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  <title>不思議空間「遠野」　－「遠野物語」をｗｅｂせよ！－:橋姫と瀬織津比咩</title>
  <category scheme="http://dostoev.exblog.jp/i225/" term="橋姫と瀬織津比咩" label="橋姫と瀬織津比咩"></category>
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  <author><name>dostoev</name></author>
  <tabline>遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求</tabline>
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    <title>橋姫と瀬織津比咩（其の六　結）</title>
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    <author><name>dostoev</name></author>
    <dc:subject>橋姫と瀬織津比咩</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201511/05/75/f0075075_5284713.jpg" alt="_f0075075_5284713.jpg" class="IMAGE_MID" height="408" width="500" /></center><br />
「山城名勝志」に「土民伝昔宇治川のほとりに夫婦すみけるが男竜宮へ財をもとめんとて行きて帰らざるを、女悲しみて彼橋辺に於いて死して神と成る。乃ち曰、橋守明神といへり。」宇治では古くから、渡船業や漁業を生業とする人々がいたと云い、そうした人々は水神を信仰すると共に橋姫を祭祀していたという。その時代に、宇治川で水死した人を「竜宮に財を求めに行った。」という言葉で表したという。つまり、宇治川もまた、竜宮への入口であったと認識されていたのだろう。水神信仰と共に橋姫を祭祀したのは、全て橋姫を通して水神の元へと連れて行って貰えると信じられていた為であろうか。ただ思うに、行った先が黄泉国であるのを竜宮に行ったという事にしたのは、一つの慰みであったのかもしれない。そういう意味では、民の心にはどこか竜宮=黄泉国という意識があったのではなかろうか。<br />
<br />
「古事記」においては、伊弉諾の黄泉国の帰還後に誕生した八十枉津日神(瀬織津比咩)である事から、瀬織津比咩にはどこか黄泉国の匂いがする。橋姫が男に対する恨みから宇治川に浸かり鬼になったくだりは、「今昔物語」で、厠に入った女が鬼になって出てきた事から、川も厠も同じ黄泉国の入口であったという認識がなされていたのではないか。ところで、黄泉国・霊界・竜宮・根の国・底の国・常世国など、いろいろな人の行く末の名称があるが、観念的には殆ど同じものであったのだろう。ただ、宗教的意識によって、その名称が変わったと考えていただきたい。「日本書紀(垂仁天皇二十五年三月)」に天照大神が登場し、伊勢のイメージを「是の神風の伊勢國は、常世の浪の重浪歸する國なり。」という言葉で表している。常世の「ヨ」とは、生命力を表し豊穣の源泉であるとされている。つまり常世とは、生命力が集まり、それが溢れ出る地であるという事か。そして、それらが伊勢に押し寄せるという。この天照大神の言葉の後、伊勢国に祠を建てるのだが、それは現在の伊勢神宮の地では無く、瀬織津比咩が祀られる滝原の地であった。となれば、崇神天皇時代に祟って放浪し、佐久奈谷の大石(忌伊勢)に立ち寄った神であり、伊勢国から常世の波を眺めた神とは天照大神ではなく、天照大神の荒魂であったと思えるのだ。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201511/05/75/f0075075_6581018.jpg" alt="_f0075075_6581018.jpg" class="IMAGE_MID" height="320" width="480" /></center><br />
