遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
by dostoev
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カテゴリ:民俗学雑記( 272 )

早池峯神社の美女

早池峯神社の美女_f0075075_06451127.jpg
過去の画像をチェックしていたら、早池峯神社の山門を撮影している中に、画像の写真が紛れていた。当初、サムネイルを見ているとブレブレの失敗画像だと確認もしていなかったが、今回画像をチェックしてみて、女性の顔が写っているのを確認した。恐らくスローシャッターの為に、ぶれて写っているのだろうが、神楽を撮影している合間の写真ではなく、山門を写している合間にこの画像がある事に違和感を覚えた。とにかく、なんとも不思議な写真が写っていたものだと…。
早池峯神社の美女_f0075075_06501344.jpg
座敷ワラシは、子供の妖怪とも、子供の霊とも云われる。別の云われでは、家に同化した子供の魂だとも。画像は、智内兄助の作品で、壁に取り込まれたかのような幼女の姿。家に取り込まれた幼女であるならば、それが具現化する時は神出鬼没となるのだろう。どこからともなく現れる座敷ワラシを考えた場合、家そのものが座敷ワラシの本体であるなら、それは納得するものとなる。
早池峯神社の美女_f0075075_07044276.jpg
この画像は当初、カーテンのような薄い幕が透けて写った女性かとも思えたが、炎の様な気体と同化したような女性にも思えた。古代中国では、気体のような、霧の精、雲の精を妖美なるものとして捉えられていたようだ。「巫山の美女」という話がある。赤帝の娘が若くして亡くなり、巫山に埋葬された。楚の懐王が近くに来て遊び、その日の晩、夢で美女に逢う。その美女は自ら"巫山の女"と名乗り、懐王の枕席に侍る。そして「わたしは明日には朝霧となり、夕には行雨となります。」と言い残して去っていったと。翌朝、懐王が巫山を仰ぐと、美しい朝霧が、巫山にかかっていた。王は、その美女を懐かしみ廟を建て、朝霧と名付けたという。霧の妖怪というと、ブロッケンの妖怪を思い出すが、あれは霧の中にクッキリと浮かぶ影で、霧と同化しているのとは、少し違う。どちらかというと巫山の美女は、霊体に近い感じなのだろうか。具現化して美女となり、そして霧に戻る。山の霧は、山の霊気のようなものであるから、巫山に埋葬された娘は、山と同化したものと考えた方が良いのかもしれない。さて、問題の写真だがブレ写真ではあるものの、不思議な雰囲気を有している。ある意味、早池峯神社の霊気によって具現された美女にも思える事から、「巫山の美女」ならぬ、「早池峯神社の美女」という事にしておこうか。


by dostoev | 2020-02-19 12:46 | 民俗学雑記

風神の祟り(コロナウイルスとイナゴ)

風神の祟り(コロナウイルスとイナゴ)_f0075075_08182276.jpg
「天地の間の気を「風(ふう)」という。万物の滞りを促す自然の道具にして、無くては叶わぬものである。俗に「風の神」というものは邪気のことである。邪気はものの隙間を窺って入りこむ。されば、貧乏神は油断の隙を窺い、風の神は暖かさと寒さの隙を狙うのである。口から黄の気を吹くが、黄は土にして湿気である。風はみな土中より生ずる。されば、悪気を避けて正気を取るべきである。」    

                竹原春泉「絵本百物語 -桃山人夜話-」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
風邪は「邪な風」であり、忌み嫌うべき存在だろう。おおまかに風邪と表現しても、それを拗らせれば肺炎となり、死に直結する可能性がある事から「風邪は万病の元」と昔から云われ、警戒されていた。その風邪も、江戸時代あたりでは、神や妖怪の仕業とも考えられていたようだ。ただその風邪にもまた、インフルエンザと呼ばれるいくつかのウイルスによるものだと分かったのは、そんなに昔の話ではない。現在、中国から飛来?したコロナウィルス問題が、世間を騒がせている。自分自身も、肺気腫にかかっているので、感染したら即死亡確定してしまいそう。3月には私用で東京に行かなきゃならんので、戦々恐々としているのが現状だ。

ところで上記の「黄の気」というものは、日本においてはしっくりこない表現かと思ったが、解説には、「四月の春の嵐に中国大陸の黄土地帯より到来する砂塵"黄砂"現象を指し、雨天の前兆、または風による疾病発生を暗示する。」更に「黄土は、死後の地黄泉の土を意味し、死への黄泉路を暗喩する。」と記されている。確かに黄泉には"黄"が入っていた。思い出すのはドストエフスキーの作品でも、病気の顔色を黄色で示す場合が多い。黄色は明るいイメージの色であると共に、それがくすむと病的な色合いに変わる印象を持たれるようだ。

山陰地方や九州では北西の強力な風を「アナシorアナジ」と称する。この北西風であるアナジは、死者の棲む異界から吹いてくる不吉なもので、人の魂を奪うと考えられたようだ。やはり、黄泉国と同じく死の匂いが漂う。語源の発祥は、古代の製鉄業者を穴師からきている。調べると、この「アナジ」は東北から中部の日本海側では「霊風(タマカゼ)」と称し、これには越の国に拡がるヤサブロバサの伝承に組み込まれる事になるほどの禍々しい風となっているようだ。タタラでは精練の為に大量の風を炉に送り込み、内部で激しく燃える地獄の様な業火と、それを生み出す強風のイメージが結びついたようだ。また西日本では海女が海から這い出た時に口から吐き出す風を「常世の風」と称する事からも、西日本における北西の風は、やはり黄泉国と結びつくか。

