不思議空間「遠野」 -「遠野物語」をwebせよ!-:月の考
2023-01-11T18:29:53+09:00
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遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
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春日と月
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2023-01-11T18:29:53+09:00
2023-01-11T18:29:53+09:00
2012-08-28T22:59:50+09:00
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月の考
たまたま、春日明神と一緒に二十三夜と刻まれた石碑を見つけた。刻まれている二十三夜とは、二十三夜に昇る月の出を待って、それを楽しむ信仰的な民俗である。また春日とは春日大社を総本山とし、全国に1000社を超える春日神社がある、その春日となる。その春日大社の祭神は、和銅3年(710年)藤原不比等が藤原氏の氏神である鹿島神(武甕槌命)を春日の三笠山(御蓋山、御笠山)に遷して祀り、春日神と称したのに始まると云う。
文暦年間に成立した「古社記」には「春日山を以て三笠山と号す」という事から、三笠山は春日山と同じだという事なのだろう。
春日(ハルヒ)を春日(カスガ)の山の高座の三笠の山に朝去らず雲居たなびき
上の歌は、山部赤人が詠った歌である。春日山は三笠山であるとされながら、この歌では、同時に二つの山が登場している。ただし、良く読むと、高座があるのは三笠山であり、春日の山は三笠山の形容になっているようである。つまり山部赤人の歌は、春日の山は三笠山にかかる意味と捉えても良いのかもしれない。
「新撰姓氏録」には大春日朝臣が糟を積んで堵となさしめた事により、後に「糟垣(カスガキ)」をカスガに改めたとある。「糟」を調べると、「糟尾」「糟毛」など、どうも白いものが混じってはっきりしない様を意味しているようだ。更に調べると「大言海」には「春日の霞む」が言い慣れて「春日」を「カスガ」と訓むようになったとしている。となれば「糟」と「霞む」が結びつくようだ。
うぐいすの春になるらし春日山霞たなびく夜目に見れども
「万葉集1845」
ある説に「カサ+ウカ」が縮まってカスガとなったというものがある。「カサ」は「笠・傘・暈」であり、「ウカ」は「食物」の意味もあるが「三日(ミッカ)」など「日」を意味するが、それ以前は「月」を意味していた。「万葉集1845」の歌は、解説によれば「夜の霧を詠んだ歌」であるというが、「カサ+ウカ」が「暈+月」であるのならば、それは暈を被った月となる。
春日なる御笠の山に月も出でぬかも佐紀山に咲ける桜の花の見ゆべく
となれば、この「万葉集1887」の歌は春の霞を春日と御笠で強調している事になる。つまり春のおぼろの暈を被った月によって、夜桜を楽しみたいものだという意味になるのかもしれない。
つまりだ、このたまたま見つけた春日明神と二十三夜の石碑は、春日が月と同じ意味を持つ有力な手がかりの石碑であるのかもしれない。
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欠けた月
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2013-07-05T21:07:00+09:00
2013-07-17T10:58:26+09:00
2013-07-05T21:07:36+09:00
dostoev
月の考
現代では、月の満ち欠けが一般常識となっているが、古代人が欠けた月を見てどう思うだろうか?例えば丸い餠を食べた様な形だと感じるかもしれない。つまり、何かが噛んで欠けたのだと想像した可能性もあるだろう。月に対し丸い餠を供えるのも、満月と餅を重複させたからだ。それでは、その餅を食べたのは誰か?
古代ローマの博物学者ガイウス・プリニウス・セクンドゥスは「博物誌」を著している。そこに「兎、月を望んで孕み、口中より子を吐く、故にこれを兎という」と記されている。日本の俗信にも、月を見ると妊娠するというものがある。これは満ちた月が、兎の多産さと結び付いたものに加え月の月齢は月経と結び付いているので、欠けている月がだんだんと満ちてくる姿を妊娠した女性の姿と重ねたのだろう。
この月の満ち欠けは、不老不死とも結びついている。月が欠け、新月となるのは月の死を意味し、次第に復活して満月となるのは、死んでも再び蘇るのが月であるという事。まあこれは太陽も毎日死んでは翌日には復活するので、太陽にも不老不死の伝承は存在する。
「因幡の白兎」伝説がある。ワニを橋代わりにして海を渡っている最中に、騙されたと知ったワニが兎の毛を全て剥ぎ復讐するのだが、大穴牟遲神から蒲の穂で治して貰う。
蒲(ガマ)は蝦蟇(ガマ)と同音であり、その蝦蟇にもやはり、月との結び付きがある。中国の故事から、月の満ち欠けは、蝦蟇が月を食べるために起こるのだと云うが、その故事には不老不死の話が重なる。それは蝦蟇が西王母の不老不死の薬を持って月へ逃げた事からの物語であった。それから蝦蟇には不老不死が付き纏い、人の死にも関与する。当然の事ながら瀕死の兎が蒲によって助かったというのは偶然では無いだろう。不老不死の薬を持っている蝦蟇と蒲をかけての物語が「因幡の白兎」であったのだと思う。それ故「因幡の白兎」では月である兎を食べたのは蝦蟇では無く、ワニという事だろう。
南方熊楠は「宇治は兎路であろう。」と述べている。その宇治という名は宇治川が有名だが、何故か伊勢神宮の前に流れる川にかかる橋を宇治橋という。調べても、何故に宇治橋と呼ばれるのかは明確な答えが無いようだ。それでは琵琶湖を発祥とする宇治川と伊勢神宮の宇治橋は繋がるのだろうか?
