不思議空間「遠野」 -「遠野物語」をwebせよ!-:「枕草子」
2013-01-06T09:57:17+09:00
dostoev
遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
Excite Blog
「枕草子(其の二)」
http://dostoev.exblog.jp/18322416/
2013-01-06T09:56:37+09:00
2013-01-06T09:57:17+09:00
2013-01-06T09:57:17+09:00
dostoev
「枕草子」
「日来降りつる雪の、今日はやみて、風などいたう吹きつれば、垂氷いみじうしたり。…銀などを葺きたるやうになるに「水晶の滝」などいはましやうにて、長く、短く、ことさらにかけわたしたると見えて…。」
大雨が降ると、まるでバケツをひっくり返した…とも表現するが、屋根を伝って軒先に落ちる雨は、まるで滝の様。その滝が凍れば確かに、まるで神秘な水晶のように見える。氷柱を水晶の滝に見立てるのはその美しさを形容しているのだが、その感覚は現代より自由で趣がある。今では綺麗だと思えば、それをカメラで撮影して伝える事が出来る。しかしカメラの無い時代は、あくまで文章表現によって、その美しさなりを伝えねばならない。現代でも、俳句や短歌を趣味とする人は、その情景なりを如何に文字で表現しようかと苦心しているのが伺える。
ドストエフスキーの小説「悪霊」に、こういう言葉があった。「真実をより真実らしく見せる為には、どうしてもそれに嘘を混ぜる必要がある。だから人間は常に、そうしてきたものなのだよ。」
「百聞は一見にしかず。」という言葉があるが、確かにそれは道理だ。しかし旅先の思い出の情景を、もう一度それを伝えたい人を連れて行き見せるわけには簡単にいかない。だから言葉や文字で伝えなければならない。その人が感動した情景を表現する場合、その人の眼から脳に伝わって言葉が出てくるわけだが、そこには自身でその情景を修飾しているのであろうと思う。つまり、自身にとっては真実で美しいものであったとしても、受け取る側にとっては、そうでもないものに感じる場合がある。ヘタすりゃ言われたモノが思ったほど美しいとは感じず『もしかして嘘を言ったのか?』などと勘繰ってしまう。過剰な修飾は嘘にもなってしまうので、氷柱を表現する言葉として清少納言のように氷柱を「水晶の滝」と簡潔に、そして趣のある表現が素晴らしいと思ってしまう。]]>
「枕草子(其の一)」
http://dostoev.exblog.jp/18322319/
2013-01-06T08:43:45+09:00
2013-01-06T08:44:35+09:00
2013-01-06T08:44:35+09:00
dostoev
「枕草子」
灯影に劣るもの。紫の織物。藤の花。
すべて、その類は、みな劣る。紅は、月夜にぞわろき。
平安時代の女性は、太陽の光の元で、燈明の光の元で、そして月光の元で映える着物を着分していたようだ。柄よりも、色彩を重視していたのがよくわかる。
赤系統の着物の色は、燈明でその赤色の効果が上がるが、紫などは赤味が増して、紫色の品位が失われる。しかし赤色は、月光の元では、その効果が減じる。月光では、その幽かな月光の光を反射する、もしくは綺麗に吸収する、白色から青系統の色が、際立つのだろう。画像の船に乗っている絵は、周辺が暗くなっているので、恐らく月夜での情景だろう。その船に乗っている女性の着物は、グレーであり、白から青みに近いもので、月光に映えるという意識から着た着物であろう。
紫色の藤花は、色温度によッて色がガラリと変化する。月夜での紫は、さてどうであろうか?女性のオシャレに対する意識は、今も昔も変わらないのだろう。ただ現代になって、夜の闇に対する恐怖から人工的な照明など導入し、夜に昼間の光を持ち込んだ為に、女性は照明に合わせて着替えるなどという事は無くなったのだろう。まあ平安時代の十二単の場合は、出かけるたびごと、その場所と灯りの具合に合わせ上掛けを変えていたのだろう。オシャレってのは、その人の感覚もあるのだろうけど、状況把握も必要なので、やはりそこに知性も求められたのかもしれない。とにかくオシャレとイウモノは、今も昔も大変だという事だろう(^^;]]>
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