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    <title>不思議空間「遠野」　－「遠野物語」をｗｅｂせよ！－:「トイウモノ」考</title>
    <category domain="http://dostoev.exblog.jp/i263/">「トイウモノ」考</category>
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    <description>遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求</description>
    <dc:language>ja</dc:language>
    <dc:creator>dostoev</dc:creator>
    <dc:rights>2025</dc:rights>
    <pubDate>Fri, 05 Dec 2025 16:46:16 +0900</pubDate>
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      <title>不思議空間「遠野」　－「遠野物語」をｗｅｂせよ！－</title>
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      <description>遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求</description>
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      <title>遠野の要石トイウモノ</title>
      <link>http://dostoev.exblog.jp/38277236/</link>
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      <description><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202511/26/75/f0075075_17580182.jpg" alt="_f0075075_17580182.jpg" class="IMAGE_MID" height="625" width="500" /></center>上の図を見てわかる通り遠野には、全部で13か所の要石伝承が伝わる。これは、伊能嘉矩「猿ヶ石川流域に於ける不地震地帯」で紹介されているものからの引用。ところで全国的に見た場合、要石の伝承が伝わっているのは、かなり限られている。ネットで検索しても、出てくるのは有名な鹿島神宮と香取神宮。そして、鹿島神宮から要石を分霊された宮城県の鹿島神社。他には、静岡県の要石神社くらいだった。野本寛一「地霊の復権」にも要石が紹介されており、そこには三重県の伊賀に鎮座する延喜式式内社大村神社の要石が紹介されており、それ以外はネットで検索したものと同じだった。つまり、全国で要石があるとわかっているのが五件しかないという事からも、要石は希少だと理解できる。<br />
<br />
これらとはまた別に、伊能嘉矩は「猿ヶ石川流域に於ける不地震地帯」において、「古事記」を引用し「多芸志之小浜」の地も要石のある不地震地帯ではないかと述べている。この多芸志之小浜とは、出雲大社の鎮座する地である。<br />
<br />
<br />
「大倭日高見の國を安國と定め奉りて下つ磐根に宮柱太敷き立て　高天原に千木高知りて　皇御孫命の瑞の御殿仕へ奉りて　天の御蔭日の御蔭と隠り坐して　安國と平けく知ろし食さむ國中に成り出でむ」<br />
<br />
<br />
早池峯の神名が登場する「大祓祝詞」に、上記の一文がある。簡単に訳せば、安定した地盤に神社を立て神を祀り、この国を治めるという事。出雲大社もそうであるように、神社が建立される地には、古代から安定した地盤が求められている。遠野の13か所の不地震地帯でも、殆どが神や仏を祀る地となっている。<br />
<br />
<br />
もう一度、上の図に戻るが、何故に早池峯神社を中心に放射状に広がっているような図にしたのかというと、基本的に要石は神社の敷地内に置かれているものであると理解できるからだ。その遠野の13か所もの要石の中で、一番古くに要石伝承があっただろうと想定できるのは、やはり遠野で一番古い早池峯神社であろう。それ故、早池峯神社を中心とし遠野郷全体に、地震の来ぬ地が制定された可能性はあると思う。何故なら、遠野七観音の制定も似たようなものであろう。十一面観音の中心が早池峯神社であり、それを遠野郷にさらに分布させたが最後は、早池峯へと帰結する流れ。言葉を換えれば北極星である早池峯の周りを回る北斗七星のようなものが、遠野七観音か。また、岩手県内にいくつもある三女神伝説もまた早池峯へと帰結する事からも、北極星の様に常に中心となるのは早池峯である。そう、常に早池峯が信仰の中心となっていると思ってよいだろう。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202512/01/75/f0075075_10122973.jpg" alt="_f0075075_10122973.jpg" class="IMAGE_MID" height="360" width="480" /></center>それでは何故、早池峯神社に要石伝承があるのか。恐らくだが、玄武が関係しているのではなかろうか。「日本書紀(推古天皇七年夏)」に、こう記されている。「地震りて舎屋悉く破たれぬ。則ち四方に令して、地震の神を祭らしむ。」と。この地震の神が定かではないが、推古時代において、気になるものがある。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202512/05/75/f0075075_09553066.jpg" alt="_f0075075_09553066.jpg" class="IMAGE_MID" height="375" width="500" /></center>その気になるものとは、推古天皇時代に造られたとされる上の画像の亀石。私は、これが要石ではなかったかと考えている。亀石とされるが、要は玄武をイメージしたものではなかろうか。玄武は、守護や不滅、永続などの象徴である事からも、地震の来ぬ安定の地のシンボルとして好ましい。ましてや、北に聳える早池峯の神は、妙見神とも重なる水神である。それ故に、不地震伝承が付随するのは、当然の事だと思える。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202512/05/75/f0075075_10452832.jpg" alt="_f0075075_10452832.jpg" class="IMAGE_MID" height="375" width="500" /></center>また、早池峯妙泉寺の末寺であった土淵の常堅寺には亀甲の石垣が採用されているのも、北の玄武を意識した早池峯の影響を受けてのもののよう。つまり、玄武の堅朗を願ってのものだったろう思う。また玄武は、北方七宿を束ねる神格である事から、遠野七観音は北斗七星ではなく、北方七宿(斗・牛・女・虚・危・室・壁)を意図して建立された可能性もあるのではないか。<br />
<br />
<br />
<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202512/01/75/f0075075_10123697.jpg" alt="_f0075075_10123697.jpg" class="IMAGE_MID" height="360" width="480" /></center>とにかく遠野が全国と違って異様なのは、神社境内内部では無く、遠野郷全体に要石伝承が点在しているという事。ただそれを納得する、一つの理屈が存在する。それは、遠野郷全体を宮とする考えだ。先に紹介した早池峯の女神の名前が登場する、天智天皇時代に作られた「大祓祝詞」の一節。<br />
<br />
<br />
「大倭日高見の國を安國と定め奉りて下つ磐根に宮柱太敷き立て　高天原に千木高知りて　皇御孫命の瑞の御殿仕へ奉りて　天の御蔭日の御蔭と隠り坐して　安國と平けく知ろし食さむ國中に成り出でむ」<br />
<br />
<br />
この冒頭の「大倭日高見の國を安國と定め」とあるのは、大和国が蝦夷国の別称である日高見国の平定を述べている。養老二年(718年)に室根山周辺の地域を平定するために、紀州熊野から熊野大神である早池峯の女神が運び込まれた。早池峯の女神は、伊勢神宮の荒祭宮に祀られる天照大神荒魂でもある。<br />
<br />
<br />
「日本書紀(神功皇后記)」で三韓征伐に出航する前「和魂は王身に服ひて壽命を守らむ。荒魂は先鋒として師船を導かむ」とある。「住吉大社神代記」でもほぼ同じ事が記されているが、その注釈に「荒魂は現魂の意があり、外に進み現れ出て神威を顕現する魂なり。」と説明されている。確かに、椿大神社に合祀されている石神社に伝わる「石神社略縁起并古書」では、倭姫命が、この霊巖は太神宮荒魂を奉斎し"石太神"と唱え、暫くした後に天照大神も影向したとあるから、どうやら天照大神荒魂は、先導神のようでもある。先んじて、戦も含めその場の穢祓をする存在であると考えて良いだろう。実際にその後の文に「荒魂を撝ぎたまひて、軍の先鋒とし」とある事から、まさに戦の先人に立ち、神威を持って敵を威圧する為の荒魂であろう。<br />
<br />
<br />
崇神天皇時代、疫病が流行ったのは神の祟りと考えられ、祀っていた天照大神の神霊を込めたとされる御神体の八咫鏡を豊鍬入姫命に託したが、その後倭姫命へと託され各地を彷徨い、伊勢へと至った。ただ、近江雅和「記紀解体」によれば、崇神天皇から離れ遷座の地を求め彷徨ったとされる旅の面々を見る限り、それは武力平定の移動であったろうと述べている。それは天照大神荒魂の性質から、彷徨ったのは天照大神の和魂ではなく、荒魂と考えた方が良いだろう。恐らく各地の武力平定の旅であったろうと想定できる。そしてそれは、蝦夷国である日高見国でも同じ事が行われたのだろう。明確な記録として残っているのは、室根山だけであるが、遠野の早池峯に祀られのも、そういう流れがあったものと想像できる。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202512/05/75/f0075075_15590696.jpg" alt="_f0075075_15590696.jpg" class="IMAGE_MID" height="338" width="480" /></center>話を戻すが、早池峯を中心として遠野郷全体を早池峯の境内と考えた場合、当然の事ながら要石が分布しているのはありと思う。それは、遠野七観音も同じ。例えば、遠野福泉寺の敷地内に、新西国三十三番観音霊場巡りや、新四国八十八ヶ所の写し霊場が配置されており、それ疑似的に巡るものと同じと考えて良いだろう。先の倭姫命が八咫鏡を以て各地を彷徨った果てにたどり着いたのが、元伊勢とも云われる滝原宮であった。この滝原宮は伊勢の別宮であり、「伊勢神宮のはるか遠い地の宮」という意味から「遥宮(とおのみや)」と呼ばれる。そうつまり、遠野郷全体が、伊勢神宮の別宮「とおの宮」としてあるならば、遠野郷全体に要石が分布されていても、何ら不思議はない。<br />
<br />
<br />
「古事記」において、倭建命が詠んだ歌がある。<br />
<br />
<br />
倭は国のまほろば　たたなづく青垣山籠れる　倭しうるはし<br />
<br />
<br />
「青垣山籠れる」とは盆地であり、遠野盆地のような地形を意味する。ところで、この倭建命と倭姫命は、甥と叔母の関係である。同じ一族として同じ想い、同じイメージを共有していた可能性は否定出来ないだろう。その倭姫命の血脈がどこまで続いたのかはわからない。遠野盆地の北に聳える早池峯に天照大神荒魂を祀る事にした経緯は、未だ謎。ただ、この倭姫命や倭建命の意識が脈々と受け継がれていた場合、遠野盆地の北の早池峯に天照大神荒魂を祀り、遠野盆地全体を素晴らしい伊勢の別宮「とおの宮」として考えられた可能性もまた否定できないだろう。倭建命の歌を少々変えれば、こうなるだろう。<br />
<br />
<br />
遠野は国のまほろば　たたなづく青垣山籠れる　遠野しうるはし<br />
]]></description>
      <dc:subject>「トイウモノ」考</dc:subject>
      <dc:creator>dostoev</dc:creator>
      <pubDate>Fri, 05 Dec 2025 16:46:16 +0900</pubDate>
      <dc:date>2025-12-05T16:46:16+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>緊縛トイウモノ</title>
      <link>http://dostoev.exblog.jp/37972606/</link>
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      <description><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202505/05/75/f0075075_17080279.jpg" alt="_f0075075_17080279.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center><br />
