遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
by dostoev
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カテゴリ:民俗学雑記( 264 )

子供達の中に…。

f0075075_04472968.jpg
座敷ワラシの説の一つに、生前、他の子供達と遊ぶ事無く死んでしまった子供の霊というのがある。子供の仕事とは、遊びである。同じくらいの子供が集まって遊ぶのが楽しいというのは、今も昔も変らないのだろう。だから子供達の集まっている中に、座敷ワラシと呼ばれるものが寄って来るのは当然の事なのかもしれない。座敷ワラシ譚に、子供達が遊んでいる中に、いつの間にか一人増えている。でも誰が増えたのかわからないというものがある。自分も小さい頃、近所の広場へ行くと、幼稚園から小学校6年生くらいの幅のある年代の子供達が集まって遊んでいた。そして誰彼問わず、その中に自然に入って、遊ぶ事が出来た時代だった。そんな中に、知らない子が1人加わっても、誰も気にしない。昔は子供の遊び仲間に、垣根の無い時代だった。

話は変わるが、自分の宿に子供達の団体が泊った。自分は朝の四時頃に起きて、朝食の準備をしている最中だった。一階のフロアにいると上から「ミシッ、ミシッ…。」と、誰かが歩いている音がする。上は畳敷きの大部屋になっており、子供達が13人雑魚寝している部屋であった。『早いなぁ、もう起きたのか…。』と思ったが、何となく奇妙にも感じた。何故なら子供ってのは大抵、寝てしまえば朝までグッスリ寝るものだと勝手に思っていたせいもある。起床は六時と聞いているので、朝の四時に起きていても時間を持てあますだけだろう。全員起きていれば別だが、一人で起きていても仕方ない筈だ。

朝の七時、朝食の時間となったので子供達が降りて来た。味噌汁を配り終わって、その事を聞いてみた。

「朝の四時頃に、誰か起きていた?」

すると3人程の子供が「は~い。」と手を挙げた。ああ、やはり起きていたのかと思ったら、ある子供がこう言った。

「三時頃から誰かが部屋の中を歩いているので、起こされちゃった。」

三時頃に起きてた子供がいた?そんな夜中に起きて、暗い部屋の中を歩き回る子供がいるのだろうか?

「朝の三時頃に起きていた子は誰?」

と聞くと、反応が無い。子供達は周りをキョロキョロ見渡しているようで、暗に『あいつ誰だよ』と確認している様であった。結局、該当者無し。では、誰だったのか。もしかして、恥ずかしくて名乗り出なかったという事もあろうか。ただこういう場合、遠野であるから座敷ワラシ?となるのだろう。とにかく普通に考えて、朝の三時に起きてうろつく子供というのは、あまり居ないだろう。冒頭にも書いた様に、座敷ワラシというものは子供達の集まっている場所に現れるという。そういう意味からも、遊んで欲しいからと、夜中の三時頃から寝ている子供達に悪戯して歩き回っていた座敷ワラシであったのかもしれない。実は過去に、この大部屋で座敷ワラシらしき話を聞いた事がある。ひとつは、パジャマではなく昔の子供がよく着た寝間着の様なものを来ている小さな子供が、この大部屋から出入りしているのを見たという人の話。もうひとつは、毎月泊ってくれる仕事関係者が、この大部屋で寝た時の事。その客が夜中に目覚めた時に、寝ている大部屋に小さな子供がいたと聞いた。この過去の目撃譚からも、今回の3時頃から歩き回っていた子供とは、もしかして…と思った次第だった。

by dostoev | 2018-08-13 05:28 | 民俗学雑記

お伊勢参りの禁忌

f0075075_13484363.jpg
太平の世となった江戸時代、遠野でもそうだったがお伊勢参りが盛んとなった。村々でお伊勢講が組まれ、村を代表してお伊勢参りへ行くのは男でもあった。それには、民間に流布した「三世相大全」にも影響されたようである。 その「三世相大全」には「祖先尊崇の観念から、男たるもの、一生に一度は伊勢参宮をせねばならぬ。」などと記されていたようである。遠野の民百姓だけでなく、当然南部藩の家臣たちもお伊勢参りへと参詣したようだ。

「遠野旧事記」によれば、南部直栄・南部義長の頃までは、家臣がお伊勢参りを願いあげると暇を貰ったそうである。ただその際、お伊勢参りのついでに他所へも足を延ばして巡って来る為、予定の帰国時期をはるかにオーバーして帰ってくる者が多かったようだ。その為か、鷹木道庸という老医師がお伊勢参りの為に、暇を願い出た時に南部義長は「先だって行った者の中に、上方に長く留まって来た者がいたので内々叱っておいた。参宮を口実に、自分の慰みの為に御奉公を疎かにするのは、神明の冥慮にも反する事。今後、伊勢参宮を願い出る者は、非番の日数の中で行うように。もしそれが出来ない様であれば、盛岡・遠野にも神明勧請のお宮があるのだから、そこへお参りしても願いは適うのでる。」と言い放ったようである。

「男たるもの、一生に一度は…。」と嬉しい名目を得た男連中は、お伊勢参りのついでに女遊びをする者達が多かったようである。それを察してなのか、下記の様な御達しが流布したのだった。

「伊勢両宮は恐惶も吾朝の宗廟にして、平人軽々しく参宮すべき宮居にあらず。もし参宮せんと思はば身を清浄にして、道中にて、仮にも穢れたる事を成すべからず。」

お伊勢参りへは全国から参宮客が集まる為に、かなりの賑わいをみせたようである。そしてその殆どが男連中であった為に、それを狙った女達も多かった。喜多村信節による江戸風俗を知る随筆「嬉遊笑覧」には、こう記されている。「ことし文政十三年、おかげで参りはやり、従来にて釣台に人をのせて通りしは、男女交接して離れざる者を担ぎ行くなりと専ら風聞あり。」とある。所謂"膣痙攣"の出来事であるが、これから更に風聞が広がりを見せ、伊勢参りをしている最中に男も、留守を預かる妻も、不義をすると神罰により"身体が離れなくなる"と信じられたようだ。しかしそれでも男達は、宿を共にした傀儡女などの遊び女と夜を共にする。恐らく、傀儡女達は神に仕える事から、男と交わるのを神婚としてきた。男もまた、これは不実ではなく神と一体になる神事であると、屁理屈を正当化して納得していたようである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
附馬牛村から伊勢参宮に立つ者があると、その年は凶作であるといい、
これをはなはだ忌む。大正二年にもそ事があったが、果して凶作であ
ったという。また松崎村から正月の田植踊が出ると、餓死(凶作)が
あるといって嫌う。

