遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
by dostoev
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カテゴリ:冥界との縁結び( 11 )

「冥界との縁結び(其の十一)結」

「冥界との縁結び(其の十一)結」_f0075075_13040563.jpg
倉掘神社の"御利益"が縁結びであったのだが、文久年間(1861年~1864年)に普代村から縁結びで有名な卯子酉神社が勧請された。縁結びの御利益のある倉掘神社に、やはり縁結びで有名な鵜鳥神社が勧請され、それから神社名を卯子酉神社に変更したようだ。神社名を「鵜鳥神社」ではなく「卯子酉神社」にしたのは、それなりの拘りがあった為だろうと察する。ただし、この鵜鳥神社が勧請された文久年間は、1861年に大洪水が起き、それから大凶作と麻疹が流行り、遠野では多くの死者が出た、大変な時代であった。そんな時代に何故、普代村から縁結びの神を勧請し、神社名をも変えてしまったのか。恐らくだが、天保六年(1835年)に完成した堤防も決壊したと考えられる。遠野の歴史を顧みても、基本的には治水の歴史である。水を支配し、それをどう有効利用するか。その為には決壊した堤防を再び造らねばならなかっただろう。そんな時に、縁結びの神を勧請するというのは、考えられない。鵜鳥神社は、海上安全の神でもあるから水難除けにもなるのだろうが、海上から河川へというのも猿ヶ石川の治水を考えた場合、違和感を覚える。

ただ気になるのは「鵜鳥神社御縁起」の内容だ。源義経一行が、その地に辿り着いた時"朝夕紫雲のかかる西北の山を尋ねた"とある。その尋ねた山がそれと似た様な伝承が、やはり源義経一行が治承4年、武運を祈る為、村崎大明神を訪れたのだが、その時に源義経は藤花の紫色に染まった紫雲山にちなんで、社名を紫神社と改めたとの伝承を彷彿させる。この紫神社に祀られる神の本来は、松島大明神といい、安倍氏の祀っていた神でもあった。奥州藤原氏の祖である安倍氏の流れを汲むものであるから、源義経もまた紫神社へと参詣したと思うのだが、その系譜が鵜鳥神社へと受け継がれている気がする。その鵜鳥神社の本尊は、右手に白旗を持ち、左手に宝珠を持つ女神立木像であるという。「狐と瀬織津比咩」で書いたが、宝珠の系譜は塩盈珠・塩乾珠から来ており、鵜鳥神社の祭神に鵜萱葺不合命と玉依姫がいるように、海神祭祀が入り込んでいる。そして紫神社の松島大明神も、九州の安倍氏伝承の流れから與止日女と結び付く事からも、恐らくは「肥前風土記」に関係する與止日女神社の流れを汲んでいるのではなかろうか。

例えば「遠野物語拾遺33」も「肥前風土記」の流れを汲むものである。源義経の辿り着いた紫神社の創建は、大同元年であるようだが、東北の神社の歴史は大同年間から始まる。これは坂上田村麻呂が蝦夷国を平定して後、中央の文化が流れ込んで来た事から、神社の祭祀が始まった為でもある。その流れを察すれば、紫神社も鵜鳥神社も「肥前風土記」から発祥した與止日女神社の影響からの創建だろう。ただ、その與止日女だが、岩手県に多くの菊池氏が存在する事に関係するかどうかはわからぬが、九州菊池氏の主流である日下部氏が奉祭する母神に、蒲池比咩がいる。蒲池比咩(かまちひめ)は肥前国一宮である川上神社に祀られる與止日女(よどひめ)と習合していた。そして筑前糸島の桜井神社(與止日女宮)」で川上の與止日女は、瀬織津比咩と同神とされている。つまり與止日女とは、早池峯大神と同神であるという事になる。また、鵜鳥神社の御本尊が白旗を持つのだが、白旗は源氏を示すものであり、その根源は石清水八幡宮である。その石清水八幡宮は、その鎮座していた地名"白幡森"から白幡八幡宮と呼ばれていた。その白幡八幡宮の祭神は「淀姫神」となっている事からも、鵜鳥神社は與止日女と繋がるのだと考える。紫神社と鵜鳥神社の両神社に、源義経伝説が重なるのは偶然では無いだろう。その源義経伝説の背後には、奥州藤原氏の祖である安倍氏の信仰の導きが重なって来る。
「冥界との縁結び(其の十一)結」_f0075075_13035182.jpg
宮城県の紫神社と、普代村の鵜鳥神社。そして奇妙な事に、この卯子酉神社のある愛宕山や、目の前の猿ヶ石川にも源義経伝説が付随している。恐らく、同じ修験の流れで、遠く離れた宮城県と、岩手県沿岸の普代村、そして遠野が繋がっているのだと思う。更に言えば、同じ神の繋がりがあるのだと思えるのだ。しかし、その繋がりとは別に、縁結びの神が重なる様に勧請されたのかは、一つの呪術を完成させる為だと考える。その呪術とは、陰陽五行の循環である。

片葉の葦に、願いを書いた紙を結ぶ事で縁が結ばれた、というのが倉掘神社時代当初の縁結びの呪いであったようだ。いつからなのか、赤い布切れを使用するようになった。赤は、血の色、炎の色でもある。陰陽五行とすれば火気を意味し、方角は南であり、季節は夏。また古代から丹の色として、広く伝わっていた。また陰陽五行発祥の中国では、赤色はめでたい色として現代でも広く親しまれている。しかし、陰陽五行が伝わった日本では、赤色は必ずしもめでたい色だけではない。これは日本独自の解釈で起こったと云われるが、赤い色は「新生」を意味する。この新生の意味には、死んで生れ変る事も含む為、死の匂いが立ち籠るのであった。例えば、赤い鳥や赤い色は、死に関わりを持つと知られるのは、やはり血をイメージする為だろうか。例えば、名前を赤い文字で書いてはならないなどがある。また柳田國男「野鳥雑記」には、赤色を有する鳥が不吉を連想させる様々な事が書かれている。その吉凶を意味する赤い布切れを結ぶ事で、縁が結ばれるとされるのが、現在の卯子酉神社の呪術となっている。「結ぶ」は、息子や娘、または苔生すと同じ意味を持ち、万物を生み出す、もしくは成長させる意がある。そういう意味から"縁結び"とは、相手との関係を成長させる意味からも、血の契りとしての赤色が使用されるのは理解できる。