小島俊一「宮古・閉伊秘話」の中に「中里の新蔵塔　縄しばり観音さま」という話が紹介されている。ここでの中里とは、岩手県岩泉町の中里である。話は、文化十一年(１８１４年)あまりの南部藩の悪政に訴え出た中里の者たちの代表三人が罰を食らい亡くなった。その魂を供養するために騒動二十八年後の天保十三年(１８４２年)八月二日、中里村正徳寺に観音菩薩坐石像(高さ６０センチ、台座４０センチ)を造立した。その供養観音が「縄しばり観音」 と呼ばれるようになったのは、いつしか誰かが縄で縛ったからとされる。何故に縄で縛ったのかの理由は、どうやら下記の通りらしい。<br />
<br />
<br />
「願掛けが叶うように観音を縄でぎりぎり縛り、願いが叶うと解き、縛る事で祈願が切実な事を観音様に身をもって体験してもらう呪術」<br />
<br />
<br />
ところで、この縄しばり観音は昭和３６年の三陸フェーン災害によって崩壊したようだ。しかし平成２２年(２０１０年)に、多くの人たちの寄付などによって再興したそうである。現在の縄しばり観音石像は、岩泉町のブログ「いわいずみブログ」で見る事ができる。<br />
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庶民の間での観音の認識は「仏を呼ぶ音を観て救いに来るのが観音様」だともいわれる。つまり、神や仏との仲介役のような存在。実際には、観音を言い表すには複雑怪奇で単純ではないのだが、庶民の間に普及するには単純な認識によるものが多かったようだ。それは、観音や如来を女性と認識していたよう。昔の時代劇に、遊郭などの女性の女陰を前にして、手を合わせ「ありがたや、ありがたや。」と祈るシーンが表現されていたのも、観音や如来を女性と重ねているふしがあった。実際に、浄土真宗の親鸞は夢に現れた観音と交わった逸話がある事からも、かなり古い時代から女性と観音は結び付けられていたようである。<br />
<br />
<br />
もしかしてだが、この岩泉町中里の縄しばり観音は、東京都文京区茗荷谷の林泉寺に古くから伝わる「しばられ地蔵」が伝播されて誕生したものだろうか。宮田登「近世の流行神」に、この林泉寺のしばられ地蔵が紹介されている。文化９年(1812年)から文政１２年(1829年)に成立した見聞記「遊歴雑記」には、こう記されている。<br />
<br />
<br />
「志願ある者は荒縄を以て彼尊像を幾重にも縛り、願かなふて後己が縛りし縄を解きて奉るとなん」<br />
<br />
<br />
宮田登の解説には「縛る事が己が祈願の切実さを、地蔵に身にもって体験してもらいたいことを示す呪術なのであって、こうした直接的な行為を自由に実行できる気安さを持つことが地蔵をして大いに流行させた原因となっている。」と述べている。<br />
<br />
<br />
この林泉寺の縛り地蔵の姿は、下記の林泉寺HP「林泉寺」で確認できる。<br />
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観音が女性と結び付くイメージだとして、それを縛るで思い出すのが"緊縛"。緊縛とは、エロスを感じるSM世界の文化でもある。ウィキペディアで緊縛を読んでみると、江戸時代に遡るなど様々な俗説があるが、実際のところ１９５０年以降に形成されたものらしい。ただ、その緊縛を形成した人物の意識の根底に観音などを縛って願いをかなえる文化があった事を知っていた可能性はあるだろう。それはエロス的表現として、観音像をリアルな女性に変えただけなのかもしれない。<br />
]]></description>
      <dc:subject>「トイウモノ」考</dc:subject>
      <dc:creator>dostoev</dc:creator>
      <pubDate>Tue, 03 Jun 2025 13:04:50 +0900</pubDate>
      <dc:date>2025-06-03T13:04:50+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>ケッコロガシ沢トイウモノ</title>
      <link>http://dostoev.exblog.jp/32928240/</link>
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      <description><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202301/18/75/f0075075_20003024.jpg" alt="_f0075075_20003024.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center>数日前に「石高渡殺傷場の慰霊碑」を紹介したばかりだが、実はその慰霊碑がある場所は昭和28年に着工され、昭和32年に完成した遠野ダム(俗称来内ダム)のある地である。ただ「石高渡」という地名の読みが伝わっておらず、古老などに聞いても不明となっている。<br />
以前、「ヤカン転がし」の記事から、このケッコロガシ沢を調べている時に、来内の古老からダムを渡った突き当りの山のどこかに慰霊碑があると言われ探したが、その時は見つける事が出来なかった。ケッコロガシ沢という名称は、海南書房/菊池幹編「遠野路」という、昭和50年に発行された遠野の観光ガイドブックの「刑場跡の話」で紹介されていてわかった事だった。その処刑方法は、罪人を崖の上に立たせ後ろから刀で斬り"蹴り転がし"たという。蹴り落した崖下から這い上がり命が助かれば許して蕨峠より伊達藩に追放したとされる。その遠野の処刑方法が、「ヤカン転がし」という名で九州にも伝わっていたのには驚いた。<br />
ところで、上に記した処刑方法に付け加えれば、その当時の来内村の伊豆神社の宮司と村長主導によって夜間に行われた神事に近いものであったよう。つまり単なる処刑ではなく、神が関わった所業であったようである。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202301/21/75/f0075075_10093553.jpg" alt="_f0075075_10093553.jpg" class="IMAGE_MID" height="319" width="480" /></center>日本思想体系「寺社縁起」の「北野天神縁起」に、「延長八年六月廿六日…是茂朝臣は、弓をとりむかへばたちどころに"けころされ"」と記されている。「北野天神縁起」であるから、登場するのは怨霊となった菅原道真公。また、和山方面にかつて南部小雀と呼ばれた大泥棒が、トラブルから晩年殺された崖を"清ころばし"と呼んでいる。「けころす」「ころばす」と、どちらも「殺(ころ)す」言葉となっているが、必ずしも蹴殺しているわけではないようだ。<br />
ところが、田中貴子「あやかし考(不思議の中世へ)」の中に「けころす考(神による殺人方法の一考察)」というものがあった。さこには先の「北野天神縁起」も含めて、「日本書紀」「今昔物語」etcの参考文献をあげて考察している。要約すれば、「けころす」とは「神の祟り」に等しいものであるよう。田中貴子は「けころす」を要約すると「神などの超自然的存在が祟りをなしたり、悪事を働いた人間を懲罰するときに行う行為を表すものだった。」と。さらに「雷神にけころされた物や人は強い力で裂かれたような傷跡を残していた。落雷によるこのような被害は、雷神が文字通り足で蹴り殺したためであると考えられた結果、"けころす"という言葉が用いられるようになったと思われる。」と述べている。更にその「けころす神」とはどうも、雷神や龍神に深く関わって流布してきたものとしている。<br />
ここで思い出すのは、このケッコロガシ沢と呼ばれる処刑所に関わった宮司が伊豆神社であったという事。来内の伊豆神社の祭神は、早池峯大神でもある瀬織津比咩である水神で、龍神に属する女神である。雷神・竜神の祟りである「けころす」が遠野の地に辿り着けば「けっころす」という転訛になるのは当然の事である。ケッコロガシ沢に蹴り落す前に刀で斬る所為とは恐らく、田中貴子氏が述べているように雷神の力によって強い力で裂かれた傷跡を意図したものであったかもしれない。つまり、この来内ダムで行われた処刑とは、龍神であり雷神でもある早池峯大神による神の祟りを具現化したものであったという事だろう。生き残れば無罪放免としたというのも、神の恩赦という事ではなかったか。]]></description>
      <dc:subject>「トイウモノ」考</dc:subject>
      <dc:creator>dostoev</dc:creator>
      <pubDate>Sat, 21 Jan 2023 10:29:14 +0900</pubDate>
      <dc:date>2023-01-21T10:29:14+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>馬頭観音トイウモノ</title>
      <link>http://dostoev.exblog.jp/32925341/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://dostoev.exblog.jp/32925341/</guid>
      <description><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202301/16/75/f0075075_10432148.jpg" alt="_f0075075_10432148.jpg" class="IMAGE_MID" height="480" width="399" /></center>去年の4月に書いた記事「坂道の自転車事故と馬頭観音」がある。昭和59年に、遠野の水光園へ行く途中の坂道で、観光客がレンタサイクルに乗りながら転倒する事故が多発し、死亡者も出たという事故があった。地域の人達は、この事故の要因に以前、道路工事の時に邪魔だった馬頭観音の石碑を移転した事が影響しているのではないかと考え、再び同じ場所に馬頭観音の石碑を戻したところ、事故が無くなったそうである。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202301/16/75/f0075075_11035704.jpg" alt="_f0075075_11035704.jpg" class="IMAGE_MID" height="319" width="480" /></center>上の画像は、水光園へと続く坂道の始まりにある馬頭観音の石碑であるが、地域住民は何故転倒事故が馬頭観音の石碑を移転した為だと思ったのだろうか。<br />
<br />
<br />
馬頭観音は一般的に、道の安全を祈願したものや、馬の供養を含めてのものと思われている。ただ、大々的に馬の供養を意図した石碑は「馬魂碑」と刻まれたものであろう。遠野八幡宮には、その馬を供養を意図した馬魂碑が建てられている。<br />
<br />
<br />
Gakken Mook「観音菩薩」から「馬頭観音」の項目を読んでみると、馬頭観音が日本に輸入されたのは八世紀のようだ。ただ民間に広まって行くのは、やはり江戸時代からのよう。馬頭観音は、馬の安全を守る神、旅の安全を守る神、濃厚全般の仏として祀られた。やはり、路傍の石仏や石碑などに多く刻まれていったのが江戸時代からであるよう。旅の安全を守るとされたのは、人を乗せて運ぶ馬という事からなのだろう。その旅の安全がいつしか道の安全を祈願して、坂道などに馬頭観音の石碑が建てられていったのだろう。ただ、坂道に建てられた馬頭観音の石碑が多いのは、古来からの風土記の影響もあるのではなかろうか。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202301/17/75/f0075075_04500371.jpg" alt="_f0075075_04500371.jpg" class="IMAGE_MID" height="319" width="480" /></center>遠野市小友町の入り口付近に、馬頭観音の石碑が並んでいる。こうして石碑が並んでいるのは戦後の道路整備で、あちこちに建てられていた石碑がまとめられた場合が多い。ただ、この小友町に入る場合、鱒沢からであれば糠森峠を越えてくる事から、その峠に建てられていた馬頭観音の石碑が、ここにまとめられたものだろうか。<br />
<br />
<br />
古代の豪族である秦氏の建立した大酒神社の本来は「大避」であり、「難を避ける」などの意図もあったとされるが、「避」は「坂」でもある。その秦氏の大酒神社が鎮座する地は「坂越」。「坂」は境界であり、あの世とも繋がるとされるが、それを意図した原初は「古事記」に登場する"黄泉平坂"からである。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202301/17/75/f0075075_04471032.jpg" alt="_f0075075_04471032.jpg" class="IMAGE_MID" height="319" width="480" /></center>【筑後国風土記】を一部抜粋「昔この坂の境界の上に、荒ぶる神がいた。往来の半ばは生き、半ばは死んだ。その人々の数知れずというありさまだった。それで人の命を”尽くしの神”と言った。」と記されている。<br />
<br />
<br />