風といえば「大祓祝詞」にも登場する「科戸の風」だが、「日本書紀纂疏」には「シ」は「息」・「風」であり、「ナ」は「長」とし、「科戸(シナト)」は「息長」であるとされていた。思い起こしてみると、神功皇后である息長帯比売命は故郷である近江の国で信仰していたのは、級長津彦命と級長津姫命であった。つまり神功皇后が、風の神の巫女でもあったのかもしれない。

ところで科戸の風を更に調べると、本来は「不周風(シナトノカゼ)」であるとし、それは北西の風が「不周風」であるとされているようだ。科戸の風の「戸」は戸口などを意味しているのはわかったが、それは月が隠れる北西の戸口の意であった。息長帯比売命の「帯(タラシ)」は月が満ちた意味を持つものであるから、月の沈む北西は同時に太陽の沈む方向でもある。古代人は、太陽が沈む事を「死ぬ」と意識していた事から、東から生まれた太陽(月)は、西に死ぬと信じていたようだ。つまり元々西という方角…ここでは北西だが、どうも死の国と結びつくようだ。考えてみると「大祓祝詞」においても、罪や穢れを根の国・底の国に運ぼうという流れが記されているのだから、科戸の風にも死の匂いがする。

ところで邪気は、ものの隙間を窺っていると記されているが、隙間というものには、いろいろなモノが侵入するようだ。この場合は、邪気という風の神である。風の邪気と考えると、真っ先に風邪を思い出してしまう。風邪は「かぜ」と読むが、東洋医学では「風邪(ふうじゃ)」と読むのが一般的となっている。これは上記の「天地の間の気を「風(ふう)」という。」ものに対応している。天地の間もまた隙間を意図しているのだが、家の隙間風は、殊に寒く感じてしまう。逆に思えば、風か隙間を見つけてくれるという事にもなるか。この隙間風は、奄美大島では""好魔風(すきまかぜ)"に行き会うと、病気になるとされている。

九州の宮崎では、風は猫が起こすのだと伝わっている。この猫が風を起こすというものは、新潟にも伝わっている。これは恐らく、古代中国から伝わった「虎は風を司る。」から来ているのだろう。帆船が主流であった昔、風が無ければ進まない帆船の為に、よく虎舞が奉納されたのは、風を求めるからであった。その虎と同じと思われた猫(同じネコ科)が風を起こすという俗信は、発生して当然の事ではある。ともかく風は、台風のような大風で、その強風により物理的に人間を死に至らしめる場合と、風邪のように人間の体内に侵入し、内部から死に至らしめる場合があるが、それらすべてが風の仕業とされ、悪風と呼ばれた。
風神の祟り(コロナウイルスとイナゴ)_f0075075_12111748.jpg
さて本題だが、現在騒がれているコロナウイルスだが、その発生は中国である。そして、それと共にイナゴが大量発生しアフリカを荒らしまわり、現在中国に迫っているようだ。そのイナゴが、コロナウイルスの拡散に影響するのではないかとの懸念がされているので、少し調べてみた。漢の武帝が、長安の都に「蜚蠊」と名付けた塔を築き、風神を祀っていたようだ。蜚蠊は飛廉とも記され、中国での風神を意味する。その蜚蠊の「蜚」は「空中を飛ぶ」という意であり、実はイナゴの別称であった。

「山海経」には、「蜚」という化け物が紹介されている。「蜚が水を行けは水が涸れ、草を行けば草が枯れる。これが現れると天下に疫病流行る。」と記されている。この蜚は、蜚蠊と同じイナゴを意味する。ただ「古代風神崇拝」には蜚蠊に関して「飛廉乃是古代楚人的風神」とも記されている。これは楚国がこの蜚蠊を操ったという意味ではなく、秦国に相対する楚国を蜚蠊に見立てたという意味であろうか。とにもかくにも、厄災を運ぶ風神は、イナゴと合体し、更なる厄災を蔓延させるようだ。つまり、中国で騒がれているコロナウイルスは、イナゴの襲来を受けて、更なる被害が拡大する可能性が高いのだろう。どうも疫病とイナゴの群れは、古代から問題視されていたという事らしい。

by dostoev | 2020-02-18 16:29 | 民俗学雑記

臼館の妖怪について

臼館の妖怪について_f0075075_19404970.jpg
遠野市青笹町に、臼館跡がある。そこに伝わる古い伝説には、安倍貞任はこの舘から義家軍の背後をついて、挟み撃ちにしようとした。しかし、その攻めは失敗に終わり、貞任軍の兵の屍が臼館の周辺に山と積まれたそうだ。それからの事、この臼舘には化け物が現れるようになったのだと伝わる。それは、俵の形をした化け物であったと。刀で切ったり、棒で叩けば、その化け物の姿は三つにも、四つにも分かれたと云う。そして、みるみるまた元の俵の形に戻ってしまうのであったと。人々は、この化け物は死んだ兵達の怨念が形となって現れたのではと噂されたと云う。この臼館の化物であり、妖怪の類を考え探してみたが、似た様なモノは存在していない。となれば、何かの抽象的な表現ではないかと考えた。そこで浮かび上がったのが、蝶であった。