宇治川は途中淀川となって、最後は海へと流れ注ぐ。しかし先に書いた様に、宇治は兎路であった。莵の隠語は、月を意味している。天武天皇時代から行われた大嘗祭が卯の日とされているのは、卯の方位は東方で太陽の昇る方向とされているが、月もまた東方から昇るものである。常世とは、常夜とも書き表す。天照大神の眺めた常夜の波とは、東方の海の彼方から押し寄せる波である。それは恐らく、太陽の明かりによって照らされた波では無く、月光に照らされた波を言ったものだろう。実際に太陽暦が採用されたのは、持統天皇時代以降であり、天武天皇以前は太陰暦が採用されていた。天武天皇時代から行われた大嘗祭が卯の日とされているのは、卯の方位は東方であり、それは太陽でもあり、豊穣を意味する月の昇る方角をも意識したのではなかろうか。満月の夜には、海辺に魚などが押し寄せ産卵行為をする事が古代から認識されていたのであれば、満月と豊穣は結び付けて考えられた事だろう。古代での死生観は、死して復活である。太陽は毎日、東から生れて西に死ぬ。それは、月も同じである。しかし太陽と違って、月は日毎の満ち欠けの姿から、復活・蘇生・誕生への意識を強くさせている。つまり宇治(兎路)とは、その生命力の路ではなかろうか。<br />
<br />
人が水に呑み込まれて竜宮へ行くという観念は、先に記した。その人の生命力を呑み込んだ水であり川は、海へと注ぎ、常世国へと流されていく。その生命力が再び常世の波となって伊勢に押し寄せるという観念からだろうか、現在の伊勢神宮には宇治橋があり、またひっそりと隠れた場所に橋姫神社が祀られているのは、琵琶湖から宇治を経て伊勢に帰結する循環を意識してのものでは無かったか。先に述べた様に、橋姫は水神祭祀の神を迎える巫女としての玉依姫としての役割であり、それが琵琶湖・宇治橋という死との境界と、伊勢神宮・宇治橋という生の境界に祀られている理由ではなかろうか。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201511/05/75/f0075075_733358.png" alt="_f0075075_733358.png" class="IMAGE_MID" height="578" width="500" /></center><br />
貴船神社の社伝によれば、神武天皇の母である玉依姫命が、黄色い船に乗って淀川・鴨川・貴船川を遡って当地に上陸し、水神を祭ったのに始まると伝えている。その貴船の水神は、橋姫に対して「宇治の河瀬に行きて三七日漬れ。」と伝えたのは何故か。実は、伊勢神宮と鞍馬山を含む貴船には、共通するものがある。それは、六芒星である。<br />
<br />
六が意味する事は、干支の子から始まって六番目の巳を意味する為に六つ連なる形とされた。つまり、六と言う数字そのものは、蛇を意図しているという事。それを形作れば、六芒星であり、籠目模様であり、亀甲紋となる。北の聖獣でもある玄武とは、蛇と亀の結び付きだというのが一般的に知られるが、その玄武は蛇を噛んでいる姿で表すのが正式である。古代中国では、蛇を悪しきものとしていた。疾病という漢字も蛇が体内に入り込んで病気になったという事を意味している。その蛇を噛む亀とは、ある意味魔除けとなるのであった。また籠とは、龍を竹で囲んで封印したという意味を有する。その籠を竹で編んで、籠目の形を作るのだが、その形が六芒星の様な籠目模様であり、それは魔除けを意味する。つまり、伊勢神宮の灯篭に刻まれている籠目紋様が本来、伊雑宮のものであったというならば、伊雑宮に蛇が封印されている印だと考えても良いだろう。その蛇とは何か?その伊雑宮神職の磯部氏の祖先とされる伊佐波登美命と玉柱屋姫命の二座が祀られていたが、伊雑宮御師である西岡家に伝わる文書では、祭神「玉柱屋姫命」は「玉柱屋姫神天照大神分身在郷」と書かれる。そして同じ箇所に「瀬織津姫神天照大神分身在河」とある事から、伊雑宮には瀬織津比咩が祀られている。籠目紋から亀甲部分を抜き取ると、三角形だけが残る。この三角形だけで家紋としているので有名なのは、北条氏である。その北条氏が江ノ島弁財天に子孫繁栄を祈願した時、美女変身した大蛇が神託を告げ、三枚の鱗を残して消えたことに因むというが、三角形は古代から蛇の鱗を意味している。つまり、籠目紋そのものは、亀と蛇の組み合わせであり、北に鎮座する玄武を意味しているのだ。<br />
<br />
六という数字が蛇を意味し、その六つの角もまた蛇を意味する。もう一度、伊勢神宮の石灯篭を見れば、菊紋の下に籠目紋が刻まれている。その伊雑宮の鰹木と千木だが、千木は内削ぎで、鰹木は６本の偶数となっている。俗説ではあるが、女神を祀る場合は偶数の内削ぎだと云われるが、その鰹木が６本であるのも蛇神の女神である事を意味しているように思える。実際に祀られている瀬織津比咩が蛇神である事は、今更言うまでもない。そして、その六芒星であり亀甲紋が鞍馬にもあるのは、伊勢との共通性を意味するものだろう。つまり、伊勢神宮と貴船神社に祀られる水神は、同じという事。それ故に、貴船の神が橋姫に対し宇治川に浸かれという意味は先に記したように、宇治川が伊勢との繋がりが深い地である意味を有している為だろう。橋姫神社の祭神が、佐久奈谷(桜谷)に鎮座する瀬織津比咩である事から、宇治川に身を浸す女とは、黄泉国から帰還し瀬に下って穢祓をした伊弉諾を想起させるが、その本質は、穢祓の女神である瀬織津比咩の姿をイメージしてのものだろう。橋姫は、瀬織津比咩の霊(タマ)を依り憑かせる巫女であったのが、後に様々な人の意識が付着して、現代に伝わる姿となったのだと考える。]]></content>