卯・子・酉は陰陽五行で言えば、それぞれ木・水・木である。五行とは、火・水・木・金・土であるから、火と土があれば五行循環がかなう。その火は、恐らく赤い布切れがそうであろう。倉掘神社であり、後に卯子酉神社となったのだが、その縁結びはあくまでも表面的な御利益に過ぎないと考えている。先に述べた様に、鵜鳥神社が勧請され、卯子酉神社になったのは、あくまで大洪水がきっかけであったと考えるからだ。陰陽五行で、水を剋するのは土だ。その土の強化の為に、鵜鳥神社が勧請された筈である。
「冥界との縁結び(其の十一)結」_f0075075_13032005.jpg
倉掘神社を調べていて、「クラ」は柳田國男に言わせると神の降りる場であり、籠る場でもある。掘るは、そのまま穴を掘るであるから「倉掘」は「穴を掘って神を埋める」意では無いかと考えていた。「クラ」をさらに調べると、総体的に「女陰」の意を持っている事が解った。遠野にもいくつかあるが、胎内巡りの岩などは、年に一度その岩穴を潜り、生れ変る、もしくは若返る意図を以て信仰されていた。赤い色に「新生」の意味がある様に「クラ」そのものにも「新生」と同じ意があった。そして「総合日本民俗語彙」「倉掘(クラホリ)」について記されていた。それは「墓掘り」の意であった。恐らくだが、当初の倉掘神社という神社名では「墓掘り」という意がある為に、文久年間に鵜鳥神を勧請し、神社名を「卯子酉神社」と改め、本来の「墓掘り」という意味を隠したと考える。そうでなければ、元々創建された倉掘神社の名を消して、後から勧請された神社名を採用する筈もない。本来は「鵜鳥神社」であるのだが、「卯子酉神社」としたのは、やはり陰陽五行を意識してのものだと思えるのだ。とにかく、倉掘神社が建立された時、水を剋する為、誰かが人柱として犠牲になったという考えは、かなり信憑性が高いのではないか。何故に人柱なのかと考えても、やはり人の死とは、陰陽五行で「土」となるからだ。そして「土剋水」、水を剋するのは土であるからだ。堤防も土で固められた壁の様なもの。それは、水を剋する為だった。更なる強化は、そう"土左衛門"とも云われる人間の死体が必要となる。
「冥界との縁結び(其の十一)結」_f0075075_21353864.jpg
タタラ筋が信仰する金屋子神は、死体を好むと云われる。その理由は、「土生金」つまり土は、金を産み出すからだ。金屋子神の神木であり神体は、桂と云われる。その桂には土が二つある事からも、金を産みたいタタラ筋にとって縁起の良い樹木が桂の木であった。前に紹介した陸前高田の横田町の舞出神社の御神木が、枝垂れ桂であった。舞出神社の祭神は瀬織津比咩であるのだが、盛岡の瀧源寺にも枝垂れ桂が御神木となっており、祭神は同じ瀬織津比咩である。これは恐らく、金屋子神とは逆の意味で、水神である瀬織津比咩の暴走を御する為に、土二つの桂を神木としているのではなかろうか。かつて、宮家の当主から、卯子酉神社内に、桂の木があった筈だと聞いた事がある。桂が土気の強い樹木であるなら、水を剋するには有効な樹木であると考える筈であるから、水害を避ける為には、あったとしてもおかしくはないだろう。また別に、遠野にはいくつか天然記念物となっている桂の木があるが、そこには蛇の伝承が残っている。それもまた、水神である竜蛇神を剋する為の手段として植えられた桂の木ではなかっただろうか。
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卯子酉神社の神社名が、陰陽五行を強く意識した神社であり、尚且つ水害を避ける為の意図があるならば、必要なのは土への帰結である。人柱は最後は死体となり土となるので、水を剋するという意図があった。その陰陽五行を最大に発揮する為に、鵜鳥神の勧請であるならば、やはり土へと導く呪術が施されているのだと考える。卯子酉は、それぞれ木・水・金であった。足りないのは火と土。つまり「火生土」の呪法が、赤い布切れを結ぶものだと思える。その結ぶ相手が、既に土となった存在。それは人柱となった女性の活性化ではなかったか。片葉の葦は、「かたわ者」の意も含む事は、今まで書いてきた。かたわ者には、連れ合いのいない未婚の者をも含む。「倉掘」は「墓穴を掘る」意であるから、倉掘神社の建立時に若い娘が人柱の犠牲になり、その暗号が「倉掘」であったのだろう。生前婚姻の出来なかった者は、あの世で結ばれる為には、誰か相手を探さなくてはならない。それには、人柱となった娘の為に、縁を結んでやる必要がある。だから男だけが縁を結ぶ方法「左手だけで赤い布切れを結ぶ事が出来れば、縁が結ばれる。」という伝承を残した。女性であれば、右手だけとなるのだが、それを省いたというのは意図的なものだろう。卯子酉神社の伝説に「信心の者には、淵の主が姿を現した」と伝わるのは、淵の主とは非業の死をむかえた者であるから、それは人柱になった娘であるのだろう。姿を現したというのは、人柱の娘との相性が合った、もしくは波長が合ったと考えるべきだろうか。「遠野物語」&「遠野物語拾遺」にも、いくつか人柱、もしくは水害の犠牲になった娘が、白い石の上に立っているのを目撃されている話が紹介されているが、それと同じものが、この"淵の主の出現"であろう。現世の縁を願う者が、未だに多く、卯子酉神社を訪れている。その多くは女性であるようだが、あくまでも縁結びの呪法は、男性だけに作用するものである。まさに知らずに現世の縁結びを期待し卯子酉神社に訪れた男性が、人柱となった女性との縁が結ばれるとは、知る由もないだろう。人柱の効果は、雄蝶・雌蝶揃ってこそのもの。独身のまま死んでいったであろう女性が、冥界で結ばれる為に施した、血と滾る炎を意味する赤い布切れによる縁結びの呪術。卯子酉神社の縁結びとは、まさに"冥界との縁結び"であると思うのだ。

「万葉集 巻十七 3941」に、下記の様な歌があった。歌の意味は「鶯が寂しく鳴く崖の底の谷、その深く暗い谷に身を投げこんで焼け死ぬほど苦しくても、あなたをひたすらお待ちしています。」生きている女性の激しい恋心を詠ったものだが、この卯子酉神社に埋められているだろう女性の心情にも感じて、敢えてこの歌を添えようと思う。

鶯の鳴く暗谷にうちはめて焼けば死ぬとも君をし待たむ
「冥界との縁結び(其の十一)結」_f0075075_13245466.jpg
戦後の復興の流れから昭和40年代に、遠野市は「遠野物語」を中心にして観光地化を推進してきた。その中の一つに、この卯子酉神社にスポットを当て、縁結びの御利益を宣伝してきたわけだが、今まで調べてきたように「男は左手だけで赤い布切れを結ぶ事が出来れば縁が結ばれる。」「女は右手だけで赤い布切れを結ぶ事が出来れば縁が結ばれる。」という呪いのうち、"女性の右手だけで…"が抜け落ちて伝わっていた。観光地化されてから現在に至るまで、卯子酉神社に縁を期待して訪れた人の殆どが、女性であったと聞く。つまり現在の卯子酉神社は、女性の報われない想いの溜まり場として存在している事になるのか。今でも境内に、想いを込めて結ばれた沢山の赤い布切が風に揺られ、まるで片葉の葦のようにひらめいている。

by dostoev | 2019-11-25 22:26 | 冥界との縁結び

「冥界との縁結び(其の十)」

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卯子酉神社の前身、倉掘神社時代に、縁結びの祈願が行われていた。その方法は、片葉の葦に願いを書いた紙を結ぶというもの。それが倉掘神社から卯子酉神社になり、赤い布切れに変っている。更に加えれば、後に勧請された卯子酉神社自体が、縁結びの御利益のある神社であった。つまり、元々の倉掘神社の縁結びの祈願を強化したものとも思えてしまう。ただし、卯子酉神社が勧請された年代は、水害から広がる飢饉と疫病から、多くの死者が出ている年代であり、何故縁結びの卯子酉神社を勧請したのかという疑問が湧きあがる。その疑問は恐らく、川の脅威を鎮める為が本来で、縁結びはそれに付随するものであったろう。

とにかく、卯子酉神社の地は、特異な場所である。町外れの辻を有する地であるのは、あの世の入り口と思われていた可能性が高い。そして卯子酉神社の地は、あくまで愛宕山とセットであると考えるべきだろう。遠野の愛宕山に鎮座する愛宕神社の本山は京都の愛宕山であるが、開祖は修験の祖と呼ばれる役小角と、白山の開祖である泰澄である。役小角は別に、賀茂役君とも呼ばれる様に、賀茂氏の出である。賀茂氏といえば上賀茂神社が知られるが、さらに上賀茂神社の北にある貴船神社をも支配していた。賀茂氏がいかにして水を統治したかというと、それは火があってこそであった。その火の象徴は雷であり、上賀茂神社の別名が賀茂別雷神社であるのが、それを表している。役小角と並ぶ愛宕神社の開祖の泰澄は、その後に白山を開山する。白山は、水の信仰の山である。恐らく、火である愛宕神社を創建したのは、賀茂役君の影響を受け、水である白山を統治する為ではなかっただろうか。
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卯子酉神社内に、愛宕社があるのいうのは無視できないものであろう。愛宕山には、倉掘氏が住んでいた。その麓に、卯子酉神社がある。以前に、倉堀の語源を考えた事を書いた。倉(くら)という言葉には、「神が籠る場所」という意味がある。また「暗い」という意味にも通じる場所でもある。また堀は、"掘る"という動詞から始まり、城などの「堀」に繋がる言葉だが、「掘る」とは「地面に穴をあける。」「掘って埋める。」「掘って取り出す。」という意味である。簡単に言葉を組み合わせれば「穴を掘って神を埋める」という意にもなる。そして、これらに付け加えれば、「倉」は「闇」でもあり、貴船神社の「闇龗神」にも通じるだろう。貴船神社の祭神である高龗神と闇龗神は、高いと低い、山と谷に通じるものがある。愛宕山を高みとすれば、卯子酉神社の地は、それに対比される低い地でもある。つまり、卯子酉神社に祀られるとすれば、高龗神に対する闇龗神であろう。その闇龗神の「闇(くら)」が付与され変換されたものが、"「倉(くら)」掘神社"であるのだと考える。そうでなければ、意味深な「クラ」を神社名に採用した意図を見出せない。

賀茂氏が関係する愛宕も貴船も、呪詛の場であった。もちろん御利益も与えるのだが、古来から呪詛の場として有名になったのが、愛宕と貴船であった。その愛宕と貴船の性格を受け継いでいると思われるのが、遠野の愛宕と、その麓の卯子酉神社である。「遠野物語拾遺139」によれば、倉掘氏が愛宕山に住んでいたとされるが、恐らく倉掘と名乗ったのは、倉掘神社を創建させてからだと思う。「遠野物語拾遺139」には、「倉掘家の先祖が住んでいた」と記されている事からも、倉掘以前は、別の姓を名乗っていたのかもしれない。