【肥前国風土記】には「昔々、この川の西に荒ぶる神があり、道行く人が多く殺され、人々の半ばが生き、半ばが死ぬありさまであった。」また別に「郡の西に川がある。名をサカ川という。水源は郡の北の山から出て南に流れ、海に入る。この川上に荒ぶる神があり、往来する人の半ばを生かし、半ばを殺していた。」とある。そして「肥前国風土記」ではその対策として「下田の村の土をとって、人形・馬形を作ってこの神を祀れば、必ず神は和められる、と申し上げた。」と記されている。またこれは【竜田風神祭祝詞】だが、そこから抜粋すると「馬に鞍、種々の幣帛を供えよ。」と、荒ぶる神に対して馬を捧げている。<br />
<br />
<br />
荒ぶる神としては、遠野の早池峯大神もまた荒ぶる神である。早池峯神社の例大祭において、早池峯大神の魂を乗せた神輿が境内を出る前に駒形神社へ寄るのも、荒ぶる神が好む馬に乗せる意図を含んでいる。つまり、坂などの境界に鎮座する荒ぶる神を鎮める為に必要なのが馬であり、それが後に仏教と結びついて馬頭観音の石碑を峠などの坂道に建てるようになったのだろう。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202301/17/75/f0075075_05390948.jpg" alt="_f0075075_05390948.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center>とにかく「坂道」であり「峠道」に馬頭観音碑を建てるのは、道の安全を願ってのもの。その馬頭観音の石碑が撤去されたから、遠野の水光園へ行く途中の坂道でレンタサイクルの事故が相次いだと考えられたのは偶然ではあろうが、ある意味当然の事であったろう。そしてまた、その馬頭観音の石碑が元に戻ってから事故が無くなったのが当然と思えるのも、また不思議な話である。<br />
<br />
]]></description>
      <dc:subject>「トイウモノ」考</dc:subject>
      <dc:creator>dostoev</dc:creator>
      <pubDate>Tue, 17 Jan 2023 05:43:38 +0900</pubDate>
      <dc:date>2023-01-17T05:43:38+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>フケチノカイトイウモノ</title>
      <link>http://dostoev.exblog.jp/32903845/</link>
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      <description><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202212/19/75/f0075075_11464264.jpg" alt="_f0075075_11464264.jpg" class="IMAGE_MID" height="696" width="500" /></center>以前「フケチノカイとはなんぞや?」という、あれこれ憶測の記事を書いた。ところが、たまたま太田保世「八百比丘尼伝説」を読んでいたら、会津の八百比丘尼伝説を紹介しているページに竜宮でも得難い珍味を食べて不死となった千代姫の話がある。その珍味とは「九穴の貝(クケツノカイ)」あるいは「二九穴の貝(フクツノカイ)」であるとされ、作者もそれについて考察をしていたが、それは省く。何故なら別に、八百比丘尼伝説の概要として、美しく若い(17歳とも18歳とも)娘が人魚の肉、あるいは「特別な貝(九穴の貝ないし鮑)」と書かれている。鮑の貝殻の穴は、六穴～九穴だとされる。それ故、九穴の貝も鮑も同じものだろう。また二九穴の貝も「クケツノカイ」の転訛から後で漢字が当てられたのだろう。<br />
<br />
佐々木喜善「遠野の昔話」「不老長寿の話」には、下記のように記されている。<br />
<br />
「私の祖父が言うて聴かせたったが、人間がフケノチカイとかいう物を食うと不老長命を保つものだとされている。それはちょうど赤児のような形の物だそうである…。」<br />
<br />
<br />
<br />
上記の文章にはフケチノカイという名称が出て来るが、その形が赤児のような形と記されている。ただそれは「フケチノカイとはなんぞや?」で紹介した、古代中国で伝わる「人参果」、別名「草還丹」という不老長寿の霊薬との混同だと思われる。共通点は、どちらも不死であるという事が混同を招いたのではなかろうか。この佐々木喜善「不老長寿」の話には、長命となった「平泉清悦物語」の話が紹介され「赤児のような人貝」が登場している。しかしそれも以前書いたように、毛をむしった猿の丸煮ではないかと思う。様々な情報が交錯し、現代の様にネットで検索し調べるという事が出来なかった時代、様々なもの(名称や意味など)が人伝に変化したものが多かったと思われる。フケチノカイが鮑だとしたら、それは普通の貝とは違う形状であり、滅多に手に入らない精の付く貝として重宝されたに違いない。<br />
<br />
<br />
現代でも、大小様々な神社に行くと、鮑の貝殻が供えられている場合がある。そして、どうやら八百比丘尼伝説と道教が重なるようなので、鮑の九つの穴は九重、つまり「九重の天」を意味する不老長寿と繋がるようである。<br />
]]></description>
      <dc:subject>「トイウモノ」考</dc:subject>
      <dc:creator>dostoev</dc:creator>
      <pubDate>Mon, 19 Dec 2022 17:18:57 +0900</pubDate>
      <dc:date>2022-12-19T17:18:57+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>佐比内トイウモノ</title>
      <link>http://dostoev.exblog.jp/32884041/</link>
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      <description><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202211/23/75/f0075075_17083284.jpg" alt="_f0075075_17083284.jpg" class="IMAGE_MID" height="320" width="480" /></center><center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202211/23/75/f0075075_17085784.jpg" alt="_f0075075_17085784.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center>遠野市上郷町佐比内の砂防ダム湖は、奇麗なエメラルド色をしている。その色の発色がどこからきているのかわからぬが、もしかして佐比内鉱山との関係はあるのだろうか。ところで、この「佐比内」という地名は、岩手県内に二ヵ所ある。その一つが、遠野市上郷町の佐比内で、もう一つは紫波郡紫波町佐比内となる。この二つの佐比内には共通点があるのだろうか?<br />
<br />
佐比内という地名は伊能嘉矩「遠野方言誌」でアイヌ語説を採用し「Sap Nai(下だる谷)降下の谷」という意味だと記している。また「紫波郡誌」を読むと、佐比内の語源は同じくアイヌ語説を採用しており「アイヌ語の「サピナイ」より来り藪ヶの渓谷の集合せる場所を意味す。」と記されている。伊能嘉矩「遠野方言誌」では「降下の谷」という意味が、「紫波郡誌」では「藪ヶの渓谷の集合せる場所」と訳している違いがあるが、何となくニュアンスは汲み取れるので同じ意味なのだろう。ただ「佐比内」の「佐比(さひ)」を注目すると、柴田弘武「鉄と俘囚の古代史」によれば、「サビ」が古代朝鮮語の「サプ(鉏)」からきたもので、「剣(サヒ)」を意味する産鉄用語であるとしている。また、青森県下北郡の佐比浜主神社(さひひょうずじんじゃ)の「佐比」は「鉄」を意味すると伝わっている。「剣(サヒ)」は恐らく「鉄剣」であろうから、やはりそのまま「鉄」の意味だろう。また「佐比内」の「内(ナイ)」は、やはりアイヌ語の「ナイ(谷)」を意味し遠野にもいくつか「内」を有する地名がいくつかあるので、伊能嘉矩「遠野方言誌」や「紫波郡誌」もアイヌ語説を採用したのだろう。ただ「内」は「うち」であり「内包(ないほう)」する意味である事から、「佐比内」は「鉄を内包する地」の意味であると私は考える。事実、遠野と紫波の佐比内のどちらも鉱山が有名となっている。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202211/23/75/f0075075_18512343.jpg" alt="_f0075075_18512343.jpg" class="IMAGE_MID" height="667" width="500" /></center>天正年間に近江国から遠野の佐比内に移り住んだ近江一族は、佐比内から森の下まで開発したという。その主だった開発は、やはり鉱山であったろう。近江弥右ェ門という人物がいる。その人物の詳細は、上郷町の郷土誌「上郷聞書」に詳しく書かれている。<br />
<br />
<br />
「中世末以来の佐比内の開発は、近江弥右ェ門によって行われたと伝えられている。近江弥右ェ門は近江国の生まれで、天正年間(1573～1592)に一家七人行商して遠野を訪れ、間もなく此の土地に居を定め、佐比内の開発を手掛けていった。」と記されている。その近江弥右ェ門の主だった実績は、慶雲寺の建立と、鎌ヶ峰金山・日柄沢金山の開発、佐比内の開墾だとされる。やはり、資金を見込める金山開発が主だったものだろう。そして生活するにおいての開墾も当然の事だったろう。そして近江弥右ェ門について「上郷聞書」には、こうも書かれている。「祖父、父、長兄が遠野に落ち着き、次兄以下が当時郡山と言われた今の紫波町に移ったらしく…。」と。その裏付けとして「紫波郡誌」には、「天正十九年十一月南部信直之を藩治の下に人口漸く増加するに及て開墾事業を奨励し一村部落を成せり。」と記されている事からも、近江一族が紫波の佐比内に移り住んだのではなかろうか。その時点で村と成したという事であるから、紫波の佐比内村は天正年間に出来たのだろう。そしてその「佐比内村」という名付けもまた遠野上郷の佐比内と繋がるならば、近江弥右ェ門一族が金山開発を意識しての「佐比内」と名付けた可能性があるのではないか。とにかく私は「佐比内」とは「Sap Nai(下だる谷)」というアイヌ語ではなく、「鉄を内包する地」としての「佐比内」だと思うのである。<br />
<br />
]]></description>
      <dc:subject>「トイウモノ」考</dc:subject>
      <dc:creator>dostoev</dc:creator>
      <pubDate>Wed, 23 Nov 2022 20:06:38 +0900</pubDate>
      <dc:date>2022-11-23T20:06:38+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>「眠れる森の美女」トイウモノ</title>
      <link>http://dostoev.exblog.jp/32195188/</link>
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      <description><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202103/19/75/f0075075_09144723.jpg" alt="_f0075075_09144723.jpg" class="IMAGE_MID" height="381" width="500" /></center>自分が子供の頃には既にディズニーのアニメ「眠れる森の美女」があり、多分映画館で観ていたと思う。調べると1959年のアメリカ作品になっているが、日本での公開は1960年だったようだ。しかしその頃はまだ自分は生まれておらず、恐らく後から東映まんが祭でのリバイバル作品として観たのだと思う。ただ今になって思い起こすと、「眠れる森の美女」と「白雪姫」が混同しているのに気付く。その理由は、どちらの作品も眠っている姫を起こすのが、王子様のキスだからだ。<br />
<br />
ともかく昔は、「眠れる森の美女」も「白雪姫」も、ディズニーのアニメ作品としての認識しかなかった。ところが自分が大人になって実は原作があり、それは恐ろしい話であると知る。いろいろ本を読んでいると、この「眠れる森の美女」は民俗学の本にも、心理学の本にも紹介されていた。ただその場合は「茨姫」とか「眠り姫」として書かれている場合が多かったと覚えている。そして今となり、急に「眠れる森の美女」が気になってしまった。その気になった場面は、王女が眠りにつき城が茨で覆われてしまった事であった。<br />
<br />
「紡ぎ車に近寄った途端に錘が手の指に刺さり、王女は深い眠りに落ちる。呪いは城中に波及し、王と王妃をはじめ城の人々も全て眠りに落ちるが、城の周囲の茨だけが急速に繁茂し、やがて城には誰も入れなくなった。中には侵入を試みた者もいたが、鉄条網のように絡み合った茨に阻まれ、全員が茨に絡まって落命した。」<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
この「眠れる森の美女」には、グリム版とペロー版とバジレ版がある。ディズニーの「眠れる森の美女」のストーリーは、グリム版を改編したもののようだ。ただ茨で覆われるのは、どの版でも共通のようである。<br />