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    <title>橋姫と瀬織津比咩（其の五）</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://dostoev.exblog.jp/24636361/" />
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    <issued>2015-11-03T20:28:11+09:00</issued>
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    <author><name>dostoev</name></author>
    <dc:subject>橋姫と瀬織津比咩</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201511/03/75/f0075075_1356082.jpg" alt="_f0075075_1356082.jpg" class="IMAGE_MID" height="320" width="480" /></center><br />
「神道集」の「橋姫明神事」には、こう記されている。<br />
<br />
「抑橋姫ト申ス神ハ、日本国内大河小河橋守神也、而レハ摂州長柄ノ橋姫、淀ノ橋姫、宇治ノ橋姫ナント申シテ、其数多申、今長柄ノ橋姫事ヲ明奉…此時摂州長柄橋ヲ懸被、人柱ヲ立被、其河橋姫トハ、之河ニテ死ル人ハ依、皆橋姫眷属トハ成也」<br />
<br />
要は、全国の架橋工事の際、人柱となった女性が橋姫の眷属となり、橋姫そのものでもあるという事。ここで思い出すのは、岩手県の横田町に鎮座する舞出神社だ。祭神は瀬織津比咩と一緒に、菖蒲姫が祀られている。社伝によれば、遠野の上郷村の娘が母と共に横田村に辿り着いた時、そこで人柱となる事を了承し、その後に舞出神社に神として祀られたものであった。つまり、遠く離れた岩手県においても、瀬織津比咩の名の元、橋姫信仰が伝わり、菖蒲姫が人柱になり、橋姫となったという事か。人柱が本当にあったか、それともなかったのかという論争は、今でも終息を見ないでいるが、遠野には人柱になった女性の墓が存在する。また現在、銀河鉄道をイメージされているめがね橋が以前、補修工事の際に、お歯黒の女性の骨が出土しているので、人柱となった女性ではないかと云われている。全国的にどうかだが、遠野地域では人柱があった可能性は高いのだろうと思っている。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201511/03/75/f0075075_1745154.jpg" alt="_f0075075_1745154.jpg" class="IMAGE_MID" height="668" width="500" /></center><br />
橋姫を有名にしたのは、恐らく「平家物語」の一節だろう。嫉妬に狂って鬼となってしまった橋姫の姿は、当時の感覚ならば衝撃的であったのではなかろうか。妬みで思い出すのは、山神の信仰だ。霊山の殆どは女人禁制となっている理由付けに、山神は女神であり、女神より美しい女性が山に登ると祟りを為すと云われるのは、女の嫉妬心からだという。それは磐長姫の意識が山神に投影された為だとも云われるが、山神は女神であるという認識が大半を占めている。わたしの住む遠野地方では、遠野三山全てに女神が配されており、各々に女人禁制を破った女性が女神の怒りに触れ、石になったという姥石(婆石)の話と、石そのものが存在する。古代において妬みが女性特有のものであると認識されていたならば、神の妨害によって船が進まなくなった船を進め様と、自ら人身御供になろうと水中に身を投じた弟橘姫は、その原因が女神の嫉妬とわかった為ではなかろうか。弟橘姫を失った日本武尊は最後に、伊吹山の山神の霊威によって命を失ってしまう。ただ、山と海が繋がっていると信じられていた時代、もしかして日本武尊を含めて、夫婦二神としての人身御供の完成が、同じ女神によって成された可能性があるのではないか。<br />