倉掘神社が貴船神社に対比される神社の様な事を書いたが、貴船神社も縁結び、もしくは縁切りで有名な神社である。卯子酉神社の縁結びは、倉掘神社時代から行われていたのは周知の事実である。しかし、その縁結びが、有り得ないと考えるのである。倉掘神社の創建は、阿曽沼時代と思われる。それは、同族である宮氏が阿曽沼氏との関係を述べている希薄な根拠ではある。「遠野物語拾遺138」によれば、まだ遠野郷は一円に広い湖水で、その頃はこの鶯崎に二戸愛宕山に一戸、その他若干の穴居の人がいだかりあったともいっている。と記されている様に、人が殆ど住んでいない状態であったよう。人の住んでいない地に、何故に"縁結び"を御利益とする神社を創建したのか?という謎が付き纏う。実際、遠野の町が現在地に移された後、縁結びの神として広まったのは、多賀神社であった。恐らく、縁結びではなく、水を鎮める為に建立されたのが、倉掘神社であったろう。その水を鎮める為に、人柱が行われたものと考える。それは「倉掘」の意味が「穴を掘って神を埋める」意と解釈できるからだ。倉掘神社であり、卯子酉神社は淵の傍らにあり、そこには淵の主がいた。広義的に淵の主とは、その地で非業の死を遂げた者である。古代の日本は、御霊信仰が広がっていた。非業の死を遂げた者の祟りを恐れ、神として祀る事だ。以前も紹介したが、小松和彦「異人論」では、その村で殺された異人の祟りを恐れ、神として祀るのだが、それは村人達が殺したと伝えるのではなく、貧しい村を救ってくれたと、事実を歪曲して後世に伝えるものが多いと。しかし殺した事実を完全否定するわけではなく、それを何かに残しておく。それは、歌であったり、わらべ歌であったり、様々であったよう。何故そうしたのかといえば、やはり御霊の祟りを恐れてのものだった。それを倉掘神社に当て嵌めた場合、やはり"倉掘"という神社名こそが、その御霊を恐れ、後世に伝える為の"事実の暗号"であったのだと考えるのだ。
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死人の棺の中には六道銭をいっしょに入れる。これは三途の河の渡銭にする為だといわれる。また生れ変って来る時の用意に、親類縁者の者達も各々棺に銭を入れてやるが、その時には実際よりもなるべく金額を多く言う様にする。たとえば一銭銅貨を入れるとすれば、一千円けるから今度生れ変る時には大金持ちになってがいなどと言う。また米麦豆等の穀物の類も同じ様な意味で入れてやるものである。先年佐々木君の祖母の死んだ時も、よい婆様だった。生れ変る時にはうんと土産を持って来なさいと、家の者や村の人達までが、かなり沢山な金銭や穀類を棺に入れてやったと言うことである。

                          「遠野物語拾遺263」

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遠野には「遠野物語拾遺263」の様な風習が残っている。これは山形県に伝わるムカサリ絵馬にも通じるものであり、その根底には、同じような感情が潜んでいるものと思われる。それは、現世での境遇に足りないものを、あの世で実現して欲しいとの想いであろう。その足りないものとは「遠野物語拾遺263」で書かれている様に、貧乏であったなら大金持ちに成れる様にであり、子供のいない女性であれば、子宝に恵まれる様にであり、未婚の者であるならば、結婚出来る様にである。二日町の駒形神社には、女性との縁が無かった未婚の男が祀られているのは、「遠野物語拾遺263」の風習を個人の世界観で留めずに、更に神に昇華させて、万人に広める為でもある。平安時代に神社は、御利益を与える場として認識され広まった。しかしその背景には、多くの人が訪れる事により、その場を踏み固め鎮める意をもった神社もあった。卯子酉神社の地は、人里から離れ、うら寂しい恐ろしいイメージの地に鎮座していた。そこに人を集める為には、御利益が必要であったろう。それが縁結びの伝説になったものと思える。

愛宕山に住んでいた倉掘氏は、麓を猿ヶ石川の脅威に曝されていたものと推察する。愛宕山から麓に安全に降りる為には、水を制御しなくてはならない。その為に行ったのが、倉掘神社の創建であったと考える。倉掘は、その名の意味するように「神を埋める」意がある。古来、弟橘媛が自ら水神の犠牲になったように、神への犠牲は女であった。天武天皇時代、女は髪を束ねなくても良いとの勅諚が下された。これは、女の髪は霊力の迸るものであり、それを束ねてしまうと、その能力が半減する。その能力とは何かといえば、それは神との交信であった。邪馬台国の卑弥呼がそうであったように、神との交信が出来ると思われていたのは、女性であった。倉掘氏は倉掘神社を創建するにあたった当初、淵の神ではなく、川の神、猿ヶ石川の源流神に誓ったのだと思われる。そして人柱として、未婚の女性をどこからか調達し、卯子酉神社の地に埋めたものと思われる。思い出されるのは、陸前高田、横田村の舞出神社に伝わる言葉だ。

「水神の怒りがあるから堤防が切れるのだ。神の怒りを解く為には、村の少女を生贄に捧げなければならない。」

弟橘媛の時代から、かなりの時代が経っているが、神の怒りを鎮めるにはやはり女性でなければならないものだと伝わっている事を、改めて認識してしまう言葉でもある。しかし、簡単に人柱の犠牲となる女性は、そうそういないものだ。「遠野物語拾遺」にもいくつかの娘を人柱にした話が紹介されているが、それは下女であったり、乞食の娘だったり、一般的に身分の低い娘達であった。男尊女卑という言葉があるように、昔の女性の立場は弱かった。家に娘が生れても喜ばれず、ある一定の年になると、外に出されたり、売り飛ばされた場合もある。明治生まれの自分の婆様も、要らない娘として久慈に生まれ、遠野に売り飛ばされた。宮古市なども栄えていたのだが、売り飛ばされた地から余り近いと、すぐに逃げられてしまう為、なるべく逃げ帰れない、遠い地に売り飛ばすのが相場となっていたようだ。だから家の婆様は、久慈市からかなり遠い地である、遠野市に売り飛ばされたのだった。

ともかく倉掘神社は、そういう未婚の不遇の娘を手に入れたのだと思うのだ。そして人柱にした後、その祟りを恐れ、いや初めからそういう約束があったのかもしれないが、あの世で相手と結ばれるように施した可能性は高い。遠野の卯子酉神社に伝わるのは「左手で赤い布切れを結ぶ事が出来れば、縁が結ばれる」というものである。この左手を使用するものは、男が女性を求める呪術であり、これを意図的に流布したというのは、男女関係無く、大勢の人達がこの地に来てもらい、その地を踏み固めて欲しいと願ってのものだろう。そして左手だが、女性がそれをしても発動しない。女性は、右手によって赤い布切れを結ばなければならないからだ。つまり、男が縁結びの祈願をしにくるのを狙ってのものだろう。特定の相手を願っての祈願もあるだろうが、独身の男性が純粋に「今年中に彼女が出来ますように。」という願いに反応するものと思われる。
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遠野の町の愛宕山の下に、卯子酉様の祠がある。その傍の小池には片葉の蘆を生ずる。昔はここが大きな淵であって、その淵の主に願を掛けると、不思議に男女の縁が結ばれた。また信心の者には、時々淵の主が姿を見せたともいっている。

                        「遠野物語拾遺35」

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先に書いた様に、淵の主とはその地で非業の死を遂げた者の場合が強い。この「遠野物語拾遺35」の話では、「信心の者には、時々淵の主が姿を見せた」と記されている。つまりそれは、淵の主と波長が合った者と思って良いのではないか。男女の相性は様々で、誰でもよいわけではない。その相性を見分ける為に、占いという分野も世間に広まった歴史を考えみても、淵の主が姿を見せる要素が、その信心の者にあったという事だろう。ただ淵の主が姿を見せた後、どうなったのかは伝わっていない。あくまで含みを持たせた表現に留まっているのが気になる。

この地に伝わる片葉の葦の伝説は全国的に、片目・片脚など、体の一部が欠損している"かたわ者"であり、それは恐らく製鉄に携わったものに関係するとの説もあるが、茨城県に伝わるいくつかの伝説を読むと、単に結婚出来ないかたわ者に対する場合も存在する。この卯子酉神社の地に伝わる片葉の葦は、婚姻出来なかったかたわ者の可能性が高いだろう。未婚のまま人柱にされ、現世で出来なかった未練が婚姻であるならば、左手で結ぶ縁結びの呪術は、そのかたわ者があの世で結ばれる為の呪術であるだろう。

今回で"結"の予定であったが、予定より長くなってしまった為、次の卯子酉神社が勧請されてからの縁結びの考察を書き、結とする事としよう。

by dostoev | 2019-11-19 20:28 | 冥界との縁結び

「冥界との縁結び(其の九)」

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卯子酉神社の鎮座する愛宕は、遠野の町の西に位置する。遠野八景が定められ、この愛宕の景観に、昔人は歌を詠んで楽しんだ。それが、下記の歌となる。

露時雨松原遠く過来つつ夕日のわたる愛宕橋かな

帰るにはしかじと山を夕日さす愛宕の橋をいそぐ旅人


この遠野八景が定められたのは、元禄、宝暦、そして天保年間である。南部四大飢饉があったが、その四大飢饉の年間のうち「元禄・宝暦・天保」の三つの飢饉の年代に、何故か遠野八景が定められている。これは苦しい遠野の生活を紛らわす為、せめて遠野の美しい場所を愛でようという意図からであったのだろうか?その三つの時代に必ず入っていたのが、愛宕であった。歌の中に愛宕の橋が詠われているが、愛宕に橋が架けられたのは寛文六年(八年とも云われる。)1666年だとされる。ただし愛宕に架けられた橋は、その後何度となく流されている。