                     「遠野物語拾遺148」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この「遠野物語拾遺148」はもしかして、附馬牛村の男共が毎年不実を繰り返した為の神罰であったか(笑)



by dostoev | 2018-07-09 18:01 | 民俗学雑記

遠野高校の河童の手

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淵とは、淀みである。河童淵に浮かぶ落葉を見ていると、流れるわけでなく同じ場所を、繰り返し漂っている。ある意味、渦を巻いているのだが、こうしてじっと見ていると水底にいくつもの二つの目のようなものが輝いているようにも感じて来る。川の流れは見た目よりも早く恐ろしいものだが、淀みにはどこか気持ちを不安にさらる要素が含まれている気がする。その不安要素の一つに、河童がいまでも人間を水底に引きずり込もうとしている意識が働いているのかもしれない。
f0075075_12192541.jpg
淀みといえば、トイレであり厠などの便槽もまた淀みであるか。厠や井戸など、地面に穴が空いているのは霊界と繋がっていると古くから信じられてきた。その厠の便槽は、まさしく淀みの極みでは無いだろうか。昔から、厠から手が出てくる怪談話が数多く伝わるが、その中に厠で用を足している女性の尻を撫でる手というのは、殆どが河童の仕業とされている。多く見受けられる河童譚に、尻を撫でる手を切り取られ、後から人間に化けた河童が手を返して欲しいと詫びて、返して貰ったお礼に秘薬を伝授するという話がある。遠野地方においては、小友町の河童淵で、やはりお詫びに秘薬を伝えた話がある。ところで遠野地方に於いて、厠でありトイレから手が出てくるという話を、あまり聞いた事は無い。知っている限り、それは一ヶ所だけである。
f0075075_12304226.jpg
昭和54年の日中、遠野高校の弓道場看的所と裏表になっているトイレを使用としたKさんが大きな悲鳴をあげた。本人は怯えながら、トイレの便槽から手が出て来たのだと言う。その当時、遠野高校の弓道部のコーチをしていた御年輩の方は「またか…。」と述べた。過去にも、何度かそういう事があったらしい。

古い時代、現在の遠野の街は、人が住める状態ではなかった。安倍氏時代は、今の鍋倉山に馬を飼い、尾瀬の湿原のようであった今の遠野の街は、馬の格好の水飲み場であったという伝承がある。しかしいつしか遠野の街を流れる二股に分かれた早瀬川の片方を塞き止め、土地を乾燥させ、松崎にあった横田城と城下町を移転させたのが、17世紀の後半であった。遠野盆地は全ての山々が水源を有する山で、まさに水満ちる遠野盆地であったようだ。それ故に早瀬川の片方を塞き止めたくらいで、その溢れる水が全て無くなるわけではない。現在の遠野と比較すれば、かなりの水があちこちに溢れかえっていたようである。

南部氏の藩政時代、今の遠野高校の弓道場の辺りは、馬見所であり厩があった。その馬の飼育に適していたように、水も豊富にあったようだ。遠野高校の手前に合同庁舎があるが、そこの境に稲荷社と共に、一つの沢が流れていた。そこでは沢蟹が生息する綺麗な沢であった。今でこそ涸れているが、昔はかなりの水量を誇り、山際を流れ、その南部藩時代の馬見所と厩の辺りに流れていたらしい。いやそれ以外にも細かな沢水が流れ、一つの淵を形成していたのではないかと思える。

実は、さきほどの昭和54年の事件の頃、遠野高校で一人の女子生徒の制服が無くなった。盗難か?と疑われ、生徒の授業時間に手の空いた教員が遠野高校の敷地内をくまなく探した。その時、弓道場の裏山の藪から、大量の酒瓶が見つかった。疑いの目が、当時の弓道部男子に目が向けられたのは、別に弓道部男子のロッカーから灰皿とタバコの吸い殻が見つかったせいでもあった。自分も弓道部であったが、タバコを吸っていたのは別の部員であった。しかし、今だから言えるが、弓道場の裏山に酒瓶を投棄したのは自分の仕業だった。反省の意味も込めて、裏山の酒瓶回収をしたのだったが、その時にその裏山の藪の中に小さな水神の碑があったのを覚えている。今思えば、水神の碑があったという事は、水に関する神が祀られていたか、もしくはそれに関する事象があったという事だろう。これを遠野高校の弓道場のトイレの手と組み合わせて考えてみると、もしかしてその弓道場のトイレは昔、河童淵であったのかもしれない。「遠野物語」には厩に忍び込む河童の話が載っているが、その厩は河童の棲む川側にある為でもあった。もしかして弓道場のトイレは以前、その河童の棲む淵であったのかもしれない。それ以外でも幽霊話があったのは、先に述べた様に厠であり淵は、霊界の入り口であるからなのかもしれない。以前、埼玉県春日部の人から、河童の棲む池が土地開発により埋め立てられ、その池跡に建った家に住む人には様々な異変が起きるとの事を聞いた事がある。その裏付けも、春日部市の複数人から取ってはいる。それと同じ様な事が、遠野高校弓道部裏のトイレでも起きたのであろうか?
今でも遠野高校の弓道場裏手に、そのトイレがあるかどうかはわからない。ただ古い時代の名残のトイレであるから、あったとしても利用されていないのではなかろうか。とにかくここで言える一つの可能性は、遠野高校弓道場裏手は、河童淵であったのではなかろうかという事である。

by dostoev | 2018-07-03 13:25 | 民俗学雑記

又兵衛の矛(其の三)

