遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
by dostoev
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カテゴリ:「トイウモノ」考( 52 )

「オシラサマ(桑という墓標)」トイウモノ(其の二)

「オシラサマ(桑という墓標)」トイウモノ(其の二)_f0075075_18530794.jpg
桑の木の語源の前に、養蚕の先進地域である三河国に、やはり桑の木が墓標となっている話があるので紹介しよう。「今昔物語(巻第二十六)」「参河の国に犬頭の糸を始むる語、第十一」によれば、繭を飲み込んから大量の絹糸を出して主人を助けた白い犬が糸が尽きると共に死に、その白い犬を埋葬したのが桑の木の根元であった。白い犬というのは、蚕の白色にかけたものであろうか。オシラサマという呼称には、やはり白色が関係深いのだろうと思える。

オシラサマにとって重要なアイテムである桑の木と、その桑(クワ)の語源を調べてみた。まず先に、アイヌ語で"クワ"は"墓標"と"杖"の意味があるとわかった。それを裏付けるかのように、オシラサマ譚の元になったのではと云われる「捜神記」には、庭の大木の枝に、蚕と化していた馬と娘が発見され、それからその大木を「桑(クワ)」と名付けたとあり、桑(ソウ)は喪(ソウ)の意味であると記されている。「喪(ソウ)」とは死者を葬る儀式であり、死者に対する哀悼の礼である。また、有名なシェークスピア「ロミオとジュリエット」の原型であるギリシア神話「ピュラモスとティスベ」では、男女の悲恋の死を見届けた樹木が桑の木であり、その飛び散り流れた男女の血によって桑の実が赤黒くなったと、桑の木にはどこか死の匂いが纏わりついている。また、桑の木ではないとされるが古代中国の「山海経」には、10の太陽の昇る伝説の巨木である扶桑の話がある。また紀元前である戦国時代の「楚辞」には、10個の太陽が現れ灼熱地獄となった為に、9個の太陽を射落とした話が紹介されているが、これは太陽を射殺す三重のゲーター祭りを思い出してしまう。やはり、死は纏わりつく。
「オシラサマ(桑という墓標)」トイウモノ(其の二)_f0075075_18170385.jpg

ところで、「桑」という漢字を考えてみた。木の上に又が三つあるのが桑。篆書体で見ると、上の画像が桑という漢字となる。又の部分が、三本爪の鍬のようになっている。もしかして三本爪の鍬の形は、この篆書体から来ているのか?と思ってしまう。
「オシラサマ(桑という墓標)」トイウモノ(其の二)_f0075075_18083232.jpg
篆書体の桑の又の字だが、調べると「右手」を意味しているようだ。本来「又」とは、右手の象形文字から発生したようである。ところが、この右手の象形文字と似たようなものを見た事がある。それは、北欧に伝わるルーン文字と云われるものだ。
「オシラサマ(桑という墓標)」トイウモノ(其の二)_f0075075_19131797.png
上の画像は、”アイルランドの魔法の杖”と呼ばれる魔法の効果のある印の中で「敵を恐れさせる」意味がある印で、要は魔除けなどの護符と考えればいいだろう。これらもどうやらルーン文字の影響を受けているらしい。ただしウィキペディアによれば、確認されているルーン文字の時代は2世紀から3世紀のものと云われているので、右手の象形文字よりも新しい事になる。ただ問題は、何故似ているのかという事。左手もそうだが、右手は元々神を訪ね、神に遭う為の方法を示している文字だとされる。神道での右は水を表し、左は火を表す事から、桑の木の漢字に何故右が採用されているのかと考えた場合、やはり水との関連が深いのではなかろうか。ルーン文字での鍬のような、フォークの様な形は、元々木を表していると云う。恐らくそれはユグドシラルという世界樹を意図し、そのユグドシラルという木は、"オーディンの馬"という意があり、オーディンはユグドシラルの枝から槍の柄を作った。その槍は、グングニルの槍で"三叉"である。そのユグドシラルの根元に湧くミーミルの泉の水を飲んだ為に片目を失ったオーディンは、右目だけになった。

ただこの北欧神話も、やはりギリシア神話の影響を受けているようだ。ポセイドンに対しての生贄として馬を捧げる信仰があるのだが、水神に対する信仰には、馬が重要視される。また藤縄謙三「ギリシア神話の世界観(ポセイドン神の成立)」によれば、ポセイドンの名前は「大地」と「夫」の結合語で「地母神の夫」という名前であると云う。杖を大地に突き刺すのが大地との交流であり、聖婚を意味する様。それはつまり、水源を示すものであり、地母神の場所を示すものと考えて良いのではないか。そしてそのギリシア神話さえ、ヘシオドスは古代のオリエントの神話の影響を受けたと指摘している。当然、様々な経由から古代中国へと伝わり影響を受けたものと考えても良いのではなかろうか。ともかく右手の象形文字は、古代の樹木信仰の流れを汲むものであり、それが日本に流れ着いたものと思える。そしてアイヌ語でクワは杖や墓標を意味するのだが、杖そのものは槍との違いは無い。杖に刃が括り付けられてあれば、それは槍になるからだ。その信仰の根源はやはり樹木であると思われる。そして田村浩「おしら神の考察」によれば、三叉もしくは四叉の桑の木からオシラサマを彫るとされ、また「九戸郡誌」には、"二又の桑の木をオシラサマとして祀る"とある。この二又三叉は、樹木の呪力を意識してのものであろう。猫が年老いると尻尾が二又にわかれ、猫又という妖怪になるのという構造は恐らく、この二又の樹木の呪力からきているものだろう。

「古事記」において、八上姫と結婚した大国主は、八上姫を因幡から出雲へ連れてきたが、本妻の須世理姫を恐れて、八上姫が生んだ子供を木の股に刺し挟み因幡に返してしまった。それからその子供の名前を木俣神、またの名を御井神といった…という話。この木俣神は、伯耆国の阿陀萱神社で阿陀萱奴志多喜妓比売命という神名で祀られている。その由緒は、下記の通りとなる。

多喜妓比売命は大己貴命の御子なり、母は八迦美姫命と申す。神代の昔、出雲国直会の里にて誕生あり。八迦美姫命、因幡へ帰らんと大己貴命と共に歩行し給ふ時に、御子多喜妓比売命を榎原郷橋本村の里榎の俣に指挟て長く置き給ひしときに、我は木俣神なりと申給ひて宝石山に鎮座し給へり。

また、同地に鎮座する御井神社の祭神も木俣神であり、その由緒に「木俣の神、又は御井の神と申し上げ、安産守護、水神の祖として広く信仰をあつめている。」としている。水神の祖とはどういう事なのかだが、安産守護に関しては二股は女性の股を意図としている事からのものだろう。

樹木は地上と地下の境界であり、地下である根の国の入口として認識されていた。遠野の東禅寺跡に、早池峰権現が無尽和尚の杖をとって地を突いたところ、水が湧きだした事から「杖(またふり)の井」、または開慶水と伝えられる。開慶水は別に早池峯山頂にもあるのだが、早池峯権現がこの東禅寺にも開慶水を与えたという話である。ところで「杖(またふり)の井」とは、二股の木を地面に突き刺して涌き出た泉の事を云う。どうやら二股の部分が地との交流を促す呪力があると信じられていたようだ。二股の杖は西洋では占杖といい、この杖で地下水や地下鉱脈を探るのに使われたという。古今東西、二股の杖は、地下との交流・交信の手段のアイテムであると認識されているのは興味深い事だと思う。柳田國男は、二股の木の股の空洞の部分が水を湛えているものを、天然の井戸であろうとしている。木俣神の別名が、御井神であるのは必然であった。