ところで二つの歌に詠われている情景は、どちらも夕暮れのようである。足取りが「過来つつ」また「いそぐ旅人」と、慌ただしい様を詠っている。夕暮れ時は、黄昏時。誰ぞ彼は?という、相手の姿が見え辛くなっている時間帯でもある。さらに言えば逢魔時であり、昼から夜に移行する境界の時間であり、災いが降りかかる時間帯でもあった。そして愛宕山の前は鍋坂といい、人を騙す狐が出るとも云われていた程、人気の無い場所であった事からも、歌の愛宕の情景が、旅を急ぐ情景というより、魔を避けるかのような情景にも読み取れてしまう。ましてや愛宕橋の道も出来てしまったので、それを加えると、愛宕山の麓は辻になってしまっている。辻は霊界の入り口と云われるが、橋もまた、霊界の通路と伝わる。古来から橋は、あの世とこの世を繋ぐものとして認識されていた。例えば、死体を墓地へと運び、埋葬した後、振り返ってはならないという禁忌がある。振り向くと、あの世へと連れて行かれるのだ、と伝わる。それと同じものが、橋の上にも伝わっている。橋の上で話しかけられても、答えてはならない、振り向いてはならないと。また全国的にも、川の近くでは縁結びと、縁切りが成されていた。川そのものも、水中は異界と考えられていた事からも、人の及ばない力を願ったのだろう。例えば川が二股に分かれている場所は、縁切りに有効であるとか、その地形的なものも含めて、人の想いがいろいろなものを形作って来たのだろう。
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愛宕山の前を、鍋坂という。この鍋という漢字が付く地名は、遠野では他に鍋倉、鍋割などがある。鍋というと自分の中では、化け猫で有名な鍋島などが思いつく。調べてみると、例えば鍋倉などは、殆どが九州の宮崎県に多く、間を飛ばして東北に多い。鍋島もまた九州の佐賀県周辺に固まっているのを考えみても、鍋の付く地名が九州から渡って来たものではないかと妄想してしまうほどだ。

鍋坂を考えると、坂は境、境界を意味しているのだが、鍋は「な」かのものを「へ」だてるなどの意を持っているようだが、最終的には物を煮る器でもある事から、「煮瓶(にへ)」の義であるとされている。この"煮瓶"とは、つまり"贄(にへ)"である。考えてみれば、鍋や釜は、竃に載せて煮炊きする道具でもある。その竈そのものは、蹈鞴の流れを汲み、信仰が重なるところが多い。飯島吉晴「竃神と厠神」には「いわば非業の死をとげたものが、竃神として祀られている場合が多い。」と記されているが、竃の信仰が蹈鞴の流れを汲んでいるのは明白だが、その原型は加具土命に行き着く。伊邪那美は加具土命を産んで亡くなったが、死ぬ寸前の嘔吐によって誕生したのが、蹈鞴場に祀られる死体を好む金屋子神であった。「非業の死」という表現は、伊邪那美であり加具土命に重ねざる負えないところがある。その氏の臭いのする蹈鞴の流れを汲むものに、鍋と釜が重なって来る。そこで思い出したのが、遠野に伝わる伝承のいくつかであった。
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奇妙な事に、遠野には「お鍋ヶ淵」と「釜淵」と呼ばれる淵が、各々二ヶ所ある。

鱒沢村のお鍋が淵というのも、やはり同じ猿ヶ石川の流れにある淵である。昔阿曽沼家の時代にこの村の領主の妾が、主人の戦死を聞いて幼な子を抱えて、入水して死んだ処と言い伝えている。淵の中に大きな白い石があるが、洪水の前などにはその岩の上に、白い衣装の婦人が現われて、髪を梳いているのを見ることがあった。今から二十五年前程の大水の際にも、これを見た者が二、三人もあった。

                     「遠野物語拾遺29」

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「阿曽沼興廃記」には、観音の申し子としてのお鍋の末路が記されているが、どうやらお鍋は神格化したという事か。そのお鍋の入水したのは、鱒沢とされているが「まつざき歴史がたり」によれば、松崎沼(蓴菜沼)であるとしている。これは松川姫が女護沼に入水した話が、別に松崎沼であったというように、様々な情報が交錯した為だろうと思っていた。
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附馬牛村東禅寺の常福院に、昔無尽和尚の時に用いられたという大釜がある。無尽は碩徳の師家であって、不断二百余人の雲水が随従してたので、いつもこの釜で粥などを煮ていたものであるという。初には夫婦釜といって二つの釜があった。

東禅寺が盛岡の城下へ移された時、この釜は持って行かれるのを厭がって、夜々異様の唸り声を立てて、本堂をごろごろと転げまわった。いよいよ担ぎ出そうとすると、幾人がかりでも動かぬ程重くなった。それも雌釜の方だけはとうとう担ぎ挙げられて、同じ村の大萩という処まで行ったが、後に残った雄釜を恋しがって鳴出し、人夫をよろよろと後戻りをさせるので、気味が悪くなってしばらく地上に置くと、そのまま唸りながら前の淵へ入ってしまった。それでその一つだけは今でもこの淵の底に沈んでいるのだそうな。

                       「遠野物語拾遺22話」

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昔、附馬牛の大萩に東禅寺という大きな寺があった頃、そこには二百人もの修行僧がおり、修行に明け暮れていたのだという。なので食事も大したもので、馬釜のような大きな雄蝶、雌蝶と呼ばれた二つの釜で、ご飯を炊いていたのだと。

ところが時代も変わり、江戸時代の初期に、南部の殿様がこの東禅寺を盛岡に移転する事としたのだという。その時にこの雄蝶、雌蝶の二つの釜を一緒に運ぶ事となったのだが、何故かこの淵の側を通りかかった時に、急に片方の雌蝶の釜が崩れ落ち、あっという間に淵に沈んでしまったのだと。そして雄蝶と呼ばれた釜は空中に舞い上がり、火の玉のようになって、元の東禅寺まで飛んでいったそうな。きっと今まで居た東禅寺から離れたくなかったのだろうと、人々は語ったのだという。雄蝶の釜は今でも大萩の常福院に残っており、寺宝となっている。そして、淵に沈んだ雌蝶の釜は、何十人という人足をかけても、ついに引き上げる事が出来ないままであったと。それから、この雌蝶の釜の沈んだ淵を釜淵と呼んで近寄らず、またこの釜淵で魚を獲ると祟りがあると恐れられたそうである。


                      「鱒沢に伝わる釜淵の伝承」
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そして釜淵もまた、東禅寺近くの淵に落ちたか、鱒沢に落ちたとの、二つの伝承がある。先に"奇妙"とは書いたが、鍋と釜という似た物同士が、どちらも淵に落ちた伝承そのものが奇妙に思える。鍋の義が贄に通じると書いたが、釜もまた同じである。鱒沢の釜淵の伝承には「雄蝶・雌蝶」と、人柱を想起させる表現がされている。そもそも、鍋や釜に贄の義が隠されているならば、小松和彦の指摘するように「お鍋ヶ淵」も「釜淵」も、人柱の事実を歪曲して後世に伝える為に創られた伝承の可能性は高いであろう。その贄の義を持つ鍋という名の地名が、愛宕山前の鍋坂でもあるのか。
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愛宕山前の愛宕橋は、いまやコンクリートの橋に変ってしまった。それでも、橋としての意味が変ったわけではない。「ハシ」の本来の意味は、あちらとこちらを繋げるもの。食事に使用する箸は、口と食べ物を繋げるもの。そして先に述べた様に"橋"は、"あの世とこの世"を繋げるもの。これは川が異界であり、三途の川と結び付いてのものからきている。つまり、川を渡った向うは、あの世というわけである。ちなみに高橋は、天と地を繋げるもの。高いとは天に近付くものである事から、高橋は天にかかる橋を意味し、それが巫女などの神と交流する存在をも意味する。日本に数多くある高橋姓だが、日本で一番古い氏名であり、その発祥は後漢の高祖に辿りつくという説もある程だ。

話は逸れたが、愛宕山の麓には三つの道が出来ている事になる。それが辻であり、古来から霊界の入り口と考えられ、多くの石碑などが置かれている。その同じ地にあるのが卯子酉神社である。古来から、川と縁結び、縁切りは繋がっていた。それは倉掘神社が元々水神を祀り、その信仰に縁結びが付随していたのは、貴船神社からもあきらかだろう。川による古来の縁結びの信仰は、人形(ひとがた)を用意し、良縁を願い、もしくは「誰々に逢えますように。」と願をかけると共に、その人形を川に流したという。「大祓祝詞」の流れから見て、川の流れの最後は根の国・底の国へと流れ着くように、霊界であり黄泉国へと流れ着く。縁結びは、霊界であり黄泉国への願掛けと同じであった。ところが遠野の卯子酉神社には、更に"片葉の葦"と、左手だけで結ぶという、男だけの縁結びの呪術が仕掛けられている。そして立地と地名からも、普通の縁結びでは無い様相を帯びているのが理解できる。さて次の「冥界との縁結び」で結としよう。


by dostoev | 2019-10-29 11:39 | 冥界との縁結び

「冥界との縁結び(其の八)」

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上郷村に河だちのうちと云う家あり。早瀬川の岸に在り。 此家の若き娘、ある日河原に出てゝ石を拾ひてありしに、 見馴れぬ男来り、木の葉とか何とかを娘にくれたり。又高く面朱のやうなる人なり。娘は此日より占いの術を得たり。異人は山の神にて、山の神の子になりたるなりと云へり。