f0075075_16132484.jpg
画像は里中満智子「ギリシア神話」から三叉槍を持つポセイドン。

又兵衛人形と杖の井の伝承を掛け合わせて浮かび上がるのは、ギリシア神話のポセイドンの三叉の鎗ではないだろうか?ポセイドンは海の神であり、地震の神でもある。E・ナック「古代ギリシア」によれば、三叉の槍により地面を引き裂くと水が噴出する事から、ポセイドンは泉と川の神でもあったという。これと同じものは「又兵衛の矛(其の一)」で紹介したように”杖の井”の伝承であろう。これには何故か弘法大師が数多く登場し、同じように地面に杖を突き刺すと水が涌いたなどの伝承が全国に拡がる。樹木は地下との交流アイテムであるとされるが、日本での地下とは根の国・底の国であり黄泉国を意味するのだが、ポセイドンの形容に「大地を抱く者」「大地を揺する者」があるが、三叉槍によって地面を突き刺し水を湧かせる事から大地の奥底に関係する神として知られ、冥界の神ハデスと同一視されていたようだ。「ギリシア神話」では、天をゼウスが、地下である冥界をハデス。そして海をポセイドンが支配した事にされているが、ポセイドンそのものはゼウスやハデスよりも古くから信仰されていた神であったようだ。これが日本神話になれば、太陽であり天が天照大神となり、月が月読命で海原が素戔男尊という事になっている。しかし、海原を支配している筈の素戔男尊は、根の国をも支配してしまった。思うのだが、太陽の光の届かない夜は、ある意味冥界にも等しいのかもしれない。その月の輝く夜を支配したとされる月読命だが、「古事記」「日本書紀」で大気都比売神と保食神という神のストーリーに素戔男尊と入れ替わり、関わって来る。これはポセイドンとハデスが同一視されていたように月読命と素戔男尊が同一視して良いほどの、怪しい入れ替わりであると思われる。

またポセイドンに対しての生贄として馬を捧げる信仰があったのだが、古代日本においても、丹生川上神社に生きた馬を生贄として捧げた事から、水神に対する信仰がギリシアと日本とで重なってくる。また藤縄謙三「ギリシア神話の世界観(ポセイドン神の成立)」によれば、ポセイドンの名前は「大地」と「夫」の結合語で「地母神の夫」という名前であると云う。杖を大地に突き刺すのが大地との交流であり、聖婚を意味する様である。それはつまり、水源を示すものであり、地母神の場所を示すものと考えて良いのではないか。昔観た映画「人食い残酷大陸」においても、男がペニスを立て、大地に穴を掘って腰を振るのも大地との聖婚であり、豊穣祈願の神事であった。考えてみれば、鮭は女神を慕って溯上するものと考えられている。また「肥前国風土記」「遠野物語拾遺33」の話も女神を慕って鮫や鰐が溯上するのも同じ。水源が女神の位置を示すものであるならば、それに鮭などが群がるのも女神との聖婚を求めてのものかもしれない。
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又兵衛祭の祭壇を見て、やはり重要なのは、又兵衛人形だろう。この祭において又兵衛人形は、そのまま突き刺すのではなく、まず穴を掘ると川側なので水が湧き出す。その水の湧き出した場所に、又兵衛人形を差し込むのだが、本来はそのまま突き刺していたのではなかろうか。不安定な為、確実に又兵衛人形を刺し飾るのは、穴を掘った方が無難だったからではないか。穴を掘って水が湧くというのも川側だからだけでは済まされなく、やはり水源を意図する必要からではなかっただろうか。そして気になるのは、”犯罪者”である又兵衛を槍で突くのが三本の槍によるものであるという事。
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石上山の麓に、沼平という地名があり、そこはかって大きな沼であったという。その沼には大蛇が棲んでおり、いつも暴れるので村人は、恐れていたそうな。その話を聞いた東禅寺の無尽和尚が大蛇退治をし、その大蛇を供養したのだと。大蛇は沼の傍らに埋め、その上に柳の木の枝を逆さにして弔ったという。死人のあった時、その墓場に柳の枝を逆さに立てて拝むと、死人は極楽往生が出来るとという事である。無尽和尚は、大蛇の極楽往生を願ったのだろう。今でも沼平には、逆さに立てた柳の枝に根が生えて育ったと云われる古木が残存している。

                           「上閉伊今昔物語」

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遠野にもいくつかあり、また全国にも弘法大師などが植えた逆さの樹木伝説がある。樹木を逆さに植えるという事は、樹木の根を上にするという事。先に紹介したように、樹木の根は地面の下に拡がるものであるから、樹木とは現世と根の国であり、黄泉国との入り口でもある。その樹木を逆さにすれば、根が広がる形である。又兵衛人形は、樹木を逆さにした形を意味しているのではないか。
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程洞神社に、二又に分かれた杉の木がある。その間に小さな社を置いて祀っている。二又とは女性の股を意味し、その間は子供の生まれる場所で聖なる場所の意味もある。それは、形を変えて信仰されている。例えば四畳半の半畳を真中にしてはいけないという禁忌がある。これは昔、切腹する場が四畳半で半畳を真中にしたからだとされるが、その真意は真中は霊界と繋がると云う迷信からの発生の様だ。これは八畳間の真中でも、同じような禁忌がある。また現代でも未だに行き続ける迷信に、三人で記念写真を撮ると真中の人物は早死にするとか、悪い事が起きると云われる。これもまた二又の真中が何かを発生させる場所であり、それが悪い方向へと考えられた為の様だ。とにかく二股の真中は、何かが発生する聖なる場所であるのだが、これが恐らく樹木を逆さに植えたという伝承に結び付いているものと思える。つまり、樹木を逆さに植えたという伝承も、地面に杖を突き刺して水が涌いたという伝承も、同根から分離したものであろう。又兵衛祭における又兵衛人形もまた、その亜流であると考えて良いのではなかろうか。ただしその原型は、どうもポセイドン信仰に行き着きそうである。

