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    <title>不思議空間「遠野」　－「遠野物語」をｗｅｂせよ！－:河童と瀬織津比咩</title>
    <category domain="http://dostoev.exblog.jp/i216/">河童と瀬織津比咩</category>
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    <description>遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求</description>
    <dc:language>ja</dc:language>
    <dc:creator>dostoev</dc:creator>
    <dc:rights>2023</dc:rights>
    <pubDate>Sun, 16 Jul 2023 18:24:24 +0900</pubDate>
    <dc:date>2023-07-16T18:24:24+09:00</dc:date>
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      <title>不思議空間「遠野」　－「遠野物語」をｗｅｂせよ！－</title>
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      <title>河童と瀬織津比咩(其の十五)</title>
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      <description><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201904/13/75/f0075075_19085667.jpg" alt="_f0075075_19085667.jpg" class="IMAGE_MID" height="320" width="480" /></center>河童という存在が全国に広がったのは江戸時代からというが、まず先に「川には、河童トイウモノが棲んでいるらしい…。」という様な話が全国の庶民の間に拡がったものと考えている。それから不確かな河童の存在が水辺に生息する生物と重ねられて、誤った河童像が出来上がったのかと思う。何故なら、絵などの記録に残る河童の色や姿に統一性が無いからだ。例えば遠野には昔、川側に生息している猿を淵猿と呼んだというのだが、いつしか猿は山奥へと移動し、今では仙人峠や笛吹峠の奥に見受けられる程度である。それに伴い、遠野の集落から河童の目撃譚も無くなってしまったのは、やはり猿との関係があったのではないかと思える。ただ江戸時代以前から、河童らしきものの概念は、確かにあった。<br />
<br />
柳田國男は、妖怪などは、神などの零落した存在であると考えていた。河童もまた、水神の零落した姿であると。ただし、河童が水神かというと疑問符が残る。正確には、水神の眷属、もしくは水神を信仰している者達を河童に創り上げたのかとも思う。以前も紹介したが、利根川の河川工事をする人夫達を河童として揶揄した歴史もある。これは水泳や潜りの上手い者をも、河童と揶揄するのと、似た様なものだろう。また別に、大分県の雲八幡宮では、古くから"河童楽"という河童封じの神事が執り行われている。ただ、ここでの河童とは、平家の落人の妄念が河童に化けたものとされている。これは壇ノ浦で水の中に死んでいった平家の魂が、河童になったものと捉えられたのだろう。これらからも、河童と成りえる存在は、水神の零落したものだけでは無いと理解できる。<br />
<br />
<br />
ところで河童の名称の一つに「カハタロー」というものがあるが、地域としては九州で呼ばれる河童の名称のよう。しかしこれに近似するかのように九州では、大蛇の事を「ヤータロー」もしくは「ヤハタロー」というようであるが、これがどうも「ヤハタ」が「八幡」を示すようだ。八幡神が現れたのが宇佐の三角池であったとするが、三角池(みすみいけ)は本来、巳棲み池(みすみいけ)であったとされる。その八幡神の原初は、水神である姫神祭祀であった。これらを単純に示せば、八幡神を崇めるのが河童という事になろうか。球磨川の河童は、猿と姫神の奪い合いをしたとの伝承があるが、球磨川を中心とする地は、元々隼人と呼ばれる民族の地であった。それならば、隼人という一族もまた、河童に零落させられ語られた可能性も否定できないであろう。その隼人という呼称で気になるのは、「遠野物語32」に登場する「何の隼人」という人物である。<br />
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー<br />
千晩ヶ嶽は山中に沼あり。此の谷は腥き臭のする所にて、此山に <br />
入り帰りたる者はまことに少なし。 <br />
<br />
昔何の隼人と云ふ猟師あり。其子孫今もあり。白き鹿を見て之を <br />
追ひ此谷に千晩こもりたれば山の名となす。其白鹿撃たれて遁げ、 <br />
次の山まで行きて片肢折れたり。其山を今片羽山と云ふ。 <br />
<br />
さて又前なる山へ来て終に死したり。其地を死助と云ふ。死助権 <br />
現とて祀れるはこの白鹿なりと云ふ。<br />
<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　「遠野物語３２」<br />