溝口睦子「ヤクシーと木俣神」の見解によれば、二股の木は水に繋がる豊穣神であろうとしている。二股の空洞に溜まる水が地下と通じている認識は、空洞に溜まった水が地下の黄泉国へと滾り落ちる空間があるという認識で、黄泉国の入り口と捉えられていたのだろう。黄泉国は字の如く、泉の湧く国である。しかし二又の木が黄泉国の入り口という認識でありながら、二又の桑の木をオシラサマとして祀ってきたのは、黄泉国との交信というよりも、水による穢祓いを意図してのものではなかろうか。オシラサマの衣の着せ替えでは無く、衣の着重ねをし続ける行為は穢れを纏う行為である。一身に穢れを纏い祓う事の出来るオシラサマには、水による穢祓いの力がある為だと理解出来る。また「オシラサマ譚」で桑の木に白馬を吊るすのは、ポセイドンへの信仰と同じように水神に対する贄であると思われる。そういう意味では、二又の桑の木から彫られた娘と馬という形は、水神との簡易的な交信のアイテムであり、呪術を行う魔法の杖でもあるのだろう。先に書き記したように、二又の杖は西洋では占杖といい、その杖で地下水や地下鉱脈を探るのに使われたと似たような話が、「遠野物語拾遺83」に記されている。「狩の門出には、おしらさまを手にし持ちて拝むべし。その向きたる方角必ず獲物あり。口伝」とあるように、獲物の占杖としてもオシラサマが認識されているのは、西洋での二又の杖の信仰が日本に流れ着いて定着したものと思えてしまう。次は、その桑の木の信仰と民俗の流れを書こうと思う。

by dostoev | 2020-07-11 09:02 | 「トイウモノ」考

「オシラサマ(桑という墓標)」トイウモノ(其の一)

「オシラサマ(桑という墓標)」トイウモノ(其の一)_f0075075_12394378.jpg
先人の長年の研究からでも、未だにオシラサマの決定打が無いのは、あまりにもオシラサマの性格が多方面に広がっているせいもある。オシラサマはその性格の一つとして代表的なものが、養蚕の神としてのものだ。実際にも、伝わり語られる「オシラサマ」の話には、養蚕の起源譚が紹介されている。そしてまた遠野市上郷町来内の伊豆神社に伝わる伝承に、坂上田村麻呂と安倍宗任に関するものがあるのだが、その伝承は養蚕と結び付いている為、どこか漠然とオシラサマにも繋がっていると思われている。菊池展明「エミシの国の女神」において作者が、三河が養蚕の先進地域であり、「安城市史」には、二名の婦女を陸奥国へ派遣して、現地の人々に養蚕技術を教習させた事が記されている事を紹介している。この二名の婦女のうちの一人が、遠野の伊豆神社の伝承に重なる可能性を示唆している。その伊豆神社の伝承は、下記の通り。

坂上田村麻呂が延暦二年に征夷代将軍に任命され当地方の征夷の時、此の地に拓殖婦人が遣わされ、やがて三人の姫神が生まれた。

また、田村麻呂とは別に安倍宗任の伝承は、下記の通り。

安倍宗任の妻「おない」の方は「おいし」「おろく」「おはつ」の三人の娘を引き連れて、上閉伊郡の山中に隠れる。其の後「おない」は、人民の難産・難病を治療する事を知り、大いに人命を助け、その功により死後は、来内の伊豆権現に合祀される。三人の娘達も大いに人民の助かる事を教え、人民を救いて、人民より神の如く仰がれ其の後附馬牛村「神遺」に於いて別れ三所のお山に登りて、其の後は一切見えずになりたり。それから「おいしかみ」「おろくこし」「おはやつね」の山名起これり。此の三山は神代の昔より姫神等の鎮座せるお山なれば、里人これを合祀せしものなり。

遠野には、オシラサマは安倍宗任が伝えたとの伝承が残っているのは、恐らくこの伝承の影響を受けてのものだろうか?だが、この安倍宗任の話には、養蚕の話は無い。ところで、ここで違和感を覚えるのだが、東北の歴史の幕開けの殆どが、坂上田村麻呂以降になっている事。確かに坂上田村麻呂以降、仏教の布教活動などから中央の文化が伝わったのは否めない事実である。そしてその時代、三河が養蚕の先進地域であったのも確かな事だろう。だがしかし、その三河ではオシラサマが伝わっていないのはどういう事だろうか?オシラサマの分布は、北関東から青森県にかけて。拓殖婦人が蝦夷国に赴き、養蚕を伝えたという事実は、本当に事実であったのか?という疑問が付き纏う。例えば、有名な安倍宗任の逸話だが、その時代の都人は、蝦夷の文化水準を知らなかったと思う。だからこそ、安倍宗任に対し梅の花の名前など知らぬだろうという都人の言葉に対して宗任は「我が国の梅の花とは見つれとも大宮人は如何か言ふらむ」と歌を返した。都人にとって、遠く離れた蝦夷国の情報は、皆無に等しかったと思われる。「日本書紀」にも記されているよう、蝦夷は文化らしきものなどない野蛮人の国であるから討ち取ってしまえの感覚は、この時代にも残っていた可能性はある。もしかして、拓殖婦人が蝦夷国に赴いたのだが、既に養蚕は普及していた。しかし、それを隠して、養蚕を伝え普及させたという話を残した可能性…。この考えに至ったのは「茨城の史跡と伝説」に掲載されている「日本養蚕事始め」という伝説を知ってしまったからだ。これは鹿島地方に伝わる伝説である。

鹿島といえば鹿島神宮があり、蝦夷国平定以前、それこそ坂上田村麻呂が征夷代将軍に任命されたという延暦年間以前に、鹿島から奉幣使が蝦夷国へと通っていた歴史がある。その鹿島神宮奉幣使が、何故か嘉祥元年(844年)に菊多関で追い返された。鹿島神宮の末社の神々が、蝦夷国に祀られていたそうだが、その神が祟ったという理由からだった。鹿島大神の使いを追い返すほどの神威ある神が、蝦夷国にいたという事だ。しかし、何故に祟ったのか。恐らく祟ったというのは表面上で、あくまでも憶測だが、鹿島神宮の一団が蝦夷国に祀られている神の神威を傷つけたのかもしれない。古代に上毛野氏が駒形神を蝦夷の人達の祀る神の上に重ねた事から、蝦夷の反乱が起きた。今回は、蝦夷平定の後であるから、そこまでの反乱とはならなかったが、鹿島神宮の一団を追い返したとは、ある意味反乱に近いのだとも思える。神社団の一行であるから、考えられるのは、祭神の強引な変更であったり、中央に都合の良い神社の由緒を改竄したりなどがあったのかもしれない。

さて、ともかく茨木の養蚕の事始めの話を紹介しよう。

昔、鹿島郡の日川に青塚権太夫という漁師がいた。はるばる奥州からここに流されてきた姫を哀れに思って家に引き取り、我が子のようにいつくしみ育てているうちに姫は横に伏して間もなく世を去った。権太夫は涙ながらに姫の亡骸を庭の隅に葬った。するとそこから一本の木が生えて、春の初めになると房々とした青葉をつけて生き生きと茂っていた。すると木の根元から小さな白い虫がぞろぞろ這い出して来て木に登り、その葉を食べて成長した。そして丸い巣を造ってその中に隠れた。権太夫が巣を煮ると巣はつやつやとした糸になった。その木はクワで、巣はマユ、虫はすなわち蚕であった。クワの木の葉で育った虫なので、クワコと呼ばれた。これが養蚕の事始めというのである。