以前書いた「遠野物語拾遺20」の話は、まるで北欧神話「バルドル」の話と同じであった。ギリシア神話や北欧神話がどういう経路で日本に辿り着いたのか、それを紐解く資料に乏しいので、そこまではやろうとは思わない。ただ言えるのは、全くの影響無しに日本神話が作られたものととは考え辛いという事。別に、伊弉諾の黄泉国からの帰還も、「ギリシア神話」でのオルフェウスの話に酷似している事は、あまりにも有名な話である。また別に熊野の鴉の牛王神(ゴオウジン)が、もしかして北欧神話のオーディンではないかと噂されるのも、完全に否定できるまでの根拠に乏しいからである。時代を考えみても、明らかに日本神話より北欧神話やギリシア神話の方が、遥に昔の話である事から、現代では模倣と云われてもおかしくはない。また、遠野のデンデラ野の語源が未だに不明であるが、古代エジプトのハトホル神殿はデンデラという地に鎮座しおり、デンデラは魂の復活の意味があるという事から、もしかして遠野のデンデラ野の源流もエジプトに!?となりそうな気配もある。しかしどう考えても荒唐無稽にも思えるが、完全否定できないのもまた事実ではある。ただ、古代日本に大陸から、あらゆる人々が日本に渡り集り、また遣唐使や遣隋使などからも日本人が大陸に渡り、様々な知識や伝承を持ち帰っているのも確かである。又兵衛人形は、「杖の井」「逆さに植える樹木譚」の亜流であると思えるが、やはりその原型はポセイドンの三叉鎗から来ているものであると考えた方が自然ではなかろうか。

by dostoev | 2018-04-15 21:17 | 民俗学雑記

又兵衛の矛(其の二)

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岩手県宮古市に、奇妙な祭が伝わる。神野善治「鮭の精霊とエビス信仰 -藁人形のフォークロア-」によれば、藁で作られたY字型の人形は又兵衛と呼ばれ、地元では逆さ磔にされた後藤又兵衛の姿を象ったものとされているよう。しかし、この後藤又兵衛という名前は後から付けられたものであるようだ。初めに信仰儀礼があり、後から人形の股を開いた形に、又兵衛という名前を付けて作られた伝説であるようだ。取り敢えず「宮古のあゆみ」に、それが記されている。

「時代は不明であるが、南部藩が津軽石鮭川を直営した頃、後藤又兵衛という役人が、津軽石に出張して来た。其の年は未曽有の豊漁であったが、住民は、打ち続く凶作で、南部藩の援助も及ばず餓死者が続出した。又兵衛が『神が村人に与えた鮭である。この様な時に鮭を与えることが殿様の慈悲である』と言って、自由に鮭を住民にとらせた。人々は、この又兵衛の慈悲行によって救われた。南部藩庁では行き過ぎとして、又兵衛を逆さ磔の極刑に処した。津軽石人は、又兵衛の『身を殺して仁をなした』人間愛を銘記して、旧暦十一月一日、寒風すさむ丸長川原に、又兵衛刑死の姿に、藁人形を作り、神酒を捧げて又兵衛のに霊を慰め、加えて豊漁を祈念する習慣になっている。」

この後藤又兵衛という人物が南部藩の役人となっているが、該当する人物は存在せず、また南部藩において、実際にこういう事件の記録も無い事から、やはり後から話が加えられたものと考えられている。ところで谷川健一監修「鮭・鱒の民俗」での谷川健一は、又兵衛人形の又の形状は、恐らく鮭の尾ヒレを表しているのではないかと考えているようだ。また、鈴木鉀三「三面川の鮭の歴史」によれば、三面川の河口から五十町ほどの地点に標をたて、御境としたという。その御境から下流に又兵衛という名称があった事から、又兵衛という名称は漁場との関連、もしくは二股に分かれた川に関連しているものとも考えられているようである。

この鮭が溯上し、又兵衛人形が立てられる川は、宮古市の津軽石川となる。この津軽石川に鮭が溯上する由来譚に、何故か弘法大師が登場している。そのあらすじを下記に紹介しよう。

「この津軽石というのは、津軽の黒石という所から来た人達の作った村で、その昔はシブタミ村といったという。昔、弘法様が津軽を漫遊していた時に黒石の川で鮭がとれているのを見て、これを食べてみたいなぁといったが、村の人は乞食坊主みたいな者に何もやれないとことわった。弘法様は仕方無くそこの河原の石をひとつ拾って来た。そして弘法様がこの津軽石を訪ねて来た時に、川で同じように鮭がとれていて、食べたいなぁというと、村の人は鮭を煮たり焼いたりして御馳走してくれた。ほうしてタモトから石をとり出して川にほうりなげて、今後いつまでも鮭が帰ってくるように祈ったと。ほれから、弘法様が津軽から石を持って来て鮭がとれるようになったのでシブタミ村を津軽石という名前にしたわけだな。(宮古市在住の方の談)」