先に記した様に月の精である兎の路が兎路であるのだが、その月の運行…つまり暦の話になるが、太陽暦が初めて導入されたのは持統天皇時代(690年~697年)になるが、庶民に広がったのはもっと後らしい。つまり持統天皇以前は太陰暦が主であった。伊勢神宮からまの太平洋からは太陽が昇るのだが、それと共に月も昇るのだ。太陽神である天照大神と意識している為、太平洋から昇る太陽に注意が向いてしまうのだが、本来は太平洋から昇った月が伊勢神宮から西へと向かう道、つまりそれを兎路と考えても良いのではなかろうか。
「八上の白兎」の伝説は兎が天照大神を導いて西へと向かい伊勢が平に差し掛かった時に、その兎は消え失せてしまう。それは太陽である天照大神が高みに差し掛かる為、その強い光で月である兎の光が打ち消されたものと考えた。その代りとして、その伊勢が平の西方に白濁した霊泉が沸いたというのも、月の兎が泉に変わって残ったものと捉えた。それは白銅鏡が月の依代である事を踏まえてのものだ。原初の鏡とは水鏡であり、水は姿見でもあった。それが白銅によって加工されたものが白銅鏡であり、月を象ったものでもある。つまり、泉も月も同じものなのである。
「八上の白兎」伝説も月と太陽の運行の物語であるなら「因幡の白兎」伝説もまた、月の運行を語っている伝説の可能性はあるだろう。その「因幡の白兎」を彷彿させる地域が、伊勢から琵琶湖にかけてではないかと考えてしまう。何故なら琵琶湖畔には渡来人であった和邇(ワニ)氏が多く住み付いだ地域だという。伊勢から始まる月の運行は兎路を通って西を目指す。宇治川を遡り、広い琵琶湖に到達すると、そこに待ち構えているのは和邇(ワニ)であった。そこを無事に通って西の彼方へと行くのが月の宿命でもある。恐らく琵琶湖畔で月である兎に噛み付いたのは和邇であろう。
カエルを狛犬とする神社がある。その名を姥宮神社といい、祭神は石凝姥命であるが、この神は鏡作神とも云われ当然、割れた鏡であろうと直す神である。つまり月である兎が鏡でもあるのならば、それを直したのが蒲であり蝦蟇を眷属とする鏡作神である石凝姥命のなら、なんとなく辻褄が合ってしまう。
その鏡で思い出すのだが、山形県の羽黒神社の前にある鏡池から発見された鏡の殆どは、平安時代頃に京都で製造されたものであるという。その鏡を運んだルートに琵琶湖が入るようだ。これは古代からこのルートを辿り蝦夷国へと進出していた道でもある。ただ何故に大量の鏡が羽黒に運ばれたのが謎であるようだが、邪馬台国の卑弥呼は鬼道に長けていたそうだが、その鬼道とは道教であったという。その道教においての鏡は重要な役目を果たす事から、卑弥呼は鏡マニアのように鏡を集めていた。つまり羽黒に大量の鏡が運ばれていたというのも、道教の影響があったのかもしれない。
ただ鏡を水に沈めるとなると、それは雄略天皇記で五十鈴川で死んだ栲幡千千媛萬媛命の傍に水に沈んだ鏡があり、虹が発生していたとある。いわゆる月虹の話が紹介されているが、それは暗に栲幡千千媛萬媛命が水神、もしくは龍である事の逸話でもある。恐らく鏡とは月でもあるが、龍神に捧げる為の神器でもあるのだろう。その月の依代である鏡の略奪が和邇氏によって行われた可能性を「因幡の白兎」として紹介された可能性はどうであろうか?まあ、かなり端折って書いた妄想、妄文、お許し下されm(_ _)m]]>
月の障り
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2013-06-20T05:50:00+09:00
2013-07-17T10:59:08+09:00
2013-06-20T05:49:45+09:00
dostoev
月の考
昨夜の月は、雲が多い為に、その合間合間に見る事が出来た。月を見るのに邪魔となるものを「月の障り」と言い「雲」や「山」の事を言ったようだが、現代では普通、女性の月経の事を言う。
中世には「明るをうたふ月のさはり」と問うなぞなぞがあり、それに対する答えが「脚高蜘蛛」であったようだ。「明る」は「朝(あした)」を意味し「うたふ」は「歌(か)」。朝の歌を「あしたか」と読み「脚高蜘蛛」の「脚高(あしたか)」にかけた。そして月の障りは「雲」であるから「蜘蛛」にかけられ「脚高蜘蛛」が答えとなった。
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三日月(眉月)
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2013-04-14T07:39:00+09:00
2013-07-17T10:59:55+09:00
2013-04-14T07:39:20+09:00
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月の考
振り放けて三日月見れば一目見し人の眉引き思ほゆるかも by大伴家持
