遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
by dostoev
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カテゴリ:瀬織津比咩雑記( 91 )

高千穂の神と早池峯の神

f0075075_11333813.jpg
ある、お婆ちゃんが亡くなった。そのお婆ちゃんは、昔から伝えられている事を守っていたお婆ちゃんだった。常々言っていたのは「高千穂の神様と、早池峯の神様は同じだよ。」と。昔、遠野人達と高千穂の人達との交流会があったと聞いた。その時、高千穂の方々もまた、高千穂の神様と早池峯の神様は同じだと聞いた事があると述べていたそうである。この話もまた学者には一笑に付されるであろうが、遠く離れた東北の遠野の地と、九州の高千穂の地で語り伝えられていた事を思えば、神話の里としての高千穂と遠野は古代において、何等かの繋がりがあったものと思える。今でこそ、遠野観光のキャッチフレーズに"民話の里"と広く宣伝されるが、もしかして今後"神話の里"としての遠野の立ち位置もありえるか。何故なら「遠野物語」読み調べていくと、文中には示されないが、早池峯の神に繋がる話が実は多い。そういう事からも「遠野物語」は民話では無く、神話に位置する気がする。高千穂の神とは一般的に高千穂皇神となるが、その高千穂皇神が早池峯の神である瀬織津比咩であるという事を今後、その詳細を紹介していかなくてはならないだろう。
by dostoev | 2018-07-22 11:53 | 瀬織津比咩雑記

お雛様と瀬織津比咩(其の二)

f0075075_10421706.jpg
穢祓の五節句に七夕が入っているが、七夕伝説の古くは古代中国での牽牛と織女が年に一度、天の川で逢瀬の話が広く知れ渡っている。それが日本神話においては、天安河で武装した天照大神と素戔男尊との対峙が原初となるだろう。ただ、その天照大神の武装した姿に違和感を覚える。何故なら「日本書紀(神功皇后記)」を確認してみると「和魂は王身に服ひて壽命を守らむ。荒魂は先鋒として師船を導かむ」とある。また別に「荒魂を撝ぎたまひて、軍の先鋒とし、和魂を請ぎて、王船の鎮としたまふ。」事から実際、率先して戦に参加しているのは天照大神荒魂だけであり、和魂である天照大神は皇族を護る為に、その場を動く事が無い存在となっている。また七夕の習俗に、藁の馬を作り、翌日には川へと流すものがあるが、その藁の馬は水神を乗せる為のものである。つまり七夕は星祭でありながら、水神の祭りでもある。ところが天安河で素戔男尊を対峙したのは、太陽神である天照大神というのは理に適わない。これまでに神社関連の本をいくつか読んできたが、天照大神の"荒魂"部分が省かれ、天照大神の行動であるかのようなものが、かなりある。初めに立ち返るが、五節句の根底は、水による穢祓の思想である。天安河で素戔男尊に対峙した武装した天照大神とは本来、天照大神荒魂でなくてはならない。何故なら、天照大神荒魂こそ、武神でもあり水神であり穢祓の神であるからだ。

雛祭りの雛段に飾られる人形が、男雛と女雛を主体とし、その下に五人囃子と三人官女が加えられるのだが、天照大神と素戔男尊の誓約の場面を思い起こすと、五柱の男神と宗像三女神が意図的に置き換えられたように思えてしまう。
f0075075_10413970.jpg
雛人形の源流が、男雛と女雛の一対である事は、先に記した。その雛人形に求められたのは、穢祓の思想である。「雛」とは、可愛いものでもあり、小さなものでもあるが、この場合は人間に模した形代であり依代であろう。自らに憑いた穢を形代に移して、川へと流す。ここに「大祓祝詞」の世界観が実践されているものと思える。「大祓祝詞」では、国内の穢れを瀬織津比咩が川から海へと流し、速秋津比売が受取り、最後には根の底へと速佐須良姫が導き、罪や穢れを無くすと云うもの。山中他界とも云い、また海の果ては常世の国とも云われる。地上である人間の住む世界を離れれば、その先にあるのはニライカナイか、根の国か黄泉国か。地上に住む人間にとって、高山も海も他界であった。その境界に位置し、人間の罪や穢れを受け祓う神が瀬織津比咩である。この境界に立つ女神として象徴的なのは、琵琶湖畔の桜谷における伝承であろう。琵琶湖の下もまた異界であり、俵藤太が竜宮へと引き込まれた舞台でもある。その琵琶湖畔にある桜谷には、黄泉国に引き込まれそうになる地として知られていた。そこに祀られていたのは瀬織津比咩であり、後に佐久那太理明神として佐久奈度神社に祀られたのはまさに、この世とあの世の境界に立ち、穢祓を行う女神でもあったからだ。

艮(丑寅)の方位は東北であり、また、あの世とこの世の境界でもある。朝廷の地からの艮とは、陸奥国であり、今の東北である。鬼は角が生えており、虎皮のパンツを履くのは、この艮(丑寅)の思想から来ている。艮とは、あの世との境界であるから、鬼が現れるのだ。鬼の思想は仏教からきているものだろう。穢れの黄泉国を、仏教の地獄に置き換えれば、地獄の鬼が出現する艮という方位は、穢れの方位でもある。だからこそ、穢祓の神が必要な場所でもある。養老年間に室根山に瀬織津比咩が運ばれたのは、鬼を平定する為であったと云われるが、別の意味では穢れた地の浄化の為であったと思う。そしていつしか瀬織津比咩は、早池峯山にも祀られた。始閣藤蔵が早池峯の神へ、金が採れたらお宮を建てると祈願したのは、すでに早池峯に瀬織津比咩が祀られていたのであろう。早池峯神社の創始は始閣藤蔵から始まったとされるが、それ以前に早池峯には瀬織津比咩が鎮座していたのだろう。