鮭の溯上に宗教者が関わっているのは「又兵衛の矛(其の一)」にチラッとは書いた。その中で多いのが、弘法大師である。東北地方に広く分布する「弘法とサケ」という弘法伝説であるが、これは鮭に限らず前回紹介した「杖の井」などもそうである。遠野にも来た筈の無い弘法大師伝説がいくつかあるが、恐らく信仰の変遷からの流れであったろう。東の天台、西の真言と云われる様に、東には天台宗の慈覚大師伝説が多く、また別に西には真言宗の弘法大師伝説が多くあった。しかし、早池峯妙泉寺そうであったが、当初天台宗であったものが真言宗の支配に移り変わっていた。天台宗から真言宗に代わった事によるのか、真言宗は、弘法大師の奇跡の伝説を広める事によって、天台宗からの信者を獲得していった経緯もあるのではなかろうか。
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この又兵衛人形の起源だが、同じ宮古市内の山口の小笠原家で発見された天保四年(1833年)の「覚書」の文書に「小盗はやり盗まづり、人形作、鎗つきまくり、三日の内まつり申候」という記述から、盗人送りの人形突きの祭があった事が確認された。これは別に津軽石地域の出来事が記されている安永六年(1777年)の「日記書留帖」には、一匹の鮭を盗んだ浪人が村人達によって殺され、その祟りによって鮭が上らなくなったので、それから河原で祭をする事になったと記されているようだ。内容は祭場の側に穴を掘るのだが、川の側である為にすぐに水が溜まる。そこに等身大の藁人形が運ばれ、二人の人間によって足を一本ずつ掴まれ、腹這いの格好で頭を水溜りの穴に突っ込まれる。そこへ竹槍を持った三人の男によって藁人形は槍で突き刺され、穴の中に蹴り落し土をかぶせて埋め、墓を作って供養するという盗人除けの呪いの祭りであったよう。飢饉の時は食料の盗難が深刻な為に、この祭が行われたのではないかと憶測されている。しかし、菅豊「修験がつくる民俗史」によれば盗人送りの祭とは別に、18世紀初頭には既に鮭に関する儀礼があった事を紹介している。それは毎年鮭漁の開始時期に稲荷山へ登り、湯釜を立てて、その託宣によって漁の豊凶を占ったようだ。そして河原においては「くいを立て、神になぞらえて…。」と、又兵衛人形と似たような儀礼が行われたようである。現在の又兵衛祭りは、この鮭に関する儀礼に盗人除けの呪術が結び付いて出来上がったものだと考えられている。恐らく又兵衛という名前も、鮭の儀礼で立てられた人形の形状から名付けられたものであろう。つまり、元々鮭の儀礼に立てられた人形の形は二又であったと思われる。

by dostoev | 2018-04-04 06:24 | 民俗学雑記

又兵衛の矛(其の一)

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遠野の町に宮という家がある。土地で最も古い家だと伝えられている。この家の元祖は今の気仙口を越えて、鮭に乗って入って来たそうだが、その当時はまだ遠野郷は一円に広い湖水であったという。その鮭に乗って来た人は、今の物見山の岡続き、鶯崎という山端に住んでいたと聴いている。その頃はこの鶯崎に二戸愛宕山に一戸、その他若干の穴居の人がいだかりあったともいっている。

この宮氏の元祖という人はある日山に猟に行ったところが、鹿の毛皮を著ているのを見て、大鷲がその襟首をつかんで、攫って空高く飛び揚がり、るか南の国のとある川岸の大木の枝に羽を休めた。そのすきに短刀をもって鷲を刺し殺し、鷲もろ共に岩の上に落ちたが、そこは絶壁であってどうすることも出来ないので、下著の級布を脱いで細く引裂き、これに鷲の羽を綯い合せて一筋の綱を作り、それに伝わって水際まで下りて行った。ところが流れが激しくて何としても渡ることが出来ずにいると、折りよく一群の鮭が上って来たので、その鮭の背に乗って川を渡り、ようやく家に帰ることが出来たと伝えられる。

                       「遠野物語拾遺138」
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何度か記事に取り上げた事のある、宮家と鮭の関係。実はこれ以外にも、佐々木喜善「聴耳草紙」「鮭魚のとおてむ」というタイトルで、別の話が紹介されている。
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昔、遠野郷がまだ大きな湖水であった頃に、同町宮家の先祖が、気仙口から鮭に乗って、この郷へ入って来たのが、この郷での人間住居の創始であるというように語られている。

この家の幾代目かの主人、大層狩猟が好きであった。その頃今の松崎村のタカズコという所に、鷹が多く棲んでいて飛び廻り、人畜に危害を加えてしようがなかった。この人ある日その鷹を狩り獲ろうというので、山へ登って行くと、かえってやにわに大鷹に襟首をとらえられて宙高く引き上げられてしまった。その人はどうかして逃れようと思ったけれども、かえって下手なことをしたなら天から堕落される憂いがあるからそのまま拉し去られて行くと、やや久しくして高い断崖の上の大きな松の樹の枝の上に下された。その人は腰の一刀を引き抜いて隙があったらその鷹を刺そうと構えたが、どうも寸分の隙もあらばこそ。そうしているうちにどこからか一羽の大鷲が飛んで来て、鷹の上を旋回して、鷹かまたは自分かを窺うもののようであったが、鷹が首を上げてそれを見る隙に、その人は得たり賢こしと一刀を擬して柄も通れよとばかり鷹の胸を刺し貫いた。何条堪まるべき、鷹は一たまりもなく遥か下の岩の上に堕ちた。それと一緒にその人も岩の上へ落ちたが鷹を下敷にしたのが幸いに怪我はなかった。

そのうちにかの大鷲も、いずこへか飛び去ったので、そこを立ち去ろうとして、よく見るとそこは海と河との境に立った大岩であった。そこで自分の衣物を脱いで引き裂き、斃れた鷹の羽を絡んで一条の網を作って、これを岩頭に繋ぎ、それを頼りとしてだんだんと水の近くへ降りて見ると、水が深くてなかなか陸の方へ上ろう由もなかった。途方に暮れていると折しも一群の鮭魚が川を上がって来た。その中に一段と大きな鮭が悠々と岩の岸を通って行くから、その人は思わずこの大鮭の背に跨った。そしてやっとのことで陸に近づき上陸をして四辺を見れば、そこは気仙の今泉であった。

その人はすぐに故郷へ帰ることもならない事情があったと見えて、しばらくその地に足を停めているうちに、世話する人があって鮭漁場の帳付となった。勿論文才もあり、勤めも怠けなかったので、大層人望が厚かった。

今泉と川を隔てた高田とには常に鮭漁場の境界争いがあって、時には人死になどさえもあった。そんな時にはその人の仲裁でどっちも納まっていたが、ある年鮭が不漁なところから人気が悪く、重ねて例年の川の境界争いも今までになく劇しかった。この時ばかりはその人の仲裁も何の甲斐もなく、日に夜に打ち続いて漁師が川の中で闘争を続けていた。その時、その人は遂に意を決して川の中央へ出て行って、両方の人々に聞こえるような高い声で叫んで言った。今泉の衆も高田の衆もよゥく聴いてくれ。今度ばかりは俺の誠意(まごころ)も皆様に通らなくて毎日毎夜、夜昼こうやって喧嘩を続けているが俺にも覚悟がある。俺は今ここで死んで、この争いを納めたい。そこで皆様は、俺の首の流れる方を今泉の漁場とし、胴体の流れる方を高田の漁場としてくれ。それよいか、と言って、刀を抜いて後首から力まかせに自分の首を掻き切って落した。そしてしばらくたつと暴風雨が起こって、その人が自害した辺に中洲ができ上がった。それで両地の境界が定まって、自然と川争いも絶えたという。