解説は、この茨木の養蚕の話は、元々蝦夷国に伝わる伝説を下敷きにしたものだと述べている。その蝦夷国に伝わる養蚕の伝説とは、下記の通りとなる。

昔、美しき姫がいた。その母みまかりければ、父なる人は後妻を迎えた。後妻は、いたく娘を憎み、朝な夕なに虐待した。姫は遂に堪えかねて、庭の池に身を投げて死んだ。継母はそれをよきことに思って、娘の屍をひそかに庭に埋めてしまった。父は、姫が見えぬのを不思議に思って継母に尋ねたけれど、知らぬ存じませぬとばかりでどうにもならなかった。ところが姫の屍を埋めたところから、一本の木が生え茂り、土中から多くの虫が出てその葉を食い、白く清らかな巣をたくさん結んだ。父はいと不審に思い、木の根を掘り返して見ると、姫の着衣はそのままにあって、体はすべて虫になっていた。今の世の蚕は、この姫の化身である。さて、姫の名を、くわこ姫といったので、その木をクワと名付けた。

補足として、茨木の鹿島の日川の青塚権太夫が育てた姫は、蝦夷国の大酋長の娘であったと伝わっているそうだ。そしてアイヌ語で、"クワ"は杖の意味と"墓標"の意味がある。「日本の養蚕事始め」の開設にも「奥羽の蛮族の中にこの伝説は古くから伝わっていたので、桑の木を墓標樹という意味でクワと呼び、繭は墓の中から出たという意味で、クワコと呼んだのであろう。

遠野に伝わる語り部の語る一般的な「オシラサマ」の話は、古代中国の「捜神記」に似通っていると有名となっている。それは殆ど、東北の地に伝えられ、広まり定着したものだと。しかし、養蚕の初めの話が東北であり、蝦夷国から始まったとされ、それが古代の常陸国に伝わり広まった話は、これが初めてだった。茨木県の養蚕に関係する古い神社の創建は、孝霊天皇の時代だというのだが、それが本当だとするとかなり古い。継体天皇以降、養蚕を奨励する記録があるのだが、孝霊天皇であるなら、継体天皇よりもかなり古い時代の話となってしまう。その時代に、もしも東北から養蚕が伝わったのならば、それは逆に、朝廷側にとって隠しておきたい事実となってしまう。ともかく、東北であり蝦夷国であり、日高見国の入り口であった常陸国に、この伝説が伝わり未だに残っているというのは、とても貴重な伝説だと思う。続きは、オシラサマの桑の木に関して書き綴ろうと思う。

by dostoev | 2020-06-27 17:59 | 「トイウモノ」考

「山寺の和尚さん」の猫トイウモノ

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「山寺の和尚さん」という童謡がある。個人的な思い出は、幼稚園の頃に発表会でのお遊戯で、この「山寺の和尚さん」の歌に合わせ、小坊主姿で踊った記憶が、今でも残っている。今まであまり気にもしていなかったが、ネットを検索すると「動物虐待の歌だ!」などの言葉が多く見受けられる。確かに袋に猫を入れて蹴るというのは、虐待ではある。以前、罠にはまったアナグマを貰い受けた事があった。ちなみに遠野では、御年輩の方々は、アナグマの事をマミと言っていた。そして以前から「マミは、うめぇぞ。」という話をご年配達から聞いていたので、一度食べてみたいと思った。しかし生きているアナグマを殺傷処分し、捌くという事は、自分には出来ないと思っていた。そんな時に、同級生の親父が、それに長けていると聞き、人伝に頼んでみる事にした。どうにか処分を引き受けてもらい、謝礼は酒一升だけという事だった。そのアナグマの屠殺方法は、袋に入れて棍棒で殴り殺すというものだったらしい。袋に入れるという事は、血が飛び散らないようにする為でもあり、動物を目隠しするという意味もあるのだろうか。とにかく、動物を袋に入れるという事は尋常ならざる事である。とにかく、その歌の歌詞を紹介しよう。

山寺の 和尚さんは

毬はけりたし 毬はなし

猫をかん袋に 押し込んで

ポンとけりゃ ニャンとなく

ニャンがニャンとなく ヨイヨイ
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実は、歌詞は三番まであるのだが、調べると下記のサイトが詳しく、ある人物が二番と三番を付加して曲にしたようである。そして上記の一番の歌詞は、わらべ唄から引用して作った歌詞であったそうな。つまり、「猫をかん袋に…。」という歌詞は、本来わらべ唄からであり、時代はどこまで遡るかわからないのだろう。

http://www13.big.or.jp/~sparrow/MIDI-yamaderano-oshosan-exp.html
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実は、山本ひろ子「諏訪学」を読んでいて、「かん袋」についての指摘が記されていた。それは、諏訪の風の祝に関しての流れからの一節であった。

「かんぶくろはかぜ袋のなまったものか、後世神長官の被官に"神袋役"杉之丞というのが居て神長官の神札をうる御師であった。」
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以前、遠野市綾織町の笠通山の笠とは「風」ではないか?と書いた事がある。それは、昭和22年、そして23年にカスリン台風とアイオン台風が遠野を襲った際、死者約200人を出す災害となった事から、猿ヶ石川という大河が流れる綾織町では、"三笠山"の石碑を笠通山の頂に奉納し、猿ヶ石川沿いに桜の木を植えた。それを疑問に持ち何故、笠通山に三笠山の石碑を奉納したのか聞いても、誰も知る者はいなかった。調べると、伊勢神宮に風日祈宮(風神社)の「御笠神事」というものがある事を知った。その神事の時には、"御笠"と"蓑"を奉納するというものだ。

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恐らく、笠通山の頂に奉納された三笠山の石碑は、御笠の間違いでは無かったかと思える。遠野の石碑を見てきたが、いくつか漢字を間違って刻んでいるものもある事から、「御笠(みかさ)」→「三笠(みかさ)」の間違いは有り得る事だろう。そして伊勢神宮の御笠神事では笠と蓑を奉納するというものだが、笠通山には、頂にも麓にも神社が無い。笠を山にそのまま奉納しても、1年も持たないだろう。それ故に、石碑にしたのだと思える。そして蓑だが、これが二郷山にある。二郷山は、桧山、笠通山と並んで綾織三山と伝えられる霊山である。また二郷山は「遠野物語拾遺37」「遠野物語拾遺165」の舞台になっている恐ろしい山である。
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二郷山神社があり、そこには蓑が奉納されていたようだ。奥州征伐の後、阿曽沼氏が遠野を統治した。しかし当初は、農地の開発に着手し、まず綾織の開拓から始めたという。農民にとっての風は、天敵であった。沿岸域の方領神社では、帆船時代の漁民達が風を起こすよう祈願するのに対し、農民達は風が止むように祈願したという。風というものは、仕事によって必要、不必要となった自然現象であった。当然、農地が開発された綾織地区でも、風に対する懸念はあったのだろう。

天武天皇が即位し、まず広瀬の水神と龍田の風神を祀った。「倭姫命世紀」には、こう記されている。「風神(カゼノカミ)  一名志那都比古神。広瀬竜田同神也。」と。つまり広瀬も龍田も、どちらも風神であったようだ。また伴信友倭姫命世紀考」には「級津彦命、科戸邊命、伊勢津彦命ト同神ニテ諏訪ノ建御名方モ同神ナルコト云ベシ」と書かれている。そして「府縣郷社明治神社誌料」には、「上古より此國に風吹荒むこと烈しければ、信濃風の名自然に出で、轉じて神名となり、又訛りて志奈斗語さへ支分したるか云々。」と記されている様に、シナノがシナトに転訛は有り得る話であると思う。つまり、これらから諏訪の神も伊勢の神も広瀬神も龍田神も同神であるという事になる。