「早池峯山妙泉寺世代年表」において延長年中(923年~931年)に「本宮・后宮修理」と記されている。后宮とは女神であろうから、これは瀬織津比咩の事を示しているのだろう。では本宮には、なんという男神が祀られていたのか?という疑問が生じる。これは仮説になるが、神仏習合時代が始まり薬師如来の垂迹とされた神とは素戔男尊であった。御存知、早池峯山の出前には薬師岳があり、薬師信仰があったものと誰もが思っている。神仏習合時代になり水神である瀬織津比咩は、水の気の深い十一面観音と習合し、瀬織津比咩の本地は十一面観音とされ、それが今でも続いている。薬師如来の本地は妙見神とも云われるが、原初的な神が仏教と習合された時、素戔男尊の本地が薬師如来とされたのは、かなり興味深い事だと思える。今の早池峯信仰は、手前の薬師岳を含めての早池峯信仰となる事を思えば、瀬織津比咩と素戔男尊の組み合わせこそ、まさに穢祓信仰の原初となるであろう。
f0075075_10412591.jpg
「遠野物語」で有名になったオシラサマであるが、その原初は娘と馬の一対であったとされる。これは「大祓祝詞」によれば「畜犯せる罪」にあたるものである。伊弉諾と伊弉弥は「近親婚の罪」であり、いずれも"一対"でなくては犯す事の出来ぬ罪である。オシラサマもそうだが、人間の穢れを代りに受け、それをオシラ遊ばせにより祓われるものである。着せ替え人形という子供の玩具があるが、これは着せ替えをして楽しむと云うもの。しかしオシラサマの場合、着せ替えではなく重ね着をしている。それはつまり、常に人の罪や穢れを受けている状態であるという事。何故それが出来るかと言えば、オシラサマが人間を超越した神であるからだろう。神とは、人間の背負いきれない罪や穢れを、簡単に背負う事の出来る存在。そして、人がどうしても祓う事の出来ぬものを、いとも簡単に祓う事の出来る存在。その組み合わせがまさに、瀬織津比咩と素戔男尊の組み合わせだと思えるのである。「大祓祝詞」に登場する根の国底の国に坐す速佐須良姫とは、須世理姫であると云われる。素戔男尊の異称に"建速須佐之男命"というものがあり、これは速佐須良姫と同根であるとされる。根の国・底の国に住む女神とは神話上では須世理姫しかいない事からも、恐らく瀬織津比咩が人間の罪や穢れを川から海を経由して根の国底の国へと流し、全てを無くするという穢祓の思想であろう。つまりこの「大祓祝詞」からも瀬織津比咩とは、黄泉国であり、あの世の境界に坐す存在である事が解る。また「大祓祝詞」には、素戔男尊の行った罪が列挙されているが、逆に言えば素戔男尊こそが人間の罪や穢れを一身に受ける事の出来る存在ではなかろうか。罪や穢れを受け、それを祓う存在が一対の男神と女神とされるのならば、それに最適な組み合わせこそが、瀬織津比咩と素戔男尊の組み合わせであろう。「お雛様と瀬織津比咩(其の一)」に書いた様に、遠野周辺の八坂神社では、素戔男尊と瀬織津比咩の異称が習合されている場合が多い。異質は小友町の八坂神社で、主祭神は応神天皇となっているが、これも恐らく背後には神功皇后がいて、「近親婚の罪」を意図しているものと思われる。ともかく穢祓の思想によって誕生した雛祭りであり雛人形の背景には、人間を超越した力を持つ神が配されたのだろう。その男神と女神のモデルとは、素戔男尊と瀬織津比咩ではなかろうか。

by dostoev | 2018-03-05 11:45 | 瀬織津比咩雑記 | Comments(1)

お雛様と瀬織津比咩(其の一)

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三月三日の雛祭りの日、遠野では約一週間前から「遠野町屋のひなまつり」が開催されていた。それと「流し雛」のイベントは、確か去年から行われるようになった筈。元々の発生は、古代中国の祓いの行事からだった。上巳節という三月初めの巳の日に行われたのはやはり、川と蛇が繋がるからであったろう。禊は身を削ぐ、もしくは身を殺ぐという蛇の脱皮と関連されるように、穢れた古い衣服を脱ぐ、肌に着いた穢れを落として清めるなどの生活習慣に結び付くものと、新たに生まれ変わるという意味も有している。似た様なものに、胎内潜りというものがある。早池峯山頂、もしくは小友町に胎内潜りの大岩があるが、年に一度その大岩を潜ると、生れ変る、もしくは若返るとされている。これは恐らく「諏訪縁起事」での甲賀三郎にも結び付くものと思える。狭い穴を潜るには這って進むのだが、それがまるで蛇を想起させるのだろう。甲賀三郎も狭い洞窟を這って進み、人間から蛇へと生まれ変わった。ともかく禊と蛇、そして水は、密接な繋がりにある。

ところで五節句というものは、禊祓の日でもある。一月七日は人日。三月三日は上巳の節句。五月五日は端午の節句。七月七日の七夕や九月九日の重陽の節句もまた禊祓の日でもある。その他に、六月と十二月の晦日は大祓となり、常に日本人は穢祓を意識していたのが理解できる。これらに加え、古代出雲や宗像で三月会とされていた祭礼は、今では五月に行われる、出雲大社の大祭礼となっている。そのどれも、穢祓の神を必要とする祭であった。
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雛祭りの原型は、禊祓いからの流し雛であった。そして、斎串を十字に交叉させた祓の呪具に頭部を付け、目鼻を描いた天児や這子が、男雛・女雛一対の雛人形の源流であるようだ。これらから、立ち雛が始まったとされる。祀られる神の原型は、彦神と姫神の一対が普通であった筈だが、その元親でもある伊弉諾と伊弉弥が袂を分かってからなのだろうか、仲睦まじく夫婦神として祀られているのは道祖神くらいではなかろうか?その道祖神もまた人々の穢れを引き受ける存在でもある。村境に建てられ祀られる道祖神は、賽ノ神として、村の穢れを引き受け、また外からの穢れを防ぐ神であもある。一般的に、猿田彦と天鈿女命の夫婦神が道祖神と呼ばれている。しかしその穢れ塞ぐ原初もまた、伊弉諾と伊弉弥から発生している。黄泉国から逃げた伊弉諾は、現世と黄泉国を千曳岩で塞ぐのだが、これが塞ノ神の原型となる。境界とは曖昧なもの。ましてやそれが、この世とあの世との境界であれば、尚更気を付けなければならないだろう。その境界を、古代人はしばしば意識してきた。それは、艮(丑寅)である。艮は方位であり東北を意味するのだが、その意味は「全てのモノの境」であり、空間的に言えば「あの世と、この世の境」である。それはつまり、伊弉諾と伊弉弥を隔てた境界でもある事から、艮に立つ神とは、黄泉国の穢れを祓う存在では無くてはならない筈だ。それ故に、塞ノ神でもある道祖神として猿田彦と天鈿女命が立つ事に違和感を覚える。

ところで七夕もまた禊祓いの日になっているが、恐らくその原初は、天照大神と素戔男尊が天安河原で対峙し、誓約をしたエピソードに行き着く。「大祓祝詞」を読んでいくと、そこに記されている罪のいくつかは、素戔男尊が犯したものである。その罪深き神が素戔男尊である為に、それを恐れて天照大神は武装して天安河原で対峙した事になっている。しかしここでこの神々は、五柱の男神と宗像の三女神を誕生させる。