「吾妻鏡」「黄蝶が群れ飛び、鎌倉じゅうに充満した。これは戦乱の兆しである。天喜年間には陸奥出羽にこの怪事があり、平将門と安倍貞任が乱をおこした時にも黄蝶の群飛があった。」と記されている。蝶は人の魂の化身で、蝶の群れは人々の魂の不安を現したと考えられたようだ。また黒い大型の蝶をカマクラチョウと呼ぶ地域では、新田義貞の鎌倉攻めの時に死んだ武士達の魂が黒い蝶になったと信じられていた。上総の国では黒蝶が地獄蝶と呼ばれるのも、黒い大型の蝶は死霊であり、人魂の具現化と信じられたようだ。鴨長明「発心集(1215年)」にも、花好きの男が死後に蝶に生まれ変わった話もある。先に記した事からも含め、人は死後に虫になるという話は恐らく、日本独特のものではなかろうか。

今井彰「蝶の民俗学」には、"蝶の妖怪"が紹介されている。前九年の役の時、安倍氏の家来が源義家の投げた石に当たり、足を滑らせて沼に転げ落ち、そのまま息絶えたと云う。その死体は沼の中で大きな蝶になり、曇った日や夜になると沼から浮かび出て、空を飛ぶのだと。月夜の晩のその蝶の妖怪を目撃した話では、水で羽がキラキラと輝き、幻想の中にいるように感じたと云う。ところで「吾妻鏡」に記されている黄蝶だが、黄色は陰陽五行で土を示す。この土は、水死体を土左衛門と呼ぶ元となった。また死者の国と思われる黄泉国にも、「黄」が使用されている様に、黄色には死の匂いが漂う。「吾妻鏡」は史書としても扱われている事から、黄蝶の大群は、実際に目撃されたのかもしれない。つまり「吾妻鏡」による黄蝶への意識は、「蝶の民俗学」でも紹介された、安倍氏の兵士が蝶の妖怪化した伝説があるように、虐殺した蝦夷に対する恐怖が蝶に重ねられている可能性はあるだろう。
臼館の妖怪について_f0075075_21255455.jpg
そしてもう一つ、その蝶は変態する虫である。成虫の以前は、蛹の姿であり、それは有名な怪談「番町皿屋敷」に登場する"お菊"の姿と重ねられた。家主に縛られ折檻された姿が蝶の蛹の様であったから、その蛹を"お菊虫"と名付けたようだ。しかし、それ以前から蝶そのものが人の霊魂と重ねられて考えられていた為、蝶の蛹もまた霊魂の具現化として捉えられたのだろう。仏教が普及して、死んだ先は、極楽浄土か地獄となるのだが、日本神話の世界では黄泉国、常世の国となろうか。黄泉国から帰還した伊弉諾は、禊をして現世に戻ったのは、死と再生の観念が黄泉国に存在するからである。人が死に、その魂が蝶となって復活した。当然、それを恐れる人々とは、その者達を死に追いやった者達となる。臼館の妖怪は、安倍貞任に仕えた兵士達が死後、復活したものと考えられている。

臼館の妖怪は、俵の形をした化物と表現している。その俵の形をしたものを、私は蝶の蛹ではないかと考える。宮田登「妖怪の民俗学」によれば、「番町皿屋敷」での舞台の屋敷跡の廃井から、女が縛られた様な小虫が夥しく出たと伝わる。この小虫が蛹であるのだが、恐らく臼館で伝わる話は「吾妻鏡」にリンクするのではなかろうか?「吾妻鏡」に記される黄蝶の大群とは、それ以前に大量に発生した蛹の後である。つまり過去に例を見なかった夥しい数の蛹が発生し、それを不気味に思い、安倍貞任の兵士達の霊魂と重ねられ語られた。そしてその蛹から、大量の黄蝶が発生し、飛び散ったものが「吾妻鏡」に報告され、それ以前の話が、遠野の臼館跡に伝わる伝説になったのだと考える。刀で斬っても、棒で叩いても、みるみるまた元の俵の形に戻ったという表現は、人間の手に負えない程の黄蝶の大発生を意味しているのだと思うのだ。

by dostoev | 2020-01-10 21:44 | 民俗学雑記

吹雪の日の満月

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昨日の遠野は、夕方から吹雪になったが、その吹雪の風が雲を吹き飛ばしていた為か、合間に満月が顔を出していた。ところでその満月の名が、コールドムーンと付けられ広まっていた様。最近、満月にも様々な名称がつけられているようだ。スーパームーンだ、ストロベリームーンだ…etc。昔は、こういう名前が付けられていなかったと思う。ところで、この寒い冬の日の名称としてのコールドムーンは、まさにピッタリ当て嵌まる。冬の月は、見ても温かさを感じる事が無く、氷の様に冷たい月に感じるからだ。

冬の満月というと、「遠野物語103」に雪女の話が紹介されている。しかし、自分の小さな頃に、雪女という存在は、昔話の中のものであり、身近に感じるものではなかった。原美穂子「遠野の河童たち」の中に、著者の原さんが雪女の事をチラッと記していた。

「私の子供の頃にしても、人家の並んでいる環境にもかかわらず、雪が降れば山から雪女が下りてきて軒の端に佇み、家の中の様子(子供)をうかがうという昔話がほんとうに思えてきて、障子を一寸ほどあけて眺める雪あかりの中には、なんとなく白い白い雪女というものが立っているようで、その影が想像されて心が寒くなったものである。」
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小正月の夜、又は小正月ならずとも冬の満月の夜は、雪女が出でゝ遊ぶとも云ふ。童子をあまた引連れて来ると云へり。