<br />
「遠野物語拾遺28」での母也明神の中では、男蝶女蝶と夫婦揃って初めて人柱になれるというのだが、橋姫を相対的にみれば、水神祭祀の神を迎える巫女としての橋姫がクローズアップされている。つまり、妬んで鬼となる橋姫の姿よりも、前回述べた水神の霊(タマ)を依り憑かせる"玉依姫"としての橋姫が、本来の姿であろう。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201511/03/75/f0075075_1947386.jpg" alt="_f0075075_1947386.jpg" class="IMAGE_MID" height="320" width="480" /></center><br />
橋姫神社に佐久奈度神社の瀬織津比咩が勧請されたのだが、佐久奈度神社には、祓戸の神々が祀られているのに何故、橋姫神社には瀬織津比咩一柱の神が勧請されたのかは、やはり本来、桜谷には瀬織津比咩だけが桜明神として祀られていた為であろう。天智天皇時代に右大臣中臣金連が"大石佐久那太理神"を勧請したとある。<br />
<br />
高橋亨「源氏物語の対位法」において、「大祓祝詞」の中に展開される世界と、桜谷から始まる宇治水系は対比される場所であると述べている。「大祓祝詞」の中に出てくる大津とは近江の大津であり、佐久那太理は佐久奈谷であって佐久奈度神社の鎮座する地であり、科戸は伊吹山の麓にあり、彼方は山城の地名で湖水の下り来る川添にあると。 「大祓祝詞」を作ったのは、天智天皇の右大臣であり、佐久奈度神社を建立した中臣金連であるという。となれば天智天皇の時代に作られた「大祓祝詞」は、佐久奈谷から宇治水系への流れで伊勢まで行きつく行程が初めから意図された可能性はあるだろう。 <br />
<br />
ところで、佐久奈度神社の鎮座する佐久奈谷の大石という地名は「忌伊勢」からきているのだという。これは、崇神天皇五年に、大殿に祀っていた天照大神と倭大国魂が祟り、この二柱の神を外に出し、天照大神は豊鍬入姫命に託され、笠縫邑まで運ばれ祀られた。そしてその後、倭姫に託され彷徨い、どうにか滝宮に落ち着いた経緯がある。実はこの倭姫と彷徨った天照大神の行程は、武力制圧であったとされる。これは「荒御魂」でも書いたが、崇神天皇が大殿で祀っていたのは、天照大神の荒魂であった可能性が強い。その武力制圧の行程の中の一つが、佐久奈谷の大石の地であった。恐らく、天照大神の荒魂によって武力制圧された為の「忌伊勢」であったのだろうか。これを佐久奈谷に当て嵌めれば、佐久奈谷に瀬織津比咩が祀られたのは崇神天皇時代という事になる。佐久奈谷を武力制圧した天照大神の荒御魂である瀬織津比咩は、死を運ぶ恐ろしい女神として、その地の支配の証に祀られた可能性があるのではなかろうか。]]></content>
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    <title>橋姫と瀬織津比咩（其の四）</title>
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    <issued>2015-11-02T18:50:00+09:00</issued>
    <modified>2019-10-07T12:01:47+09:00</modified>
    <created>2015-11-02T18:50:17+09:00</created>
    <author><name>dostoev</name></author>
    <dc:subject>橋姫と瀬織津比咩</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201511/01/75/f0075075_2155523.jpg" alt="_f0075075_2155523.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center><br />
橋姫神社の社伝によれば、孝徳天皇の時代(６４６年)に、元興寺の僧である道登が宇治橋を架けるにあたって、その鎮護祈願から、宇治川の上流桜谷に鎮座する佐久奈度神社の祭神瀬織津比咩を勧請し、橋上に祭祀したとするが、佐久奈度神社そのものは天智天皇時代に創建されたものであるから、年代のズレが生じている。しかし本来、桜谷の桜谷明神として祀られていた瀬織津比咩であった事から、佐久奈度神社に祀られるのはその後であろうから、橋姫神社に瀬織津比咩が勧請されたのは、あくまでも桜谷の瀬織津比咩として勧請されたものと思える。<br />