ここでもう一度考えてみると、日本神話では伊弉諾と伊弉弥の兄妹による近親婚という罪によって、多くの神々が誕生する話になっている。また神話上は、伊弉諾の左目から天照大神が生れ、鼻から素戔男尊が生れた事になっており、右目から生れた月読命を含めて三貴子と呼ばれるが、それは三兄弟という事になろうか。その兄弟である筈の天照大神と素戔男尊が結び付いて子を成しているというのは、更なる罪を重ねたという事になろう。つまり日本の神々は、常に罪を負っている存在でもあるという事なのだろう。人がいるからこそ、祀られる神が存在するという事は、人が神々に我が罪を投影し、それを代りに受けてくれるのが神であり、それを祓ってくれるのもまた神であるという事になろう。遠野周辺の八坂神社を見ていくと、ある事に気付く。それは八坂神社に祀られる素戔男尊と合祀されているのが、早池峯大神であり、祓戸大神であり、九頭竜であり、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命となっている。名前は違うが、全て瀬織津比咩と結び付く神名となっている。

by dostoev | 2018-03-03 21:41 | 瀬織津比咩雑記 | Comments(0)

妙見の女神

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妙見神とは、星の神だろうという認識があった。しかし九州地域においての妙見神は、水神として認識されていた。この認識の違いはどこから来ているのかと、疑問に思っていた。ただ調べていくと、坂上田村麻呂の東征以来、東北の地を布教したのは慈覚大師円仁を中心とする天台宗の僧であった。天台宗は星の宗教とも云われる様に、北極星や北斗七星に重きを置いていた。ある意味、星と共に北という方位をも重視していた。天台宗の秘法に、尊星王法というものがある。画像は、その尊星王法の曼荼羅。この尊星王法は龍の上に立つ菩薩形で、吉祥天如ともされている。また日月が配されているのは、明星を意味しており、そのモデルは太白金星であるというが、これはそもそも本来の妙見神の中の、一つの神を取り上げたもののようである。
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天台宗は北を重視したという事を簡単に書いたが、紀元前の時より、銅鏡により多く刻まれる言葉があった。それは「朱鳥と玄武は陰陽を順う」という言葉であった。朱鳥は南を意味し、玄武は北を意味していた。古代中国の皇帝の玉座は南に置かれ、北と向き合う形になっていた。皇帝は男であり、陽であった。奇門遁甲に長けていたと云われる天武天皇は、元号を朱鳥と定めた。この朱鳥という元号は、自らが古代中国と同じ皇帝の玉座に坐すという意志の表れと共に、北を重視し陰陽を調えようとした政策の一環ではなかったか。その流れが、天武天皇から始まった様にも思えるのだ。ただし妙見への信仰は、それ以前から始まっている。
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妙見宮として一番古いのは、熊本県の八代妙見宮とされる。この八代妙見宮の女神は、画像の様に大亀に乗った形で表されている。ただ妙見宮の古さに関しては、宗像は大島の妙見宮の方が古いともされるが、それを九州の神社庁に聞いてもわからないとする事から、その真意は定かではない。ところで多田和昭「星曼荼羅の研究」を読むと、大亀に乗った女神の形は、北の玄武を意識したもので、かなり道教色が強いものであると云う。「阿娑縛抄」によれば、妙見神の形は「凡此尊形像不同也。」と記されている。それは、鏡によって変化するものであると。

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大亀の上に鏡を立て、その一面に龍に乗る像と蓮華に坐す像になるともされている。今では日本全国の神社の御神体として鏡が、数多く祀られている。しかしそれは、明治時代になって、天照大神=大日如来を中心とした神国を意図した政府の意向があったようだ。大日本とは、大日如来の本国という意味から、その太陽神の依代である鏡が御神体とされたようだ。ところで鏡とは本来、太陽では無く月の依代であったようだ。鏡の原初は、水鏡から始まったものだが、その水と縁の深い月が結び付いた。自分自身と、その自分が投影された分身が鏡の中に存在する。これが恐らく、和魂と荒魂の概念の始まりであろう。ローマ神話においても、優しいダイアナと荒ぶるヘカテという両面の女神がいるのは、月と鏡が結び付いたせいでもある。伊勢神宮における和魂とは天照大神の事であるが、その天照大神荒魂は、早池峯の女神でもある瀬織津比咩となる。

話が飛んでしまったが、蓮華と縁が深い神は吉祥天となる。遠野の三女神のうちの末の娘は、その蓮華を奪って早池峯の女神になったとされる。その蓮華と縁の深い吉祥天の夫は、北を鎮護する毘沙門天であり、坂上田村麻呂の化身ともされている。蝦夷の地へ毘沙門天と吉祥天を配する考えは、宗教的である。その宗教の信仰をもたらし布教したのは天台宗であるから、早池峯の女神の謎は、やはり天台宗の教義から成り立っていると考えるのが普通であろう。その吉祥天に関してだが、その吉祥天を含み、水神であり太白金星の神であり、その本地を十一面観音とする妙見神が存在した。
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画像は、「終南山名曼荼羅」妙見曼荼羅の一つであるが、上に朱塗りの建物内に六人の女神がいる。実はこの建物は、七星閣であり、北斗七星の擬人化であり、七人の女神がいる。しかし何故にこの七星閣には六人の女神だけしかいないのかというと、一人の女神は、下に降りたって人間と接している。この女神が地上に降りたっている表現に描かれている白い雲の様な水の様なものは、定かではないとされている。この「終南山名曼荼羅」で、地上に降りたった女神について「覚禅鈔」によれば「北斗七星之中一星下地。是文曲星。」であるとしている。文曲星は水精でもあるので、水を自在に操るともされる。それ故に、七星閣から地上に降りたった白いものは、水であり、滝を示しているのだろう。この文曲星の本地は、吉祥天であり十一面観音とされている。そして北を司る水精であり、泰山府君を配すとされている。泰山府君とは、中国の五岳の一つであり、太山(泰山)を神格化したものであり、中国では人が死ぬと泰山に帰るとされる事から、泰山の神は生死を司る冥界の神ともされた。遠野でもまた、人が死ぬとその魂は早池峯を昇るとされている。その泰山の信仰が、そのまま早池峯にかかって伝えられたのだろうと思える。
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岩手県の室根山に熊野から瀬織津比咩が運ばれたのが、養老年間となる。その時の瀬織津比咩は、蝦夷を平らげる為の軍神としてのものであったよう。天照大神荒魂は「日本書紀(神功皇后記)」において、仲哀天皇を祟った神として呼ばれた。恐らく神功皇后もまた、この荒魂を信仰していた為に、自らが武装して三韓征伐に出撃したのだと思える。この荒魂は崇神天皇時代から、周辺の平定をする為に彷徨った軍神であり、最後に滝宮に祀られた荒魂であった。もっと古くは、天の安川で素戔男尊と対峙した武装した天照大神が、天照大神荒魂であったのだろう。これについては、別の機会に記す事にする。その軍神であった天照大神荒魂である瀬織津比咩に、後から天台宗が妙見の文曲星を被せて祀ったものだと思えるのだ。何故ならこの文曲星の性質は、今に伝わる早池峯の女神である瀬織津比咩そのものではないか。

by dostoev | 2018-01-19 19:04 | 瀬織津比咩雑記 | Comments(0)