里の子ども冬は近辺の丘に行き、橇遊びをして面白さのあまり夜になることあり。十五日の夜に限り、雪女が出るから早く帰れと戒めらるゝは常のことなり。されど雪女を見たりと云ふ者は少なし。


                           「遠野物語103」
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原さんの記した内容には、「遠野物語103」と重なる箇所がある。原さんの話は、大人が子供を諌める為に話した昔話のようであるが、雪女の印象は子供の心奥深くリアルに、その恐怖が刻まれるもののである。「遠野物語103」では雪女が童子をあまた連れて来ると書かれているが、原さんの雪の降る夜は、雪女が町の各家々の子供の様子をうかがいに来るというのは、その子供を連れて行くものとして結び付く。つまり、原さんの話は「遠野物語103」の前ふりだろう思える。ただ「遠野物語103」の話そのものが、現代において聞いた事のない話であり、どこかでぷっつりと途絶えたのか、或は遠野以外で語られたものが、たまたま流れて来ただけの話であっただろうか。ただ、雪女の引き連れる童子には、どこか座敷童子の匂いがする。河童が家に入ると座敷ワラシになるという話は、遠野に伝わる。その河童が山に入ると、山童になるという話が西日本に伝わる。また雪女の子供を雪ん子と云うが、別に雪の精でもあり、雪童子とも呼ばれるのは、古来からの少童譚に繋がるもののようであるが、その根底には不遇の子供が浮かび上がりそうだ。幼くして死んだ子供の魂は、様々なものに変化して語られる。そこで今回の雪女の話も、やはり子供を諌める話で、一般的な「悪い子でいると雪女に連れて行かれるぞ。」といった、ナマハゲと同根の話として広がっていたのかもしれない。

ともかく、真冬の月は見た目が氷の様に冷たく感じる。しかし、その月の白さは際立ち、まるで雪女の肌の様に白く思えるのはもしかして、真冬の月の冷たい美しさを見て、雪女そのものの創造がなされたのかもしれない、と思ってしまうのだ。

by dostoev | 2019-12-13 20:02 | 民俗学雑記

遠野の殺生石について

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「遠野町古蹟残映」に、遠野の殺生石の話が記されている。

「往時早瀬川の分流は、鶯崎より懸上稲荷の麓を過ぎて、来内川に合流せることあり。此の頃、其の川筋に外川の土名ありき、原と一大平石横はり殺生石と名づく。里俗或は神狐の野狐を罰殺せし怪談を伝ふるも由来詳ならす。明治初年水田開拓の際之を撤去して今は亡し。」
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この殺生石のあったであろう場所は、欠上稲荷の側であるので、欠上稲荷と、何等かの関係があるとは思う。その欠上稲荷は遠野の東の外れにあり、倉稲魂命を祀る。文禄年間に葛西氏の遺臣欠下左座衛門が当地に赴き、阿曽沼氏に仕え請いて、旧領石巻日和山に鎮座するものを勧請したものであると。

殺生石が有名になったのは15世紀前半に成立した「神明鏡」「玉藻前物語」、もしくは能の「殺生石」によるものだろう。ただし、遠野に玉藻前は来ていないし、殺生石が飛んで来たという伝承も無い。ただ唐突に、欠上稲荷の近くの外川という地に、殺生石があるという伝承だけが残っている。これは、どういう流れによるものであろうか。ただ上で紹介した話に記されたこの箇所「里俗或は神狐の野狐を罰殺せし怪談を伝ふるも由来詳ならす。」を読むと、中村禎里「動物妖怪譚」の記述が思い出される。

中村禎里は、玉藻前の話を、狐が関東武士の狩によって殺された事から、創られた話ではないかと展開している。玉藻前の舞台は西の都での出来事であるが、それが何故に、玉藻前の魂が凝り固まって出来た殺生石が栃木県にあるのか。京都には伏見稲荷はあるものの、何故か稲荷神社は東日本に比べて普及していない。全国に数多くある稲荷神社がある地域は、関東以北に集中している。つまり関東以北では、稲荷というよりも狐に対する信仰が強かった為、その稲荷のシンボルである狐を容易に受け入れる土壌があったようだ。殺生石伝説誕生の頃、この石の側を通る人々に危害を加えるという言い伝えがあったそうだ。つまり、玉藻前というより神狐による祟りが強調されたものだったよう。恐らくその伝承に、玉藻前が重ねられたのだろう。日本各地の古い風土記に、似た様な話がある。堺の明神であり女神が、その峠を通る人々に危害を加える話である。その系譜を殺生石が、受け継いでいる話であると思う。これらから遠野の殺生石は玉藻前でなく、あくまで狐の祟りからのものであると思うのだ。
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畑中章宏「災害と妖怪」を読むと安政年間に起こった狐狼狸(コロリ)病・虎狼痢病、所謂コレラの大流行の事が書かれている。そのコレラに関する一文を下記に紹介しよう。

「コレラは感染すると病勢が早く、死を免れないことから「即死病」とも呼ばれた。さらに感染者は、激痛や大量の吐瀉に襲われ、こぶができ、全身がしびれる。しかも黒くしわしわになって息絶えるという、死相の異様さも恐るべきものであった。庶民にとってコレラの流行は、これまでにない魔物の仕業と思わざるをえなかったのである。」