<br />
ところで、桜谷は鎌倉時代の歌論書「八雲御抄」で、「さくらだに(是は祓の詞に冥土をいふと伝り)」と記され、冥土の入口と思われていたようだ。「蜻蛉日記」にも、佐久奈谷へ行こうと言うと「口引きすごすと聞く(引き込まれる。)…。」とあるのは、桜谷=冥土(黄泉国)の入口と古くから伝わっている為であろう。琵琶湖畔に、伊弉諾と伊邪那美を祀る多賀大社が鎮座しているが、どこか琵琶湖そのものが黄泉国と通じるという意識があったのではないか。その為、琵琶湖を源流とする宇治川の流れに、似た様な意識が伺える。以前書いた「七瀬と八瀬」で七瀬の祓所に触れたが、佐久奈谷や宇治祓所でもあった。「古事記」において、黄泉国を千曳岩で閉じて現世に帰還した伊弉諾は、真っ先に中津瀬に下りたって禊をした。琵琶湖を源流とする宇治川水系に、こうも祓所が設けられるのは、琵琶湖からの水系が黄泉国との入口と見做されていたのではなかろうか。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201511/02/75/f0075075_1711290.jpg" alt="_f0075075_1711290.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center><br />
「撰集抄」という説話集に、「一条戻り橋」の話がある。祈祷僧浄蔵が吉野の修行から帰って来たところ、一条橋の畔で父の葬列に遭遇し、法力で父を蘇生させた事から、その橋を"戻り橋"と呼ぶ様になったという。俵藤太が百足退治を懇願する大蛇に会ったのは、瀬田の唐橋。橋とは「あちらとこちら」を結ぶ意があり、それがいつしか「あの世とこの世」を結び付ける様になってしまったのは、水そのものが霊的なものとされている為だろう。川から河童が出て来るのは、水から現れるのではなく、黄泉国から現れるものと考えた方が良い。厠の穴から河童の手が出て、お尻を撫でる話も同じである。厠もまた、霊界と繋がっていると信じられていた。「創禊弁」には「山城の風土記に曰く、宇治の滝津屋は祓戸なり。云々。」とあり、また「万葉集」にも「ちはやぶる　宇治の渡　滝つ屋の…。」とある事から、滝=祓所という意識があったのだろう。ただ、宇治橋近辺に滝は無いようだが、例えば遠野に砥森滝というものがあるが、これは落差のある滝では無く、激流を滝に見立てて砥森滝と呼ばれていた。つまり、古代の宇治川もまた、滝の様な激流であったのだと思える。事実、延暦１６年(７９７年)に、宇治橋造営の為に、文室多麿が派遣されており、嘉祥元年(８48年)には、大洪水の為に宇治橋がやはり破損しているようだ。<br />
<br />
わすらるる身をうぢ橋の中たえて人もかよはぬ年ぞへにける　　<br />
<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　又は、此方彼方に人も通はず　　　　　　「古今集」<br />
<br />
この歌は、宇治橋が破損して、誰も通らなくなった事を詠っている。ただ宇治橋だけでなく、全国的に橋が洪水で流され、破損していた筈である。ただ「万葉集」にも詠われている様に「ちはやぶる　宇治の渡」という形容から、宇治川は神威を感じる流れであったのだろうと察する。その宇治川の滝津屋と呼ばれた場所は、宇治の渡から約２・２キロに渡る範囲であるといい、つまり宇治全体が祓所である霊的な空間として認識されていたのだろう。そしてその中心は、やはり宇治橋であり、橋姫となる。<br />
<br />
「古今集」で橋姫の歌に、下記がある。<br />
<br />
さむしろに衣かたしき今宵もや我を待つらむ宇治の橋姫<br />
<br />
　　又は、宇治の玉姫<br />
<br />
何故、橋姫が玉姫という異称で呼ばれたのか。それは恐らく、玉依姫を意味しているのだろう。玉依姫とは、霊(タマ)の依り憑く巫女の意であるという。つまり、祓所である宇治川全体の神の霊威を橋姫が一身に受けているという事。次は、その神の霊威の根源と橋姫を絡めて考えて見る事にする。]]></content>
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    <title>橋姫と瀬織津比咩（其の三）</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://dostoev.exblog.jp/14990143/" />