縁結びと縁切り(瀬織津比咩)

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縁結びと云えば、今では綾織町の卯子酉神社が有名だ。赤い布切れを左手だけで祈願すると縁が結ばれるとされる。しかしそれは綾織町の事で、遠野の町での縁結びの神とは、多賀神社になっていた。多賀神社の祭神は、伊弉諾と伊邪那美の夫婦神となっている為だ。しかし、伊弉諾と伊邪那美は黄泉国で袂を分かった夫婦神であるから、縁結びには向いていない気がする。また厳密に言えば、多賀大社から分霊されてきた祭神は、多賀大社からの記録によれば、伊弉諾と弥都波能売神となっている。伊弉諾は、伊邪那美を捨てて、弥都波能売神という水神を選んだのだろうか? この弥都波能売神だが、本来多賀神社には御神水が涌き出ており、それによって神社を建てたとの話もある。その多賀神社の眼下には、猿ヶ石川が流れていた。弥都波能売神はいつしか、灌漑用水に祀る水神として扱われるようになったようだ。その為か、天保年間には猿ヶ石川の護岸工事において水神の碑として弥都波能売神の神名が刻まれている。これは多賀神社に影響されたとも聞くが、本来こういう川に対する石碑は、川の水源神に対してのものであるという。先に紹介した卯子酉神社は、この水神の碑の近くにある。その卯子酉神社も、本来は水神に対して縁を祈願するものであった。その祈願する水神もまた、猿ヶ石川の水源神である。古来から、猿ヶ石川の水源は又一の滝から始まったとされるが、それは早池峯大神でもある瀬織津比咩という水神である。熊野大社を調べても、本来祀るのは熊野川の水源神であったというが、その上流に祀られている神は、天河弁財天社の天照大神荒御魂であり、別の神名を瀬織津比咩と云う。

では何故に縁結びであるかという事だが、縁結びで有名なのは出雲大社である。神無月には、出雲に八百万の神々が集まり相談するのだと。主にその相談とは、人間達の縁を結ぶ為のものだと云われている。遠野に伝わる話に、山神が縁を結ぼうとする話があるが、遠野における山神の頂点は早池峯である。早池峯山頂手前に、賽の河原という場所がある。これは人は死んだら魂は山へと昇るとされたものに対応する為、仏教が普及してから名付けられものであったが、本来は神々が集まる祭礼の場所であったようだ。それはどういう事かと言うと、遠野の早池峯は神無月ではなく神在月の地であったという事。つまり、早池峯の神は出雲の神であったという事になる。出雲大神とは大国主が奉斎する神の事をいうのだが、その神とは熊野大神の事になる。熊野大神は熊野川の源流神でもあるが、広義的には那智の滝神でもある。その那智の滝神を祀る本来は飛竜権現社のようだが、熊野三山年中行事には、三月二十一日に飛竜権現社で瀬織津比咩祭が行われている事から、出雲大神=熊野大神=早池峯大神=瀬織津比咩という事になるのだろう。

縁を結ぶのが山神であり水神である早池峯大神になるのだが、縁を切る場合、有名な神社が京都にある。それは橋姫神社で、その祭神は瀬織津比咩であった。つまり、瀬織津比咩とは、人の縁を結び、また、その縁を切る事も出来る女神でもあるという事。縁を結ぶとは、子宝にも恵まれる事に繋がる。そしてこの縁を結ぶ祈願をする者達の殆どが女性である事から、いつしか瀬織津比咩は女性に信仰される神にもなったようである。
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by dostoev | 2018-01-09 21:34 | 瀬織津比咩雑記 | Comments(0)

瀬織津比咩祭

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出雲大神とは、突き詰めれば熊野大神である。出雲大社の宮司によれば、大己貴命(大国主命)が奉斎する神こそが出雲大神であり熊野大神という事の様だ。熊野本宮大社には家都御子神、熊野那智大社には熊野牟須美神が祀られている。熊野那智大社の異称を「結宮」と云うのは牟須美神が「結」でもあるからか。考えてみれば「結」は「むすび」とも「けつ」とも読む。つまり、熊野夫須美大神と家津御子大神は同一神である可能性が高い。奈良時代の記録では、熊野本宮大社に熊野牟須美神が祀られていた。その熊野牟須美神は現在、熊野那智大社に祀られているという事は、熊野牟須美神は熊野本宮神でもあるという事か。

出雲と熊野は死の国として繋がり、地名や川の名も重複する。その大己貴命は、熊野那智大社第一殿 瀧宮である飛瀧権現の主祭神となっている。それはつまり、那智の滝に祀られる神こそが、大己貴命が奉斎する出雲大神であり、熊野大神という事に成りえる。大己貴命はかって、この那智の大滝の飛竜権現に祀られていたが、現在この飛竜権現は、熊野那智大社別宮となっている。

ところでこの飛竜権現だが、飛竜(ひろう)と読む。「ひろう」は「疲労」「卑陋」などの悪い言葉にも繋がるので、例えば「葦(あし)」が「葦(よし)」に変えて読まれた様に「ひろう」が変換されて伝わったのが「ほうりょう権現」であろう。恐らく、熊野神社の普及と共に広がったものと思える。

熊野三山年中行事には、三月二十一日に飛竜権現社で瀬織津比咩祭が行われている。これはそのまま、那智の滝神は瀬織津比咩であると宣言しているようなもの。そして十二月二十八日に行われる「三所権現天照大神飛竜権現祭」の表記は、正確には天照大神荒魂ではなかろうか?何故なら二十八日は、不動明王の縁日でもあり瀬織津比咩の縁日でもあるからだ。
by dostoev | 2017-07-05 05:59 | 瀬織津比咩雑記 | Comments(0)

泥棒を守護する神の根源

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以前「泥棒を守護する神トイウモノ」という記事を書いたが、この泥棒の根源を考えてみた。