コレラの歴史を調べると、世界的大流行した文政五年(1822年)九州から入り込み、東海道を経たが箱根で留まり、江戸には到達しなかったそうである。そして2度目の世界的大流行は、日本に及ばなかったが、安政五年(1858年)の3度目の世界的大流行には江戸まで及び、3年に渡って続き、多くの死者を出したそうだ。江戸の人々は、このコレラを異人がもたらした悪病と信じたものとは別に、悪狐がもたらしたとも信じられたようだ。その狐とは、人の体に侵入し憑き狂わせる管狐の仕業だと信じられ、それが流布したようである。それで思い出すのは、殺生石に纏わる伝承。その殺生石の伝承の中に登場する玄翁和尚のエピソードが思い出されるのだ。玄翁和尚は、殺生石を調伏しようとした"かさご和尚"に対し、既に退治したと偽り、自ら殺生石を調伏しようとしたが失敗し、殺生石が大きく割れて、その中から無数の管狐の霊が噴出してしまい、日本全土に広がって、人々に憑依するようになってしまったという話は、かなり印象に残る。恐らく安政五年に広がった、狐狼狸病は管狐によるものというデマは、この殺生石の伝承が、この時代まで生々しく息づいている証では無かっただろうか。
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平安時代に、常陸国や上野国などの今でいう関東周辺諸国から、現在の岩手県の辺りに四千人程が移住してきた記録がある。さらに、源頼朝による奥州征伐の後、帰らないで、そのまま居残った人々もまた多くいたという。それから関東と東北の人と文化の交流があったのだと思える。例えば、岩手県の久慈市の久慈という地名の発祥が、未だにわからないとされているが、常陸国の久慈郡の人達が移り住んで久慈となったと考えても不思議ではない。また遠野に伝わる清瀧姫の伝説も、群馬県桐生市に伝わる白滝姫伝説とそっくりなのも、恐らく上野国から移り住んだ人が伝えたものと考えればしっくりくる。遠野の清瀧姫伝説に登場する山田という地名は、上野国の山田郡、もしくは常陸国の山田郡の可能性が高いからだ。岩手県から東京まで、歩いて10日から12日程度で行けるようだ。つまり、1ヶ月あれば東京と岩手を行き来できるという事は、情報の伝達も思ったより早く関東の情報が伝わるという事。栃木県の殺生石伝説が、いつの間にか遠野に辿りついて根付いても、有り得る話である。

ともかく管狐がもたらす悪病とは、民衆にとって未知の疫病、伝染病という事になろう。遠野の江戸時代までの歴史の中で、コレラが流行ったという記録を見つける事が出来なかった。例えば遠野には、天然痘である疱瘡神を祀る社などがある。また疫病の流行には、牛頭天王を祀ったりもしたようだ。また多かった瘧病とは、蚊の媒介によるマラリアの事であり、それを治す石の信仰などはある。コレラの流行った文政五年の後の文久二年(1862年)、遠野で麻疹が大流行し、多くの死者が出た記録がある。ただ、それ以前に麻疹の記録は無い。考えられるのは、麻疹もコレラもまとめて流行病というくくりであったのだろうか。ただし民間療法で簡単に撃退できる病でも無い事から、遠野において、コレラは到達しなかったと考えて良いのだろう。ただ麻疹の記録が、江戸で大流行した安政五年のコレラの四年後と考えれば、もしかして殺生石の伝説と重なるのではなかろうか。

正体不明の悪病を管狐がもたらしたと伝わった安政五年から四年後、遠野に大流行した麻疹がやはり、管狐がもたらしたものだと考えれば納得する。妖怪や物の怪の発生は、事件や事象があり、後から物の怪の仕業にされるというのが大抵である。何故、殺生石が欠上稲荷の側にあったのかと考えた場合、狐を祀る神社は、その狐の霊を鎮める、もしくは調伏するのに長けていると考えるのが普通であろう。時代的には日蓮宗が、狐憑きなどのお祓いをしていたようだが、それでは遠野で一番古く霊験あらたかとされていた稲荷神社の立つ瀬がない。あくまで想像の域になるが、文久二年(1862年)麻疹という未知の疫病をもたらした悪狐を調伏する為に殺生石伝説を利用したと考えるのが妥当ではなかろうか。そうでなければ、遠野に殺生石がある筈が無いからだ。

by dostoev | 2019-12-09 21:56 | 民俗学雑記

サムトの婆が来た

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10月13日、遠野ふるさと村では「秋物語~庭仕舞~」が行われる。庭仕舞いは、農家の外仕事が終わった事で、その後に行われるのが先祖供養の行事で、遠野ではゴオシュと呼ばれる。そのゴオシュの日は、「遠野物語8」で有名になったサムトの婆が現れる日でもある。ところが偶然か、12日、13日は、日本に未曽有の台風19号が上陸した。遠野流に言わせてもらえば、まさにサムトの婆が現れてしまったのだった。

"サムトの婆"の本名は、"サダ"という。サダは六角牛山の山男にさらわれたのだが、それが何十年かぶりに、実家である茂助の家に帰って来たのだった。年老いて、山男に里帰りを許されたのだろうか?ところが、サダが台風の使者であるかのように、サダが姿を現すと決まって遠野は大暴風雨になり、そのつど村は、大きな被害を受けたものだと云う。その後、山伏に頼んで、道切りの法によってサダを六角牛山に封じてしまった。この道切りの法とは、襲いかかってくる怨敵や悪人の道を塞ぎ、魑魅魍魎を降伏させる為に、紙の人形を怨霊などの依り代として筒の中に封じ、まじないの後に川へと流すか、村境に立てて結界とする。このサダの場合は、六角牛山と青笹村との村境に結界を立てたと云う。しかし、その結界もいつの間にか消えてしまったという…。

サダが台風の使者と表現したが、台風という呼称は昭和31年に定まったもので、それ以前は台風の古称を「野分」といった。「野の草を吹き分ける強い風」から「野分」と云われ、今では台風という呼称に変化してしまった。ただ遠野ではなんと言ったか?普通に大風だったか?