                      「遠野物語107話」

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この「遠野物語107」に登場する娘は、上郷町では、地域を救った朝日巫女として称えられている。上郷町岩崎の岩船に、花崗岩で出来た朝日巫女の古碑が、上に掲載した画像である。現在は、刻まれた文字もすっかり摩耗し、知らぬ人にとっては単なる自然石の塊にしか見えない。ところで、「上郷聞書」に記されている朝日巫女の霊力の凄さを示す内容の一部は、下記の通りとなる。
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宝冶元年(1247)6月「白鬚の大水」と後年言われた大洪水が数日続き、早瀬川は氾濫して平の原部落、平倉部落の家も耕地も今にも呑み込まれそうな危険な状態となっていた。その時、朝日巫女は岩舟の岩上に立ち、呪文を唱えて扇子を以って岩舟の岩石の方に濁流を導き寄せ、現在の川筋に変えたと云われる。
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稲荷様の縁日に大雨と強い風の日に行方不明となったが、7年後にやはり大雨で強い風の日に朝日巫女は帰って来たとある。気になるのは、朝日巫女が大雨と結び付く事を強調して紹介している事だ。「冥界との縁結び(其の一)」に、小松和彦「異人論」の話を書いた。全国に広がる伝説には、事実を隠し美談に変換されているものが多いと紹介した。そこに隠されるものは、聖人殺し。人柱は、最終的には神に捧げる贄としてのものである。それは、一つの呪術でもあるのだ。永仁元年(1293年)天武天皇陵が暴かれ、天武天皇の髑髏が盗まれた。犯人は、行広という坊さんで、呪術に使う為だった。呪術に使われる人とは、第一に聖としての徳の高貴さであり、次に血の高貴さが尊ばれるそうだ。そういう意味では、天武天皇の髑髏は、血の高貴さから盗まれたものだろう。ところが、遠野の様な片田舎には、そういう血の高貴さを持っている者は、まずいない。となれば、注目されるのは、聖としての徳の高貴さだろう。そして人柱は、女性であれば尚更良しとされるように、巫女という存在は、人柱にうってつけの存在であると思う。
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朝日巫女は、岩船の岩の上に立ち、大雨で氾濫した川の流れを変えたとされるが、その岩船とは小高い山の事である。現在、の岩船に朝日巫女の墓とされるものがある。ただ、深野稔生「天翔ける船紀行」を読むと、全国の船を意味する山の大抵は、死者の霊を鎮める山であろうという見解を示している。その中には、貴船神社のある貴船山も含まれる。貴船大神は、貴船山の岩の上に降り立ったとされる。それはまさに、朝日巫女が岩船の岩の上に立ったものと重なって見えてしまう。恐らくだが、朝日巫女伝説の下敷きには、貴船神があるのではないか。そして、何故に貴船神を下敷きにして朝日巫女が出来たのかと考えても、その根底はやはり人柱であったのではないか。朝日巫女は、早瀬川の氾濫の犠牲になり、人柱となって、後に神として祀られたのが答えではないのか。現在、その岩船に石碑なり墓があるという事は、人柱の犠牲となった朝日巫女の霊を鎮める為ではなかったか。
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陸前高田の横田村に、舞出神社がある。この神社の祭神は、瀬織津比咩と菖蒲姫の二柱の神が祀られている。その由緒は、下記の通りとなる。
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今から四、五百年前の頃の事であった。陸前高田横田村では、開拓工事の為に堤防を造ったのだが、大水のたびごとに決壊し、せっかくの新田がまたたくまに泥田になっていたという。そんな中村人は、和光院様という神職に伺いを立ててみたところお告げがあった。

「水神の怒りがあるから堤防が切れるのだ。神の怒りを

        解く為には、村の少女を生贄に捧げなければならない。」

その頃の横田村に、遠野の上郷は細越から流浪してきた大層貧しい母と娘が住んでいた。娘の名を”菖蒲姫”という評判の親孝行者だったので村人達は、代わる代わる母と娘の面倒をしていたそうな。その菖蒲姫は生贄の話を聞き、自ら進んで、その人柱になる事を申し出た。残る母親の生活を村人に託して、翌日の早朝に村人総出の中、牛に乗って川まで行った。やがて菖蒲姫は白木の棺に入れられ、静かに水底へと沈められていった。それからは堤防も決壊する事無く、これもひとえに菖蒲姫の生贄の賜物であろうと、佐沼山に小さな祠を建てて、その霊を慰める事にしたのが、現在の舞出神社であった。

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これと似た様な話は「遠野物語拾遺26」であり、「遠野物語拾遺25」もまた、これらの亜流だろう。共通するのは、人柱を捧げたその川の主であり、川の神であろう。以前にも書いたうに、川の主、川の神とは、その源流神を云う。ただ横田村の舞出神社に伝わる様に、岩手県に於いて水神の大元とされ認識されているのは、早池峯大神である瀬織津比咩であるという事。つまり遠野全体で考えても、川の主の大元とは、早池峯大神である瀬織津比咩の事をいう。

そして人柱だが、巫女という聖人を捧げる場合もあり、また「遠野物語拾遺25&26」の様に、身分の低い者の場合もまたあるが、共通するのは女であるという事。「生贄と人柱の民俗学」を読んでいくと、器量の良い娘は買い手がすぐ付くが、器量の悪い娘は、なかなか買い手が付かない。しかし、人柱などの犠牲になる場合に、買われる場合があったようだ。呪術を完成させる場合、聖人としての徳の高貴さ、もしくは血の高貴さを求められるが、確かに「遠野物語拾遺25&26」のように、代理の女が犠牲となっても、川の氾濫は治まっている。ただし、その犠牲となった者の祟りが永続するというリスクが伴っている。「遠野物語拾遺25&26」の場合、犠牲になった女を神として祀らないから祟られたと考えて良いだろう。人柱の基本は、「遠野物語拾遺28」の雄蝶・雌蝶であり、橋姫神社と同じ様に男女二柱を祀る事であろう。一柱で祀った場合、その祟りが起こる可能性がある為に、ある呪術を施す。それが恐らく、卯子酉神社に施されているのかと考えてしまう。

by dostoev | 2019-10-14 13:06 | 冥界との縁結び

「冥界との縁結び(其の七)」

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さて、ある程度話をまとめようか。まず初めに、卯子酉神社に現れるという淵の主というものに疑問を抱いてから、いろいろと調べてみた。この卯子酉神社の鎮座する土地は、遠野と綾織の境界であり、綾織の伝承から、「死者の魂の留まる場所」であるというのがわかった。また、卯子酉神社以前の倉掘神社だが、倉掘そのものは、「地面に穴を掘って神を埋める」意味もある事が理解できた。そして「淵の主」とは、その淵なり沼で、「不遇の死を迎えたもの」を意味していた。これらから導き出される答えは、やはり「人柱」であるだろう。ただ、時代的な問題点が出ている。卯子酉神社以前の、倉掘神社時代に、果たして"それ"が行われていたのか。卯子酉神社になったのは、幕末の文久年間になってからだった。その文久年間の始まりである1861年は、大雨による大洪水となり、それにより大凶作と麻疹が流行り、多くの死者が出た時代であった。そういう意味では、水神への祈願として人柱を立てても、おかしくは無い時代であった。時代的に幕末であり、江戸を中心として西洋文化を垣間見る時代はある意味、迷信が淘汰されている時代でもあった。しかし都から遠く離れた遠野は、同じ日本でありながら、その時代の流れから取り残されていた。

倉掘氏と関係の深い宮家は、鮭に助けられた一族だからと、鮭を食べないを家訓としてきた。しかし、青麻信仰など鮭を神の饌とする信仰があり、宮家も恐らくそれに含まれるだろうと想定されるのは、宮家が住んでいた鶯崎に、その青麻信仰の碑があった事が伺える。山を目指して溯上する鮭は、神の使いと考えられた。例えば、妙見信仰であり、星の宮神社などの氏子は、神の眷属である鰻や鯰を食べないしきたりになっているのと、宮家の鮭は同じものだろう。つまり、神の元へと向かう鮭を、捕って食べてはいけないという禁忌だろう。ともかく、倉掘氏と宮氏に共通するものは、水神に対する信仰であると思う。

倉掘氏が何故、愛宕山に住んでいたのかは、荒ぶる猿ヶ石川を避ける為であったろう。猿ヶ石川が氾濫すれば、愛宕山の麓は水で覆われたであろう事は、簡単に予想できる。遠野の縄文遺跡の殆どが、高台から発見されているのは、川の氾濫を避ける為だろう。古代日本は、天照大神を中心に太陽信仰が盛んであったと思われている節がある。しかし、もっとも重要なのは水であった。例えば、太陽が輝き続け、日照りになった場合、雨乞いという水を欲す。食べ物、飲み物としての水は、人間の生活にとっての必需品であった。生活のリアリティは、水によって生じる。しかし水は、恵みを与えると共に、死をもたらす。川の氾濫は、家を飲み込み、人をも飲み込む。古代から人間は、水と向き合って生活していたものと思われる。
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そして人柱だが、川の氾濫を抑える為もあるが、地面を固め鎮める為の人柱など、基本的には水神に捧げるというものであった。「越中奮事記」には、「水を留めるにには人間を生埋めにするより他は無い。女なら尚更良い。」と記されている。これは人柱の最もたるものであり、女を人柱にするのは、自らの身を投げ水神に捧げた弟橘媛の流れを汲むものだろう。