天武天皇が祀った広瀬と龍田は、大和川を挟んで、違う方角に祀られている。それと同じように、笠通山と二郷山は、猿ヶ石川と綾織の田園地帯を挟んで向かい合わせにある山でもある。可能性として、綾織を開拓するにあたり、風鎮めを祈願する山を選定したのが、笠通山であり二郷山ではなかったか。二郷山の中腹にある神社には、蛇が祀られているが、笠通山には何が祀られているのか?と考えた場合、出てくるのは猫である。
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安倍貞任の伝説の中に、この笠通山が登場する。その中に、怪猫が現れる場面がある。笠通山を笠岡城と表し、源義家との戦いを記しているのだが、その最中に突然、何の脈絡もなく怪猫が現れる。「山の岩窟より身の丈五尺余の怪猫がおどり出て飛びかかってきた。」と記されている。怪猫は、その後に矢を受けて石になってしまうのだがこれを読むと、現在笠通山の中腹にある猫石の由来譚に、強引に神秘性を持たせている感がある。ただ注意しなければならないのは、この怪猫が岩窟から現れたという記述である。また別に、二郷山にも三本足の猫がいて、その姿を目撃すると死ぬとの伝説もある。
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荒ぶる風の神の正体は、伊勢津彦命の伝承を読んでわかるように岩窟や洞窟から噴き出す強風・暴風であった。風の神事は、その"暴風を穴や袋に追い込み、蓋をし、封じ込める"というもの。これは、風を生き物とみなしての神事であったようだ。そして笠通山にも岩窟があったのは、安倍貞任の伝説から理解できる。そして猫だが、宮崎県から熊本県にかけて、悪しき風は猫が起こすと伝わる。それと同じような伝説が、新潟にもあった。沿岸域でよく虎舞が舞われるのは、虎は風を司る生き物と古代中国から伝わった為でもあるが、その虎の代わりとして猫が重ねられた為に、猫が悪しき風を起こすという伝説が生じたのだと思う。
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諏訪の守屋山には三郎宮というものが、かつてあったそうである。それは風の三郎を祀る宮であったと。宮沢賢治「風の又三郎」も、この信濃の風の三郎から書かれた物語であった。その風の三郎の信仰は、北陸まで及んでいるとの事であるから、信濃と北陸では風の神に対する意識の共通性があるのだろう。ところで話を戻すが、「山寺の和尚さん」の童謡の舞台は山形県の山寺、正式には天台宗である立石寺である。山形県は出羽でもあるのだが、出羽の古い言葉とは「イテハ」。これはつまり、「越の国外れ」という意味である。越の国とは今で言う新潟県にあたる事から、猫が悪しき風を起こす存在である事は、山形県にも当然伝わっている事だろう。また、遠野市の綾織町に聳える笠通山は、別名「出羽通山」とも呼ばれる事からも、山形県の羽黒修験との関係は深い。笠通山の怪猫の伝説は、悪しき風を起こす存在としての笠通山に対し、風とは生き物であるという認識と、その風を起こすのは猫であるという伝承が伝わったものが変換され、怪猫伝承として笠通山に創られたものであろう。そして「山寺の和尚さん」の童謡に伝わる「猫をかん袋に押し込んで」という言葉は、そのまま風は生き物である認識による、風を追い込んで、穴や袋に封じ込める神事を、面白おかしく伝えたものが童謡として創られたものであろう。そう、童謡「山寺の和尚さん」猫の正体は、悪しき風であったのだろう。

by dostoev | 2020-04-19 10:19 | 「トイウモノ」考

死者の鎮魂トイウモノ

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昨日のニュースで、政府主催の東日本大震災追悼式を来年までとすると発表し、その政府の発表を煽るように朝日新聞社は釜石市長に、それとなりを聞いたようだ。釜石市長は「国がやろうとやるまいと、私たちはこれかもずっと毎年やっていく。私たちにとって今後も決して忘れてはならない出来事だから。」と述べた。これは当然の言葉であると共に、とても難しい言葉であった。何故なら一世紀もすれば、人は入れ替わるからだ。となれば、住む住人に過去の人の面影さえわからぬ人が主体となる。変な話だが、親戚付き合いも、互いに知らない同氏の世代になった時、その親戚関係は廃れてしまう。例えば、震災で息の子供たちが寿命を迎える可能性の高い80年後、どれだけの人が震災で亡くなった方々の面影を偲べるかという話になってしまう。思いが無くなれば、その行為は長続きしないからだ。昭和22年にカスリン台風、昭和23年にアイオン台風が遠野を襲い、多くの人達が亡くなった。しかし、自分がその話を聞いても、どこか人ごとに感じたのは、自分自身がまだ生まれていなかったらでもある。また、身内にその関係者がいなかったせいもある。どこか遠い昔話の様な感覚で、その事実を知った。つまり、災害に対するリアリティが失せているからだった。そこに自分は「方丈記」の序文を重ねてしまう。

行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。淀みに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる試なし。世の中にある、人とすみかと、またかくの如し。玉敷きの都のうちに、棟を並べ甍を争へる、高き、いやしき人の住ひは、世々を經て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ焼けて今年作れり。或いは大家ほろびて小家となる。住む人もこれに同じ。所も変らず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。朝に死に、夕に生るるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。

不知、生れ死ぬる人、何方より来りて、何方へか去る。また不知、仮の宿り、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目を喜ばしむる。その主と栖と、無常を争ふさま、いはば朝顏の露に異ならず。或は露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。或は花しぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、夕を待つ事なし。

                              「方丈記」

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恐らく、死者の鎮魂の行事として最長にとなるものは、墨田川の花火大会ではなかろうか。享保18年、徳川吉宗が死者の慰霊の為に墨田川で花火を打ち上げた。これは、水難防止を祈願する川開きという年中行事であったが、花火が加わったことで、江戸の有名な夏の風物詩となった。しかし、この享保の時代は、前年の享保17年は大飢饉が発生し、またコレラが蔓延し、多くの死者を出した年代であった。その大飢饉の原因となったであろう、全国的に火山が活性化していた時代であるようだ。岩手山も、享保17年に噴火している。享保18年は、西暦1733年。つまり墨田川の花火大会は、現代も続いている事から、約300年もの間、死者への鎮魂が続いている事になる。ただ、今では花火大会というイベントがメインで、死者への鎮魂の意識は無くなったものと思える。しかしだ、神社も人が来るから存続できている。墨田川の花火大会も、人々に認められ、多くの人々が押し寄せているから存続できているのだ。その人々の賑わいは、魂の賑わいである。未来の子孫達が、こうして元気でいる事を示すのも、また鎮魂であると思える。徳川吉宗の胸の内はわからぬが、もしかして享保17年に相次いだ火山の噴火を逆手に取り、それを死者への鎮魂として華々しい花火で表現したのかとも思えてしまう。火山の鳴動は、神の鳴動であり、それは人々の魂を揺らす。その魂の揺らぎを、死者への鎮魂に取り入れ花火大会とし、過去を忘れずというより、未来を見据えた死者への鎮魂が、墨田川の花火大会でなかったのかと、今更ながら感じてしまう。