昨夜(4月13日)の月は三日月で、別称として眉月とも言う。この大伴家持の歌から解釈すれば、恋しい人の眉を思い出すからだという。となれば、この時代は、細い眉が一般的であったのだろう。
ところで三日月に含まれる3という数字だが、日本だけでは無いが、この3という数字は聖数であり、その3を纏う三日月は神秘的なものにも感じられるのかもしれない。「竹取物語」にも、3という数字は多く出る。三寸程の愛らしい子が竹の中にいた。三ヶ月で成女となり裳着の式を行った。披露も三日に渡ったなど、3という数字を意識している。これはかぐや姫に対して神秘性を持たせる意図もあったのだと思う。
太陽の丸い形に相対するのは、月の三日月の形。この三日月が、ある意味月の代表的な姿となる。]]>
虹色の月
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2012-12-25T20:28:00+09:00
2013-07-17T11:37:15+09:00
2012-12-25T20:28:52+09:00
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月の考
夜空を見上げて、今までにいろいろな月を見てきたような気がする。その中で初めてだったのが、画像の暈を被った虹色に輝く三日月。大気の湿度が高いと朧月などや暈を被る場合が多い。そしてその大抵の俗信は、翌日雨が降る…のだが、これはかなりの確率であると思う。
ところで「月に恋」という本がある。内容は様々な綺麗な月の写真に、適切な和歌から古今東西の逸話や神話などを紹介する、とても素敵な本だ。そこで、この虹色の月を探してみると「月虹(げっこう)」というのがあった。「光が空気中の水滴に反射、屈折して生まれます。昼間の虹は太陽の光でできますが、月光でできることもあるのです。「月虹」「夜の虹」といいます。弱い月の光で生まれる虹なので、とても淡い虹です。英語でmoonbowとよびます。」と記されていた。
「月に恋」で紹介されていたように「月虹」が夜に出来るのはわかったが、やはり月の暈が虹色に輝くというのは、ここでは紹介されてはいなかった。
また違う機会に、まるで後光が差しているような月に遭遇した時がある。これもやはり、空気中の水蒸気に月光が乱反射してできたものだとは理解できるが、こういう月は滅多に見る事ができない。現代ではただ「綺麗だ…。」で済みそうだが、これが古代になると月食、日蝕で大騒ぎするくらいだから、こんな月夜には世の中が大騒動になるのだろう。何故かといえば、古代は月読みが普通であったからだ。太陽暦は持統天皇時代に開始されたので、それ以前は常に月を読んでいた。女性が月を直接見ると孕むなどの俗信は、月の兎が多産の象徴でもあった為だろうか?とにかく、様々な月の俗信は存在するが、こういう滅多に見れない月には、どんな俗信が付いたのだろうか?]]>
月の船(上弦の月)
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2012-06-27T20:14:00+09:00
2013-07-17T11:25:02+09:00
2012-06-27T20:14:24+09:00
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月の考
空を渡る月を、古代人は船に見立てていたようだ。月の様々な形の中、船に見立てられたのは上弦の月。画像の月は、空を渡り沈む間近になると、弓の弦の位置が丁度上になる。これが船にも見立てられた形となった。
天の海に 雲の波立ち 月の船 星の林に こぎかくる見ゆる (柿本朝臣人麻呂)
柿本人麻呂の月の歌は、夜空の天体を美しく表現しているが、この感覚は古代も現代でも、同じでは無いだろうか?ただ現代と違い、街灯やネオンの無い真っ暗闇の古代において、天体の美しさは今よりも際立っていたと思う。そしてそれよりも、空がまるで海の様に表現されているのは、古代が海と空を同一視していた証の歌になるのではなかろうか。
ところで新月から7日の日が七夕であるとも云う。その時に織姫が月の船に乗って彦星に逢いに行くというが、松本信広「日本の神話」によれば万葉人は月神の運行は船によるが、それは岩船として形容されているという。こうして考えてみると磐座信仰の一つに、質感から月も天空の磐座に見立てられたのではなかろうか?遠野の石上神社には天の岩船の伝承があり、その岩船に乗って来たのは遠野三山の三女神である。石上神社の鎮座する綾織には機織り伝承があり、石上神社の祭日が七月七日になっているのも、全て関係あるのではないかと考えている。どうしても遠野三山の神と七夕と白鳥其の一の伝承が気になってしまう。石上神社の祭日が七月七日で、伊邪那美を祀る遠野の多賀神社の祭日もまた七月七日であるのも、もしかして繋がりがあるのではなかろうか?これも、いずれは詳しく展開しようと思う。]]>