早池峯の女神は三女神の末の妹であったが、姉の上に降りた霊華を奪い、早池峯の女神になった話は「遠野物語2」で紹介されている。この話からなのか遠野では「山のモノと女(おなご)はなぁ、早ぐとらねば誰かに取られてしまう。」として、山菜やキノコ、そして、気になった女性は早めに手をつけるものだと広まったようでもある。その為なのか佐々木喜善「遠野奇談」の冒頭に、その盗みを守護する早池峯の女神の逸話が拡大解釈され紹介されている。

「この三山の新山祭には、郷土の若者達の乱暴が荒く烈しければ烈しいほど女神が喜ぶというので、随分乱暴をはたらくのが土地の習慣となっている。そのうちでも早池峯神社の例祭には、乱暴の上に盗みをしてよいという習俗があるので、ちょうど七月頃の例大祭であるが、その往還に村の梨桃の実から、娘たちまでが大いに荒らされ盗まれる。」

これを読むと、早池峯の例大祭の昔はとんでもないものと思いがちだが、これと同じ様な記録を九州は熊本の阿蘇神社の例大祭で読んだ事がある。村崎 真智子「阿蘇神社祭祀の研究」に記されているが、やはり例大祭の時は、余りにも娘たちが乱暴されるので、いつからか娘たちを祭に出さなくなった家が多いと紹介されている。この阿蘇神社の例大祭もだが、遠野と同じに菊池氏が多いのは偶然だろうか?それは何も菊池氏がというわけではなく、その時代の流れもあっただろうが、早池峯神社よりも古い歴史を誇る阿蘇神社の例大祭の習俗を、遠野に移り住んだ人々がそのまま持ち込んだ可能性もあるだろう。何故なら、阿蘇大神は早池峯大神と同神であるからだ。一般的に阿蘇大神とは健磐龍命と思われがちだが、健磐龍命は外来の征服者と思えばよい。菊池郡の民俗・信仰を調べると、阿蘇の姫神である阿蘇津比咩を阿蘇大神として崇めている。その阿蘇津比咩は早池峯の女神である瀬織津比咩であり、嫁いだ為に阿蘇津比咩と神名が変化している。とにかく、九州から遠野に移り住んだ者達が同じ神を祀り、同じ祭の習俗を持ち込んだとしたら、早池峯の女神は盗みを守護する神であるという逸話も後付けでは無いかと思えてしまう。

佐々木喜善によれば「東西磐井から旧仙台領では泥棒の神様として斯云ふ職業の人達が重に信仰したものだと申します。」という、余りにも産土神を他人事みたいに語っているのが妙である。早池峯神社の例大祭は、県外からも大勢の人達が来たと伝えられる。その中に"泥棒守護の神"という意識で参詣した者もいたのかもしれない。遠野に隣接する東和町での早池峯の神は「一生に一度無理な願いを聞き届けてくれる神」として認識している人もいるそうだ。つまり、遠野を離れるにしたがって、早池峯の神の神威は曲解されて伝えられているようだ。
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「泥棒を守護する神トイウモノ」では妙見菩薩が、そのものの姿を変化させる力があるという事がわかった。早池峯の女神が、糯米の稲穂を粳米の稲穂に変化させたのは、早池峰の神の力であった。つまり泥棒を守護するというより、信仰する人を助ける為、そのものの形を変化させたりする霊的な力は、妙見菩薩と同じであった。その妙見の本地は薬師如来である。早池峯の前に聳えるのが薬師岳で、そこに薬師如来が祀られていると考えられている。それ故「前薬師」と呼ばれる。これは「上閉伊郡志」にも「早池峯の前にある薬師の山」と記されている。実はこの薬師岳は七つ森信仰に関する為、もっと複雑な祭祀形態になるのだが、ここでは省略する事にする。そして背後に聳える早池峯は十一面観音を本地としている。

「宮守村史」「砥森神霊翁之夜話」が載っているが、安倍氏に関係する伝承となる。早池峯もだが、この宮守の砥森もまた安倍氏に関係の深いところである。そこに、こう記されている「毎年四月八日、九月廿八日御山籠りと申て祈願のもの前夜詣ふて、拝殿にいのりて…。」と記されているのだが、四月八日は薬師如来の縁日。そして九月廿八日は、不動明王であり瀬織津比咩の縁日となっている。砥森でも早池峯と薬師の祭祀形態が伝わっているのであろう。瀬織津比咩の本地は十一面観音であるが、何故に不動明王であるかは以前別記事で書き記したが、十一面観音の脇侍として不動明王が存在し、薬師岳の麓の又一の滝を見てわかるように、滝そのものを、そして十一面観音を守護しているのが不動明王である。何故十一面観音かといえば、十一面観音の神威そのものが瀬織津比咩と同じであったのが大きかったのだろう。よって早池峯に祀られるべきは、薬師如来ではなく十一面観音でなければならなかった。それらについては他の記事でも書いてある為、詳細を省く事とする。そして言えるのは、養老年間に熊野から最強の神として運ばれて来た瀬織津比咩は蝦夷の地の平定を願ってのものであった。その後の大同年間に天台宗の影響から、瀬織津比咩に十一面観音が重ねられ、いつしか早池峯は観音信仰の山とされてしまった事を念頭に置いて欲しい。

それと紹介し忘れたが、佐々木喜善「遠野奇談」には、その三女神信仰をしていた一族に安倍氏が関係している事を紹介している。だからこそ、早池峯にも砥森にも、安倍氏の影が濃くなっているのは当然の事であった。
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昔三人の美しい姉妹があった。橋野の古里という処に住んでいた。
後にその一番の姉は笛吹峠へ、二番目は和山峠へ、末の妹は橋野の
太田林へ、それぞれ飛んで行って、そこの観音様になったそうな。

                     「遠野物語拾遺1」

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この「遠野物語拾遺1」の末娘の場所を辿ると、そこに祀られていたのは早池峯の神であった。つまり、この「遠野物語拾遺1」もまた、三女神譚であった。岩手県内に共通するのは、末娘が早池峯であるという事。そして一つ、気になる箇所がある。「それぞれ飛んで行って」と表現されている。これは遠野三山の女神も、別の伝承では「飛んで行った。」と表現されている。

飛んだと表現される話が別に「遠野物語拾遺3」に天人児の話として紹介されている。天人児が水浴びしている時に石にかけてあった羽衣を若者に奪われ、天に帰れなくなり、そのまま若者と夫婦として過ごすのだが、後に羽衣を取り戻して、天に飛んで帰って行くというもの。これは全国に広がる天女の羽衣譚の遠野バージョンであるが、この羽衣を奪われた天女は七人姉妹の末の娘である場合が殆どである。この「遠野物語拾遺3」の天人児は機織り機により蓮華から衣装を織った。この蓮華だが、三女神に降りて来た霊花もまた蓮華であった。蓮華は吉祥天に縁が深いが、その吉祥天は毘沙門天の妻であるとされる。毘沙門天の化身と呼ばれた坂上田村麻呂の伝説と、この蓮華の花を通じて、三女神伝説が繋がっているのは、その背後に安倍氏がいるからだろう。