人は、忘れる生き物でもあるという自覚をし、東日本の大震災の鎮魂を、「決して忘れてはならないもの」という重い意識を続けるより、大震災から生き残った人々や、その子孫が未来永劫続けていけるような、前向きな鎮魂を意識しても良いのではないか。まずは、墨田川の花火大会の歴史の長さを目指し、大震災で亡くなった人達に対し、未来のあなな達の子孫は、こうして明るく平和な人生を過ごしていますよと見せるような死者の鎮魂に変えても良いかと思うのであった。

by dostoev | 2020-01-23 20:28 | 「トイウモノ」考

白山様トイウモノ…ついでに今年最後の御挨拶をば。

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土渕町に"白山様"という小高い岩山があり、この白山様に登り、長者を祈願すると長者になれたという伝説の岩山でもある。昔は上流の沢水をこの白山様の岩山の上に流し、人工的に滝にして水を流していたという。その滝をイメージしても、雄大であり綺麗であったろうと想像できる。ただ、その滝を単なる景観を良くする為に、人為的に滝を作ったのだろうと当初は、簡単に思っていた。しかし"長者祈願"を結び付けて考えた場合、登竜門の疑似体験場としての白山様では無かったか?と思えた。

古代中国の後漢書「李膺伝」に、黄河の上流に竜門という激流があり、その下に多くの鯉が集まり、殆どは急流を登れないが、もしも登ったら竜になれると伝える。それが転じて、立身出世の為の関門を、登竜門と言うようになったのが一般的な話となる。つまり、この岩山である白山様に流された滝というのは、登竜門を意図的に作り出し、それから立身出世=長者という貧しい民が長者を志す指標となったのかもしれないと考えてしまった。そういう意味では、単に登るのではなく滝が落ちる険しい場所を登ってこその登竜門であったのだろうか。

ただ一つ解せないのが、何故ここが"白山様"と呼ばれているのかだ。考えられるのは、白山信仰が被差別民と結び付いているという事と関係するのではなかろうか。被差別民というと、真っ先に穢多非人という言葉が思いつくが、古代の蝦夷もまた被差別民であったという事。白山信仰は、東日本、特に日本海側に多く分布している。そして西日本の白山信仰の分布は、俘囚として連れて行かれた蝦夷の集落と重なる事からも、白山様は虐げられた被差別民である蝦夷の信仰と重なるのではないかと推測する。更に付け加えれば、蝦夷の長であった奥州藤原氏そのものが、白山を強く信仰していた事も、後押しするだろう。

早池峰山中腹にある御金蔵は、白山にも同じものがある。元々早池峰山の名称などは、白山を意図して作られているのは、「白山大鏡」によれば、翠ヶ池に現れたのは、九頭竜であり瀬織津比咩であった。当初白山を支配したのは天台宗であった事から、妙見神の化身が九頭竜である事から、早池峯と白山の信仰が重なる。いや重なるというものではなく、本来同じものであった。恐らく、白山に祀られている姫神が、後から早池峰に祀られたのかとも思える。奥州藤原氏の信仰の重きが、白山と早池峯にかかっているのは、偶然では無いだろう。水沢の正法寺では白山・早池峯・熊野が同体として信仰されているのも、元の龍神であり滝神が同一神である事を意図してのものだろう。

白山様と呼ばれる小高い岩山に登り先端から遠望する先には、早池峯が聳える。その早池峰の女神は、東和町から花巻市にかけて「一生に一度だけ、無理な願いを叶えてくれる神」として伝わっている。この無理な願いを叶える内容の話は、「泥棒を守護する神トイウモノ」に書き記した。その"無理な願い"に、貧し民が切望する長者祈願が入っていたとしても、何等不思議ではないだろう。ともかく白山様は、直接的に龍神であり滝神である早池峰の女神に祈願する場所としてあったのだろう。
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今年の遠野は暖かく、昨日の午後から降っていた雨も雪に変る事が無かったが、今日の午後からは、その雨が雪に変化してしまった。上の画像は、夕方に撮影した遠野駅前の画像です。見て分かる様に、雨が雪に変わり、うっすらと白くなってしまった。ただ今年最後の日に、雨が雪に変わったのは、よく捉えれば、この記事に書いた様に鯉が龍に変化した吉兆と考えるべきかもしれない。この不景気の時代、来る年に向けて白山様であり早池峯の神に、豊かでゆとりある生活を祈願して、今年を終えたいものと思います。さて皆さま、今年はどうもありがとうございました。ブログも諸事情から更新の頻度が遅くなってはいますが、来年も続けて行こうと思いますので、どうぞ応援よろしくお願いします。それでは皆様、良いお年をm(_ _)m

by dostoev | 2019-12-31 18:55 | 「トイウモノ」考

河内明神トイウモノ

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以前、簡単に土淵町の河内明神について、書いた事がある。土淵の郷土史によれば、土淵全体が「河内明神」と「諏訪明神」によって開発されたのではないか?と、考えられているようだ。「諏訪明神」は、有名な長野県の諏訪。ところが「河内明神」の発祥がわからなかった。その為に東北全般に及ぶ羽黒修験の影響を意識し、その東北で、いくつもの河内神社がある山形県を参考にしたのだったが、その大元は違ったようだ。

実は、この遠野の「河内明神」を、どう読むのかわからなかった。遠野には、河内という姓があり、その殆どを「かわうち」と呼んでいる。ただ国として河内(かわち)国がかってあったが、その河内(かわち)も「古事記」によれば本来「川内」と記されていた事からも、「かわうち・かわち」のどちらでもよいのだろう。しかし河内明神として調べると、その殆どが様付をして「こうち様」と呼ばれる。そしてどうも、河内明神として古くから信仰されているのは、和歌山県牟婁郡を流れる古座川の河内明神のようである。和歌山県牟婁郡の河内明神の信仰は、元々古神道にのっとった信仰で、鳥居も無かったようだ。それ故に、神社関係の本には、殆ど記載されていなかった。明治時代の神社誌によっても、山形県の河内神社がある程度で、どうやら藩主が勧請したらしいというのはわかったが、それがどこなのかまでは、わからなかった。ただ和歌山県牟婁郡の河内明神は、「紀伊続風土記」によれば、かなり古くから信仰されていたもののようで、どうも平安時代まで遡るようである。

そして「河内(こうち)」の語源を調べていくと、それは「カカチ」からきているのがわかった。そう「カカチ」とは、”蛇の古語”である。牟婁郡の河内明神を信仰していたのは、古くからの農村の四ヶ村であった事からも、蛇と関係が深いとされる川の水を引く農地開発に関係したであろう。それは、土淵の開発に重なる。ただし、和歌山の牟婁郡の農地開発と、遠野の農地開発では、かなりの時代の隔たりがあるだろう。ところで和歌山県牟婁郡の河内神社に祀られる祭神は素戔男尊となっているが、村人達は「河内(こうち)様は、元々は蛇である。」と断言している。河内様の神域は河内橋の下手一帯で、そこを「六蛇の瀬」と呼んでいる事からも、蛇であろうと思われる。

先に記した河内国だが、気になるのは物部氏の勢力圏内であったという事。この和歌山県の牟婁郡は、熊野に隣接しているのだが、この”牟婁(むろ)”の由来は、ウィキペディアによれば「牟婁の由来である「室」は「周りを囲まれた所」を意味し、三方を山に囲まれた田辺湾を指す地名てある。」としている。岩手県の室根は、和歌山県の牟婁郡から蝦夷平定の為に、蛇神でもある早池峯の神が運ばれて来た事に由来しての”室根(むろね)”であった。遠野には、土淵町の”高室(たかむろ)”と、小友町の”土室(つちむろ)”がある。その小友町の土室に鎮座する篠権現には”御室様”が祀られているという。また、同じ小友町の堂場沢稲荷には、御室様を祀る奇岩がある。御室の意味の一つに「神を囲う場所」という意味があるが、古くからの信仰として御室神事を執り行ったきたのは、蛇を祀る諏訪大社である。熊野に隣接する牟婁郡の牟婁も恐らく室で「蛇神を囲う場所」という意があるのではなかろうか。何故なら古座川だが、以前は祓い川という名であり、上流に祓神社が二社ある事からも蛇に関係が深いのが理解できる。「大祓祝詞」によれば祓戸の神は、”罪をカカ呑む”と記されている。カカ呑むとは、蛇の丸呑みの事である。その袚戸神の中心は、熊野大神でもある事から熊野大神の蛇神としての別の姿を囲うという意になるのではなかろうか。話が飛んでしまったが、”室”が登場した古くは「古事記」における、根の国の素戔男尊が登場したくだりである。大己貴命が素戔男尊によって”蛇の室”に泊る事になったが、須世理姫が与えた”蛇の比礼”によって事無きを得たのだが、この蛇の比礼は”物部の神宝”でもあるのだ。それ故に、物部氏の勢力圏であった河内国と河内明神が、まったく関係無いとも言い切れない面がある。