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    <issued>2010-11-16T11:07:00+09:00</issued>
    <modified>2015-11-02T18:16:23+09:00</modified>
    <created>2010-11-16T11:07:32+09:00</created>
    <author><name>dostoev</name></author>
    <dc:subject>橋姫と瀬織津比咩</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201011/16/75/f0075075_1163012.jpg" alt="_f0075075_1163012.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center><br />
山中で、たまに鹿の群れに遭遇する事がよくある。鹿の生態を調べると、集団で移動する時は殆ど、決まった道を通るのだと。まあ決まった道と言っても、人間様みたいに道路を作るわけではなく、本能の赴くままに進み、後からそれが道となるのが一般的に"獸道"と呼ばれるものである。ところでその獸道だが、鹿のように集団で何度も通ると、それこそ人間が意図的に踏み固めた道のようになり、それを古代から"ウジ"と呼ぶ。現在の宇治市も、この獣が踏み固めて作った道であるウジから地名が起ったようである。<br />
<br />
ところで橋とは「モノとモノを繋げる」という意味から発生している。箸は、食べ物と口とを繋げるもの。橋は、あちらとこちらを繋げるもの。ちなみに高橋という姓があるが、高は鷹にも通じ、広義的には高いところと低いところを繋げるだが本来は、天と地を繋げるという意であると。その為か、高橋家の家紋は鷹の羽が使用されている場合が多い。その高橋家から出ているのが菊池家であり、遠野の菊池の家紋もまた鷹の羽となっている。<br />
<br />
話は横道に逸れたが、では宇治橋とはなんであろう?まあ本来、宇治という地名に、後から建てられた橋が宇治橋ではあるのだが、問題は何故に伊勢神宮に入る為の橋を宇治橋と称するのかだ。]]></content>
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    <title>橋姫と瀬織津比咩（其の二）</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://dostoev.exblog.jp/14990134/" />
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    <issued>2010-11-16T11:05:00+09:00</issued>
    <modified>2019-01-22T04:07:14+09:00</modified>
    <created>2010-11-16T11:05:04+09:00</created>
    <author><name>dostoev</name></author>
    <dc:subject>橋姫と瀬織津比咩</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201011/16/75/f0075075_1124863.jpg" alt="_f0075075_1124863.jpg" class="IMAGE_MID" height="667" width="500" /></center><br />
「後拾遺和歌集」での和泉式部の歌がある。 <br />
<br />
<br />
「物おもへば沢の蛍も我が身より あくがれいづる魂かとぞみる」 <br />
<br />
<br />
そとて、その歌に対する貴船の神の返歌。 <br />
<br />
<br />
「奥山にたぎりておつる滝つ瀬の たまちる許物な思ひそ」 <br />
<br />
<br />
この歌を読むと、まるで貴船の神は滝神かとドキッとしてしまう。「後拾遺和歌集」の成立は１０８６年なので平安末期だが、和泉式部が詠ったにせよ、その伝承はもっと遡ると考えても良いと思う。和泉式部は、天元元年頃（９７８年）の出生とするのが通説となっているが、現代でも１００年前の明治時代の伝承やら伝説、または迷信なども含め伝わっているのを考えると、更に１００年程遡ってもいいのではないだろうか？つまり９世紀、もしくは８世紀まで遡り、貴船の神は滝神であった、と考えても良いかもしれない。<br />