また綾織地域では、「夜口笛を吹くと嵐が来る」と伝わっている。ある爺様は、稲刈り後は田圃が稲の屑などで汚れるので、かならず毎晩口笛を吹いたそうである。それは嵐を呼んで、散らかった稲の屑などを吹き飛ばして欲しいからという理由であった。なんとも、ものぐさな爺様である。それはともかく、台風・大風を連れて来るサムトの婆は、やはり歓迎できない存在である。

by dostoev | 2019-10-13 11:40 | 民俗学雑記

遠野祭り(神々の集い)

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遠野祭りに参加しているシシ踊りの中には、各々の神社の名を冠しているシシがいる。これを見て思い出したのは「遠野物語拾遺257」の平助ハッケだった。神に憑かれた平助は、突然占いが当たるようになったというが、その占いの為の経文は、遠野の山々の名を呼び、また遠野の神社仏閣の名を呼ぶというものだったらしい。つまり、神々の力を得て、占いを当てていたという事だろう。そして遠野祭りには、このように毎年神々が集う。神々が集い、人々の集まる遠野祭りは、人々の願いがかなう場にもなるだろうか?

太鼓もまた、人々を鼓舞すると共に、神々を呼び込む音となる。
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早池峯の山頂手前に賽の河原があるが、本来は神々が集う祭礼の川原であった。山の頂とは、古代においては天であった。つまり、早池峯の祭礼の川原とは、「古事記」にも登場する、神々が集って相談した、天安河原と同等の意味を持つのだと思う。何故なら、早池峯周辺は、出雲と同じ神在月であるとされているからだ。この神在月は、出雲だけでなく熊野、二荒、諏訪等々が知られる。年に一度の遠野祭りは、神々を集わせる祭でもあるだろう。太鼓の重低音の響き、それに加えて笛や鉦の音が鳴り響き、遠野の里に神々が集う。
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by dostoev | 2019-09-21 19:13 | 民俗学雑記

「天地玄黄(早池峯と岩手山)」

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紀元前の古代中国には、まだ四神の観念が発生する前に「天地玄黄(てんちげんこう)」という観念が広まっていた。四神という四方に拡がる水平軸の考えよりも単純な、天と地という垂直軸により成り立っているという観念。そして天とは玄であり、黒。これは陰陽五行において、北を表す。また地とは、黄で示すのだが、これは地面の更なる下の黄泉をも含むものとなる。つまり古代中国の天とは、北の事であった。厳密にいえば、北に聳える山。そして古代中国における玄武とは、水神を意味すると云う。

この観念を遠野世界に照らし合わせれば、それは早池峯山となろう。遠野で、人は死ぬと魂は早池峯へ昇ると伝えられるのは、遠野で一番天に近い山という事もあるのだが、恐らくこの古代中国の「天地玄黄」の観念が伝わっていたのだと思える。それは何故かといえば、例えば早池峯山頂には、開慶水と呼ばれる聖なる泉がある。その開慶水を、東禅寺の無尽和尚は願い、それが聞き届けられた。これは陰陽五行において、まず陰陽の陰が北に位置して、水を発生させた事に繋がる。この北とは北天であり、北に聳える山。つまり遠野世界においては、早池峯の山頂が北天となる。その頂で発生した水を「天地玄黄」に則り、地へと降ろす観念が、東禅寺の開慶水の伝説として語られたのであろう。水はまず、初めに天で湧き、地へと降りる。そして再び、地面から涌き出て、天へと返っていく。この地から涌き出る水の観念が、黄泉国の言葉となったようだ。そして恐らく、早池峯の麓である大出・小出は、本来水の涌き出る生出(おいで)という地名からの転訛であろうが、その地名の観念は、やはりこの”早池峯からの水が降りてくる地”の意味があったのではなかろうか。

人間の頭(あたま)とは、天の霊(あまのたま)から発生した言葉である。つまり、天から降って来た霊が坐した場所が、人間の頭。枝垂れ桜などの枝垂れ系の樹木が霊界と繋がっているという迷信は、これに関係する。霊は天から降って来て、枝垂れの枝を伝って、地へと深く潜って行く。そして再び、地から湧き出して枝垂れの枝を伝い、天へと戻って行く。また天から降った霊華(蓮華)を末娘が奪い、早池峯へと飛んで行ったとの伝説もまた、北天である早池峯から降った蓮華の花が、末娘を引き連れ再び早池峯へと返るのは、当然の事であった。
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岩手県で、一番高い山は岩手山である。しかし信仰の広さを早池峯と比べてしまうと、どうしても見劣ってしまう。それは何故なのかと考えた場合、それは岩手山が火山であり火を吹く山であるという事になるので゛はないか。何故なら、万物を焼き尽くしてしまう火神が鎮座する山だと認識されるからだろう。陰陽五行の陰陽で、陽より先に陰が水を北天で発生させたという考えは、万物を生み出すという観念が先立つからである。そういう意味から、水神が鎮座する早池峯に対する信仰が、岩手山よりも広がっているのは当然の事であろう。山神を信仰するのは、山の恵みを期待するからである。その山神の殆どは、女神と信じられている。