<br />
<br />
ところで茨城県の語源は「常陸国風土記」において、黒坂命が朝廷にまつろわぬ者を討つ為、茨で城を築いた、または茨で退治したとの話から県名に採用されたようだ。棘のある茨だが、例えば六芒星と言われるものの形は、周囲の尖った箇所が魔除けの意を持つとされる。茨の棘も同じく、魔除けとして意図されたのだろう。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202103/19/75/f0075075_09595654.jpg" alt="_f0075075_09595654.jpg" class="IMAGE_MID" height="466" width="480" /></center>実は城が茨に覆われるで思い出したのが、吸血鬼の話だった。吸血鬼の苦手なものの中に、茨がある。死体が吸血鬼になると信じられていた事から、特にその存在を信じていたヨーロッパの地域では、墓地に茨を置く習慣があった。日本において似たようなものに、死体が起き上がらないように鎌を置くというものがある。実はヨーロッパのスロバキアやポーランドでも、死体を恐れて死体の首に鎌を置いて埋葬する事例がかなりあったようだ。死体を恐れるとは、やはり吸血鬼にならないようにだ。<br />
<br />
<br />
死者とは恐ろしいものだという概念は、日本においてはやはり「古事記」になるだろう。死んで黄泉国へ行った妻であるイザナミを現世に連れ戻しに行ったイザナギだったが、イザナミとの約束を破ってしまい、イザナミの怒りに触れ恐ろしい黄泉醜女に追われてしまう。そのイザナミは黄泉津大神となり、「私は一日千人の人間を殺す。」と宣言する。それに対してイザナギは、「それでは私は、一日千五百人の子供を産ませよう。」と宣言した。吸血鬼もまた、生者を殺し自分の配下とする死の国の住人でもある。<br />
<br />
<br />
古来から、あの世とこの世とは相反するものであった。「ギリシア神話」では、最近死者が冥界に来なくなったのは医者のせいだと、冥界の王であるハデスが嘆いた話がある。医療行為は科学的なものではあるが、ある意味死の淵を彷徨う者をこの世に導く行為であり、死の国の側からすれば、有り難くない存在である。とにかく古今東西、あの世とこの世では住人の奪い合いをしていると考えられていたようだ。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202103/19/75/f0075075_12534107.jpg" alt="_f0075075_12534107.jpg" class="IMAGE_MID" height="480" width="439" /></center>怪談めいた話に、「猫と南瓜」の話がある。化け猫だと殺された猫が土に埋められるのだが、その猫の目から南瓜の実が育ち、それを食べようとする寸前に危険だと発覚して助かる話。恐らくそのまま南瓜を食べると猫の祟りに遭い、病気になるか死んでしまうだろうと思わせる話である。「古事記」でイザナミは死んで黄泉国へ行くのだが、既に黄泉津竈食(ヨモツヘグイ)を食べていた。黄泉国のものを食べると黄泉国の住人になるとされている為に、イザナミは簡単に現世へと戻る事が出来なかった。<br />
<br />
<br />
古来、植物の葉はこの世に属するもので、地中の根はあの世に属するものと思われていた。つまり植物とは、あの世とこの世の境界でもあり、この世にあの世を伝える存在でもある。地中に埋められた猫の目から育った南瓜は、あの世から育った芽であったと思われ、それはイザナミが食べたヨモツヘグイと同じものと考えられた話だと思える。あの世のものを食べ、あの世の住人になるとは、死人になるという事である。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202103/19/75/f0075075_13361865.jpg" alt="_f0075075_13361865.jpg" class="IMAGE_MID" height="431" width="500" /></center>話は「眠れる森の美女」に戻るが、このタイトルはあくまでディズニーのアニメタイトルである。グリム童話でのタイトルは「茨姫」であり、言い換えれば「茨に覆われた城に眠る王女」となるだろうか。つまり、森と表現しているのは自然の森ではなく、茨に覆われた城の事になる。しかし、どんな大都会でもその機能が失われ、屹立する建物が樹木に覆われれば、そこは一つの森となる。それ故、この物語の森も、自然の成り行きで形成された森であるという事。その茨に覆われた城の内部は太陽光が遮断された、冥界と考えるべきだろう。そこで眠る王女とは、死人であると思える。<br />
<br />
<br />
立木鷹志「夢と眠りの博物誌」によれば、古代の神話などでは眠りと死が同一視されていたようだ。ディズニー「眠れる森の美女」では、王子様のキスによって目覚めるが、ペロー版では呪いの通りにお姫様は100年後に目覚める。100年間も起きないで寝ている者とは、社会的には死んでいるも同じであろうし、生物として考えてもそれは生者ではなく死者に分類されると思われる。<br />
<br />
<br />
ここで「眠れる森の美女」に対する疑問が湧き上がる。城の内部で眠りについた姫を覆う茨とは、どういう意味であるのか。初めに記したように、茨は魔除けになるのだが、逆に吸血鬼になるであろう死人を蘇らせない為の措置でもあった。眠りが死と同一であるならば、眠りという死についた姫を、現世である外に出さない為の措置にも思えてしまう。その禁忌を破ったのは、ふらりと現れた王子である。<br />
<br />
<br />
これら「眠れる森の美女」であり「茨姫」の話の原型は、バジレ版「日と月とターリア」であるようだ。このバジレ版に登場する王子は鷹狩りのついでに眠っている姫を見つけ、その寝ている姫に欲情して犯してしまう。そして寝ている間に、太陽を意味するオーロール姫と月を意味するジュール王子を出産するという異常性。快感であるオーガスムスという言葉には「小さな死」という意味がある。眠りについている姫を犯す行為は、恐らく死姦を意図していたのではなかろうか。とにかく生殖行為にはエロスとタナトス、そして生と死が混在する。タナトスは、死を神格化した神である。そのタナトスの双子の兄弟がヒュプノスと言い、眠りを神格化した神である。やはり死と眠りは、同じだと考えるべきだろう。<br />
<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202103/19/75/f0075075_17293715.jpg" alt="_f0075075_17293715.jpg" class="IMAGE_MID" height="705" width="500" /></center>この「日と月とターリア」には、何故か「古事記」との共通性を感じる。「古事記」でのイザナギは黄泉国の帰りに死の穢れを纏った体を禊をして後、左目から天照という女神を生み、右目から月夜見という男神を生む。「日と月とターリア」でのターリア王女は、眠りという死の穢れの中から太陽の姫オーロールと、月の王子ジュールを生む。世界的な太陽神は殆ど男神であり、月神は殆ど女神である中、この共通性はどうだろう。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
また、イザナギは追いかけてくる黄泉醜女に対して蔓草で出来た髪飾りを投げた。蔓草の種類の中に、棘の生えている茨がある。茨は荊でもあり「痛い針」の転訛だという説もある。そして、荊の冠とはゴルゴダの丘で磔になったイエス・キリストが被ったもの。髪飾りと冠、どちらも頭に飾るものであるが、イザナギはそれを黄泉国の住人に対して投げたというのは死人対策の呪術としてのもの。イエス・キリストの荊の冠は、受難の例えとされるが、それはその者を抑制する呪いの象徴でもある。荊であり茨は、その蔓に付く棘が相手を拘束するという呪具でもあろうから当然、吸血鬼にも適応すると思われたのだろう。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202103/19/75/f0075075_16112092.jpg" alt="_f0075075_16112092.jpg" class="IMAGE_MID" height="480" width="435" /></center>そして眠りという死についた茨姫とは、一体なんであろうか。茨が受難の例えであり、拘束の呪具。その茨姫が生んだのは、太陽と月。太陽は毎日、東から生まれ西に死ぬとされる。また月も満ちた状態から欠けていき、毎日西へ沈んで死ぬ。太陽も月も、どちらも死と再生の象徴である。その太陽と月が沈む西の女神は、夜の女神の娘たちである。夜の闇は、死の世界に通じる。<br />
そして眠りの期間は100年に及ぶとされるが、100という数字を意識した場合、ある考えに行き着く。一年は365日であり、100日とは一年の約1/4。これは、四季を表しているのではなかろうか。そして、その季節とは冬。そこから導き出される女神の名は、ペルセポネ。イザナミと同じく冥界の食べ物であるザクロを食べた事から、冬の間は冥界に拘束される女神である。眠りという死の状態で犯されるのは死姦と書いたが、それをペルセポネに当て嵌めれば、冥界にいる間に冥界の王と結びついたとも考えられる。そのペルセポネを冬の間拘束する為に、茨で覆ったと考える事が出来る。死者である期間は、地上に出さぬ為だろう。あくまでも憶測であるが「眠れる森の美女」であり「茨姫」とは、ギリシア神話に登場するペルセポネをモチーフに創られた物語ではなかろうか。<br />
]]></description>
      <dc:subject>「トイウモノ」考</dc:subject>
      <dc:creator>dostoev</dc:creator>
      <pubDate>Fri, 19 Mar 2021 20:22:29 +0900</pubDate>
      <dc:date>2021-03-19T20:22:29+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>「オシラサマ(桑という墓標)」トイウモノ(其の二)</title>
      <link>http://dostoev.exblog.jp/31265934/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://dostoev.exblog.jp/31265934/</guid>
      <description><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202006/28/75/f0075075_18530794.jpg" alt="_f0075075_18530794.jpg" class="IMAGE_MID" height="667" width="500" /></center>桑の木の語源の前に、養蚕の先進地域である三河国に、やはり桑の木が墓標となっている話があるので紹介しよう。「今昔物語(巻第二十六)」「参河の国に犬頭の糸を始むる語、第十一」によれば、繭を飲み込んから大量の絹糸を出して主人を助けた白い犬が糸が尽きると共に死に、その白い犬を埋葬したのが桑の木の根元であった。白い犬というのは、蚕の白色にかけたものであろうか。オシラサマという呼称には、やはり白色が関係深いのだろうと思える。<br />
<br />
オシラサマにとって重要なアイテムである桑の木と、その桑(クワ)の語源を調べてみた。まず先に、アイヌ語で"クワ"は"墓標"と"杖"の意味があるとわかった。それを裏付けるかのように、オシラサマ譚の元になったのではと云われる「捜神記」には、庭の大木の枝に、蚕と化していた馬と娘が発見され、それからその大木を「桑（クワ）」と名付けたとあり、桑（ソウ）は喪（ソウ）の意味であると記されている。「喪（ソウ）」とは死者を葬る儀式であり、死者に対する哀悼の礼である。また、有名なシェークスピア「ロミオとジュリエット」の原型であるギリシア神話「ピュラモスとティスベ」では、男女の悲恋の死を見届けた樹木が桑の木であり、その飛び散り流れた男女の血によって桑の実が赤黒くなったと、桑の木にはどこか死の匂いが纏わりついている。また、桑の木ではないとされるが古代中国の「山海経」には、１０の太陽の昇る伝説の巨木である扶桑の話がある。また紀元前である戦国時代の「楚辞」には、１０個の太陽が現れ灼熱地獄となった為に、９個の太陽を射落とした話が紹介されているが、これは太陽を射殺す三重のゲーター祭りを思い出してしまう。やはり、死は纏わりつく。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202007/04/75/f0075075_18170385.jpg" alt="_f0075075_18170385.jpg" class="IMAGE_MID" height="265" width="190" /></center><br />
ところで、「桑」という漢字を考えてみた。木の上に又が三つあるのが桑。篆書体で見ると、上の画像が桑という漢字となる。又の部分が、三本爪の鍬のようになっている。もしかして三本爪の鍬の形は、この篆書体から来ているのか？と思ってしまう。<br />
