の河童の座石は、早池峯の麓である又一の滝から来たものとされていた。この女ヶ淵に入ったのは女白蛇であり、その命を受けて河童が石を守っていたという伝承があった。やはり竜蛇神の眷属、そして瀬織津比咩の眷属としての河童がいた。

また「谷内権現縁起古老伝」に記されている「当に今此石を以て礫に擲げ、其の落ち止まる地を以て我が宮地と為すべし。」という文章から発生した下記に紹介する「逃げ石」の伝承というものがある。

昔早池峰山に、白髭が膝まで届く老翁が住んでいたという。或る時の事、この老翁が小石を足で蹴り落とし、早池峰山を下っていったという事である。ところが、この石の取り除かれた所から、水が湧き流れ出て、今の猿ヶ石川になったと云う事である。この老翁が蹴り落とした石は、綾織の根岸の里で動かなくなったと。それを確認した老翁は、そのまま再び早池峰山に帰ったのだという。しかしその石は不思議な事に、その土地から逃げ出し、一夜のうちに和賀郡丹内村のヤツアナのガコに行って止まったと云う。今でもその石はその淵の中にあって、権現頭のような形をして、常に早池峰山を睨んでいるという事である。「逃げ石」

この「逃げ石」の話は、「猿ヶ石川物語」の始めである石が転がる話に対応している。ところで和賀郡丹内村のヤツアナのガコとは、丹内山神社の事であった。丹内山神社は早池峯山の方向に向いて建立された神社で、その間にある瀬織津比咩を祀る滝沢神社が丹内山神社の神が顕現したところとされている。つまり丹内山神社も早池峯山に関する神社という事である。そして丹内山神社の石がそれ以前にあった地が、綾織の根岸という事になる。

柳田國男「玉依姫考」を読んでいると"神が石を生んだ"とする信仰が深く根付いていたようだ。そしてその石は、更に石を生むと。全国的には、熊野または伊勢より携えた石が子を生む話が広がっている。「猿ヶ石川物語」にも石が三分割になった話が紹介されているが、その中の一つは河童である子供の石であった。その母親である石は、猿ヶ石川の落合の女ヶ渕へ行ったとあり、その石を守ったのは河童とある事から、落合の河童座石と重なる。そしてその母親の正体は、白蛇である。つまり男神と女神(白蛇)が結び付いて生まれたのが、河童であったという事になる。

神が石を生むを猿ヶ石川に照らし合わせた場合、又一の滝を源流とする猿ヶ石川沿いに神の降り立つ影向石が定められ、後から伝説化されたものではないかと思える。東和町の熊野神社にある兜跋毘沙門天は、猿ヶ石川を見るように鎮座させられているとされている。猿ヶ石川は田瀬ダムが出来る以前は、水量も豊富で丹内神社や、兜跋毘沙門天を祀る熊野神社のすぐ下を流れていた。熊野大社もそうだが、川の源流神を祀るのは当然の事で、その源流に鎮座する瀬織津比咩を崇めるのは自然の流れであったろう。その猿ヶ石川の流域を神格化し、伝説化するに当たり、石と河童が登場するのは、やはり背景に九州の伝承が重なっているのだろう。瀬織津比咩という女神に仕える水妖の河童。それがいつしか、その奇異さから河童だけが単独で伝え広まったものと思えるのである。
# by dostoev | 2018-01-08 17:05 | 河童と瀬織津比咩 | Comments(0)