ところで、九州の福岡に「ヤカンコロバシ」「ヤカンコロガシ」というものが伝わっていた。これは古い時代の遠野で行われたものが、九州へと伝わったものだとされる。それは夜、人を斬りつけ、谷底へと落すもの。そこには神官がいて、祝詞を唱えていたそうだ。遠野に来内ダム(遠野ダム)がある。1957年に来内ダムが着工された時、夥しい人骨が出て来たそうだ。それは、この来内ダムの場所が、ケッコロガシ沢とも呼ばれる処刑場であった為だ。公には、刀で斬りつけ谷底に落とし、這い上がってきた者の罪は赦すとされているが、実際は這い上がった者はいなかったともされている。この処刑に携わっていたのが、来内村の名主と伊豆神社の神官であったよう。ところが、この来内村の名主と伊豆神社の神官は、弘化四年(1847年)の三閉伊一揆の際に、一揆の熱に影響を受けた村民の襲撃によって殺されたという。村を牛耳っていた者が殺される話は、ロシアの農奴解放に近いものを感じる。それはどうも、天保年間の大飢饉から始まり、天保11年に発生した未曽有の大洪水が起きた事に由来するようだ。

この時代でもまだ災害は、神の怒りとされる時代だった。来内に鎮座する伊豆神社の祭神は、早池峯の神でもある、水神でもある瀬織津比咩。水害を鎮める為、理不尽な贄を捧げたのが、ケッコロガシ沢の処刑であったようだ。例えば来内村は当時、伊達藩との境界に位置していた。例えばキリスト教を信仰する者が見つかれば、キリスト教に寛容な伊達藩に逃げ込めば助かるとされていた為、伊達藩との境界には、意外にキリスト教信者が多くいたとされる。小友町も伊達藩との境界があり、捕まったキリスト教信者は、ただ殺されるのではなく、落盤事故の多かった坑道に入り、採掘の仕事などをさせられた。その中には胴臼洞と呼ばれる場所があるが、それは「デウス洞」が本来で、隠れキリシタンが集まって祈りを捧げていたとされる。瑞応院には、そういう坑道内で祈りを捧げられていたマリア像などが伝わっている。とにかくそういう者達もまた捕まり、水神に対する贄の犠牲になっていたようだ。
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卯子酉神社の淵の主は恐らく、そこで非業の死を遂げた者であったろう。しかし、それに至る過程の原初には、猿ヶ石川の源流神、早池峯大神に対する祈願から始まったと推測する。そしてその水神に対する祈願が補強されたのが、文久年間に起きた大洪水からであろう。その根底には、やはり陰陽五行が潜んでいる。

by dostoev | 2019-10-12 14:15 | 冥界との縁結び

「冥界との縁結び(其の六)」

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宮の家が鶯崎に住んでいた頃、愛宕山には今の倉掘家の先祖が住んでいた。ある日倉堀の方の者が御器洗場に出ていると、鮭の皮が流れて来た。これは鶯崎に何か変事がるに相違ないと言って、さっそく船を仕立てて出かけてその危難を救った。そんな事からこの宮家では、後々永く鮭の魚は決して食わなかった。

                       「遠野物語拾遺139」

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卯子酉神社の以前は、倉掘神社であった。その倉掘神社の別当は、倉掘氏。この倉掘という姓は稀有であり、全国にもそう多くはない。宮氏は、阿曽沼氏の家系だと訴えていたが、倉掘氏が同様なのかは定かではない。ただ倉掘氏の姓の発生は不明な様だが、もしかして栃木県に二ヶ所ほどある"倉骨"という地名から来ているのではないか?という説もある。阿曽沼氏が栃木県の氏族であった事からも、可能性としては否定できないだろう。また、愛宕山に住んでいた倉掘氏であったが、愛宕山は館跡ではないか?などの話も聞いた事がある。そういう意味では、倉掘氏の"堀"は、館跡の堀を意図していたのだろうか。ただ倉(くら)という言葉には、「神が籠る場所」という意味がある。また「暗い」という意味にも通じる場所でもある。また堀は、"掘る"という動詞から始まり、城などの「堀」に繋がる言葉だが、「掘る」とは「地面に穴をあける。」「掘って埋める。」「掘って取り出す。」という意味である。簡単に言葉を組み合わせれば「穴を掘って神を埋める」という意にもなる。
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昭和時代、メガネ橋の補修工事の時に、橋の袂からお歯黒をした女性の古い骨が見つかったそうだ。もしかして人柱にあった女性の骨か?とも云われた様だが、深くは検証しなかったようだ。ただ人柱は、未婚の女性がなるものというイメージがあった為に、何故お歯黒の女性が?という疑問はあったらしい。ところで「平家物語」には、嫉妬に狂った女が貴船神社に祈願し、丑の刻参りをした。その牛の刻参りとは、三七日間(二十一日間)に渡り川に浸るというもの。その時の描写に「歯は鉄で黒く染まっていた」と記されている。調べてみると、お歯黒の初期は、草木や果実で染めていた様だが、後に鉄片を酢に浸したものを使用するようになったと云う。

この「平家物語」の女性が、橋姫と云われるのはさて置いて、夫の浮気に嫉妬した女性の狂気を描いている。つまり既婚である事から、これをメガネ橋のお歯黒の女性に当て嵌めると、橋という"あの世とこの世を渡す境界"の下を流れる川に浸かったまま死んだ女性とも見る事が出来る。ただ通常であれば、川の流れに体が流されてしまうので、やはり人柱として橋の袂に埋められたか、もくは自ら望んだ入定の様なものであった可能性もある。平安末期、末法思想が広がった世の中で、坊さんたちは挙って火中入定、水中入定、土中入定を行った。中には、やるやると言ってやらなかった坊さんも多数いたようだが、入定する事によって浄土を目指す精神であり意識は、一つの呪術に近いものがある。またそれが悪意を持つ場合は、それは自分の怨念をそこに籠らせるという事。先に倉の意味には、影であり、神が籠る場所というものと同じである。昔観た映画に「ヘルハウス」というものがあった。ある屋敷に、その屋敷の主が特別な一室に怨念をもったまま籠って死に、その怨念が後の世にも、ずっと屋敷内に発動し怪奇現象を行うというもの。これは日本映画の「呪怨」も、また似た様な考えから制作されたものだろう。つまり、俗に云う地縛霊、自縛思念だ。橋姫神社が、橋の袂に男女二神を祀った事から始まったのは人柱からだったが、自ら入る場合は、「平家物語」の橋姫の行動と同じで、怨念を伴うもの。事実はどうかはわからぬが、この様な可能性も否定できないだろう。

by dostoev | 2019-10-10 13:32 | 冥界との縁結び

「冥界との縁結び(其の五)」

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松崎の猿ヶ石川沿いの、めったに人が寄り付かない場所に、ひっそりと人柱で死んだ巫女の墓がある。そしてまた、この松崎の猿ヶ石川沿いに、巫女の化物が出るという伝承が残っている。これは恐らく結び付くもので、不遇の死を迎えた巫女の祟りを恐れて、誰かが語ったものが伝わったのだろう。「今昔物語」に、厠へ行った女性が、化け物となって現れた話がある。厠=トイレは、あの世の入り口でもある。古代から、地面に穴が空いている場所は、霊界と繋がっていると信じられていた。これは「古事記」において、伊弉諾が死んだ伊邪那美を探しに、黄泉国のある洞窟へ入っていたが、伊邪那美の最後は恐ろしい黄泉津大神となり、伊弉諾と袂を分かつ話が元となる。それ故、地面に穴が空いている洞窟もそうだが、日常の井戸やトイレもまた、霊界=黄泉国の入り口であると信じられていた。普通の人は、死んだら成仏してあの世へと旅立つ。しかし、現世に想いや怨みを残した者は、霊界を通して戻ってきて、幽霊や化け物となると信じられた。巫女の化物とは、そういう系譜を受け継いだ話であろう。
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琵琶湖畔の桜谷は、鎌倉時代の歌論書「八雲御抄」で、「さくらだに(是は祓の詞に冥土をいふと伝り)」と記され、冥土の入口と思われていたようだ。「蜻蛉日記」にも、佐久奈谷へ行こうと言うと「口引きすごすと聞く(引き込まれる。)…。」とあるのは、桜谷=冥土(黄泉国)の入口と古くから伝わっている為であろう。琵琶湖畔に、伊弉諾と伊邪那美を祀る多賀大社が鎮座しているが、どこか琵琶湖そのものが黄泉国と通じるという意識があったのではないか。その桜谷には、桜谷明神と呼ばれる神がいた。その神名は、早池峯大神でもある瀬織津比咩であった。

この桜谷のある琵琶湖の下流は、宇治川に通じる。その宇治川の橋の袂に、橋姫神社が鎮座しているのだが、その橋姫神社の祭神は、瀬織津比咩となる。縁結びであり、縁切りが古代から有名になっているのは、橋姫の存在が大きい。この橋姫神社は、橋の袂に男女二神を祀ってから始まったとされるが、その男女二神が、雄蝶・雌蝶揃った人柱であったようだ。