<br />
ところで高龗神もまた滝神で「高」は、山峰をさし「龗」は、竜神で雨を司る神とされ、またはその対の闇龗神の「闇」は、谷を表して、二神で対の信仰となっていたようで、極端な個性は感じない。ただし高龗神と瀬織津姫の共通性は、滝神というだけではなく、剣から発生した神だという事。瀬織津姫はスサノオとアマテラスの誓約の際、アマテラスがスサノオの十拳剣から生ませたのが宗像三女神。また高龗神は、イザナギがカグツチを、やはり十拳剣で切り、その剣の柄に溜った血から生まれたのが?神となる。別に淤加美神とも言い表す。正確には、純粋に剣から生まれたのが宗像三女神で、カグツチの血と剣が加わって生まれたのが淤加美神となる。聖数として「三」という数字がある。三貴子として、アマテラス、ツクヨミ、スサノオがいるように、何故か古代は三つに分ける習慣がある。この三分割は、原初信仰の三光信仰（太陽・月・星）というのもあるのだが、ある意味何かの誤魔化しでもあるような気がして<br />
ならないのだが…。]]></content>
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    <title>橋姫と瀬織津比咩（其の一）</title>
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    <issued>2010-11-16T11:01:00+09:00</issued>
    <modified>2019-01-22T04:09:24+09:00</modified>
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    <author><name>dostoev</name></author>
    <dc:subject>橋姫と瀬織津比咩</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201011/16/75/f0075075_1058143.jpg" alt="_f0075075_1058143.jpg" class="IMAGE_MID" height="668" width="500" /></center><br />
「平家物語」 <br />
嫉妬に狂う鬼としての橋姫が現れるのは、『平家物語』の読み本系異本の『源平盛衰記』・『屋台本』などに収録されている「剣巻」で、橋姫の物語の多くの原型となっている。異本であるため、出版されている『平家物語全集』の類の多くには収録されていない。 <br />
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嵯峨天皇の御宇に、或る公卿の娘、余りに嫉妬深うして、貴船の社に詣でて <br />
七日籠りて申す様、「帰命頂礼貴船大明神、願はくは七日籠もりたる験には、 <br />
我を生きながら鬼神に成してたび給へ。妬しと思ひつる女取り殺さん」とぞ <br />
祈りける。 <br />
<br />
明神、哀れとや覚しけん、「誠に申す所不便なり。実に鬼になりたくば、姿 <br />
を改めて宇治の河瀬に行きて三七日漬れ」と示現あり。女房悦びて都に帰り、 <br />
人なき処にたて籠りて、長なる髪をば五つに分け五つの角にぞ造りける。 <br />
<br />
顔には朱を指し、身には丹を塗り、鉄輪を戴きて三つの足には松を燃やし、 <br />
続松を拵へて両方に火を付けて口にくはへ、夜更け人定りて後、大和大路へ <br />
走り出で、南を指して行きければ、頭より五つの火燃え上り、眉太く、鉄〓 <br />
（かねぐろ）にて、面赤く身も赤ければ、さながら鬼形に異ならずこれを見 <br />
る人肝魂を失ひ、倒れ臥し、死なずといふ事なかりけり。斯の如くして宇治 <br />
の河瀬に行きて、三七日漬りければ、貴船の社の計らひにて、生きながら鬼 <br />
となりぬ。宇治の橋姫とはこれなるべし。 <br />
<br />
さて妬しと思ふ女、そのゆかり、我をすさむ男の親類境界、上下をも撰ばず、 <br />
男女をも嫌はず、思ふ様にぞ取り失ふ。男を取らんとては女に変じ、女を取 <br />
らんとては男に変じて人を取る。京中の貴賤、申の時より下になりぬれば、 <br />
人をも入れず、出づる事もなし。門を閉ぢてぞ侍りける。 <br />
<br />
その頃摂津守頼光の内に、綱・公時・貞道・末武とて四天王を仕はれけり。 <br />
中にも綱は四天王の随一なり。武蔵国の美田といふ所にて生れたりければ、 <br />