ともかく遠野の土淵は、「諏訪」と「河内」という二匹の蛇によって農地が開発されたと考えるべきか。それが和歌山県の牟婁郡に関わるものであるならば、恐らく熊野修験が関わっている可能性があるだろう。その開発された時期は、土淵の郷土史によれば「尾崎神社縁起」”明神をそこに配置し、開発につとめさせた”事が記されているので、時代は安倍氏の時代から阿曽沼の時代に河内明神を祀り、開発したのであろうという事だ。しかし、何故に土淵の開発の事が「尾崎明神縁起」に記されているのかだが、それは尾崎明神なるものが安倍宗任と関係するものと考えているが、それは別の記事で書く事とする。ただ紹介するとすれば、尾崎明神も鱗があり、安倍宗任もまた鱗があるとの九州の伝承がある事から、尾崎と安倍宗任は結び付くものと思う。ともかく「蛇!蛇!蛇!」である。安倍氏が深く関わる遠野市の土渕もまた、蛇に大きく関わっているようである。

by dostoev | 2019-07-07 21:22 | 「トイウモノ」考

「遠野物語」トイウモノ

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「遠野物語」…柳田國男は、何故にこのタイトルとしたのだろうか。「物語」とは、一般的に「話し、語る事」であり、「様々な事柄について語る事である。」という定義がある。その中には当然、創作の話も加わる。また「物語」とは広義的に、他人に対して語られるものとされる。確かに「○○物語」というものは、多くの読者に読んで欲しいモノであると受け取られている。そういう意味から他人に対して語るも、他人に読んで貰いたいも同義となる。ただ本来「物(モノ)」と呼ばれるものに鬼や御霊が含まれていた。ただその物(モノ)も言霊の一種であり、「鬼」と言えば鬼が寄って来るものと信じられていた為に、敢えて鬼をモノと称していた時代があった。赤坂憲雄「異人論序説」において、赤坂氏は「物語」とはこうであると述べている。

「物語りとは、いわば、モノ(鬼・御霊)と化して浮遊するマツロハヌモノらのための鎮魂儀礼である。」

この赤坂氏の言葉を創作話としてリアリティを持たせたのが、小泉八雲「耳なし芳一」である。「耳なし芳一」では、平家の亡者達に対して語る「平家物語」が、霊の鎮魂となっていた。つまり小泉八雲は「物語」トイウモノの本質を知っていたという事になろう。恐らく、柳田國男もまた、「物語」の本質を知っていたものと思われる。佐々木喜善から聞いた話を、選択しまとめあげた話を「遠野物語」とした。そこには遠野に伝わる全ての話が載っているわけではなかった。あくまで、柳田國男の想いと重なる話が「遠野物語」であったろう。その想いとはねなんであったか。それは恐らく、南方熊楠との書簡でも明らかだが、山人・山男に対する想いであったろう。柳田國男は、遠野にはまだ山人・山男がいるのではないかと期待していたようだ。しかし南方熊楠に、その想いは否定されたのは周知の通り。つまり「遠野物語」とは、柳田國男による山人・山男に対する鎮魂儀礼でもあったのかもしれない。もしくは、文明開化と共に主流となりつつある西洋文明の大きな流れに流されていく、古い時代の遺物に対する鎮魂儀礼であったのかもしれない。赤坂憲雄の言う「マツロハヌモノ」には、時代の流れに取り残された遠野の民も含まれるのかもしれない。その時代の変換期に、今尚古き時代を歩む遠野の民と文化と信仰が、新しい時代の流れに呑み込まれ無くなるであろうと予見した、柳田國男の山人・山男を含む全ての遠野に対する鎮魂儀礼が「遠野物語」であったのかもしれない。

by dostoev | 2018-08-28 21:46 | 「トイウモノ」考

南部鶏舞トイウモノ

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早池峯神社の夜神楽に、鶏舞がある。この鶏舞は、南部神楽の演目のようである。それ故に、画像でわかるように早池峯神社の幕には、南部の家紋が描かれている。この鶏舞は、「古事記」においては天岩戸に籠った天照大神を出そうと、常世の長鳴鳥を集め、互いに長鳴きさせた事を再現したものだとされている。長鳴鳥は、鳴声が暁を告げ、闇の邪気を祓う太陽の神使とされている。伊勢神宮の神使が鶏になっているのは、この「古事記」の記述によるものである。
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ところが鶏舞は、雌雄の鶏が踊るものとなっている。東北において雌雄の鶏で、何を思い出すだろうか。それは恐らく、奥州藤原氏が金鶏山に黄金の雌雄の鶏を埋めた伝説ではなかろうか。更に気になるのは、鶏冠の兜のデザインである。恐らく南部時代から続くデザインと思われるが、そこに鶴があしらっているのは南部氏の家紋である向鶴を意図してのものだろう。ただ、鶴は鉱山用語で「鉱脈」を意味している。そして、兜の左右に赤い玉と、白い玉が描かれている。それは日月を意味しているもので、かなり興味を引く。何故なら天台宗、及び真言宗での日月とは、明けの明星である金星を意味するからだ。鎌倉時代の「梵天火羅図」には金星とは形如女人。頭戴酉冠。白練衣弾弦」と記されているが、様は女神であり、琵琶を弾く事から弁才天や吉祥天に習合しているようである。平泉は、天台宗や真言宗の影響を受けていた。その台密・東密において、金星とは、下記の様に記されている。

「中尊志神伝。人魂魄也。但頂鶏戴事。僧正本命曜之金曜也。」

中尊が人の魂魄であり、中尊の頭部の鶏冠は僧正の本命曜が金曜星であるとしている。奥州藤原氏の築いた中尊寺の名は、ここからきているのだろう。金鶏山に黄金の雌雄の鶏を埋めたという伝説は、金星に対する信仰に基づくようだ。ただし、あくまでも九曜の中の金星である事から、南部氏の家紋に刻まれている九曜紋の信仰が根底にあるだろう。
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さて一歩引いて、鳥舞が天照大神を天岩戸から出す為の手段であるとしよう。早池峯神楽でも、天岩戸舞はある。この舞で現れ出でた天照大神は、黄金の面を付けている。太陽を色で表す場合、赤色、もしくは白色と、月と重なるときがままある。それが黄金色であっても、違和感は無いだろう。ただ、黄金色の大抵は、仏像で使用される場合が多い。以前書いた記事に、「遠野物語拾遺126(三面大黒 続編)」がある。その記事に書いた様に、黄金色の仏像などは、そのまま黄金を意味していた。早池峯神社には、三面大黒の体内仏に黄金の十一面観音像があったと記している。これは山に内包物である金鉱脈を意味するもので、それを手にする為に始閣藤蔵などが、早池峯山に祈願している。早池峯神社の前夜祭で繰り広げられる夜神楽には、南部氏の意識が含まれていたものと思われる。恐らく、鶏舞は天岩戸から黄金の天照大神を出す為の前座の舞であろうが、その背景には金星信仰と九曜信仰があり、それは南部氏が元々採掘・冶金の氏族であった事を意味するのだろう。

by dostoev | 2018-02-09 18:07 | 「トイウモノ」考

天女トイウモノ(其の一)