その後その人の子孫は先祖の故郷の遠野へ帰った。そして先祖が鮭のために生きまた鮭のために死んだのであるからというので、家憲として永く鮭を食わなかった。もし食えば病むと伝えられて今でも固く守っている。    

                          「鮭魚のとおてむ」
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「遠野物語拾遺138」も「鮭魚のとおてむ」の二つの話は連動するものであり、どちらも常識的には有り得ない話ではある。強いて言えば、宮家と鮭には密接な関係があるという事が誇示されているかのよう。ただ、大川善男「遠野における一神社考」において大川氏は、この伝承を一笑に付し、単なる福岡県の鮭神社を模倣したものだとしている。しかし、鮭が溯上する地域は東北・北海道にかなり集中しており、その東北において、宮家の伝承に近似したものがいくつも点在している。つまり宮家が模倣したというよりも、鮭の溯上する東北を中心に広まった伝承であると考えた方が無難であろう。大川氏の指摘する鮭神社に伝わる古文書によれば、祭礼の日に社殿まで鮭が遡上してくるのだが、これは豊玉姫尊が御子である鸕鷀草葺不合尊の元へ遣わされるものであり、これを途中で殺すと”災い” があるとされる。この鮭神社の古文書に記される伝承は、鮭に助けられた宮家の伝承というより、例えば花巻市大迫に伝わる「傀儡坂物語」に近い。

大昔、亀ヶ森の蓮花田村の長が、川に登ってくる鮭が思いのほか大漁で、その鮭を運ぶ人手が足りなくて困っていた。その時、一人の傀儡女が長い旅を続けたのかボロボロの格好をして足取りも重く、村長の方に歩いてきたのだと。その道は、早池峰に続く道であったが、村長はこの鮭を運ぶのを手伝わないと、この道は通さないと言った。 そして無理やり、その傀儡女に鮭を背負わせ、何度も手荒く運ばせたところ、無理がたたり傀儡女は倒れてしまったという。

「罪の無い私を、こんな目にあわせたからには山河の形が変わり、この川の流れが別の場所に変わるまで、この川上には決して鮭を登らせないから。」

と言い残し、傀儡女は息絶えたのだと。それからこの川には鮭が登る事無く、そして傀儡女が倒れた場所を傀儡坂と呼ぶようになった。
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鮭神社の伝承では、川を遡上する鮭を途中で殺すと災いがあるとしているが、「傀儡坂物語」では、早池峯へ向かう途中の傀儡女を殺した為に、それから鮭が溯上しなくなるという災いが降りかかった。鮭は海神の使いとして溯上するものと考えられているが、「傀儡坂物語」での傀儡女もまた、海神の使いであると考えて良いだろう。菅豊「修験がつくる民俗史」を読むと、多くの宗教者が鮭の伝承に関わっているを考えみても、まず神ありきであり、その神の元に集まるものたちを邪魔する事は、神の祟りに遭うという認識で良いのだと思う。そして、その鮭の背に乗って助けられた宮家の人間もまた、海神に関係する宗教者の一人であったかとも思える。何故なら「鮭魚のとおてむ」の話では、最後に首を切り落とす行為は自らを生贄とする呪術でもある。宮家の首を切って中洲を作って境界とした話と重なるであろう話は、鈴木鉀三「三面川の鮭の歴史」にやはり鮭に関する話が紹介され、三面川の河口から五十町ほどの地点に標を立て、御境としたという。
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境界といえば、樹木が思い浮かぶ。「古事記」において、八上姫と結婚した大国主は、八上姫を因幡から出雲へ連れてきたが、本妻の須世理姫を恐れて、八上姫が生んだ子供を木の股に刺し挟み因幡に返してしまった。それからその子供の名前を木俣神、またの名を御井神といった・・・という話。この木俣神は、伯耆国の阿陀萱神社で阿陀萱奴志多喜妓比売命という神名で祀られている。その由緒は、下記の通りとなる。

多喜妓比売命は大己貴命の御子なり、母は八迦美姫命と申す。神代の昔、出雲国直会の里にて誕生あり。八迦美姫命、因幡へ帰らんと大己貴命と共に歩行し給ふ時に、御子多喜妓比売命を榎原郷橋本村の里榎の俣に指挟て長く置き給ひしときに、我は木俣神なりと申給ひて宝石山に鎮座し給へり。

また、同地に鎮座する御井神社の祭神も木俣神であり、その由緒に「木俣の神、又は御井の神と申し上げ、安産守護、水神の祖として広く信仰をあつめている。」としている。水神の祖とはどういう事なのかだが、安産守護に関しては二股は女性の股を意図としている事からのものだろう。とにかく木俣神は、御井神であり、多喜妓比売命という神名であった。この三つの神名は、まったく関係なさそうでありながら、実は深い繋がりを持つ神名である。

”樹木は地上と地下の境界”であり、地下である根の国の入口として認識されていた。遠野の東禅寺跡に、早池峰権現が無尽和尚の杖をとって地を突いたところ、水が湧きだした事から「杖(またふり)の井」、または開慶水と伝えられる。開慶水は別に早池峯山頂にもあるのだが、早池峯権現がこの東禅寺にも開慶水を与えたという話である。ところで「杖(またふり)の井」とは、二股の木を地面に突き刺して涌き出た泉の事を云う。どうやら二股の部分が地との交流を促す呪力があると信じられていたようだ。二股の杖は西洋では占杖といい、この杖で地下水や地下鉱脈を探るのに使われたという。古今東西、二股の杖は、地下との交流・交信の手段のアイテムであると認識されているのは興味深い事だと思う。

by dostoev | 2018-04-01 09:56 | 民俗学雑記

皆既月蝕の迷信

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残念ながら1月31日は、仕事の都合上皆既月食を見る事が出来なかった。ところで皆既月蝕だが、古い迷信にこういうものがあった。