美田源次とぞ申しける。一条大宮なる所に、頼光聊か用事ありければ、綱を <br />
使者に遣はさる。夜陰に及びければ鬚切を帯かせ、馬に乗せてぞ遣はしける。 <br />
<br />
彼処に行きて尋ね、問答して帰りけるに、一条堀川の戻橋を渡りける時、東 <br />
の爪に齢二十余りと見えたる女の、膚は雪の如くにて、誠に姿幽なりけるが、 <br />
紅梅の打着に守懸け、佩帯（はいたい）の袖に経持ちて、人も具せず、只独 <br />
り南へ向いてぞ行きける。 <br />
<br />
綱は橋の西の爪を過ぎけるを、はたはたと叩きつつ、「やや、何地へおはす <br />
る人ぞ。我らは五条わたりに侍り、頻りに夜深けて怖し。送りて給ひなんや」 <br />
と馴々しげに申しければ、綱は急ぎ馬より飛び下り、「御馬に召され侯へ」 <br />
と言ひければ、「悦しくこそ」と言ふ間に、綱は近く寄つて女房をかき抱き <br />
て馬に打乗らせて堀川の東の爪を南の方へ行きけるに、正親町へ今一二段が <br />
程打ちも出でぬ所にて、この女房後へ見向きて申しけるは、「誠には五条わ <br />
たりにはさしたる用も侯はず。我が住所（すみか）は都の外にて侯ふなり。 <br />
それ迄送りて給ひなんや」と申しければ、「承り侯ひぬ。何く迄も御座所へ <br />
送り進らせ侯ふべし」と言ふを聞きて、やがて厳しかりし姿を変へて、怖し <br />
げなる鬼になりて、「いざ、我が行く処は愛宕山ぞ」と言ふままに、綱がも <br />
とどりを掴みて提げて、乾の方へぞ飛び行きける。 <br />
<br />
綱は少しも騒がず件の鬚切をさつと抜き、空様に鬼が手をふつと切る。綱は <br />
北野の社の廻廊の星の上にどうと落つ。鬼は手を切られながら愛宕へぞ飛び <br />
行く。 <br />
<br />
さて綱は廻廊より跳り下りて、もとどりに付きたる鬼が手を取りて見れば、 <br />
雪の貌に引替へて、黒き事限りなし。白毛隙なく生ひ繁り銀の針を立てたる <br />
が如くなり。 <br />
<br />
これを持ちて参りたりければ、頼光大きに驚き給ひ、不思議の事なりと思ひ <br />
給ひ、「晴明を召せ」とて、播磨守安倍晴明を召して、「如何あるべき」と <br />
問ひければ、「綱は七日の暇を賜りて慎むべし。鬼が手をば能く能く封じ置 <br />
き給ふべし。祈祷には仁王経を講読せらるべし」と申しければ、そのままに <br />
ぞ行なはれける。 <br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201011/16/75/f0075075_10591834.jpg" alt="_f0075075_10591834.jpg" class="IMAGE_MID" height="657" width="500" /></center><br />
この橋姫の話での一番のキーワードは、やはり貴船神社だろう。貴船神社は古代から水神を祀ってきた神社で、現在は高?神（たかおかみのかみ）を祀っている事になっている。実は、貴船神社の古来からの神域には、鞍馬山も属していた。鞍馬寺の奥の院は、魔王殿と呼ばれ、怖ろしい地という認識の元、庶民に広がっていた。 <br />
<br />
ところで鞍馬寺では毘沙門天を祀っているのだが、インドで云うヤクシャ…つまり夜叉であり、それは薬師ともなる。そのインドのヤクシャの王、つまり魔王が毘沙門だ。薬師は本来、水と樹木に繋がる神だった。つまりその薬師系の水神を祀る鞍馬寺の以前に、貴船神社があったというのは元々、貴船の地主神が水神であった為、それに倣っての鞍馬寺であったと考える。つまり貴船を中心とするこの地域一帯は、鬼神が支配する地域と信じられていたのだろう。鞍馬寺の開祖、鑑禎上人が鞍馬山で鬼魑の姿をした鬼神に遭遇した伝説も、本来の大本は貴船の神であったようだ。<br />
<br />
ところで貴船神社は”縁結びの神”として人気を博しているようだが、それとは別に”縁切りの神”と”呪咀神”という裏の顔を持つ。ここで認識して欲しいのは、本来の神々は、一方的に祟りを成す存在で、現世利益など与える事などしなかった存在だった。古代の人々は、その神の祟り恐さに、いろいろなものを奉納したりと、ただ一方的に神の怒りであり、祟りを鎮める為に苦悩していたようだ。つまり、現在の貴船神社の”縁結び”というのは、後に信者を獲得する為に作られた顔であり、本来の貴船神社の顔とは、「縁切りの神・呪咀神」であったのだろう。]]></content>
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