三日月
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2012-06-22T20:44:00+09:00
2013-07-17T11:22:58+09:00
2012-06-22T20:44:21+09:00
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月の考
宵のまに ほのかに人を 三日月の 飽かで入りにし 影ぞ恋しき by藤原為忠
短時間で宵のうちに沈んでしまう三日月に、ちらりと姿を見せただけで、すぐに帰ってしまう恋人の面影を重ね、物足りない逢瀬による恋心を詠んだ歌とされる。三日月の「三」に「見」がかけられているのだと。
実際、今日の遠野の夕暮れは雲が多く、なかなか三日月を発見できなかった。しかし、ほんの雲が流れた隙間に三日月を発見したが、一瞬で厚い雲の中に消えて行ってしまった。
最近は、月シリーズを暫くやっていたが、こうして月を調べると、古代の人々は日ごと変わる月の形に、いろいろな名称を付けて楽しんでいたのがよく理解できる。月に恋の歌を絡めて詠んでいるのが多いが、更に遡れば、月に神を見ていたのかもしれない。そろそろ神にでも、月の御神酒でも贈らねばなるまいて。。。]]>
日下は月坂
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2012-06-06T08:03:00+09:00
2013-07-17T11:13:42+09:00
2012-06-06T08:03:15+09:00
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月の考
この前の十三夜月(朧月)の夜に、愛宕神社の月見坂へ行った時に、ふと思った。愛宕神社は、火伏せの神だ。つまり日伏せの神でもある。一般的に祀られる神とは、火之迦具土神であり、伊邪那美を黄泉の国へと追いやった神である。つまり火(日)とは対極にある神だと考えても良いのかもしれない。
月を見、楽しむ場所はあるが、太陽を楽しむ場所とは無いもの。どちらかというと太陽は、見るというより全身で、その暖かさを体感するものであるから。ところで古来、暦は太陽暦の以前は太陰暦で、月の変化を日々の移り変わりの目安としてきた歴史があった。その点太陽は、毎日東から昇り、西に沈む繰り返しで、一日の終わりは理解できるが、日々の進み具合を"読む"には、適していない事に気付く。日本の神々にも月読神という神は存在するが、日読神は存在しない事から、古来は月によって1年の流れを読んでいた。
遠野の愛宕神社に通じる月見坂は、登って神社方面へと進む坂である。ここで「雄略記」に気になる記述がある。
日に背きて幸行でましし事、甚怖し。故、己れ直に参上りて仕え奉らむ。
これは雄略天皇が、日下にいた若日下部王を妻訪いした時の記述となる。日に背いて行ったのが日下である。単純に後ろめたい為に「日に背いた」のであるかもしれないが、日下が太陽を意味するのであるのなら、日に背いて太陽に向かうという意味には違和感を覚える。
谷川健一は「日下の草香」は「ヒノモトクサカ」と訓むべきで「クサカ」は太陽の昇る所であると述べている。しかし、それとは別に「クサカ」の「ク」は「カ・ウカ」の転訛であり月・月夜を意味し「サカ」は「下る」という語幹から利用されたものだという。つまり「日下(クサカ)」は「月坂」の意であり、それは下り坂であろう。となれば雄略天皇での記述は「日に背いて月に向かう。」と解釈すれば納得するのだ。
とにかく、現在の暦は「日読み」であるが、古来は「月読み」であったのだが、それはつまり一日とは月の運行によって過ぎて行くもの。日読みであれば、太陽が昇って沈み、再び昇るまでが一日と考える。しかしそれが月読みとなれば、月が昇って沈むまでとなるのだが、月は日中にも昇るものだが、どちらかというと夜に、その存在を際立たせている。「読み」とは「夜見」との説もあり、それは月と夜が一体化して考えられた「月読み」であったのだろうと想像できる。タキトゥス「ゲルマニア」によれば、ゲルマン民族は日没をもって1日の始まりとしていた。西洋においても、当初は太陰暦が採用されていた証だろう。となれば当然、日本においても1日の始まりは、日没から始まったのかもしれない。
熊本県に日下部吉見神社がある。そこは下り宮であり、神社へ進むには下って進む事になる。この下り宮は別に「忌み宮」ともされているのだが、ここで先程の「雄略記」の「日に背いて月に向かう」を思い出す。つまり太陽と月とは、正反対の存在であるという事。太陽が明るい陽の光の元にあるのに対し、月の光は真っ暗闇の中に差し込む、幽かな光であり、今にも夜の闇に飲み込まれそうな光である。月光は闇を照らすから眩い印象もあるが、本来は闇が主体の中の幽かな光が月光の筈である。つまり、闇の中に人々を導く灯台の役割みたいなものが月光であろう。