<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201904/14/75/f0075075_17470566.jpg" alt="_f0075075_17470566.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center>この「遠野物語32」に登場する"何の隼人"という人物の名は、「旗屋の鵺」とも「畑屋の縫」とも呼ばれる。「注釈遠野物語」によれば、「畑屋の縫」の本来は高橋氏縫之助であり、元々は阿曽沼氏の家臣であったと紐解いている。ただ、その高橋氏は、阿曽沼氏が連れて来た家臣なのか、現地で登用したものかは、わからない。また「注釈遠野物語」では、何故に"何の隼人"と呼ばれたのかに対しては言及していない。遠野の「何の隼人」と、九州の隼人を比較すると、重なりそうな箇所がいくつも出て来る。<br />
<br />
<br />
遠野の上郷町に、畑屋という地がある。そこに、旗屋の縫の子孫とされる、高橋家があると共に、旗屋の縫を祀ったとも、狩猟による殺生の為に畜霊を祀ったとも伝えられる畑屋観音堂と、白馬を祀る駒形神社がある。旗屋とも畑屋ともされる縫だが、現在の地名が畑屋であり、元禄十年(１６９７年)「遠野領における境争論の有無についての書上(三翁昔話)」に「百姓縫殿」という名前が登場する事から、この頃は百姓であったらしい。ただ先に紹介したように、阿曽沼氏の家臣であったが、後に百姓に転じたらしい。ただし、だ。九州の隼人の文化を調べると、隼人の生活の主体は「畑作と狩猟」である。畑屋の縫が百姓をやりながら狩猟をしていたとして、何等問題は無いのだろう。そして、馬だ。南九州は、その時代馬産地であったようだ。馬の扱いに長けている隼人が、何等かの理由により遠野に移り住んだとして不思議では無いだろう。何故なら、既に菊池氏の流れが遠野に至っている。その菊池氏の流れも、岩手県には鎌倉時代以前から住みついている菊池氏も居る事から、平安時代以前に何かがあっての移動があったのかもしれない。蝦夷征伐により、蝦夷の刀鍛冶等は俘囚として西国へと連れていかれた。逆に九州などの西国で、朝廷に逆らった者達は、蝦夷の地へと流されたとされる。その中に、隼人達も含まれていた可能性はあっただろうか。もしそうであるならば、隼人はその一族の文化と信仰と矜持を遠野に持ち込んだ可能性もあるのだろう。平安時代から江戸時代まではかなりの年月が過ぎているが、江戸時代に隼人を名乗る畑屋一族の意識は、隼人一族の血脈に流れる矜持の表れではなかろうか。<br />
]]></description>
      <dc:subject>河童と瀬織津比咩</dc:subject>
      <dc:creator>dostoev</dc:creator>
      <pubDate>Thu, 09 May 2019 06:16:18 +0900</pubDate>
      <dc:date>2019-05-09T06:16:18+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>河童と瀬織津比咩(其の十四)</title>
      <link>http://dostoev.exblog.jp/29178237/</link>
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      <description><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201801/08/75/f0075075_134510.jpg" alt="_f0075075_134510.jpg" class="IMAGE_MID" height="375" width="500" /></center><br />
恐らくだが、遠野で一番古い河童の伝説は、光興寺に住む人達に語られていた「猿ヶ石川物語」ではなかろうか。河童が全国に流行したのは江戸時代になってからであるが、九州などの地域では、それ以前から伝わっている。遠野もまた、江戸時代から明治時代にかけて河童の話が出回っているが「猿ヶ石川物語」は恐らく、高清水山の麓に阿曽沼が城を築いた時代まで遡る事が出来るのではなかろうか。以前、高清水の麓である光興寺近辺の古老に聞くと、大抵「南部は嫌いだ。」と答える。阿曽沼が没落して４００年程経った今でも、阿曽沼に想いを抱く光興寺近辺に住む人達にとって、昔から語り継がれていた伝承もまた大切なものであるのだろう。<br />
<br />
阿曽沼時代の横田城では、常に目の前に猿ヶ石川が流れていた。その阿曽沼の信仰には、日光中禅寺湖の蛇神の存在があり、それは琵琶湖を舞台にした、俵藤太伝説に繋がるものであった。その蛇神とは、白龍であり白蛇。宇迦御魂命とは、白蛇の梵語である。九州地域では、瀬織津比咩の異称とされるのが白龍である。その白龍に関する話が「猿ヶ石川物語」に載っている。その「猿ヶ石川物語」の始めは、又一の滝から始まっている。早池峯に祀られる瀬織津比咩は、滝の女神でもある事から、猿ヶ石川の根源は、早池峯の滝神から始まったと捉えても良いだろう。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201801/08/75/f0075075_1524049.jpg" alt="_f0075075_1524049.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center><br />