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菊池照雄「山深き遠野の里の物語せよ」において菊池照雄氏は、館と沼の御前と天女伝説が何故か結び付いていると問題提起した。「遠野物語拾遺1」「遠野物語拾遺3」「遠野物語拾遺4」にも天女、もしくは天人児の話として紹介されている事から、遠野でも天女伝説は大切なものとして定着したものだろう。その最もたるものは、遠野三山神話になる。早池峯山、六角牛山、石上山の三山に、三女神が向かうのには歩いて行く表現もあるが、飛んで行くという表現もある。日本の古代では、天を山の上とも定めていた。その山の上に飛んで行く遠野三山の女神は、天女でもあった。蓮華を手にした女神は早池峯を手にする事がとされるが、蓮華を象徴するものは吉祥天女である。つまり、早池峯を手にした女神は吉祥天女でもあるという事。これは、北の守護神でもある毘沙門天に対比されるものでもある。その毘沙門天の妻は、吉祥天とされている事からも、早池峯山へと据え置かれた女神は、当時の朝廷の考えに則った女神である。早池峯の女神は瀬織津比咩という神名を持っているが、その古くは熊野から養老年間に蝦夷征伐の為に室根山へと運ばれて来た女神であるが、当時最強の女神という触れ込みであった様。

これは遠野だけでなく日本全国に拡がる天女の話ではあるが、日本に於いては「近江国風土記」「丹後国風土記」の天女伝説が元になるのであるのだろう。しかし、これら「風土記」の羽衣伝説もまた、何かをモチーフにして創作されたものと思わねばなるまい。例えば阿蘇の羽衣伝説を調べると、神武天皇の孫がその地を支配した時、その土地の娘を強奪して奪った、もしくは土地の地母神を奪った行為が、羽衣伝説になったものに思える。司東真雄「東北の古代探訪」によれば、大昔から蝦夷が神としていた山に上毛野国から来た上毛野氏が駒形神を祀った為に、蝦夷の反乱が起きたと記されている。神を祀る地に、別の神を祀るとは、その神や、神を祀る人々に対する冒涜になる。しかし、その土地の地母神を妻にするというのは、ある意味融和策であろうが、人質にとったものでもある事から、その土地の者達は手出しを出来なくなる。

天女の起源はインドに求められる様だが、古代中国での一般的は、天の川と重なる天女伝説となる。天の川といえば、天照大神と素戔男尊の誓約の場面は、天の安川を挟んでのものだった。天の安川とは、天の川であるとされる。更に素戔男尊が手にする十握劒を天照大神が手にして三つに折り、天眞名井の水で濯ぎ噛みに噛んで噴きだした狭霧から誕生したのが宗像三女神であった。「丹後風土記」で眞名井の池で水浴びしていたのが天女であるから、恐らく天眞名井の水の狭霧から誕生した宗像三女神が天女のモデルになったのではなかろうか。「丹後風土記」に登場する豊受大神だが、中世には天照大神よりも神格の高い女神とされた。江戸時代になってお伊勢参りが盛んになるが、それは伊勢神宮での豊受大神を祀る外宮参りであって、天照大神への参詣ではなかった。何故に豊受大神が天照大神を凌ぐ神格に昇格したかといえば、それは中世に創られた中世神話によるものであったよう。山本ひろ子「中世神話」を読む限り、豊受大神の存在そのものが、いろいろと利用されたものの様に感じてしまう。それ故に「丹後国風土記」もまた、豊受大神の神格の上昇に一役買っている気がしてならない。豊受大神は常陸国から丹後国に来たとの伝承もある事から、豊受大神を天女として考えるのは、ここでは差し控えたい。あくまで日本での天女の原型は、天照大神であり、宗像三女神であると思える。
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この前「妙見の女神」の記事を書いた時と同じ画像だが、妙見曼荼羅に描かれている七星閣には七人の女神が居り、そのうちの一人だけが下界に降りて来ている。七星閣は北斗七星を表しており、七人の女神は、その一つ一つの星に対応している。下界に降りた星の名は、「覚禅鈔」によれば「北斗七星之中一星下地。是文曲星。」でと記している事から文曲星という北斗七星を構成している一つの星である。文曲星は水精でもあるので、水を自在に操るともされる。それ故に、七星閣から地上に降りたった白いものは、水であり、滝を表しているのだろう。この文曲星の本地は、吉祥天であり十一面観音とされている。そして北を司る水精であり、泰山府君を配すとされている。この地上に降りる星として浮かび上がるのが、天台宗の秘法であった尊星王法である。これは聖武天皇時代、東北から金が発見されると託宣した琵琶湖近くの三井寺最高の秘法であると云う。

「近江国風土記」の羽衣伝説もだが、琵琶湖を中心とする豊かな水と、それを望む北斗七星が降りた伝説のある比叡山は、水と星の伝説に溢れる。その比叡山の麓で琵琶湖の辺である、かって天智天皇が都を築いた大津にあるのが、天台寺門宗の総本山が三井寺である。伝説の背後には、よく信仰が入り込む。ましてや聖武天皇は、深く仏教に帰依していたというが、その当時の仏教の主流は天台宗であった事からも、深く妙見信仰に結び付いていた。そして尊星王法も含む修法は、天皇が営ませる事を原則としていた為、妙見の信仰には政治的要素も入り込み、当時の為政者の意図が反映されていたものと思われる。中西用康「妙見信仰の史的考察」によれば、元明天皇・聖武天皇・孝謙天皇の即位の宣明には「近江大津の宮に御宇し天皇の改るまじき常の典と初の賜ひ定め賜へる法」と。つまり近江令の精神に従って政治を行えと云う旨が宣言されている。大津宮を築いたのは天智天皇で、その時に三井寺を創建する予定であったが、壬申の乱などで頓挫した。しかし天武天皇がそれを許可し園城寺の寺号を与えた。その後の天皇にも大津の精神が伝えられ、平安京を築いた桓武天皇は「近江大津の宮において制定された永遠不変の律令に従って万機を総攪する。」と宣言している。更に淳仁天皇の時代の即位の宣明には「北辰妙見菩薩呪」の一文が使用されている事からも、天皇の背後には常に天台宗がいた事が理解できる。