その日下部吉見神社が下り坂で忌み宮であるのに加え「日下」そのものが下りの月坂であるのならば、日下部吉見神社は太陽に背く神が祀られると考えてもいいのだろう。正しくは、太陽に相対する月の神だろう。下るとは、昇ると対義を成す。トイレや井戸、または山の洞窟など、地中に穴が開いている場所は、霊界の入り口。黄泉の入り口とされてきた。そこは太陽の光が届かない、闇の世界である。つまり黄泉の国と夜の世界は同義と考えても良いだろう。月読みは闇の世界に輝く仄かな月を読む行為であるなら、黄泉の国もまた闇の世界であり、そこに住む神とは、やはり一筋の仄かな明りを放つ月神なのだと思う。そう下るとは、太陽に背き月であり黄泉の国との繋がりを持つ神へと向かう意であるかもしれない。黄泉には死者が溢れるというが、人間界にとっての最大の穢れであり忌むモノは死であった。
奇しくも「日本書紀」では、月夜見尊が「汚らわしい」と怒り、保食神を剣で殺してしまったという神話がある。保食神の死体からは牛馬や蚕、稲などが生れ、これが穀物の起源となった。ここに月の満ち欠けと同じ、死と再生の思想が垣間見れる。つまり黄泉の国は死の国でありながら再生を意味している。月は、満月から再び欠けて行き、新月で消失したと思わせ、再び復活する。または画像の様に、夜の闇に拡がる黒雲に覆われて月は光を失ったとしても、黒雲が切れると、月はその光を再び放つ。まさに、死と再生が夜の闇には広がっているものだと感じる。
日下部吉見神社の神は水神であるという。しかし日下が月坂であるなら、単なる水神では無かろう。恐らく、飲めば若返るとされた変若水という月の不死信仰に関わった水神であったろう。その日下部吉見神社の水神は阿蘇神社に嫁いで、阿蘇津姫となったが、その本名は瀬織津比咩であり、早池峰大神でもある。その瀬織津比咩は「大祓祝詞」でもわかるように、根の國・底の国、つまり黄泉の国と関係の深い神でもあろう。
古代の人は、暗闇に穴が開いているものを星として認識していたようだ。天の八衢は天空に輝く昴であるという説がある。その天空に沢山の穴が付いている天の八衢に鎮座する存在は猿田彦であり、岐の神とも呼ばれる。しかし夜空に更なる大きな穴とは、満月である。俗説に、満月は霊界の入り口であるというが、まさに満月は、夜空にぽっかり空いた穴であり、古来の信仰から黄泉の国と繋がっているものと考えられたのかもしれない。そして、そこに鎮座するのは月の水神であり、死との繋がりも深い。それ故に"忌む"のであって、日下部吉見神社への下り宮を別名忌み宮とされるのは、太陽に背く黄泉との繋がり故では無かろうか。]]>
月の持統天皇(今日は、九日月)
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2012-05-30T22:35:00+09:00
2013-07-17T11:18:35+09:00
2012-05-30T22:34:54+09:00
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月の考
新月から始まり、今日で九日月となった。古代は太陰暦であり、こうして毎日、月を確認して時の移り変わりを感じていたのかもしれない。変わらぬ太陽より毎日、少しづつ変化していく月の形が、古代の人達にとって現実的であったのだろう。
北山にたなびく雲の青雲の 星離れ行き月を離れて(持統天皇)
この持統天皇の歌は、天武天皇を雲に例えて、月を持統天皇、皇子らを星に例え、離れていく様を詠んだ歌と考えられている。ここで疑問が起るが、本来男神であった天照大神を持統天皇擁立の為に女神としたという説があるが、持統天皇は自らを月に例えて歌っている。それでは、太陽かと思われる天武天皇を、雲に例えているのだ。とにかく持統天皇には太陽神の自覚が無いのか、その意思が無いのか、自分は太陽の対となる月であると、心情を歌に込めているのだ。
月は東から昇り、西へと沈んでいく。太陽神である天照大神の荒御霊は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命と云われる。以前、書き記したように「天疎(あまさかる)」とは「月が西に去って行く事」である。また「倭姫命世記」では、荒祭一座を「一名瀬織津比咩是也。」 とある。しかし最近、多賀を調べているが、伊勢神宮にも多賀宮があり、そこには月神が祀られているという。
また「倭姫命世記」垂仁26年の条に「伊弉諾尊捧げ持ちし所の白銅鏡二面是れ也。是れ則ち日神月神所化の鏡也。水火二神の霊物たり。」これを読むと、元々は伊弉諾と伊弉弥が日神と月神を司っていたのが、伊邪那美が闇である黄泉の国へと堕ちた為、代わりの日神と月神を新たに化成させようとしたのではなかろうか?