<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202007/04/75/f0075075_18083232.jpg" alt="_f0075075_18083232.jpg" class="IMAGE_MID" height="460" width="450" /></center>篆書体の桑の又の字だが、調べると「右手」を意味しているようだ。本来「又」とは、右手の象形文字から発生したようである。ところが、この右手の象形文字と似たようなものを見た事がある。それは、北欧に伝わるルーン文字と云われるものだ。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202007/04/75/f0075075_19131797.png" alt="_f0075075_19131797.png" class="IMAGE_MID" height="109" width="310" /></center>上の画像は、”アイルランドの魔法の杖”と呼ばれる魔法の効果のある印の中で「敵を恐れさせる」意味がある印で、要は魔除けなどの護符と考えればいいだろう。これらもどうやらルーン文字の影響を受けているらしい。ただしウィキペディアによれば、確認されているルーン文字の時代は2世紀から３世紀のものと云われているので、右手の象形文字よりも新しい事になる。ただ問題は、何故似ているのかという事。左手もそうだが、右手は元々神を訪ね、神に遭う為の方法を示している文字だとされる。神道での右は水を表し、左は火を表す事から、桑の木の漢字に何故右が採用されているのかと考えた場合、やはり水との関連が深いのではなかろうか。ルーン文字での鍬のような、フォークの様な形は、元々木を表していると云う。恐らくそれはユグドシラルという世界樹を意図し、そのユグドシラルという木は、"オーディンの馬"という意があり、オーディンはユグドシラルの枝から槍の柄を作った。その槍は、グングニルの槍で"三叉"である。そのユグドシラルの根元に湧くミーミルの泉の水を飲んだ為に片目を失ったオーディンは、右目だけになった。<br />
<br />
<br />
ただこの北欧神話も、やはりギリシア神話の影響を受けているようだ。ポセイドンに対しての生贄として馬を捧げる信仰があるのだが、水神に対する信仰には、馬が重要視される。また藤縄謙三「ギリシア神話の世界観（ポセイドン神の成立）」によれば、ポセイドンの名前は「大地」と「夫」の結合語で「地母神の夫」という名前であると云う。杖を大地に突き刺すのが大地との交流であり、聖婚を意味する様。それはつまり、水源を示すものであり、地母神の場所を示すものと考えて良いのではないか。そしてそのギリシア神話さえ、ヘシオドスは古代のオリエントの神話の影響を受けたと指摘している。当然、様々な経由から古代中国へと伝わり影響を受けたものと考えても良いのではなかろうか。ともかく右手の象形文字は、古代の樹木信仰の流れを汲むものであり、それが日本に流れ着いたものと思える。そしてアイヌ語でクワは杖や墓標を意味するのだが、杖そのものは槍との違いは無い。杖に刃が括り付けられてあれば、それは槍になるからだ。その信仰の根源はやはり樹木であると思われる。そして田村浩「おしら神の考察」によれば、三叉もしくは四叉の桑の木からオシラサマを彫るとされ、また「九戸郡誌」には、"二又の桑の木をオシラサマとして祀る"とある。この二又三叉は、樹木の呪力を意識してのものであろう。猫が年老いると尻尾が二又にわかれ、猫又という妖怪になるのという構造は恐らく、この二又の樹木の呪力からきているものだろう。<br />
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「古事記」において、八上姫と結婚した大国主は、八上姫を因幡から出雲へ連れてきたが、本妻の須世理姫を恐れて、八上姫が生んだ子供を木の股に刺し挟み因幡に返してしまった。それからその子供の名前を木俣神、またの名を御井神といった…という話。この木俣神は、伯耆国の阿陀萱神社で阿陀萱奴志多喜妓比売命という神名で祀られている。その由緒は、下記の通りとなる。多喜妓比売命は大己貴命の御子なり、母は八迦美姫命と申す。神代の昔、出雲国直会の里にて誕生あり。八迦美姫命、因幡へ帰らんと大己貴命と共に歩行し給ふ時に、御子多喜妓比売命を榎原郷橋本村の里榎の俣に指挟て長く置き給ひしときに、我は木俣神なりと申給ひて宝石山に鎮座し給へり。また、同地に鎮座する御井神社の祭神も木俣神であり、その由緒に「木俣の神、又は御井の神と申し上げ、安産守護、水神の祖として広く信仰をあつめている。」としている。水神の祖とはどういう事なのかだが、安産守護に関しては二股は女性の股を意図としている事からのものだろう。樹木は地上と地下の境界であり、地下である根の国の入口として認識されていた。遠野の東禅寺跡に、早池峰権現が無尽和尚の杖をとって地を突いたところ、水が湧きだした事から「杖（またふり）の井」、または開慶水と伝えられる。開慶水は別に早池峯山頂にもあるのだが、早池峯権現がこの東禅寺にも開慶水を与えたという話である。ところで「杖（またふり）の井」とは、二股の木を地面に突き刺して涌き出た泉の事を云う。どうやら二股の部分が地との交流を促す呪力があると信じられていたようだ。二股の杖は西洋では占杖といい、この杖で地下水や地下鉱脈を探るのに使われたという。古今東西、二股の杖は、地下との交流・交信の手段のアイテムであると認識されているのは興味深い事だと思う。柳田國男は、二股の木の股の空洞の部分が水を湛えているものを、天然の井戸であろうとしている。木俣神の別名が、御井神であるのは必然であった。<br />
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溝口睦子「ヤクシーと木俣神」の見解によれば、二股の木は水に繋がる豊穣神であろうとしている。二股の空洞に溜まる水が地下と通じている認識は、空洞に溜まった水が地下の黄泉国へと滾り落ちる空間があるという認識で、黄泉国の入り口と捉えられていたのだろう。黄泉国は字の如く、泉の湧く国である。しかし二又の木が黄泉国の入り口という認識でありながら、二又の桑の木をオシラサマとして祀ってきたのは、黄泉国との交信というよりも、水による穢祓いを意図してのものではなかろうか。オシラサマの衣の着せ替えでは無く、衣の着重ねをし続ける行為は穢れを纏う行為である。一身に穢れを纏い祓う事の出来るオシラサマには、水による穢祓いの力がある為だと理解出来る。また「オシラサマ譚」で桑の木に白馬を吊るすのは、ポセイドンへの信仰と同じように水神に対する贄であると思われる。そういう意味では、二又の桑の木から彫られた娘と馬という形は、水神との簡易的な交信のアイテムであり、呪術を行う魔法の杖でもあるのだろう。先に書き記したように、二又の杖は西洋では占杖といい、その杖で地下水や地下鉱脈を探るのに使われたと似たような話が、「遠野物語拾遺83」に記されている。「狩の門出には、おしらさまを手にし持ちて拝むべし。その向きたる方角必ず獲物あり。口伝」とあるように、獲物の占杖としてもオシラサマが認識されているのは、西洋での二又の杖の信仰が日本に流れ着いて定着したものと思えてしまう。次は、その桑の木の信仰と民俗の流れを書こうと思う。<br />
]]></description>
      <dc:subject>「トイウモノ」考</dc:subject>
      <dc:creator>dostoev</dc:creator>
      <pubDate>Sat, 11 Jul 2020 09:02:51 +0900</pubDate>
      <dc:date>2020-07-11T09:02:51+09:00</dc:date>
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    <item>
      <title>「オシラサマ(桑という墓標)」トイウモノ(其の一)</title>
      <link>http://dostoev.exblog.jp/31247805/</link>
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      <description><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202006/22/75/f0075075_12394378.jpg" alt="_f0075075_12394378.jpg" class="IMAGE_MID" height="435" width="500" /></center>先人の長年の研究からでも、未だにオシラサマの決定打が無いのは、あまりにもオシラサマの性格が多方面に広がっているせいもある。オシラサマはその性格の一つとして代表的なものが、養蚕の神としてのものだ。実際にも、伝わり語られる「オシラサマ」の話には、養蚕の起源譚が紹介されている。そしてまた遠野市上郷町来内の伊豆神社に伝わる伝承に、坂上田村麻呂と安倍宗任に関するものがあるのだが、その伝承は養蚕と結び付いている為、どこか漠然とオシラサマにも繋がっていると思われている。菊池展明「エミシの国の女神」において作者が、三河が養蚕の先進地域であり、「安城市史」には、二名の婦女を陸奥国へ派遣して、現地の人々に養蚕技術を教習させた事が記されている事を紹介している。この二名の婦女のうちの一人が、遠野の伊豆神社の伝承に重なる可能性を示唆している。その伊豆神社の伝承は、下記の通り。<br />
「坂上田村麻呂が延暦二年に征夷代将軍に任命され当地方の征夷の時、此の地に拓殖婦人が遣わされ、やがて三人の姫神が生まれた。」<br />
また、田村麻呂とは別に安倍宗任の伝承は、下記の通り。<br />
「安倍宗任の妻「おない」の方は「おいし」「おろく」「おはつ」の三人の娘を引き連れて、上閉伊郡の山中に隠れる。其の後「おない」は、人民の難産・難病を治療する事を知り、大いに人命を助け、その功により死後は、来内の伊豆権現に合祀される。三人の娘達も大いに人民の助かる事を教え、人民を救いて、人民より神の如く仰がれ其の後附馬牛村「神遺」に於いて別れ三所のお山に登りて、其の後は一切見えずになりたり。それから「おいしかみ」「おろくこし」「おはやつね」の山名起これり。此の三山は神代の昔より姫神等の鎮座せるお山なれば、里人これを合祀せしものなり。」<br />
遠野には、オシラサマは安倍宗任が伝えたとの伝承が残っているのは、恐らくこの伝承の影響を受けてのものだろうか?だが、この安倍宗任の話には、養蚕の話は無い。ところで、ここで違和感を覚えるのだが、東北の歴史の幕開けの殆どが、坂上田村麻呂以降になっている事。確かに坂上田村麻呂以降、仏教の布教活動などから中央の文化が伝わったのは否めない事実である。そしてその時代、三河が養蚕の先進地域であったのも確かな事だろう。だがしかし、その三河ではオシラサマが伝わっていないのはどういう事だろうか?オシラサマの分布は、北関東から青森県にかけて。拓殖婦人が蝦夷国に赴き、養蚕を伝えたという事実は、本当に事実であったのか?という疑問が付き纏う。例えば、有名な安倍宗任の逸話だが、その時代の都人は、蝦夷の文化水準を知らなかったと思う。だからこそ、安倍宗任に対し梅の花の名前など知らぬだろうという都人の言葉に対して宗任は「我が国の梅の花とは見つれとも大宮人は如何か言ふらむ」と歌を返した。都人にとって、遠く離れた蝦夷国の情報は、皆無に等しかったと思われる。「日本書紀」にも記されているよう、蝦夷は文化らしきものなどない野蛮人の国であるから討ち取ってしまえの感覚は、この時代にも残っていた可能性はある。もしかして、拓殖婦人が蝦夷国に赴いたのだが、既に養蚕は普及していた。しかし、それを隠して、養蚕を伝え普及させたという話を残した可能性…。この考えに至ったのは「茨城の史跡と伝説」に掲載されている「日本養蚕事始め」という伝説を知ってしまったからだ。これは鹿島地方に伝わる伝説である。<br />
鹿島といえば鹿島神宮があり、蝦夷国平定以前、それこそ坂上田村麻呂が征夷代将軍に任命されたという延暦年間以前に、鹿島から奉幣使が蝦夷国へと通っていた歴史がある。その鹿島神宮奉幣使が、何故か嘉祥元年(８４４年)に菊多関で追い返された。鹿島神宮の末社の神々が、蝦夷国に祀られていたそうだが、その神が祟ったという理由からだった。鹿島大神の使いを追い返すほどの神威ある神が、蝦夷国にいたという事だ。しかし、何故に祟ったのか。恐らく祟ったというのは表面上で、あくまでも憶測だが、鹿島神宮の一団が蝦夷国に祀られている神の神威を傷つけたのかもしれない。古代に上毛野氏が駒形神を蝦夷の人達の祀る神の上に重ねた事から、蝦夷の反乱が起きた。今回は、蝦夷平定の後であるから、そこまでの反乱とはならなかったが、鹿島神宮の一団を追い返したとは、ある意味反乱に近いのだとも思える。神社団の一行であるから、考えられるのは、祭神の強引な変更であったり、中央に都合の良い神社の由緒を改竄したりなどがあったのかもしれない。<br />
さて、ともかく茨木の養蚕の事始めの話を紹介しよう。<br />
「昔、鹿島郡の日川に青塚権太夫という漁師がいた。はるばる奥州からここに流されてきた姫を哀れに思って家に引き取り、我が子のようにいつくしみ育てているうちに姫は横に伏して間もなく世を去った。権太夫は涙ながらに姫の亡骸を庭の隅に葬った。するとそこから一本の木が生えて、春の初めになると房々とした青葉をつけて生き生きと茂っていた。すると木の根元から小さな白い虫がぞろぞろ這い出して来て木に登り、その葉を食べて成長した。そして丸い巣を造ってその中に隠れた。権太夫が巣を煮ると巣はつやつやとした糸になった。その木はクワで、巣はマユ、虫はすなわち蚕であった。クワの木の葉で育った虫なので、クワコと呼ばれた。これが養蚕の事始めというのである。」<br />
解説は、この茨木の養蚕の話は、元々蝦夷国に伝わる伝説を下敷きにしたものだと述べている。その蝦夷国に伝わる養蚕の伝説とは、下記の通りとなる。<br />