橋姫神社と、遠野に分霊された鵜鳥神社の縁結びは関係なさそうに思えるが、鵜鳥神社の縁起には、源義経が絡んでいる事から、貴船神社の影響も考えられる。源義経と鵜鳥神社の関係は、源義経北方伝説によるものだが、それを修験が運んだとすると、あながち関係無いわけでも無いだろう。まず橋姫神社の縁結び・縁切りの本来は、貴船神社に由来する。そして源義経に縁の深い鞍馬寺は、貴船神が建立する様に命じたものとされている。貴船神社の神域内に、鞍馬寺が建立された事からも、歴史には記録されていないが、源義経が立ち寄った可能性があるだろう。そしてまた、卯子酉神社のある遠野の愛宕山にも、源義経伝説が付随している。
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遠野の愛宕神社に伝わる源義経伝承は、下記の通りとなる。
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源頼朝が平泉を攻めた時の事である。藤原泰衡は義経を殺さず、偽首を送った。義経は逃れて、東磐井郡より江刺を経て遠野に来たが、隅々この地方の人々が火災に苦しんでいる様を見られて、愛宕の神は鎮火の守護神である事を教え、この愛宕の神を祀って火災防除を祈ったのが、この神社であると伝える。
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また源義経伝説は、これだけではない。この愛宕神社の麓に流れる猿ヶ石川にかかる愛宕橋の下に、義経が乗っていた馬の蹄跡のある石が或るとされている。いや別に、弁慶の下駄の跡だという話もあるが、どちらにしろ確認はしていない。前に紹介したように、猿ヶ石川の様相は、かなり変ってしまったのもある。ともかく、貴船・橋姫・鵜鳥・卯子酉神社・愛宕には、奇妙な関係性を見出せる。
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「平家物語」の橋姫は、雪の様に白い肌の女として戻橋を歩いていた。そして寄って来た源綱の前で鬼に変り「愛宕山へ行きましょう。」と、源綱の髪を掴んで飛び上がった。何故、橋姫は愛宕山へ行こうとしたのか。京都愛宕山の「愛宕山縁起」では、空也上人が愛宕山に参詣したおり、女人に変化して現れた大蛇が成仏を願ったので、念仏を受け、その代わりに清泉を湧き出させたという因縁がある。「愛宕山縁起」が残る愛宕山の月輪寺で祀られる神は、清水龍女。水神であり、龍神である。また、京都の愛宕は「あたご」ではなく、「おたき」と訓む。遠野の卯子酉神社は、正確には綾織町の愛宕山の麓にあるのだが、その綾織には、もう一つの愛宕神社がある。現在の祭神は加具土命となっているが、本来の祭神は瀬織津比咩。早池峯大神であるが、その正体は水神であり龍神となる。これまでの流れを陰陽五行に照らし合わせ考えると、火と水の密なる流れを感じてしまう。それに加え、黄泉国との繋がり。そして、縁結び・愛宕山・橋姫の流れから、その根底に来るだろう貴船神社の本来の姿である呪詛神としての重要性が浮かび上がる。それが、愛宕山にも関係するのだ。「平家物語」において橋姫が、源綱を愛宕山へと誘ったのは何故か?

山田雄司「崇徳院怨霊の研究」を読むと、京都の愛宕山で呪詛が行われていたようだ。近衛天皇の霊が巫女に口寄せして、愛宕山の天公像の目に釘を打った呪詛が行われたが、貴船神社であり、愛宕山であり、呪詛を行う背景には、水神であり龍神の存在がある共通性を見出せるのだ。

by dostoev | 2019-10-08 20:22 | 冥界との縁結び

「冥界との縁結び(其の四)」

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気になっている事がある。それは、淵の主とは誰を云うのか、という事。川の主とは、その水の発生する源流神を意図する。川と云うのは、清い流れがあって、その浄化作用を信じられていた。極端な話だが、川の上流でオシッコをしても、「なぁに、水は一尺流れれば、綺麗になるから大丈夫だ。」と信じられていた。しかし淵とは、その同じ川の流れでありながら、別に独立した存在。淵とは、淀みである。淀みとは、流れの停滞するところであり、河童などの妖怪の棲家としても伝わる。
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遠野の町の愛宕山の下に、卯子酉様の祠がある。その傍の小池には片葉の蘆を生ずる。昔はここが大きな淵であって、その淵の主に願を掛けると、不思議に男女の縁が結ばれた。また信心の者には、時々淵の主が姿を見せたともいっている。

                        「遠野物語拾遺35」

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時々淵の主が姿を見せたとあるが、遠野内において"淵の主"というものを調べると、例えば赤羽根の堤工事の時、贄として生き埋めにした鶏を"淵の主"としている。また、中山太郎「人身御供の資料としての「おなり女」伝説」には、発狂して池に飛び込んで死んだ女が、その淵の主となり、その池の側を通る人の影が池に映ると池の主が引き込んでしまう話など、どうも淵の主、池の主の殆どは、その淵なり池で、不遇の死、不幸の死を迎えた者のよう。
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ここで、もう一度縁結びを振り返ってみよう。元々の縁結びは、倉掘神社内の淵に対して祈願する事だった。ところが文久年間(1861年~1864年)に、宮古市の北、普代村の卯子酉山の中腹に鎮座する鵜鳥神社から分霊されて来た頃から、倉掘神社は卯子酉神社と社名を変えたのだろう。その縁結びだが、鵜鳥神社にも、縁結びが伝わる。それは「男は左手で、女は右手で松の小枝を結べば、縁が結ばれる。」というもの。陰陽五行によれば、火は陽であり左手で、男を指す。水は陰であり右手で、女を指す。ところが遠野の卯子酉神社には、「左手だけで赤い布切れを結ぶ事とが出来れば、縁が結ばれる。」伝わり、そこに男女の区別は伝わっていない。普代村の鵜鳥神は、海上安全などの水難事故防止の御利益もあるようだが、遠野における水難事故で祀る神は、殆どが金毘羅だ。

ところで卯子酉神が分霊された文久年間は、幕末の動乱期でもある。その頃の遠野はどうだったかというと、1861年に大雨による大洪水が起き、それから大凶作と麻疹が流行り、多くの死者が出た大変な時代であった。そんな時代に何故、普代村から縁結びの神を分霊してもらったのか?恐らく、1861年の大雨による洪水被害から、分霊されたと考える。またこの大雨による大洪水で、天保6年(1835年)に卯子酉氏神社前に広がる猿ヶ石川沿いに造られた堤防は、決壊したものと思われる。
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卯子酉神社の御本尊は、それぞれ文殊菩薩(卯)千手観音(子)不動明王(酉)となる。画像の本尊の配置は、向かって左から千手観音、不動明王、文殊菩薩で、卯子酉の順番通りには、なっていない。そして、この十二支を陰陽五行に当て嵌めれば、卯→木、子→水、酉→金、となる。陰陽五行の三行までが卯子酉であるのだがら、残りの火は、恐らく縁結びで結ぶ、赤い布切れだろう。また、卯子酉神社の鳥居の赤い色も含むだろう。鳥居の赤は、陰陽五行での「火生土」を意図する。つまり、縁結びで行う、赤い布切れを結ぶ行為とは「火生土」を意図してのものではなかったか。つまり、遠野の縁結びは、土との縁を結ぶ意を含んでいるという事になる。前回紹介した愛宕神社に祀られる加具土命は、別名"火産霊(ほむすび)"とも呼ばれる。そう、火を結ぶのである。

by dostoev | 2019-10-06 19:23 | 冥界との縁結び

「冥界との縁結び(其の三)」

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片葉の葦の伝説における、片葉は「かたわ」に通じ、体の一部が欠損している不遇の者と結び付く場合が多い。その中でも、葦の根元には鉄分が吸い寄せられ、それを採集しての産鉄があった事からも、蹈鞴系との関連が多く語られる。方足、片目は鍛冶師が方足で鞴を踏む事とから片足がダメになり、また炎の燃え盛る炉を片目で見続ける為に、片目がダメになっていた事から、片足、片目は、蹈鞴の代名詞のように語られている。「遠野物語32」では、旗屋の縫が追い詰めた鹿の片脚が折れた山を、それから片羽山と呼ぶようになったと記している。当初、山名に「はやま」が付く事から、片羽山は葉山信仰に関係するかと思っていたが、周辺の山々には鉱山が多く、また片羽山は片葉山、そして「かたわやま」とも呼ぶ事からも、「かたば」「かたわ」なのだろう。片葉山で鹿の片脚が折れた話も、「片葉の葦」→「片脚」を意図しているのかもしれない。
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倉掘家が愛宕山に住んていたという事は、その麓である卯子酉神社の場所は、雄大な猿ヶ石川の影響で、まだ人が住めなかったという事だろう。現在の卯子酉神社の脇には、小さな小川が流れている。それが水神の碑の建つ池跡の側を流れている事からも、この小川と池は繋がっており、猿ヶ石川に注いでいたか、猿ヶ石川そのものに含まれていたと思える。
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遠野の町に宮という家がある。土地で最も古い家だと伝えられている。この家の元祖は今の気仙口を越えて、鮭に乗って入って来たそうだが、その当時はまだ遠野郷は一円に広い湖水であったという。その鮭に乗って来た人は、今の物見山の岡続き、鶯崎という山端に住んでいたと聴いている。その頃はこの鶯崎に二戸愛宕山に一戸、その他若干の穴居の人がいだかりあったともいっている。