ところで…内宮所伝本「倭姫命世記」の「天照皇太神和魂」の項には「亦右目を洗ひて、月天子を生みます。亦天下生ますみ名は、天照皇太神の和魂也。祓戸神、伊吹戸主神は、是天照皇太神の第一の攝神荒祭宮の多賀宮是也。」つまり、天照大神の和魂も荒魂も月神であったという事になる。ならば天照大神として擁立された持統天皇もまた、月の神であったというのが正しいのだろうか…。]]>
月が昇って、日が暮れる。。。
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2010-11-21T22:40:00+09:00
2013-07-17T12:50:40+09:00
2010-11-21T22:40:25+09:00
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月の考
まだ3時台だというのに、この時期は日が暮れるのが早い。夏の3時台なら、まだ太陽の明るさで月はよく見えない筈なのに、11月の20日過ぎともなると、辺りは暗くなり、月はその顔をハッキリと見せてくれる。反対側では夕焼けに染まった西の空だが、東である太平洋側は、まだ青みがかった空を、今まさに沈もうとする太陽が、ほんのりと茜色に染まった中、月が昇ってくる。
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太陽と月と蛇と鏡と水神
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2009-07-12T09:15:00+09:00
2014-06-12T08:39:28+09:00
2009-07-12T09:14:57+09:00
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月の考
太陽神が祀られていると云われる、五葉山の頂には”日の出岩”というものが屹立している。祠が置かれている場所から、その日の出岩を見ると、まるで天に向かって突きつけている剣のようでもある。
古来から、剣は神の依代でもある為、この岩に神が降り立ったという認識の下に祀られたのだろう。また巨石には、何故か太陽神が降臨している事例がある事から、この日の出岩には太陽神が降臨したものとして、伝わっているのだろう。
五葉山頂には日枝神社が鎮座しているが、その本社は日吉大社となる。日吉大社の根源は円錐形をした八王子山であり、比叡山の神である大山咋神の神が降りたった山だとされる。また別に日吉大社の御祭神には、天智天皇七年(668年)大津京遷都にあたって、三輪山より御神霊を大津京を始め国家鎮護の神として、大己貴神が祀られている。
本来は、大物主が祀られている三輪山に、後に中津宮に祀られた大己貴神が八王子山に分霊されたといういのは本来、三輪山に似通った蛇を意識した円錐形の八王子山に祀られていた神とは、大物主では無かったのか?
ところで五葉山から太陽が昇ると共に、海は照らされていった。ここで思い出したのが、国造りの途中少彦名神に去られて落胆していた大己貴神のところに海を光照らして依り来る神が、大物主神であった。五葉山から海を見た光景は、まさに太陽によって天が照り、また海を照らすという「天照国照」の情景。
考えてみると、三輪山には大物主が祀られているのだが、本来は太陽神とも呼ばれたニギハヤヒがその正体であるという。辺津宮には少彦名神が祀られ、中津宮には大己貴神が祀られ、一番の高みである奥津宮には大物主神が祀られている。合成された名前だと云われるが正式なニギハヤヒの名前は、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊となる。大物主がニギハヤヒなら、まさに海上から天を照らして、国土や海を照らしながら近付いて来た崇高な太陽神のイメージ通りの名前だ。しかし、その大物主は蛇でもあるという。それは太陽の変化を見れば、明らかなのだと想像する。
朝日でも、夕日でも地平線に接する太陽は、大気の埃などを纏い赤く輝く。その赤い太陽は、まさに「赤かがち」のようだ。ヤマタノオロチの目の表現も「赤かがち」のようであり、東から昇る太陽と西へと沈む太陽、まさに毎日生れては死ぬという生死の様を、やはり脱皮による新たな生命を生み出す蛇と重なったのではないかと考える。
赤色を帯びた太陽は、天空へ登るにしたがい白く発光する。まさに”赤かがち”である蛇から”崇高なる太陽神”への移行だ。