坂上田村麻呂東夷征伐の時、奥州に国津神の後胤の玉山立烏帽子姫という女神があった。極めて美貌であったので、夷の酋長大岳丸というのが種々の手段で言い寄ったけれども、姫は少しも応じなかった。この時にあたって坂上田村麻呂は勅使を奉じて東北の地に下ってこられた。そして立烏帽子姫の案内で、よく蝦夷を討伐し、その頭領大岳丸を岩手山で討ち取った。それから立烏帽子姫と夫婦の契りを結んで、一男一女を産んだ。その名を田村義道、松林姫といった。義道は安倍氏の祖である。松林姫は三女を産んだ。お石、お六、お初といった。お石は守護神、速佐須良姫の御霊代を奉じて石上山に登った。お六は、速秋津比売の御霊代を奉じて六角牛に登った。お初は瀬織津比咩を奉じて早池峯に登った。この三人の女神たちの別れた所は、今の附馬牛の神遺神社の所であった。

                  佐々木喜善「遠野奇談」より抜粋

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天女を調べていると誰もが気付くとは思うが、七夕伝説に似通っている。水辺を中心とし、天女という織女が男と出逢って別れる図式は、七夕伝説と言っても良いほどだ。天女伝説の定着は王朝時代(奈良時代~平安時代)とされているが、弥生時代の銅鐸に紡いだ糸を巻く桛を持つ女性が描かれている絵を七夕と結び付けて考えられているが、それを天女伝説に結び付けても違和感が無いだろう。

羽衣を奪われ天界に戻れなくなった天女を、堕天使ならぬ堕天女と呼ぶ。その堕天女となった経緯は、たまたま男が羽衣を見つけたので奪ったというのが一般的である。しかしリアリティを持った伝承は、唯一阿蘇に伝わるもので、阿蘇神社の御前迎え神事に結び付いている。

赤水宮山に健磐龍命が行ったら山女がいた。この山女は日下部吉見の姫が赤水に来ていたもので、健磐龍命がこの姫を強引に担げて来て自分の嫁にした。嫁盗みを神様がやったので、阿蘇の人々にも許されている。実際にも行われていた。姫を盗む途中で十二か所寄って来る。化粧原は十二か所目になり、ここから夜になるので松明を出す。そして赤水のお宮で強引に姫の穴鉢を割る(犯す)。それからお宮(阿蘇神社)に連れ込んで高砂(結婚式)をする。お宮に連れ込んだが、姫が生まれ在所に帰りたいというので羽衣を隠した。子供が十二人生まれる。これが阿蘇神社の十二の宮である。子供が多く生まれたので、安心して歌を歌う。「姫の羽衣は千把こずみの下にある。」それで姫は羽衣を見つけ、生まれ在所に帰った。

先に、早池峯の神は荒く烈しい祭が好きで、男達は例大祭の時に、女をも盗む様な事を紹介したが、それが阿蘇神社の例大祭にも似てるとした。その根源は、阿蘇の男神である健磐龍命が日下の姫神を奪った事が発端であるようだが、この健磐龍命に"盗まれた"姫こそが早池峯の女神である瀬織津比咩であった事は紹介した。その瀬織津比咩は阿蘇において奪われた羽衣を見つけ奪い返し、生れた所に帰ったという話がそのまま岩手県に伝えられ歪曲したものが三女神伝説では無かろうか。本来天女の末娘は、蓮華の羽衣を盗んだのではなく、奪い返して天(早池峯)に帰ったとするのが、正しい話の流れであると思う。それが三人姉妹として三山に重ねた為に、話が歪曲され変換されたと。三山となったのは、熊野三山、出羽三山の流れに、天女の羽衣伝説を組み込んだものであろう。岩手県に早池峯を中心とする三山と三女神の話が多いのは、あくまでも早池峯を中心に三山伝説が作られ、それが各地にも広まったのだろう。菊池照雄氏は、三山伝説の伝承者が殆ど菊池氏であると指摘している。つまり菊池氏を中心とした信仰が、各地に分散して住みついた土地の地域性を加味して作られたのが、岩手県内に拡がる多くの三山三女神伝説であったのだろう。

菊池照雄「山深き遠野の里の物語せよ」で、照雄氏は遠野の中世の館に何故か天女の羽衣伝説が付随している事に着目した。奇しくも七姉妹の天女と同じく遠野全体で七か所の地に、羽衣伝説があるという。これは偶然なのか、それとも意図されたものなのかは今後調べてみないとわからないが、遠野の伝説の根底には天女の羽衣伝説が根深く潜んでいるのを感じるのである。
by dostoev | 2017-06-03 18:30 | 瀬織津比咩雑記 | Comments(10)

枉津の神

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「古事記」によれば、伊弉諾が黄泉国から帰還し穢祓をし、八十禍津日神(やそまがつひのかみ)と大禍津日神(おほまがつひのかみ)の二柱の神が誕生した。また「日本書紀」の一書では八十枉津日神(やそまがつひのかみ)と枉津日神(まがつひのかみ)が誕生したとしている。これらの神は黄泉の穢れから生まれた神で、"禍々しい"災厄の神とされている。本居宣長は、その禍津日神を祓戸神の一柱である瀬織津比咩と同神としているのは、天照大神の荒魂であり、荒魂は祟る神、つまり厄災を及ぼす神であるという認識に基づいてのものであったか。

ところが古代九州において、川が海岸の沖積平野に入ると干潟の上を左右に屈曲蛇行する事を"枉津"と言ったらしい。海の塩気を帯びた船や人が枉津に入ると、身も心も清められると思われたという。「まがつ」という訓に「禍」をあてると「まがまがしい」となり、恐ろしいイメージが重なるものだが、神名に"禍"を当てたのは意図的なものであったのだろうか。

「まがつ」は地域ごとに訛りが加わり、変化したと伝えられる。「まがつ」を「わうず」と読めば、更に「うおつ」に転訛したという。それが更に「おほつ」となったが、琵琶湖の大津もまた枉津の変化であったようだ。天智天皇が都を大津京にしたのはもしかして、琵琶湖に鎮座する枉津の神を信仰していたからではなかったか。
by dostoev | 2017-03-26 11:55 | 瀬織津比咩雑記 | Comments(0)