三井寺による尊星王法は、龍に乗った女神の姿で表されている。その竜は、北辰であり、北斗七星の姿であると。それがしばしば"九頭竜となって地上に降臨し"、三井の尊星水を守護したという。この龍に乗った女神は、三井法流では吉祥天女とされている。これはつまり、北斗七星での文曲星という事である。ところで九頭龍だが、九頭一尾の鬼と記された嘉祥二年の開創は、天台宗である比叡山の僧による書「阿娑縛抄」によるものだが、その200年後に戸隠山の僧による「顕光寺流記」によれば、比叡山の学問行者の前に「九頭一尾大龍」が出現していたという事らしい。それを別に「九頭竜権現」とも云う事から仏教と結び付いていたようだ。この九頭竜が何故、北斗七星の変化であるのか伝わっていなかったのは、あくまで当時の秘法であった為だろうか。その九頭龍は、白山にも出現しており泰澄が白山の池に祈ると九頭龍が現れ、真の姿を現わして欲しいと祈ると十一面観音が現れたという。また「彦山流記」でも、阿蘇の池に九頭龍が現れ、そして十一面観音が現れている。九頭竜を祀る戸隠神社は、天照大神の隠れた天岩戸の岩戸を天手力男神の手によって、九頭龍は隠されてしまったが、それは何故なのか。この戸隠神社と同じ事が起きているのが長谷寺である。長谷寺に奥の院と称する瀧蔵神社というものがある。古来より信仰が深い神社で「長谷寺へ参詣しても当社(瀧蔵神社)へ参詣しなければ御利益は半減する。」と云われているのだが、そこにも九頭竜が祀られ、それを閉じ込めるかの様に天手力雄神もまた祀られている。それは天照大神の命を受けて、天手力雄神が来た事になっているが、それは戸隠神社と同じ理由の様であった。ここで解せないのは、何故に北斗七星の化身である九頭竜が封印されたのか。また九頭竜本来の姿である北斗七星の姿を隠し続けなければならなかったのかという事。更に、この尊星王法とは、太白金星をもモデルにしていると云う。金星で思い出すのは、香香背男であり、天津甕星という悪神とされた星神である。この香香背男は隠岐においては、龍神であり水神として信仰されていた。また二荒山を開山した勝道上人は、金星を求めたという。妙見菩薩が両手に日月を手にしているのは、日と月を合せるのは明であり、金星を意味すると。しかしそれならば、何故神話の上で金星を表す香香背男であり天津甕星が悪神とされたのか理解出来ない。恐らく大切な神でありながらも、表に出せなかった理由があるのだろうと察する。

このように天女の話で始まったのだが、恐らく簡単に天女だけの話で済まされなくなってしまったようだ。ともかく日本における原初の天女の形は、天の安川で対峙した天照大神であったろう。今となっては、それが本当の天照大神であったかさえも疑問となる。何故なら、「日本書紀」などの記述から、天照大神が武装して前面に立つ筈もない。ましてや天の川に立つ天照大神は、その性質から有り得ない話となる。次は、その天照大神と天女を絡めての話としよう。

by dostoev | 2018-01-31 23:06 | 「トイウモノ」考

「九」トイウモノ

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菱川晶子「狼の民俗学」を読んでいくと、金沢のオイノ祭が紹介されている。自分は一度も見た事は無いのだが、地元の方に聞くと、ただ行列を組んでお供え物をあげてお終いの祭りだから、見て面白いものじゃないよとは聞いていた。この金沢は「遠野物語64」において「金沢村は白望の麓、上閉伊郡の内にても殊に山奥にて、人の往来する者少なし。」と紹介されている。遠野から行く場合は、340号線から川井の手前から土坂峠を越えていくか、貞任高原を走る舗装道路を道なりに走り、標識のある大槌との境界から左へ曲がり窓貫峠を抜け、小槌川沿いの林道を下る難所を通らねばならない。土坂峠は冬場はどうにか行けるが、窓貫峠経由は貞任高原への道が冬季閉鎖となる為に、まず無理であろう。その金沢で毎年2月19日に"オイノ祭"が行われている。ただ19日にはなっているが、それは毎年限りなく19日に近い日曜日に行われる様になったという事である。となれば来月2月のオイノ祭は、2月18日の日曜日になろうか。

この金沢には、三峯山の碑が25基確認されている。その石碑の建立日の殆どが19日になっているのは、本山である秩父三峯神社での御焚上の神事が、毎月10日と19日に行われている事に対応しているようだ。その中でも19日は、全国へ遣わされた眷属へ向けられている事から、三峯山碑の建立日、及び祭礼が19日に設定されているようである。つまり19日は、狼の縁日と思って良いのだろう。しかし、ここでフト頭を過ったのは「遠野物語拾遺275」にも記されている、神仏の御縁日だ。その中で9日は、稲荷様。29日は蒼前様となっている。新しい時代であれば、稲荷様は狐を意味し、蒼前様は馬を意味する。これに狼を加えれば、何故か9のつく日は動物神があてられている事に気付く。これは、何故なのか。単純な発想で考えれば、例えば狐と9の数字を組み合わせれば、九尾の狐が思い浮かぶ。漫画「ナルト」にも九尾の狐は登場していたが、それ以上の数の尾獣は登場していない。それは、9という数字が最高数でもあるからだった。数字は、1から始まって9で終わり、その繰り返すをする。

古代中国では、九天のもとに、九野、九州、九山、九塞、九藪がある九地が広がっていると考えられたようだ。以前「九重沢」という記事で書いたので重複するが、韓 愈(768年~824年)は、古代中国の唐中期を代表する文人であった。その韓愈の詩の一節の一部に、こう記されている。

一封朝に奏す 九重の天

この「九重の天」とはどういう意味であろうか。それについて、星見の家系に伝わる話がある。古代の星見の仕事をしていた人間を、天官と呼んだ。天官は、いつも夜空の観測をしていた。その星見の仕事をする者達の間では、観星台の事を「隈元(くまもと)」と呼んでいた。その星見系に伝わるのには、天であり夜空であり、宇宙の空間を「九間(くま)」と記していたと云う。「隈なく見渡す」の「隈なく」とは、空の隅々までという意味となる。その九間の成立は、八方と玄天から成り立つと。即ち、八方の中心となる北辰の座が九間であった。韓愈の詩に書かれる「九重の天」とは、この八方と北辰から成り立つ「九間」であると。この「九間」なのだが実は、魔方陣で構成された九つの間でもあるようだ。初めの九天からなる世界は、古代中国の創世神話に登場する伏犠と女媧によって作られた世界であり、伏犠は3×3の合計九個の桝目から出来る魔方陣を考え出したという。つまり九間とは、その魔方陣である。この魔方陣から誕生したのが、九星占術であり、九天を意味する。九字護身法と呼ばれるものがある。これは漫画や時代劇などでもよく登場するもので「臨兵闘者皆陣烈在前」と唱えて九字を切るというもの。この九字の根源が、伏犠の魔方陣でもあるようだ。
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妙見神の始めは、熊本の八代にある妙見宮が古いとされる。その妙見神は「大亀にのって来た女神」とされている。しかし北へ行くに従い、海の無い地域では、なじみの薄い亀に対しては反応が薄い様で、関東から北ににかけては白馬になったり、狼にも変化している。しかしこれは裏付けがあるもので「西の真言、東の天台」と云われた様に、関東から北へと布教したのは天台宗であった。その天台宗の秘法に尊星王法がある。武田和昭「星曼荼羅の研究」には、その尊星王法の曼荼羅も紹介されているが、「阿娑縛抄」によれば、妙見の形は不同であるとしている。つまり、同じ形に固定されるものではないと。一般的な妙見神とは、大亀に乗る女神と龍に乗る女神の二つに分けられるが、その変化は鏡によるものであるという。
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鏡は、月を見立てたものだとされる。その鏡には、自分と鏡に映る別の自分の投影されている。月を介して和魂と荒魂の概念は、ここに集約されるようだ。神社の御神体に鏡が多く採用されているのは、一つの鏡に和魂と荒魂があるとされたからだろう。ところが天台宗の秘法に尊星王法には、ありとあらゆるものが集約された存在であるよう。その中には九曜もあり、当然月や太陽も含まれる。千葉氏で有名になった九曜紋のデザインは恐らく、曼荼羅からであろう。その天台宗の秘法に尊星王法の曼荼羅によれば、月の使役は狼となるようである。九曜に獣を配している事からも、九という数字を付けるのは、妙見神の使役という事になろうか。それ故に、9日、19日、29日が各々獣の縁日にされているのは、妙見神を意識してのものであったか。

by dostoev | 2018-01-17 19:23 | 「トイウモノ」考