ところで太陽の依代でもある、鏡というものがある。太陽光を反射する鏡はまさに太陽の依代であり、太陽神を奉納するに相応しいものであると思う。しかし鏡そのものの語源もまた「カガミ」である事から、蛇の古語である「カカ・カガ」が付随する。「カガの目」とは「蛇の目」であり、それが「鏡」となっている。しかし古来、金属器が導入する以前の鏡とは「水」であった。水鏡には、自分の姿や顔が映し出されるが、それとは別に太陽や月を映し出すものでもあった。
つまり古来、太陽と月を映し出すものは、水であったのだと思う。水は太陽と月を映し出す鏡であった。神社などには太陽神や月神などの依代と鏡が祀られているが、平安時代から中世にかけての建築様式には…例えば金閣の鏡湖池などは、月を映し出しその月を眺める為に設計されたものだった。原初的に、水には太陽や月が宿るものとして認識されていたのだと思う。
手にむすぶ水に宿れる月影のあるかなきかの世にこそありけれ(紀貫之)
この紀貫之の歌を訳すると「手にすくった水に映っている月影のように,あるのかないのか定めのつかないわが世であることだなあ。」となる。水に映る月であれ、太陽であれ、それは実態のない影のようなものであるが、天空に浮かぶ聖なる太陽と月を取り込み、身近に置く方法は水であり、水こそが太陽と月の力を、人々の大地に繋げる媒体であったのだろう。
生命の根源である水を重要視した歴史が、人間にはある。太陽や月は手に取る事ができない遠いものであるが、水とは手に取れるもの、リアルに触れて実感できるものである。ヘレンケラーは、水に触れて生命という電流が流れた。初めて発した言葉が「ウォーター」であったのは、水が人間にとっての身近な神秘体験であったのだろう。
様々な神々がいる中、その水に鎮座する水神こそ、人々にとって身近なものであり、天空に浮かぶ太陽や月を手元に置き、身近に感じさせるものであったのだろう。だから水神には、太陽と月の影が纏いついている。その太陽と月を結ぶ存在が水であり、また不老不死に結びつく変若水信仰もまた、月と水がその主役となっている。そう、全ては水によって繋がっているのだと考える。]]>
月が湖水を渡る夜
http://dostoev.exblog.jp/8157088/
2008-05-22T01:19:00+09:00
2013-07-17T11:05:20+09:00
2008-05-22T01:19:17+09:00
dostoev
月の考
ここは、旧仙人峠の手前にある、砂防ダムによって水に周囲の木々が埋没
している地だ。冬季間は、水が干上がり旱魃状態になるが、この時期はさす
がに、ゆったりと水が蓄えられている。夜に訪れると、静かな湖水に月が浮か
びあがる様は、かなり綺麗に見える。しかし光量が足りない為、綺麗に撮影す
る事は、かなり難しい。。。
プーシキンの詩に「静かに月が夜を渡る…。」とあるが、確かに画像を見る限り、
静かな夜の湖水に月が浮かぶというイメージだが、現実とはかなり違う。。。
以前、昆虫採集の為に、この地で一晩過ごした事があるが、夜であるにもかか
わらず、この水面ではかなりの鳥達が飛び交っている。また動物達の水飲み場
でもあるらしく、藪を掻き分けこの水飲み場に来る動物の音が、シーンと静まり返
っている山の為か、かなり煩く聞こえる。そして、この日の晩も、かなり鹿は鳴いて
いた。
奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき
百人一首で有名な歌だが、確かに鹿の鳴き声は物悲しく聞こえるのだが、実際
静寂の山奥に一人寂しく不安になっている最中の鹿の鳴き声は不気味にも聞こ
える。替え歌にするならば。。。
新緑の 山の湖水で 鳴く鹿の 声響く時 月は陰たり
まさに夜に響く鹿の鳴き声は、闇を呼ぶように聞こえるのは、どこか不安感が
自分の中にあるせいだ。。。。
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月
http://dostoev.exblog.jp/4815113/
2007-03-11T08:09:00+09:00
2013-07-17T11:03:41+09:00
2007-03-11T08:09:36+09:00
dostoev
月の考
現代と違って、平安の世は月の運行を中心、つまり体のリズムを中心とする
太陰暦が導入されていた。
満月・望月でまず思い出すのが、藤原道長の歌…。
この世をばわが世とぞ思う望月の
欠けたることもなしと思えば
3人の娘が全て中宮となった祝いの宴席で詠んだ歌なのだそうだが、確かに
傲慢な歌だと思う。これを変換してみると…。
この世をばわが世と思う望月の
食べたることもなしと思えば