「月蝕は、人の病気を引き受けてくれる。」

恐らく体の健康な状態は、満ち足りた月の様だと。それが欠ければ、病気になったりすると考えられたのだろうか。ところが天空にひととき、満ち足りた状態から短時間で月が欠け、再び満ちたりた状態に戻る月蝕に、人々は神秘を見たのかもしれない。天空に神秘の輝きを放つ月に神仏を重ね、願いをかける昔の人々がいたのだろう。だからいつしか、こういう迷信が誕生したのだろうと思う。例えば、子供が生まれれば、庭先に桜の木を植えた。桜の樹齢は、人間の寿命に近いので、人間の依代とも考えられた。また桜は霊界と繋がっているとも信じられた為、いろいろなものを吸い取ってくれる。つまり我が子の病気さえも吸い取ってくれるだろうという親の願いが、庭先に桜を植える事になっていたようだ。これと似たような迷信であり考えが、天空の月に移ったのだろう。現代医療を体験している自分達にとって、少しの病でも死に至る時代は、いろいろなものに命を託して生きて来た。その名残が、皆既月蝕への迷信でもあったようだ。

by dostoev | 2018-02-02 10:05 | 民俗学雑記 | Comments(0)

眼が潰れる

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遠野市小友町の長野には、菊池の姓を持つ家が30、40件はあると云う。その菊池の大本家に、見ると目が潰れる、もしくは祟られるモノがあると伝わる。眼が潰れる、もしくは見えなくなると伝わるものに「遠野物語拾遺141」で紹介される宮家の開けぬ箱というものがある。

宮家には開けぬ箱というものがあった。開けると眼が潰れるという先祖以来の厳しい戒めがあったが、今の代の主人はおれは眼がつぶれてもよいからと言って、三重になっている箱を段々に開いて見た。そうすると中にはただ市松紋様のようなかたのある布片が、一枚入っていただけであったそうな。

                       「遠野物語拾遺141」

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また他に別に汀家に伝わる「開けぬ箱」というのがある。これは、中に阿曽沼家の家紋を纏う者が、南部家の家紋を斬るという絵柄が入った紙が一枚入っていただけであったという。当然それが南部時代に開けられ広まれば、御家取り潰しとなったのだろう。その為の禁忌として「眼が潰れる」などと伝えたのかもしれない。恐らく宮家もまた、阿曽沼氏に仕える身であった事から、汀家と同じ様なものではなかっただろうか。そして、この宮家も汀家も、どちらも遠野町に属している。ところが小友町の長野の菊池家に伝わるものは、それらしい雰囲気を醸していない。だいたい箱に入っているモノなのか、どうかさえわかっていない。実際に、この菊池の大本家は昔、それを見た為か、相当に栄えた家であったが、それに祟られ死に絶えてしまったと云う。その菊池の大本家が祀る神社に、堂場沢稲荷がある。現在は、その別家が別当をしているそうである。堂場沢稲荷は、急坂を20分程度登って行く小高い山にある。その社を開けて中を見ると、片目の狐像があるので、ゾッとする。

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そして社の外には不思議な岩がある。一つは奇妙な形の石があるが、それは鹿除けの石とされ、別名「シシボ稲荷石」とも云われる。
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この岩穴は不思議な岩穴とも呼ばれ、なんでも、そこに物を投げ入れると、戻ってくるとか、穴に向かって呼びかけると返事が返ってくるなどと云われている。これは以前、諏訪での「御室神事」に関係するもので、蛇と繋がりの深いものではないかと考えた。そしてもう一つ加えれば、もしかして竜宮の入り口を意図した岩では無いかという事。山中他界という言葉があるが、竜宮の入り口が山中にある話は、全国にある。

これら奇妙な石も含めて管理している小友町の菊池家は恐らく、採掘・治金に長けた一族であったのだろうか。稲荷信仰もまた鋳也(イナリ)という蹈鞴系に信仰されるものである事から、あるモノを見ると目が潰れるという伝承は、宮家や汀家のものとは違い、一つ目伝承に重なるものではなかろうか。

貞任山には昔一つ眼に一本足の怪物がいた。旗屋の縫という狩人が行って
これを退治した。その頃はこの山の付近が一面の深い林であったが、後に
鉱山が盛んになってその木は大方伐られてしまった。

                        「遠野物語拾遺96」
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この「遠野物語拾遺96」の舞台になった貞任山へは、堂場沢伝いに歩けば、辿り着く事が出来る。もしかしてだが、「遠野物語拾遺96」に登場する一つ眼一本足の怪物と、この堂場沢金山などを管理した菊池氏とは、「見ると目が潰れる、祟られる。」の伝承も含め、何等かの繋がりがあるのではなかろうか。大本家が"それ"を見た事による祟りによって栄えた家が死に絶えたという事であるが、恐らくこれは金山の衰退によるものだろうと思われる。貞任山の南に男火山と女火山が聳えているが、この三山で野タタラが行われていたとも聞く。古いタタラ勢力と、新しいタタラ勢力の戦いが「遠野物語拾遺96」であった可能性もあるが、いずれにせよ金の埋蔵が枯渇すれば、全ては無くなってしまう。採掘によって繁栄した菊池家の大本家が死に絶えたのは、そういう流れであったのだろう。眼が潰れるとは、金の埋蔵の枯渇を意味したのではなかろうか。

by dostoev | 2018-01-28 11:07 | 民俗学雑記 | Comments(7)