例えば「播磨国風土記」での美奈志川(水無川)で男神と女神が、水争いをする。男神は、水を北に流そうとするが、女神は南へと流そうとする対立の話がある。また穴師の里でも、女神は北から南へと川を流すのだが、男神がそれを邪魔している。何故に、女神は北から南へと川を流そうとしているのか。「肥前国風土記」では、佐嘉川は北の山より南に流れると紹介し、そこに女神がいるとしている。そう、常に女神のいる山は北に鎮座し、川を南へと流しているようだ。そして同じ「肥前國風土記」での、姫社の郷でも荒ぶる神の紹介の前に、山道川の源は北の山から南に流れていると紹介している。つまり、女神の坐す山は、北から南に川が流れている事を強調しているようにも思える。これは風水的にも、北に祖宗山となる高山が聳える地が理想とされる事とに対応する。岩手県の大迫の早池峯神社が何故、遠野の早池峯神社に向って建てられたのかを考えた場合、それは遠野の早池峯神社経由で拝む事によって”北に聳える早池峯”を意識するからだ。この紀元前の古代中国で発生した陰陽五行という観念は、脈々と伝わり、日本へも渡って来ている。そして先に紹介した「天地玄黄」も、天である北は常に上に位置しているという観念が、現代においても「北上(ほくじょう)」という言葉に生きている。「北上」「南下」とは、常に北が上に位置し、南が下に位置しているという事から語られる言葉である。そこで思うのは日本の古代、朝廷を中心とし北を重視した信仰が定着している中、蝦夷という民族が北を支配していたという事実があった。この北の脅威を取り除く為に、どうしたのか。それが恐らく、養老年間に蝦夷平定の為、熊野から最強の水神を運んできた事に関係するのではなかろうか。

北天に発生する水であり水神であるが、古代の蝦夷国には存在しなかった。そこで当時の朝廷は、その当時の祟り神でもあり、三韓征伐の先鋒にもなった天照大神の荒魂である瀬織津比咩という水神を、北の地に聳える山へと鎮座させた。それはまず室根山であったが、現在の祭神は違う神となっている。また別に、氷上山も早池峯と同じ女神である事がわかっている。氷上神社に祀られる祭神は現在、天照大神が祀られる形にはなっているが、本来は天照大神荒魂であったのだろう。ここで解せないのは、他の山々に祀られた筈の水神の名前が消され、その神名が生きているのが早池峯だけになっているのは、何故か。それは恐らく、岩手山との対比の為ではなかろうか。陰陽五行に則れば、まず陰陽が発生しなくてはならない。神道における祭神の原初は、彦神姫神の二柱の祭祀が普通であったのは、この陰陽の設定と重なる。左は火(日)を表し、右は水を表す。火と水を合せて、新たな命を生み出す原初的な観念からであった。その観念に照らし合わせた場合、岩手三山というものは、有り得ない。岩手三山の伝説は、男神が岩手山で、本妻が姫神山、妾が早池峯。いや、本妻と妾は逆であるなどとの伝説がある。しかし、水と火の二元を考えた場合、それに対応できるのは水神が祀られる早池峯と、火を吹く火山である岩手山だけとなる。

岩手県の神社庁に伝わる早池峯縁起などを読んでみても、また遠野に伝わる伝説を読んでみても、北天の早池峯という存在意義を外して、盛岡側がその大元となるような伝説だけが残っているのは、中世以降に現在の岩手県一帯を支配した盛岡南部が、その伝説の背後に潜んでいるのを感じる。岩手三山伝説そのものは、南部藩となってから作られたものであろう。何故なら、本妻だ妾だと曖昧な伝説が広がってはいるものの、岩手三山の中ではやはり、早池峯の存在感だけが浮き上がっている。早池峯を頂点とした三山伝説が岩手県各地に点在している事からも、早池峯が特別な存在であるのが理解できる。姫神山が早池峯の親神のような伝説(烏帽子姫)などは、あくまでも早池峯の起源を有したいが為に作られたと思えてしまう。ともかく岩手県の三山伝説の原初は、火神である岩手山と水神である早池峯の陰陽の二つの山で信仰され、後から変更されたのではなかろうか。

by dostoev | 2019-07-12 16:33 | 民俗学雑記

怨念鬼(オネキ)

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生者や死者の想いが凝って出て歩く姿が、幻になって人の目に見えるのをこの地方ではオマクといっている。佐々木君の幼少の頃、土淵村の光岸寺という寺が火災に遭った。字山口の慶次郎大工が棟梁となって、その新築工事を進めていた時のことである。

ある日四、五十人の大工達が昼休みをしていると、そこへ十六、七の美しい娘が潜り戸を開けて入って来た。その姿は居合わせた皆の目にはっきりと見えた。この時慶次郎は、今のは俺の隣の家の小松だが、傷寒で苦しんでいて、 ここへ来る筈は無いが、それではとうとう死ぬのかと言った。はたしてこの娘はその翌日に死んだという。その場に居合わせて娘の姿を見た一人、古屋敷徳平という人の話である。


                         「遠野物語拾遺160」

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オマクの語源は定かでは無いが、オマクとは「遠野物語拾遺160」に書かれている様に「生者や死者の想いが凝って出て歩く姿が、幻になって人の目に見えるのをこの地方ではオマクといっている。」と、遠野では認識されているようだ。ただ佐々木喜善によれば、オマクの別名を「オネキ」と云うらしい。そのオネキに漢字をあてると「怨念鬼」という、「怨念(おんねん)の鬼(おに)」という恐ろしい言葉になるようだ。ただ佐々木喜善は、そういう恐ろしいものでは無く人の想いの凝り固まったもので、佐々木喜善本心としては「思念鬼(オネキ)」そして「思膜(オマク)」という漢字をあてたい気持ちであるようだ。