欠けるを食べるに置き換えると、自称金持ちグルメの歌にも聞こえる。だから
自称グルメもまた傲慢なのだと思う。一般庶民は、美味いと称される全てのも
のを食べるってのは、一生かかっても無理だと思うからなぁ…。
満月から少し欠けると十六夜になる。「源氏物語」で光源氏を揶揄した歌があった…。
もろともに大内山は出でつれど
入る方見せぬ十六夜の月
内裏(大内山)から妻の下には真っ直ぐ帰らないで、他の女性のもとを訪ねる
光源氏の気持ちは、わからないでも無いなぁ(^^;
あし忍び大江山を抜け出せば
いつかは帰る十六夜の月
鬼の棲むという大江山を抜け出すが、例え満月(気持ち)から少し欠けた十六夜
の月であろうと、いつかは帰るのかもしれない…と、古女房を気遣った?歌にして
みたり…(^^;
朧月夜となれば、やはり「源氏物語」の朧月夜の君の歌。
照りもせず曇りもはてぬ春の夜の
朧月夜にしくものぞなき
ほんのりと霞む春の朧月を絶賛した歌だけど、ある意味光源氏を須磨に流した要因
の人物なので、ハッキリしない朧月は、掴みどころの無い攻略しずらい称号となるの
か?ならば…。
泣きもせず笑いもせずに春の夜の
朧月夜は幽かにうかぶ
客と話していても、たまに反応の無い人がいる。それが女性で、ましてや美人ならば
尚更話してみたいものの、どこか掴 みどころが無い。美人という神々しさは持ちつつ
も、どこかそこはかとない雰囲気に、一生懸命話そうとする自分はただただ、言葉の
空回り。朧月は、ただ眺めているだけでいいのかも…(^^;]]>
「竹取物語」数字の3と月
http://dostoev.exblog.jp/4815087/
2007-03-11T08:02:00+09:00
2021-05-20T08:54:10+09:00
2007-03-11T08:02:51+09:00
dostoev
月の考
フト思い出したのが、昔読んだ漫画。その漫画では、かぐや姫は、狼だという突拍子も無い設定の話。「竹取物語」は映画化にもなって宇宙人にもなった事のある、平安の世としては、とてつもない壮大なストーリーだ。
とにかく、かぐや姫というのは、漫画やドラマやいろいろなものに取り上げられる、日本に幅広く根付いたキャラ。壮大なストーリーと幻想的なストーリーも相まって、とにかく知らない人はいないだろうと思われる話。原作者は不明だけれど、最後のあまりにも有名なセリフ。
「いざ、かぐや姫。穢き所にいかでか久しくおはせん。」
平安の世は汚いと、あざけるセリフは、藤原氏に貶められて没落した紀貫之が作者なのでは?というのが、現在最も有力な説のようだ。
「この世をばわが世と思う望月の
かけたることもなしと思えば」
なんたって、藤原道長の歌は傲慢さの現れで、藤原憎しの気運は、高まっていたからなぁ…。
ところで、かぐや姫=狼説の漫画は、3ヶ月で大人に成長するというのは、狼と同じ。人間としては普通だが、かぐや姫を動物に例えるならば、何もおかしくは無いとの見解からの漫画だったと思う。
そしてラストは、満月の光に晒されて狼女?に変身したかぐや姫は、お爺さんとお婆さん達を殺して山へと去っていった…という内容だったと思う。まあ、満月が共通点で、巧く狼男とかぐや姫を合体させた漫画だった。題名、忘れたけど(^^;
ところで「竹取物語」でも登場するのは、3という聖数。3寸の赤ん坊が3ヶ月で成長し大人の女性になり、そのお披露目が3日間開催され…と3がキーポイントとなる。
なんとか三郎というのは、元々魔の者であり、3という数字が使われる名というのは、普通とは違う存在。「風の又三郎」「ヤサブウロバサ(弥三郎婆さん)」「切られ与三郎」「甲賀三郎」「萬三郎」。古畑任三郎も3に纏わる、その超常的な意味合いも含めての名付けだと聞いた事がある。
そして平安時代は太陰暦を採用していたので、月の神秘性と3という数字の合体に、かぐや姫の神秘が生まれたのだろうなぁと思う。
まあそれと…月夜というのは、男女の逢引というか…逢瀬に行われてきたので、出会いと別れが付き纏うものなのだよなぁ。
とくに三日月なんて、あっという間に沈んでしまうので、その貴重さ?も含めて、恋人の面影を三日月に重ねて歌われた。
「宵のまにほのかに人を三日月の
飽かで入りにし影ぞ恋しき」
とにかく、月と3という数字の合体は、いろいろなものを呼び込むので、昔から尊重されてきたみたいだ。だから「竹取物語」の話は美しくて、神秘的なのだろう。
では、一首…(^^;
「月わかれ心のこりておほかみの
うらはらなるや送りそうらふ」]]>
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