瀬織津比咩の登場する漫画

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たまたまAmazonで見つけた、中古の少女漫画を購入し読んでいたら、遠野が舞台になった。あれ?と思ったら、瀬織津比咩が登場してきたよ。場面、場面で見た事のある場所が登場し、地元民としては目が離せなくなってしまった。目が離せないというのは、どう描かれているのか?間違いは無いか?などという、期待とあら探しの混雑したものだった。まあ、この漫画は主体が別のところに置かれているので、遠野も瀬織津比咩も味付け程度に描かれているだけ。
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早池峯、猿ヶ石川と、遠野の山や川が登場すると、やはりどこか嬉しい。
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お約束通り、座敷ワラシみたいな人物が登場し、遠野を説明する。
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小友の岩龍神社も登場し、ここにも瀬織津比咩がいた可能性を示唆しているところがあるが、なんか自分のブログを読んだのか?と思ってしまった。
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少女だと思っていたら、少年だった。
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そして、滝の精の様な女性も登場。実はまだまだ連載中で、この遠野編の結末はどうなるのか?アラハバギも結び付けてストーリーは展開するようなので、個人的には目が離せなくなる。取り敢えず、続きを期待して待ってよう。
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by dostoev | 2016-11-27 07:24 | 瀬織津比咩雑記 | Comments(0)

撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(天照大神の荒魂)

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折口信夫は天照大神について、下記のように述べている。

貴(ムチ)は女神の接尾語であり、"ひるめ"は日之妻(ヒヌメ)で、日神の妃と
いふことになる。神聖なる神女の地位を言ふものである。太陽神を女性とす
る神話も、他民族には例があるから、不思議はないが、日本の場合は日の
神とヒルメとには、対偶神としての存在を示す信仰があった。


対偶神という言葉が適切かどうかは別にして、折口信夫の見解を当て嵌めれば、大日孁貴神とは日神の妻と云う立場になろうか。そして、それを裏付けるかのような資料が、鎌倉時代に成立した「御鎮座次第記」であり、それには下記の様な事が記されている。

「伊弉諾が左目を洗って天照大神の荒魂の荒祭神大日孁貴神を生み」

これをそのまま信じて良いかどうかは別として、この「御鎮座次第記」によれば、荒祭宮に祀られる神とは大日孁貴神であり、天照大神の荒魂とされる。また別に内宮所伝本「倭姫命世紀(天照皇太神荒魂)」の項にも、下記のように記されている。

「左目を洗ひて日天子大日孁貴を生みます。

        天下り化生ますみ名は、天照皇太神の荒魂荒祭神と曰す也。」



大日孁貴神とは即ち、天照大神の荒魂と伝えられている。その荒魂を祀る荒祭宮では現在、瀬織津比咩という神名が祀られている事実がある。大日孁貴神が荒魂であるなら、荒魂と呼ばれた撞賢木厳之御魂天疎向津媛命とは?

原初的な信仰は、彦神と姫神の二柱を祀るのが基本であったようである。ヒルメが日の神妻なら、ヒルコが日の神という事になるのは、陰陽の関係でも明らかである。例えば、天照大神と素戔男尊の誓約の場面で、男神五男神と三女神が誕生しているのは、陰陽の和合とされている。陰陽は、日(火)と水で表され、陰陽五行における火の方位は南であり夏を意味し、色は赤となる。その対極となる水の方位は北であり、冬を意味して、その色は黒色となる。604年に制定された冠位十二階の最高位の色は紫で、この場合は赤色と黒色を混ぜたものとしたのは、陰陽の和合を意図したものである。

北沢方邦「天と海からの使信」で、宗形三女神が誕生した剣は、神武天皇が手にした布都御魂剣と異なり、雌の剣である事に注意すべきだと述べている。剣は所有者の荒御魂とされるが、天照大神と素戔男尊の誓約の場面では、素戔男尊の剣を手にして噛み砕いて誕生したのが宗像三女神であるが、この場合の所有者は素戔男尊であったのか天照大神であったのか。しかし、男神五柱誕生させた素戔男尊が勝利したとの見方から、明らかに天照大神の手にした剣は、天照大神の荒魂を宿したものであると考えられる。天照大神が素戔嗚尊の十握劒を貰い受け、打ち折って三つに分断し、天眞名井の水で濯ぎ噛みに噛んで吹き出し、その息吹の狭霧から生まれた神が宗像三女神であると。それはつまり、天照大神の荒魂から誕生した三女神と考えられる。それを裏付けるかのように「宗像大菩薩御縁起」において、西海道風土記を引用した後の付記に、三種の神器である八咫鏡を祀る辺津宮に祀られる神は「三韓征伐之霊神也。」と記されている。神功皇后の三韓征伐に、宗像三女神が勧請された話は知らないが、天照大神の荒魂である撞賢木厳之御魂天疎向津媛命であるなら、天照大神の荒魂である撞賢木厳之御魂天疎向津媛命が三分割され「三韓征伐之霊神」として宗像三女神に受け継がれているのならば、納得するもの。宗像の辺津宮に伊勢神宮に関係の深い八咫鏡が祀られていたと云う事から、宗像の神は天照大神の荒魂である可能性は高いのだろうと思う。
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「梁塵秘抄」に、下記の歌が詠われている。

関より東の軍神、鹿島香取諏訪の宮、又比良の明神、

      安房の洲、瀧の口や小(野・鷹)、熱田に八剣、伊勢には多度の宮


伊勢の多度の宮が軍神と呼ばれた所以は、平氏にあった。伊勢守であった平氏一派は勢力を拡大して、伊勢平氏と呼ばれる様になり、その極みは平清盛であった。だが厳島神社を信仰した伊勢平氏の以前の信仰の拠点は、伊勢に鎮座する多度神社と多度神宮寺であったが、本来はその背後に聳える多度山であり、それは伊勢平氏の祖霊の静まる霊山と考えられていた。その多度山に斎く神は、多度大神とも呼ばれるのだが、かって祟り神として猛威を振るったとされている。現在の多度大社に祀られる祭神は天津日子根命で、天照大神と素戔男尊との誓約によって生まれた男神五柱のうちの一柱であるのだが、荒ぶる神とのイメージは皆無だ。