「昔、美しき姫がいた。その母みまかりければ、父なる人は後妻を迎えた。後妻は、いたく娘を憎み、朝な夕なに虐待した。姫は遂に堪えかねて、庭の池に身を投げて死んだ。継母はそれをよきことに思って、娘の屍をひそかに庭に埋めてしまった。父は、姫が見えぬのを不思議に思って継母に尋ねたけれど、知らぬ存じませぬとばかりでどうにもならなかった。ところが姫の屍を埋めたところから、一本の木が生え茂り、土中から多くの虫が出てその葉を食い、白く清らかな巣をたくさん結んだ。父はいと不審に思い、木の根を掘り返して見ると、姫の着衣はそのままにあって、体はすべて虫になっていた。今の世の蚕は、この姫の化身である。さて、姫の名を、くわこ姫といったので、その木をクワと名付けた。」<br />
<br />
補足として、茨木の鹿島の日川の青塚権太夫が育てた姫は、蝦夷国の大酋長の娘であったと伝わっているそうだ。そしてアイヌ語で、"クワ"は杖の意味と"墓標"の意味がある。「日本の養蚕事始め」の開設にも「奥羽の蛮族の中にこの伝説は古くから伝わっていたので、桑の木を墓標樹という意味でクワと呼び、繭は墓の中から出たという意味で、クワコと呼んだのであろう。」<br />
遠野に伝わる語り部の語る一般的な「オシラサマ」の話は、古代中国の「捜神記」に似通っていると有名となっている。それは殆ど、東北の地に伝えられ、広まり定着したものだと。しかし、養蚕の初めの話が東北であり、蝦夷国から始まったとされ、それが古代の常陸国に伝わり広まった話は、これが初めてだった。茨木県の養蚕に関係する古い神社の創建は、孝霊天皇の時代だというのだが、それが本当だとするとかなり古い。継体天皇以降、養蚕を奨励する記録があるのだが、孝霊天皇であるなら、継体天皇よりもかなり古い時代の話となってしまう。その時代に、もしも東北から養蚕が伝わったのならば、それは逆に、朝廷側にとって隠しておきたい事実となってしまう。ともかく、東北であり蝦夷国であり、日高見国の入り口であった常陸国に、この伝説が伝わり未だに残っているというのは、とても貴重な伝説だと思う。続きは、オシラサマの桑の木に関して書き綴ろうと思う。]]></description>
      <dc:subject>「トイウモノ」考</dc:subject>
      <dc:creator>dostoev</dc:creator>
      <pubDate>Sat, 27 Jun 2020 17:59:46 +0900</pubDate>
      <dc:date>2020-06-27T17:59:46+09:00</dc:date>
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      <title>「山寺の和尚さん」の猫トイウモノ</title>
      <link>http://dostoev.exblog.jp/31147993/</link>
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      <description><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202004/19/75/f0075075_03380921.jpg" alt="_f0075075_03380921.jpg" class="IMAGE_MID" height="363" width="500" /></center>「山寺の和尚さん」という童謡がある。個人的な思い出は、幼稚園の頃に発表会でのお遊戯で、この「山寺の和尚さん」の歌に合わせ、小坊主姿で踊った記憶が、今でも残っている。今まであまり気にもしていなかったが、ネットを検索すると「動物虐待の歌だ!」などの言葉が多く見受けられる。確かに袋に猫を入れて蹴るというのは、虐待ではある。以前、罠にはまったアナグマを貰い受けた事があった。ちなみに遠野では、御年輩の方々は、アナグマの事をマミと言っていた。そして以前から「マミは、うめぇぞ。」という話をご年配達から聞いていたので、一度食べてみたいと思った。しかし生きているアナグマを殺傷処分し、捌くという事は、自分には出来ないと思っていた。そんな時に、同級生の親父が、それに長けていると聞き、人伝に頼んでみる事にした。どうにか処分を引き受けてもらい、謝礼は酒一升だけという事だった。そのアナグマの屠殺方法は、袋に入れて棍棒で殴り殺すというものだったらしい。袋に入れるという事は、血が飛び散らないようにする為でもあり、動物を目隠しするという意味もあるのだろうか。とにかく、動物を袋に入れるという事は尋常ならざる事である。とにかく、その歌の歌詞を紹介しよう。<br />
山寺の　和尚さんは<br />
毬はけりたし　毬はなし<br />
猫をかん袋に　押し込んで<br />
ポンとけりゃ　ニャンとなく<br />
ニャンがニャンとなく　ヨイヨイーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー実は、歌詞は三番まであるのだが、調べると下記のサイトが詳しく、ある人物が二番と三番を付加して曲にしたようである。そして上記の一番の歌詞は、わらべ唄から引用して作った歌詞であったそうな。つまり、「猫をかん袋に…。」という歌詞は、本来わらべ唄からであり、時代はどこまで遡るかわからないのだろう。<br />
http://www13.big.or.jp/~sparrow/MIDI-yamaderano-oshosan-exp.html<br />
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー実は、山本ひろ子「諏訪学」を読んでいて、「かん袋」についての指摘が記されていた。それは、諏訪の風の祝に関しての流れからの一節であった。<br />
「かんぶくろはかぜ袋のなまったものか、後世神長官の被官に"神袋役"杉之丞というのが居て神長官の神札をうる御師であった。」<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202004/19/75/f0075075_06450136.jpg" alt="_f0075075_06450136.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center>以前、遠野市綾織町の笠通山の笠とは「風」ではないか?と書いた事がある。それは、昭和２２年、そして２３年にカスリン台風とアイオン台風が遠野を襲った際、死者約２００人を出す災害となった事から、猿ヶ石川という大河が流れる綾織町では、"三笠山"の石碑を笠通山の頂に奉納し、猿ヶ石川沿いに桜の木を植えた。それを疑問に持ち何故、笠通山に三笠山の石碑を奉納したのか聞いても、誰も知る者はいなかった。調べると、伊勢神宮に風日祈宮(風神社)の「御笠神事」というものがある事を知った。その神事の時には、"御笠"と"蓑"を奉納するというものだ。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202004/19/75/f0075075_06450798.jpg" alt="_f0075075_06450798.jpg" class="IMAGE_MID" height="320" width="480" /></center>恐らく、笠通山の頂に奉納された三笠山の石碑は、御笠の間違いでは無かったかと思える。遠野の石碑を見てきたが、いくつか漢字を間違って刻んでいるものもある事から、「御笠(みかさ)」→「三笠(みかさ)」の間違いは有り得る事だろう。そして伊勢神宮の御笠神事では笠と蓑を奉納するというものだが、笠通山には、頂にも麓にも神社が無い。笠を山にそのまま奉納しても、１年も持たないだろう。それ故に、石碑にしたのだと思える。そして蓑だが、これが二郷山にある。二郷山は、桧山、笠通山と並んで綾織三山と伝えられる霊山である。また二郷山は「遠野物語拾遺37」「遠野物語拾遺165」の舞台になっている恐ろしい山である。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202004/19/75/f0075075_07170783.jpg" alt="_f0075075_07170783.jpg" class="IMAGE_MID" height="667" width="500" /></center>二郷山神社があり、そこには蓑が奉納されていたようだ。奥州征伐の後、阿曽沼氏が遠野を統治した。しかし当初は、農地の開発に着手し、まず綾織の開拓から始めたという。農民にとっての風は、天敵であった。沿岸域の方領神社では、帆船時代の漁民達が風を起こすよう祈願するのに対し、農民達は風が止むように祈願したという。風というものは、仕事によって必要、不必要となった自然現象であった。当然、農地が開発された綾織地区でも、風に対する懸念はあったのだろう。<br />
天武天皇が即位し、まず広瀬の水神と龍田の風神を祀った。「倭姫命世紀」には、こう記されている。「風神(カゼノカミ)　　一名志那都比古神。広瀬竜田同神也。」と。つまり広瀬も龍田も、どちらも風神であったようだ。また伴信友「倭姫命世紀考」には「級津彦命、科戸邊命、伊勢津彦命ト同神ニテ諏訪ノ建御名方モ同神ナルコト云ベシ」と書かれている。そして「府縣郷社明治神社誌料」には、「上古より此國に風吹荒むこと烈しければ、信濃風の名自然に出で、轉じて神名となり、又訛りて志奈斗語さへ支分したるか云々。」と記されている様に、シナノがシナトに転訛は有り得る話であると思う。つまり、これらから諏訪の神も伊勢の神も広瀬神も龍田神も同神であるという事になる。<br />
天武天皇が祀った広瀬と龍田は、大和川を挟んで、違う方角に祀られている。それと同じように、笠通山と二郷山は、猿ヶ石川と綾織の田園地帯を挟んで向かい合わせにある山でもある。可能性として、綾織を開拓するにあたり、風鎮めを祈願する山を選定したのが、笠通山であり二郷山ではなかったか。二郷山の中腹にある神社には、蛇が祀られているが、笠通山には何が祀られているのか?と考えた場合、出てくるのは猫である。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202004/19/75/f0075075_06451783.jpg" alt="_f0075075_06451783.jpg" class="IMAGE_MID" height="320" width="480" /></center>安倍貞任の伝説の中に、この笠通山が登場する。その中に、怪猫が現れる場面がある。笠通山を笠岡城と表し、源義家との戦いを記しているのだが、その最中に突然、何の脈絡もなく怪猫が現れる。「山の岩窟より身の丈五尺余の怪猫がおどり出て飛びかかってきた。」と記されている。怪猫は、その後に矢を受けて石になってしまうのだがこれを読むと、現在笠通山の中腹にある猫石の由来譚に、強引に神秘性を持たせている感がある。ただ注意しなければならないのは、この怪猫が岩窟から現れたという記述である。また別に、二郷山にも三本足の猫がいて、その姿を目撃すると死ぬとの伝説もある。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202004/19/75/f0075075_09090357.jpg" alt="_f0075075_09090357.jpg" class="IMAGE_MID" height="320" width="480" /></center>荒ぶる風の神の正体は、伊勢津彦命の伝承を読んでわかるように岩窟や洞窟から噴き出す強風・暴風であった。風の神事は、その"暴風を穴や袋に追い込み、蓋をし、封じ込める"というもの。これは、風を生き物とみなしての神事であったようだ。そして笠通山にも岩窟があったのは、安倍貞任の伝説から理解できる。そして猫だが、宮崎県から熊本県にかけて、悪しき風は猫が起こすと伝わる。それと同じような伝説が、新潟にもあった。沿岸域でよく虎舞が舞われるのは、虎は風を司る生き物と古代中国から伝わった為でもあるが、その虎の代わりとして猫が重ねられた為に、猫が悪しき風を起こすという伝説が生じたのだと思う。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202004/19/75/f0075075_09354858.jpg" alt="_f0075075_09354858.jpg" class="IMAGE_MID" height="320" width="480" /></center>諏訪の守屋山には三郎宮というものが、かつてあったそうである。それは風の三郎を祀る宮であったと。宮沢賢治「風の又三郎」も、この信濃の風の三郎から書かれた物語であった。その風の三郎の信仰は、北陸まで及んでいるとの事であるから、信濃と北陸では風の神に対する意識の共通性があるのだろう。ところで話を戻すが、「山寺の和尚さん」の童謡の舞台は山形県の山寺、正式には天台宗である立石寺である。山形県は出羽でもあるのだが、出羽の古い言葉とは「イテハ」。これはつまり、「越の国外れ」という意味である。越の国とは今で言う新潟県にあたる事から、猫が悪しき風を起こす存在である事は、山形県にも当然伝わっている事だろう。また、遠野市の綾織町に聳える笠通山は、別名「出羽通山」とも呼ばれる事からも、山形県の羽黒修験との関係は深い。笠通山の怪猫の伝説は、悪しき風を起こす存在としての笠通山に対し、風とは生き物であるという認識と、その風を起こすのは猫であるという伝承が伝わったものが変換され、怪猫伝承として笠通山に創られたものであろう。そして「山寺の和尚さん」の童謡に伝わる「猫をかん袋に押し込んで」という言葉は、そのまま風は生き物である認識による、風を追い込んで、穴や袋に封じ込める神事を、面白おかしく伝えたものが童謡として創られたものであろう。そう、童謡「山寺の和尚さん」の猫の正体は、悪しき風であったのだろう。]]></description>
      <dc:subject>「トイウモノ」考</dc:subject>
      <dc:creator>dostoev</dc:creator>
      <pubDate>Sun, 19 Apr 2020 10:19:37 +0900</pubDate>