鬼という言葉は、日本人的に言えば角を生やした、地獄の住人で、しばしば人間界に現れて、悪さを成す存在の様に認識されていたようである。ただ中国から伝わった鬼は本来、幽霊のようなもので、怨念鬼という意味を簡潔に表現するなら怪談話に登場する亡霊と同じだろう。本来、祟り神とされ祀られた菅原道真もまた、怨みを募らせたとされる事からも、遠野物語的にはオマクでありオネキとなったのだと思える。霊とは本来見えないとも云われるが、それが凝り固まるから怨霊として発現するとの話を聞いた事がある。オマクの定義が、生者や死者の想いが凝るものならば、それは人への想いを断ち切れなかった姿となろうが、結局悪霊と表裏一体となる事からも、怨念鬼という言葉は、正しくもあるだろう。

「遠野物語小辞典」で「オマク」を紹介しているが、あくまで「遠野物語」に沿った解釈で、「これらの話でわかるように、オマクとは、執着を持った霊の全てをいうのではなく、生死の境にあるような状態の魂が遊離した場合をさすと考えられる。」と。オマクと似たようなものに、青森県の西津軽地方には、オマクと同様の現象をアマビトと云い、能登半島では人が死ぬ寸前に檀那寺へと参る霊的な姿を、死人坊と呼ばれるようだ。アマビトは、人間の頭の本来は「天の霊(アマノタマ)」から来ている事からも、霊的な人、つまり幽霊そのものと捉えて良いのか。ただ沿岸地域であるなら、アマは海を意味するので海人という意か。海は常世と繋がる、死者の漂う地でもある事からも、西津軽のアマビトは沿岸地域独特なイメージがあるように思える。また能登半島の死人坊は、そのまま亡者の列を思わせる。遠野の語源の話に「亡者の列」の話がある。飢饉で亡くなった者達が行列を組んで、遠い野の果てに吸い込まれていく様子から、遠野と名付けられたという話だ。これは「遠野物語拾遺166」に似たような話が紹介されている。能登半島の死人坊が檀那寺へと参るのも、救済を求めての事であろう。ところで葬式では、黒い喪服を着るのは、光を求めて彷徨う霊が、迷わないよう闇と同一の喪服着るのだとされている。もしも白い衣服を着て参列した場合、霊が間違って付いてくるからだと。日が沈んで闇が広がり、神々や霊たちの時間帯となる。昔の葬式は、夜になって行われたというが、現代では殆ど明るい日中に行われる。そこで必要なのは、闇の暗さなのだろう。その暗闇の役割が、喪服であるのだろう。話が逸脱してしまったが、オマクもオネキも要は、幽霊の事であり、それを信じる世界が遠野には定着していたという事である。そして、ある古老に言わせても、遠野のある地域の者達は、今でも幽霊がいると信じ、幽霊を目撃した話が後を絶たないのだと述べていた。これはつまり、吉本隆明の述べる「共同幻想」が現代でも続いているという事か。

by dostoev | 2019-07-02 20:29 | 民俗学雑記

棚と天井の無い生活

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江戸時代、貧しかった遠野であろうが、容赦なく年貢を納めなければならなかった。徳川幕府が財政難であればあるほど、その余波が日本全国の藩に益々大きくなる津波の様に押し寄せていたようである。そんな時代に南部藩は、「棚税」なるものを取り決めたようである。農家が家の中に棚を作れば当然、作物ものせるだろうと。つまり余剰な作物をストックするのであるから、余裕があるとの判断であったようだ。これと似たようなものが、現代でも行われている。車を購入すれば、様々な税金と関わる事になる。最近になって、走れば走るほど、更に税金が加算されるようだ。これでは運送業者は、たまったものではない。またNHKも、似たような事を始めている。受信機能を持つ機器を持っているだけで、受信料を取るというもの。NHKを観なくても、受信料は取るという荒業は昔からだが、更にそれがネットにも波及しつつあるようだ。とにかく難癖をつけて、国民から徹底して受信料を取り続ける形態は、この江戸時代の南部藩にも通じるところがある。
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また、観光で遠野を訪れ、観光施設内にある、曲屋などの古い建物を見学した人は多いと思う。観光客が気付いたかどうかはわからないが、天井の無く、棟木が露出した建物がある。天井が無いのは手抜きではなく、昔を再現してのものであろう。先に棚税を紹介したが、天井も似たような考えからだった。天井があれば、天井裏が出来る。南部藩時代、年貢としての農作物を天井裏に隠していた事例がある事から、農家の家に天井を作る事を禁止した為であった。恐らく、一軒一軒の家を調べに行く時、いちいち天井裏を調べるのは面倒だという考えからの発案であったのだろう。ただしその為に、家の風通しは更に良くなり、真冬はずいぶん寒かったと思える。ともかく、年貢を納める為に、農民は全て”あららさまにしろ”との命令であったのだろう。ただ遠野は実際に、気温は低く、作物の実りが悪い地でもあった為、余剰な農作物が家に残るという事は、余り無かっただろうと思える。せっかく作った棚があっても、のせるものが無い。どうせ棚税がかかるならば、作る必要は無いと考えた人が殆どであっただろう。ただ、天井は欲しかったと思うのだ…。

by dostoev | 2019-06-30 15:53 | 民俗学雑記