ところがこの多度の地は、元伊勢と呼ばれていた。それは崇神天皇時代に、天皇を祟った神として天照大神を出し、滝宮に斎く間に約40年間彷徨い、一時的に斎いだ地の一つが、この多度の地であった。崇神天皇を祟ったという本来の神は、天照大神の荒魂であった。近江雅和「記紀解体」によれば、崇神天皇から離れ遷座の地を求め流離ったとされる旅のメンバーを見る限り、それは武力平定の移動であったろうと述べている。ここで思い出して欲しいのは、神功皇后の武力平定の先鋒でも、荒魂が務めたと云う事。鎮座後に留まるのは和魂であり、行動するのは荒魂であるという事から、滝宮に至る40年間に、各地を荒魂を先鋒として平定し続けた旅であったのだろう。それ故に、多度の地にも訪れた天照大神の荒魂であったからこそ、軍神として梁塵秘抄にも歌われた。しかし祀られているのは天津日子根命であるのだが、恐らく流離の旅の途中、平定した地に神社を建立し、天照大神と素戔男尊の誓約によって誕生した神々を祀っていったのではなかろうか。

田村圓澄「伊勢神宮の成立」に、面白いデータが載っていた。「日本書紀」において「天照大神」という神名が記されるのは、神代記から神功皇后記までで、その後は何故か天武天皇時代にならないと「天照大神」という神名は出て来ないという。では、その神功皇后から天武天皇時代の間の時代に「天照大神」の代わりに記される神名は何かというと、「日神」と「伊勢大神」であるそうだ。「日神」も「伊勢大神」も「天照大神」だろうと思うのが一般的であろうが、違和感もある。何故なら、天照大神は別に「大日女」「大日女尊」「大日孁貴神」などと呼ばれる。全て神名に「女」の漢字が使用され女神だとわかるが、「日神」という表記であれば男神であってもおかしくはないからだ。また日神と伊勢大神の使い分けも、何故にここまで統一性が無いのか気になる。あたかも、日神と伊勢大神はまた別の神という可能性はあると思える。

実は、福岡県に榊姫神社がある。その神社の由来によれば、平資盛の女で、榊内侍と呼ばれた榊姫を祀るのだが、「遠賀郡誌(下巻)」によれば、旅の途中病で倒れた時に、付き添った平家の老女に榊姫は、こう言われた。

「我邦は神の御国、特に伊勢の太神の御名は、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命と申し奉りて、姫の御名に縁あれば、一心に此御神を祀り玉はむには、などか此難病をも、平癒せさせ給はぬ事やはある。疾く祈願し給へと説き勧めければ、姫も宣なりとて、賢木を根抜きとりて之に木綿して掛けて、朝夕老女と共に拝祈し給ひけり。」

これによれば、"伊勢大神の神名"とは、"撞賢木厳之御魂天疎向津媛命"であるという事。田村圓澄の調べたデータに照らし合わせても、日神と伊勢大神とは別の神という事になる。日神を天照大神に比定すれば、伊勢という冠名が付く伊勢大神であろう撞賢木厳之御魂天疎向津媛命が本来の土着神であったという事か。仁安3年(1168年)頃、平清盛が厳島神社の社殿を造営し、大規模な社殿が整えられた。その後にも平家一門の参詣があり、厳島神社は平家の氏神となった。しかし多度大神を信仰していた伊勢平氏が新たな神を信仰したわけではなく、本来の天照大神荒魂である撞賢木厳之御魂天疎向津媛命の信仰を厳島に迎えたといのが正しいのではないか。厳島明神は、古くは龍女の化身と考えられていたが、それを宗像三女神の一柱である市杵嶋姫命とする事で、周囲の目を誤魔化したのでは無いか。厳島は神を「斎(イツキ)祀る島」と認識されていたのだが、それならば何故「斎」ではなく「厳」という漢字を使用したのか。それは恐らく、撞賢木"厳"之御魂天疎向津媛命の「厳」を含ませる事によって、本来信仰する天照大神荒魂を祀っているという意志表示ではなかったか。

三浦茂久「月信仰と再生思想」によれば、多くの事例から「天さかる向かふ」という表現は、天を離り極みに向うという形容で、天空を移ろう月や、月に棲むタニクグが天際に渡り行く事に対する常套句であるという。それはつまり「月が空を西に去って行く」事だと述べている。そして撞賢木は、神籬であろうとしている。今でこそ榊は、神の斎く樹木とし認識されているが、東北に於いての榊の自生は無い為に、イチイの木が代用されていた。厳島神社の神楽の古くの記録は1177年で、平家滅亡後の記録でしかないようだ。しかし為政者が変わったとして、神楽そのものの内容が変わるわけでは無く、神楽の儀は、まず榊に神を降ろす神楽から始まる。榊を神籬とする、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命を思わせる神楽であると思われる。
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撞賢木厳之御魂天疎向津媛命という神名が月に関わるものだと理解出来ればもう一つ、神功皇后の存在が気になる。神功皇后の別名が、息長帯比売命(オキナガタラシヒメ)とも気長足姫尊(オキナガタラシヒメ)とも、もしくは大帯比売命(オオタラシヒメ)とも記される。この別名に含まれる"タラシ"とは、月の満ちる様の表現であるようだ。そして神功皇后は、塩盈珠・塩乾珠という、潮の満ち引きを自在に扱える霊玉を駆使するという、まさに月の引力を扱う月の巫女の様な存在に思える。その神功皇后が仲哀天皇を祟る神を占い、真っ先に神名を呼ばれたのが、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命であった。陰陽として、日神の対になるのは、水を彷彿させる月の神であらねばならぬ。「古事記」を読んでも、本来の祭りごとは夜に行われた。神々の時間帯は、太陽が沈んでからであったのを考えても、本来の主役は日神では無く、月神であった筈だ。太陽暦が導入されたのが持統天皇時代であった事から、それ以前は太陰暦であったよう。

この前「竹取物語」に関係する本を読んでいたら、かぐや姫の罪は処女懐胎であると書かれていた。これは、太陽の光を浴びて妊娠するという話で、キリスト教圏の逸話も導入し展開していた。どうやら、かぐや姫を太陽信仰と結び付ける為に書かれた本であった。しかし、民俗学的には日本において月を見て孕む兎の話の他に、月を見ると孕むという禁忌はよくある。太陽では無く、月の満ち欠けが妊娠をイメージさせる為だ。神々についても、「熊野権現垂迹縁起」によれば、熊野三所権現は、本宮の大湯原のイチイの木の梢に、三枚の月の形になった天降ったと語られ、宇佐八幡においても、満月の輪のごとく示現したと語られている。神の降臨は、夜に輝く月にこそあったという事。撞賢木厳之御霊天疎向津媛命こそが本来、古くから日本で信仰されていた神では無かったか。それが太陽信仰の普及と共に消されてしまったのかもしれない。まだまだ書きたい事があるが、今回は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命に関係する事を簡単にまとめてみた。
by dostoev | 2016-11-26 00:45 | 瀬織津比咩雑記 | Comments(0)