      <dc:date>2020-04-19T10:19:37+09:00</dc:date>
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    <item>
      <title>死者の鎮魂トイウモノ</title>
      <link>http://dostoev.exblog.jp/31022200/</link>
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      <description><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202001/23/75/f0075075_13280688.jpg" alt="_f0075075_13280688.jpg" class="IMAGE_MID" height="203" width="300" /></center>昨日のニュースで、政府主催の東日本大震災追悼式を来年までとすると発表し、その政府の発表を煽るように朝日新聞社は釜石市長に、それとなりを聞いたようだ。釜石市長は「国がやろうとやるまいと、私たちはこれかもずっと毎年やっていく。私たちにとって今後も決して忘れてはならない出来事だから。」と述べた。これは当然の言葉であると共に、とても難しい言葉であった。何故なら一世紀もすれば、人は入れ替わるからだ。となれば、住む住人に過去の人の面影さえわからぬ人が主体となる。変な話だが、親戚付き合いも、互いに知らない同氏の世代になった時、その親戚関係は廃れてしまう。例えば、震災で息の子供たちが寿命を迎える可能性の高い８０年後、どれだけの人が震災で亡くなった方々の面影を偲べるかという話になってしまう。思いが無くなれば、その行為は長続きしないからだ。昭和２２年にカスリン台風、昭和２３年にアイオン台風が遠野を襲い、多くの人達が亡くなった。しかし、自分がその話を聞いても、どこか人ごとに感じたのは、自分自身がまだ生まれていなかったらでもある。また、身内にその関係者がいなかったせいもある。どこか遠い昔話の様な感覚で、その事実を知った。つまり、災害に対するリアリティが失せているからだった。そこに自分は「方丈記」の序文を重ねてしまう。<br />
行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。淀みに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる試なし。世の中にある、人とすみかと、またかくの如し。玉敷きの都のうちに、棟を並べ甍を争へる、高き、いやしき人の住ひは、世々を經て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ焼けて今年作れり。或いは大家ほろびて小家となる。住む人もこれに同じ。所も変らず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。朝に死に、夕に生るるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。<br />
<br />
不知、生れ死ぬる人、何方より来りて、何方へか去る。また不知、仮の宿り、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目を喜ばしむる。その主と栖と、無常を争ふさま、いはば朝顏の露に異ならず。或は露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。或は花しぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、夕を待つ事なし。<br />
<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　「方丈記」<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202001/23/75/f0075075_15065997.jpg" alt="_f0075075_15065997.jpg" class="IMAGE_MID" height="334" width="500" /></center>恐らく、死者の鎮魂の行事として最長にとなるものは、墨田川の花火大会ではなかろうか。享保１８年、徳川吉宗が死者の慰霊の為に墨田川で花火を打ち上げた。これは、水難防止を祈願する川開きという年中行事であったが、花火が加わったことで、江戸の有名な夏の風物詩となった。しかし、この享保の時代は、前年の享保１７年は大飢饉が発生し、またコレラが蔓延し、多くの死者を出した年代であった。その大飢饉の原因となったであろう、全国的に火山が活性化していた時代であるようだ。岩手山も、享保１７年に噴火している。享保１８年は、西暦１７３３年。つまり墨田川の花火大会は、現代も続いている事から、約３００年もの間、死者への鎮魂が続いている事になる。ただ、今では花火大会というイベントがメインで、死者への鎮魂の意識は無くなったものと思える。しかしだ、神社も人が来るから存続できている。墨田川の花火大会も、人々に認められ、多くの人々が押し寄せているから存続できているのだ。その人々の賑わいは、魂の賑わいである。未来の子孫達が、こうして元気でいる事を示すのも、また鎮魂であると思える。徳川吉宗の胸の内はわからぬが、もしかして享保１７年に相次いだ火山の噴火を逆手に取り、それを死者への鎮魂として華々しい花火で表現したのかとも思えてしまう。火山の鳴動は、神の鳴動であり、それは人々の魂を揺らす。その魂の揺らぎを、死者への鎮魂に取り入れ花火大会とし、過去を忘れずというより、未来を見据えた死者への鎮魂が、墨田川の花火大会でなかったのかと、今更ながら感じてしまう。<br />
人は、忘れる生き物でもあるという自覚をし、東日本の大震災の鎮魂を、「決して忘れてはならないもの」という重い意識を続けるより、大震災から生き残った人々や、その子孫が未来永劫続けていけるような、前向きな鎮魂を意識しても良いのではないか。まずは、墨田川の花火大会の歴史の長さを目指し、大震災で亡くなった人達に対し、未来のあなな達の子孫は、こうして明るく平和な人生を過ごしていますよと見せるような死者の鎮魂に変えても良いかと思うのであった。]]></description>
      <dc:subject>「トイウモノ」考</dc:subject>
      <dc:creator>dostoev</dc:creator>
      <pubDate>Thu, 23 Jan 2020 20:28:21 +0900</pubDate>
      <dc:date>2020-01-23T20:28:21+09:00</dc:date>
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      <title>白山様トイウモノ…ついでに今年最後の御挨拶をば。</title>
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      <description><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201912/31/75/f0075075_16491750.jpg" alt="_f0075075_16491750.jpg" class="IMAGE_MID" height="319" width="480" /></center>土渕町に"白山様"という小高い岩山があり、この白山様に登り、長者を祈願すると長者になれたという伝説の岩山でもある。昔は上流の沢水をこの白山様の岩山の上に流し、人工的に滝にして水を流していたという。その滝をイメージしても、雄大であり綺麗であったろうと想像できる。ただ、その滝を単なる景観を良くする為に、人為的に滝を作ったのだろうと当初は、簡単に思っていた。しかし"長者祈願"を結び付けて考えた場合、登竜門の疑似体験場としての白山様では無かったか?と思えた。<br />
<br />
古代中国の後漢書「李膺伝」に、黄河の上流に竜門という激流があり、その下に多くの鯉が集まり、殆どは急流を登れないが、もしも登ったら竜になれると伝える。それが転じて、立身出世の為の関門を、登竜門と言うようになったのが一般的な話となる。つまり、この岩山である白山様に流された滝というのは、登竜門を意図的に作り出し、それから立身出世=長者という貧しい民が長者を志す指標となったのかもしれないと考えてしまった。そういう意味では、単に登るのではなく滝が落ちる険しい場所を登ってこその登竜門であったのだろうか。<br />
<br />
<br />
ただ一つ解せないのが、何故ここが"白山様"と呼ばれているのかだ。考えられるのは、白山信仰が被差別民と結び付いているという事と関係するのではなかろうか。被差別民というと、真っ先に穢多非人という言葉が思いつくが、古代の蝦夷もまた被差別民であったという事。白山信仰は、東日本、特に日本海側に多く分布している。そして西日本の白山信仰の分布は、俘囚として連れて行かれた蝦夷の集落と重なる事からも、白山様は虐げられた被差別民である蝦夷の信仰と重なるのではないかと推測する。更に付け加えれば、蝦夷の長であった奥州藤原氏そのものが、白山を強く信仰していた事も、後押しするだろう。<br />
<br />
<br />
早池峰山中腹にある御金蔵は、白山にも同じものがある。元々早池峰山の名称などは、白山を意図して作られているのは、「白山大鏡」によれば、翠ヶ池に現れたのは、九頭竜であり瀬織津比咩であった。当初白山を支配したのは天台宗であった事から、妙見神の化身が九頭竜である事から、早池峯と白山の信仰が重なる。いや重なるというものではなく、本来同じものであった。恐らく、白山に祀られている姫神が、後から早池峰に祀られたのかとも思える。奥州藤原氏の信仰の重きが、白山と早池峯にかかっているのは、偶然では無いだろう。水沢の正法寺では白山・早池峯・熊野が同体として信仰されているのも、元の龍神であり滝神が同一神である事を意図してのものだろう。<br />
<br />
<br />
白山様と呼ばれる小高い岩山に登り先端から遠望する先には、早池峯が聳える。その早池峰の女神は、東和町から花巻市にかけて「一生に一度だけ、無理な願いを叶えてくれる神」として伝わっている。この無理な願いを叶える内容の話は、「泥棒を守護する神トイウモノ」に書き記した。その"無理な願い"に、貧し民が切望する長者祈願が入っていたとしても、何等不思議ではないだろう。ともかく白山様は、直接的に龍神であり滝神である早池峰の女神に祈願する場所としてあったのだろう。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201912/31/75/f0075075_16460181.jpg" alt="_f0075075_16460181.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center>今年の遠野は暖かく、昨日の午後から降っていた雨も雪に変る事が無かったが、今日の午後からは、その雨が雪に変化してしまった。上の画像は、夕方に撮影した遠野駅前の画像です。見て分かる様に、雨が雪に変わり、うっすらと白くなってしまった。ただ今年最後の日に、雨が雪に変わったのは、よく捉えれば、この記事に書いた様に鯉が龍に変化した吉兆と考えるべきかもしれない。この不景気の時代、来る年に向けて白山様であり早池峯の神に、豊かでゆとりある生活を祈願して、今年を終えたいものと思います。さて皆さま、今年はどうもありがとうございました。ブログも諸事情から更新の頻度が遅くなってはいますが、来年も続けて行こうと思いますので、どうぞ応援よろしくお願いします。それでは皆様、良いお年をm(＿ ＿)m<br />
<br />
]]></description>
      <dc:subject>「トイウモノ」考</dc:subject>
      <dc:creator>dostoev</dc:creator>
      <pubDate>Tue, 31 Dec 2019 18:55:38 +0900</pubDate>
      <dc:date>2019-12-31T18:55:38+09:00</dc:date>
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      <title>河内明神トイウモノ</title>
      <link>http://dostoev.exblog.jp/30683297/</link>
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      <description><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201907/07/75/f0075075_17473487.jpg" alt="_f0075075_17473487.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center>以前、簡単に土淵町の河内明神について、書いた事がある。土淵の郷土史によれば、土淵全体が「河内明神」と「諏訪明神」によって開発されたのではないか？と、考えられているようだ。「諏訪明神」は、有名な長野県の諏訪。ところが「河内明神」の発祥がわからなかった。その為に東北全般に及ぶ羽黒修験の影響を意識し、その東北で、いくつもの河内神社がある山形県を参考にしたのだったが、その大元は違ったようだ。<br />
<br />