馬を火に馴らす

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「ルミナリアス」という、炎の中を馬で駆け抜けるスペイン伝統行事がある。これは動物を清めるのが目的だとされる。これと似た様なものに、盛岡では「樺火」と云われる行事があったようだ。伊能嘉矩「盛岡樺火」によれば、旧暦の7月14日、15日に樺の皮を三尺くらいに巻き、高さは一間以上のものを、町の家々の門で燃やし、その中を諸士が馬に乗って駆け通る行事であったと。これはルミナリアスとは少し違い、馬を火に馴れさせる習練としての行事であったそうな。何故に樺の皮なのかは理由がわからぬが、当時「樺火の火は火事と為らず」と伝えられていたよう。また盆の行事でもあった為「魂祭の手向けの火」とも云われたようだ。ただしあくまで馬で駆けたのは武士がいた時代までで、明治以降は普通の送り火だけの盆行事であったよう。盛岡の南部藩でも行った事からも、遠野でも行われていたようだ。ただし遠野では樺の皮ではなく、松や楢などの薪を積んで火を点け、その間をやはり馬で駆ける「盆乗り」と呼ばれるものが行われていたらしい。

ところで何故に樺の皮であったのかは、わからないようだ。ただ伊能嘉矩は「古事記」において天岩戸から天照大神を出す算段で、鹿の骨を天波波迦(樺)で焼いた事から、樺による火は神事の火であるから神聖なものとして考えている。しかしそれでは、樺の皮を燃やしても火事にならないという根拠にはならないのではないか。恐らく、木花咲耶姫の火中出産に関わるのではなかろうか。昨夜は桜の女神とも云われる。その木花咲耶姫は瓊々杵尊と結ばれるのだが、一夜で身籠った為、瓊々杵尊から疑いをかけられる。そこで疑いを晴らす為、産室に火を放ち、火にも燃えず無事に3人の子を出産した事から、その「火中出産」に、南部藩の樺火行事は関係するのではなかろうか。しかし、もしもこの行事が復活するなら、見てみたいものである。

by dostoev | 2018-01-26 20:19 | 民俗学雑記 | Comments(0)

閻魔大王と北斗七星

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遠野の九重沢にあった、天台宗寺院であった積善寺の古跡として現存しているのが、会下の十王堂。天台宗と十王堂の組み合わせが、何故かピンときていなかった。積善寺の没落、廃寺となった原因は隠れキリシタンを匿った為だとされている。その為に、もしかして十王堂に隠れキリシタンの足跡が残っているかとも考え、十王堂の十とはもしかして十字架のクロスを意味しているのか?などと憶測を巡らせていた。ところが閻魔大王を調べていると、妙見信仰と結び付いているのがわかった。星の宗教であった天台宗であるから、閻魔大王が妙見との繋がりが深いのならば、会下の十王堂の存在は、当然の事であったのだろう。
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高野山に伝わる、閻魔大王の曼荼羅があった。「北斗法」の中には、こう記されている。「北斗炎魔天。互散念誦加真言。二天同體故也。」これによれば、閻魔大王と北斗七星は同体であるとされている。さらに「炎魔大王即星也。泰山府君同之。」と記されているのは、閻魔大王も泰山府君も星であるのだと。泰山府君は「妙見の女神」でも書いたが、早池峯の信仰に重なるものである。その早池峰に関するような記述が、この「北斗法」に記されていた。
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画像は、早池峯神楽の鳥舞で使用されている鶏冠。天岩戸舞の前で演じられる鳥舞という事から、夜明けを象徴していると思われている。しかし、天照大神そのものが太陽なのかという問題もままある。折口信夫は、伊勢神宮の荒祭宮に祀られる神は、天照大神が巫女として仕えていた本来の神であると説いている。その荒祭宮に祀られる神こそが、早池峯に祀られる神でもあった。となれば、天岩戸そのものを考え直す必要があるのだろう。果たして岩戸に籠っていたのは、太陽神であったのか?二荒山の神は、蛇神であるとされるが、その棲家は中禅寺湖で、その神は滝尾神社に祀られる女神であった。その滝尾神社の女神は、鶏を忌み嫌う神であるとしている。その鶏だが、伊勢神宮では神使になっているのは、夜明けを告げるのが鶏である事から、天照大神を岩戸から出す為に働いた鳥が鶏であるという認識が強い。その鶏は、天台宗や真言宗での扱いが違っていた。

「中尊志神伝。人魂魄也。但頂鶏戴事。僧正本命曜之金曜也。」

中尊が人の魂魄であり、中尊の頭部の鶏冠は僧正の本命曜が金曜星であるとしている。奥州藤原氏の築いた中尊寺の名は、ここからきている。金鶏山に黄金の雌雄の鶏を埋めたという伝説は、この星の信仰に基づくようだ。早池峰神楽における雌雄の鶏舞は、この平泉の信仰にリンクするものではなかろうか。また鶏冠は金曜星であるとするが、その姿は「梵天火羅図」によれば「形如女人。頭戴酉冠。白練衣弾弦」と記されているが、要は西方太白君の事を言っているのだろう。「妙見の女神」にも書いたが、早池峯の女神の性質と重なる文曲星を示すものだろう。弦を弾くとは琵琶を弾くであり、吉祥天と重なる姿である。つまり鶏そのものが、金星を意味するのであろう。二荒山で勝道上人は金星を求めた。天台宗では、日と月を合せたものが明星であり、金星であると。その金星を忌む二荒山の滝尾神社に祀られている神は、宗像三女神の田心姫とされているが、その金星を忌むという事は、本来の祭神では無いという謎解きではなかろうか。

話が飛んでしまったが、星の曼荼羅に閻魔大王が結び付いたのは、やはり人の魂魄は山に昇るという山岳信仰と結び付いたからであろう。古代中国でも、北斗七星は人の生死を司る神とされている事から、閻魔大王に結び付くのは当然の事であったのだろう。遠野の積善寺の入り口に、何故に会下の十王堂があったのかを考えた場合、人の魂魄が集まり、その生死と罪と罰を改める必要があったからだろう。そしてその奥には、太平山に祀られる天照大神と、その向かい側の九重山に祀られる不動明王へと向かう。この形式は、東和町の滝神社に見られるものと同じである。恐らく、九重沢の不動明王は早池峯の女神と重ねられ、そこが人々の魂魄の辿り着く場所ともされたのだと考える。

by dostoev | 2018-01-23 18:45 | 民俗学雑記 | Comments(0)