この宮氏の元祖という人はある日山に猟に行ったところが、鹿の毛皮を著ているのを見て、大鷲がその襟首をつかんで、攫って空高く飛び揚がり、るか南の国のとある川岸の大木の枝に羽を休めた。そのすきに短刀をもって鷲を刺し殺し、鷲もろ共に岩の上に落ちたが、そこは絶壁であってどうすることも出来ないので、下著の級布を脱いで細く引裂き、これに鷲の羽を綯い合せて一筋の綱を作り、それに伝わって水際まで下りて行った。ところが流れが激しくて何としても渡ることが出来ずにいると、折りよく一群の鮭が上って来たので、その鮭の背に乗って川を渡り、ようやく家に帰ることが出来たと伝えられる。

                       「遠野物語拾遺138」

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「遠野物語拾遺138」にも記されている様に、遠野は湖水であったとされている。ただ考古学者の調査によれば、尾瀬みたいな湿地帯であっただろうという事だった。実際、遠野盆地の石碑と、伝承を照らし合わせると、その裏付けが成される。恐らくだが、の湖水という表現は、卯子酉神社から見た、猿ヶ石川の情景では無かったか。それに加え、今は無くなってしまった松崎沼、別に蓴菜沼とも称すが、古くは船を浮かべて遊んでいた程広い湖水のようなものだったらししい。猿ヶ石川全体の中の、部分部分を切り取って見た場合、人によっては湖水と感じる人もいたのではなかろうか。


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現在、愛宕山前に流れる猿ヶ石川に沿って、舗装された遊歩道がある。これが天保年間に築かれた堤防に対し、更に土を盛って完成した堤防となる。つまり、この堤防が無かったら、卯子酉神社までは、まだ猿ヶ石川の影響を受けていた事になるだろう。
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大正時代の卯子酉神社前を流れる、猿ヶ石川の画像は、現在の猿ヶ石川と比較しても、川幅と水量は、比較にならない程雄大である。これが、卯子酉神社の池に猿ヶ石川が繋がっている時代は、それこそ湖水に思えたのではなかろうか。江戸時代の、愛宕橋が建つ以前は、船で対岸へと渡していた程、猿ヶ石川は広大で、悠々と流れていた。
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ところが現代になると、上の大正時代の猿ヶ石川と比較すると、だいたい同じ位置から撮影しても、ススキなどの雑草で、川が見えないくらいの規模に縮小している。本当は、川近くまで行って撮影したかったが、愛宕山の対岸は雑草が背丈を超え、また複雑に絡み合う雑草の為に、行くのを断念。
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昭和50年頃の愛宕の画像を見ても、大正時代とは、かなりの水量の違いがわかるであろう。恐らく戦後の復興で、山の木が伐採され、ブナやミズナラなど雑木から杉に移行しての変化が、この猿ヶ石川の規模の縮小になったのだろう。
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そして現在は、上の昭和50年頃の写真の、半分程度になっている。この写真も、同じ位置から撮影したかったが、愛宕山からの景色は、木々が生い茂り、視界を遮ってしまう為、同じ位置からの画像は撮影出来なかった。
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卯子酉神社境内に、愛宕神社が祀られている。祭神は、加具土命。倉掘家が当初、愛宕山に住んでいた為だろうか。愛宕山の愛宕神社の祭神は、伊邪那美と加具土命。火神である加具土命を産んだ為に、ホトを焼かれて伊邪那美は死んでしまう。その伊邪那美が死ぬ寸前に、嘔吐から誕生したのが金屋子神。尿から誕生したのが罔象女神。この罔象女神は、先に紹介した通り、やはり縁結びで知られた多賀神社の祭神でもあり、天保年間に築かれた堤防の際に、祀られた神である。金屋子神を紹介したのは、片葉の葦の伝説には、産鉄が関係する場合が多い為に、それに関連する鍛冶師に信仰される神としてのもの。愛宕神社は、火伏せの神として有名だが、本山でもある京都の愛宕山の縁起では、龍女を祀る。また愛宕の「宕」は「人を石詰にして殺す」意味が含まれる。つまり愛宕とは「愛する者を石に詰めて殺す」意か。実際、愛宕氏神社の祭神加具土命は、愛すべき母親を殺してしまった忌子でもある。しかし伊邪那美の嘔吐から生れた金屋子神は、何故か死体を好む。では、伊邪那美の尿から生れた罔象女神は、何を好むのか?いずれにせよ、死の匂いが漂う神々の集まりである。

by dostoev | 2019-10-06 07:32 | 冥界との縁結び

「冥界との縁結び(其の二)」

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神社の昔は、基本的に祟り神を祀る場所でもあった。御利益というものは無く、ただ神に対して祟らないでくださいという懇願の場所。この祟りとは、自然災害に関するものであり大雨、落雷、日照り、地震などの災害は、神の怒りと考えられた時代の事だった。しかし平安時代辺りから、もっと参拝客を増やし利益を得ようと、この神様には、この様な御利益があると宣伝し、人を集めるようになった。しかしそれ以外にも、神社に人を呼び、その地を多くの人で踏み締め固めるという意図も神社側にはあった。例えば、青森の神社の下には、蕨手刀が埋められていたのは、多くの人を神社に呼び込んで踏み固め、蝦夷の蜂起を抑える為の呪術でもあったようだ。これは相撲の四股と同じで、踏み固める事により、大地の邪悪な霊を鎮める効果。あるいは、眠っている大地を目覚めさせ、豊作を期待する効果。または、多くの魂と触れさせるなどがある。とにかく神社に人を呼び込むその背景には、いろいろな意図が含まれる場合がある。
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遠野の町の愛宕山の下に、卯子酉様の祠がある。その傍の小池には片葉の蘆を生ずる。昔はここが大きな淵であって、その淵の主に願を掛けると、不思議に男女の縁が結ばれた。また信心の者には、時々淵の主が姿を見せたともいっている。

                        「遠野物語拾遺35」

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卯子酉神社の御利益は、男女の縁が結ばれるというもの。それが信じられ、この現代でも続いている。ただ以前に書いたのだが、江戸時代以降の遠野の町人は、縁結びを多賀神社に求めた。多賀神社の祭神が、伊弉諾と伊弉弥という、わかりやすい夫婦神というのもあったのだろう。だが多賀神社の本山でもある滋賀県の多賀大社の記録には、遠野の多賀神社に分霊されたのは、伊弉諾と罔象女神となっている。

遠野の多賀神社の信仰は、古老に聞くところによると水の信仰から始まったようだ。多賀神社の境内には、今では涸れつつあり汚れてはいいるが、水が湛えられている場所が一か所ある。その涌き出た神水が、この多賀神社の根源ではないかという事だが、何故か現在の祭神は通常通りの伊弉諾、伊弉弥となっているのは、祭神が変更されたという事だろうか。とにかく、多賀神社と卯子酉神社の共通する縁結びの神とは、水神という事になってしまう。
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天保十四年、遠野の猿ヶ石川の氾濫の防御の為に、水神の碑が祀られ建てられた。またその時に松が沢山植えられた為に、愛宕神社の麓である猿ヶ石川沿いは松原と今でも呼ばれている。その松原の地である愛宕橋の入り口脇に、画像の水神の碑が建てられているのだが、何故に罔象女神を祀ったかというのも、元々この倉堀神社に罔象女神が祀られていたのに呼応した為であったようだ。また、多賀神社にも罔象女神が祀られていたのもあるのだろう。要は、この遠野の町に沿って流れる猿ヶ石川には、罔象女神が祀られたという事。この石碑には「罔象女神無量 祓水災四海波」と刻まれているが、要約すれば「罔象女神は、はかる事の出来ぬ大きな存在であり、水災を祓い天下泰平となるだろう。」という意になる。こまで罔象女神を称える意とは、なんであろうか。安倍氏の末裔の所持していた「遠藤文書」によれば、この罔象女神は「速秋津日売、此御神者水門也。亦罔象女の神とも奉申也。」と記されている。つまり、祓戸神という事。「大祓祝詞」の流れを猿ヶ石川に当て嵌めて見れば、早池峯の神が源流神であり、罔象女神が水門という事は、川と海の境界。卯子酉神社の地であり、愛宕山の麓には石碑群がある。つまり、それは遠野との境界に位置するのが、卯子酉神社である。
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また、卯子酉神社と愛宕山の上に聳えるのは、桧沢山である。この桧沢山は、遠野綾織三山の一つであり、死の境界を彷徨う魂を現世に戻してくれるという俗信が伝わる。つまり綾織に住む人にとっての、魂の行き着く場所であり、魂の復活場所として信じられてきた。思えば、今では観光スポットの一つとなる五百羅漢があるのも、そういう意味を含んでのものであるのだろう。ともかく、この桧沢山の麓をも含むそのものが、あの世との境界と信じられていたようだ。

by dostoev | 2019-10-03 07:58 | 冥界との縁結び