実は、この遠野の「河内明神」を、どう読むのかわからなかった。遠野には、河内という姓があり、その殆どを「かわうち」と呼んでいる。ただ国として河内（かわち）国がかってあったが、その河内（かわち）も「古事記」によれば本来「川内」と記されていた事からも、「かわうち・かわち」のどちらでもよいのだろう。しかし河内明神として調べると、その殆どが様付をして「こうち様」と呼ばれる。そしてどうも、河内明神として古くから信仰されているのは、和歌山県牟婁郡を流れる古座川の河内明神のようである。和歌山県牟婁郡の河内明神の信仰は、元々古神道にのっとった信仰で、鳥居も無かったようだ。それ故に、神社関係の本には、殆ど記載されていなかった。明治時代の神社誌によっても、山形県の河内神社がある程度で、どうやら藩主が勧請したらしいというのはわかったが、それがどこなのかまでは、わからなかった。ただ和歌山県牟婁郡の河内明神は、「紀伊続風土記」によれば、かなり古くから信仰されていたもののようで、どうも平安時代まで遡るようである。<br />
<br />
<br />
そして「河内（こうち）」の語源を調べていくと、それは「カカチ」からきているのがわかった。そう「カカチ」とは、”蛇の古語”である。牟婁郡の河内明神を信仰していたのは、古くからの農村の四ヶ村であった事からも、蛇と関係が深いとされる川の水を引く農地開発に関係したであろう。それは、土淵の開発に重なる。ただし、和歌山の牟婁郡の農地開発と、遠野の農地開発では、かなりの時代の隔たりがあるだろう。ところで和歌山県牟婁郡の河内神社に祀られる祭神は素戔男尊となっているが、村人達は「河内（こうち）様は、元々は蛇である。」と断言している。河内様の神域は河内橋の下手一帯で、そこを「六蛇の瀬」と呼んでいる事からも、蛇であろうと思われる。<br />
<br />
<br />
先に記した河内国だが、気になるのは物部氏の勢力圏内であったという事。この和歌山県の牟婁郡は、熊野に隣接しているのだが、この”牟婁（むろ）”の由来は、ウィキペディアによれば「牟婁の由来である「室」は「周りを囲まれた所」を意味し、三方を山に囲まれた田辺湾を指す地名てある。」としている。岩手県の室根は、和歌山県の牟婁郡から蝦夷平定の為に、蛇神でもある早池峯の神が運ばれて来た事に由来しての”室根（むろね）”であった。遠野には、土淵町の”高室（たかむろ）”と、小友町の”土室（つちむろ）”がある。その小友町の土室に鎮座する篠権現には”御室様”が祀られているという。また、同じ小友町の堂場沢稲荷には、御室様を祀る奇岩がある。御室の意味の一つに「神を囲う場所」という意味があるが、古くからの信仰として御室神事を執り行ったきたのは、蛇を祀る諏訪大社である。熊野に隣接する牟婁郡の牟婁も恐らく室で「蛇神を囲う場所」という意があるのではなかろうか。何故なら古座川だが、以前は祓い川という名であり、上流に祓神社が二社ある事からも蛇に関係が深いのが理解できる。「大祓祝詞」によれば祓戸の神は、”罪をカカ呑む”と記されている。カカ呑むとは、蛇の丸呑みの事である。その袚戸神の中心は、熊野大神でもある事から熊野大神の蛇神としての別の姿を囲うという意になるのではなかろうか。話が飛んでしまったが、”室”が登場した古くは「古事記」における、根の国の素戔男尊が登場したくだりである。大己貴命が素戔男尊によって”蛇の室”に泊る事になったが、須世理姫が与えた”蛇の比礼”によって事無きを得たのだが、この蛇の比礼は”物部の神宝”でもあるのだ。それ故に、物部氏の勢力圏であった河内国と河内明神が、まったく関係無いとも言い切れない面がある。<br />
<br />
<br />
ともかく遠野の土淵は、「諏訪」と「河内」という二匹の蛇によって農地が開発されたと考えるべきか。それが和歌山県の牟婁郡に関わるものであるならば、恐らく熊野修験が関わっている可能性があるだろう。その開発された時期は、土淵の郷土史によれば「尾崎神社縁起」に”明神をそこに配置し、開発につとめさせた”事が記されているので、時代は安倍氏の時代から阿曽沼の時代に河内明神を祀り、開発したのであろうという事だ。しかし、何故に土淵の開発の事が「尾崎明神縁起」に記されているのかだが、それは尾崎明神なるものが安倍宗任と関係するものと考えているが、それは別の記事で書く事とする。ただ紹介するとすれば、尾崎明神も鱗があり、安倍宗任もまた鱗があるとの九州の伝承がある事から、尾崎と安倍宗任は結び付くものと思う。ともかく「蛇！蛇！蛇！」である。安倍氏が深く関わる遠野市の土渕もまた、蛇に大きく関わっているようである。<br />
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      <dc:subject>「トイウモノ」考</dc:subject>
      <dc:creator>dostoev</dc:creator>
      <pubDate>Sun, 07 Jul 2019 21:22:34 +0900</pubDate>
      <dc:date>2019-07-07T21:22:34+09:00</dc:date>
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      <title>「遠野物語」トイウモノ</title>
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      <description><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201808/28/75/f0075075_21023955.jpg" alt="_f0075075_21023955.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center>「遠野物語」…柳田國男は、何故にこのタイトルとしたのだろうか。「物語」とは、一般的に「話し、語る事」であり、「様々な事柄について語る事である。」という定義がある。その中には当然、創作の話も加わる。また「物語」とは広義的に、他人に対して語られるものとされる。確かに「○○物語」というものは、多くの読者に読んで欲しいモノであると受け取られている。そういう意味から他人に対して語るも、他人に読んで貰いたいも同義となる。ただ本来「物(モノ)」と呼ばれるものに鬼や御霊が含まれていた。ただその物(モノ)も言霊の一種であり、「鬼」と言えば鬼が寄って来るものと信じられていた為に、敢えて鬼をモノと称していた時代があった。赤坂憲雄「異人論序説」において、赤坂氏は「物語」とはこうであると述べている。<br />
<br />
「物語りとは、いわば、モノ(鬼・御霊)と化して浮遊するマツロハヌモノらのための鎮魂儀礼である。」<br />
<br />
<br />
この赤坂氏の言葉を創作話としてリアリティを持たせたのが、小泉八雲「耳なし芳一」である。「耳なし芳一」では、平家の亡者達に対して語る「平家物語」が、霊の鎮魂となっていた。つまり小泉八雲は「物語」トイウモノの本質を知っていたという事になろう。恐らく、柳田國男もまた、「物語」の本質を知っていたものと思われる。佐々木喜善から聞いた話を、選択しまとめあげた話を「遠野物語」とした。そこには遠野に伝わる全ての話が載っているわけではなかった。あくまで、柳田國男の想いと重なる話が「遠野物語」であったろう。その想いとはねなんであったか。それは恐らく、南方熊楠との書簡でも明らかだが、山人・山男に対する想いであったろう。柳田國男は、遠野にはまだ山人・山男がいるのではないかと期待していたようだ。しかし南方熊楠に、その想いは否定されたのは周知の通り。つまり「遠野物語」とは、柳田國男による山人・山男に対する鎮魂儀礼でもあったのかもしれない。もしくは、文明開化と共に主流となりつつある西洋文明の大きな流れに流されていく、古い時代の遺物に対する鎮魂儀礼であったのかもしれない。赤坂憲雄の言う「マツロハヌモノ」には、時代の流れに取り残された遠野の民も含まれるのかもしれない。その時代の変換期に、今尚古き時代を歩む遠野の民と文化と信仰が、新しい時代の流れに呑み込まれ無くなるであろうと予見した、柳田國男の山人・山男を含む全ての遠野に対する鎮魂儀礼が「遠野物語」であったのかもしれない。<br />
]]></description>
      <dc:subject>「トイウモノ」考</dc:subject>
      <dc:creator>dostoev</dc:creator>
      <pubDate>Tue, 28 Aug 2018 21:46:30 +0900</pubDate>
      <dc:date>2018-08-28T21:46:30+09:00</dc:date>
    </item>
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      <title>南部鶏舞トイウモノ</title>
      <link>http://dostoev.exblog.jp/29540618/</link>
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      <description><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201802/09/75/f0075075_15465680.jpg" alt="_f0075075_15465680.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center>早池峯神社の夜神楽に、鶏舞がある。この鶏舞は、南部神楽の演目のようである。それ故に、画像でわかるように早池峯神社の幕には、南部の家紋が描かれている。この鶏舞は、「古事記」においては天岩戸に籠った天照大神を出そうと、常世の長鳴鳥を集め、互いに長鳴きさせた事を再現したものだとされている。長鳴鳥は、鳴声が暁を告げ、闇の邪気を祓う太陽の神使とされている。伊勢神宮の神使が鶏になっているのは、この「古事記」の記述によるものである。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201802/09/75/f0075075_15471766.jpg" alt="_f0075075_15471766.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center>ところが鶏舞は、雌雄の鶏が踊るものとなっている。東北において雌雄の鶏で、何を思い出すだろうか。それは恐らく、奥州藤原氏が金鶏山に黄金の雌雄の鶏を埋めた伝説ではなかろうか。更に気になるのは、鶏冠の兜のデザインである。恐らく南部時代から続くデザインと思われるが、そこに鶴があしらっているのは南部氏の家紋である向鶴を意図してのものだろう。ただ、鶴は鉱山用語で「鉱脈」を意味している。そして、兜の左右に赤い玉と、白い玉が描かれている。それは日月を意味しているもので、かなり興味を引く。何故なら天台宗、及び真言宗での日月とは、明けの明星である金星を意味するからだ。鎌倉時代の「梵天火羅図」には金星とは「形如女人。頭戴酉冠。白練衣弾弦」と記されているが、様は女神であり、琵琶を弾く事から弁才天や吉祥天に習合しているようである。平泉は、天台宗や真言宗の影響を受けていた。その台密・東密において、金星とは、下記の様に記されている。<br />
<br />
<br />
「中尊志神伝。人魂魄也。但頂鶏戴事。僧正本命曜之金曜也。」<br />
<br />
<br />
中尊が人の魂魄であり、中尊の頭部の鶏冠は僧正の本命曜が金曜星であるとしている。奥州藤原氏の築いた中尊寺の名は、ここからきているのだろう。金鶏山に黄金の雌雄の鶏を埋めたという伝説は、金星に対する信仰に基づくようだ。ただし、あくまでも九曜の中の金星である事から、南部氏の家紋に刻まれている九曜紋の信仰が根底にあるだろう。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201802/09/75/f0075075_17433385.jpg" alt="_f0075075_17433385.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center>さて一歩引いて、鳥舞が天照大神を天岩戸から出す為の手段であるとしよう。早池峯神楽でも、天岩戸舞はある。この舞で現れ出でた天照大神は、黄金の面を付けている。太陽を色で表す場合、赤色、もしくは白色と、月と重なるときがままある。それが黄金色であっても、違和感は無いだろう。ただ、黄金色の大抵は、仏像で使用される場合が多い。以前書いた記事に、「遠野物語拾遺126(三面大黒　続編)」がある。その記事に書いた様に、黄金色の仏像などは、そのまま黄金を意味していた。早池峯神社には、三面大黒の体内仏に黄金の十一面観音像があったと記している。これは山に内包物である金鉱脈を意味するもので、それを手にする為に始閣藤蔵などが、早池峯山に祈願している。早池峯神社の前夜祭で繰り広げられる夜神楽には、南部氏の意識が含まれていたものと思われる。恐らく、鶏舞は天岩戸から黄金の天照大神を出す為の前座の舞であろうが、その背景には金星信仰と九曜信仰があり、それは南部氏が元々採掘・冶金の氏族であった事を意味するのだろう。<br />
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      <dc:subject>「トイウモノ」考</dc:subject>
      <dc:creator>dostoev</dc:creator>
      <pubDate>Fri, 09 Feb 2018 18:07:57 +0900</pubDate>
      <dc:date>2018-02-09T18:07:57+09:00</dc:date>
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