猿ヶ石川と早瀬川の合流点である落合には、"河童の座石"という石があり、いかなる洪水でも水に隠れる事は無いと云われる。ここは別に「女ヶ淵」と云われ、女河童が出るとされていた。これは女河童が石の上に座り休むと云う意味合いでもあろうが、例えば「遠野物語拾遺29」「淵の中に大きな白い石があるが、洪水の前などにはその岩の上に、白い衣装の婦人が現われて、髪を梳いているのを見ることがあった。(抜粋)」また「遠野物語拾遺30」「前にいう松崎沼の傍には大きな石があった。その石の上へ時々女が現われ(抜粋)」というように、猿ヶ石川に他にも石の上に忽然と現れる女の話があり、それは女河童か?と問われれば、そういう訳では無い。そして今回の河童の座石がある女ヶ淵も、本来は女河童が出るからと女ヶ淵と呼ばれたわけではないようだ。この「女ヶ淵」には伝承があり、基本は「遠野物語拾遺２５」と同じなのだが、別伝承では三姉妹のうち、末の妹が猿ヶ石川の主に貰われて行った事になっている。これがどうも、遠野三山の三女神伝説に重なりそうで、末娘が早池峯山を女神になるものに対応するかのように、女ヶ淵では末娘が早池峯を源流とする猿ヶ石川の主のものとなる話になっている。猿ヶ石川の主は、龍神だ河童だとする説があるが、その猿ヶ石川の始まりが又一の滝である事から、主の正体はあきらかだろう。<br />
<br />
女ヶ淵の河童の座石は、早池峯の麓である又一の滝から来たものとされていた。この女ヶ淵に入ったのは女白蛇であり、その命を受けて河童が石を守っていたという伝承があった。やはり竜蛇神の眷属、そして瀬織津比咩の眷属としての河童がいた。<br />
<br />
また「谷内権現縁起古老伝」に記されている「当に今此石を以て礫に擲げ、其の落ち止まる地を以て我が宮地と為すべし。」という文章から発生した下記に紹介する「逃げ石」の伝承というものがある。<br />
<br />
昔早池峰山に、白髭が膝まで届く老翁が住んでいたという。或る時の事、この老翁が小石を足で蹴り落とし、早池峰山を下っていったという事である。ところが、この石の取り除かれた所から、水が湧き流れ出て、今の猿ヶ石川になったと云う事である。この老翁が蹴り落とした石は、綾織の根岸の里で動かなくなったと。それを確認した老翁は、そのまま再び早池峰山に帰ったのだという。しかしその石は不思議な事に、その土地から逃げ出し、一夜のうちに和賀郡丹内村のヤツアナのガコに行って止まったと云う。今でもその石はその淵の中にあって、権現頭のような形をして、常に早池峰山を睨んでいるという事である。「逃げ石」<br />
<br />
この「逃げ石」の話は、「猿ヶ石川物語」の始めである石が転がる話に対応している。ところで和賀郡丹内村のヤツアナのガコとは、丹内山神社の事であった。丹内山神社は早池峯山の方向に向いて建立された神社で、その間にある瀬織津比咩を祀る滝沢神社が丹内山神社の神が顕現したところとされている。つまり丹内山神社も早池峯山に関する神社という事である。そして丹内山神社の石がそれ以前にあった地が、綾織の根岸という事になる。<br />
<br />
柳田國男「玉依姫考」を読んでいると"神が石を生んだ"とする信仰が深く根付いていたようだ。そしてその石は、更に石を生むと。全国的には、熊野または伊勢より携えた石が子を生む話が広がっている。「猿ヶ石川物語」にも石が三分割になった話が紹介されているが、その中の一つは河童である子供の石であった。その母親である石は、猿ヶ石川の落合の女ヶ渕へ行ったとあり、その石を守ったのは河童とある事から、落合の河童座石と重なる。そしてその母親の正体は、白蛇である。つまり男神と女神(白蛇)が結び付いて生まれたのが、河童であったという事になる。<br />
<br />
神が石を生むを猿ヶ石川に照らし合わせた場合、又一の滝を源流とする猿ヶ石川沿いに神の降り立つ影向石が定められ、後から伝説化されたものではないかと思える。東和町の熊野神社にある兜跋毘沙門天は、猿ヶ石川を見るように鎮座させられているとされている。猿ヶ石川は田瀬ダムが出来る以前は、水量も豊富で丹内神社や、兜跋毘沙門天を祀る熊野神社のすぐ下を流れていた。熊野大社もそうだが、川の源流神を祀るのは当然の事で、その源流に鎮座する瀬織津比咩を崇めるのは自然の流れであったろう。その猿ヶ石川の流域を神格化し、伝説化するに当たり、石と河童が登場するのは、やはり背景に九州の伝承が重なっているのだろう。瀬織津比咩という女神に仕える水妖の河童。それがいつしか、その奇異さから河童だけが単独で伝え広まったものと思えるのである。]]></description>
      <dc:subject>河童と瀬織津比咩</dc:subject>
      <dc:creator>dostoev</dc:creator>
      <pubDate>Mon, 08 Jan 2018 17:05:01 +0900</pubDate>
      <dc:date>2018-01-08T17:05:01+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>河童と瀬織津比咩(其の十三)</title>
      <link>http://dostoev.exblog.jp/27395226/</link>
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      <description><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201612/26/75/f0075075_1029415.jpg" alt="_f0075075_1029415.jpg" class="IMAGE_MID" height="386" width="500" /></center><br />
画像は、早池峯神社から馬産の護符として配っていた「猿曳駒」。この版木は現在、遠野市指定民俗文化財になっている。何故に猿が馬を曳いているかといえば、猿が病気から馬を護るとされた伝承からの、猿が馬を曳く護符になっているのだろう。石田英一郎「河童駒引考」では「捜神記」を引用して、猿が死馬を蘇生させた話を紹介している。しかし、それは猿の様であり、猿の様では無かった。「一物猴に似て非なるもの」という「捜神記」での記述は、この似て非なるものを結局猿とし、猿が馬を護る存在であると広くと認識されたようだ。<br />
<br />
実は宮崎県に、こういう河童の逸話がある。宮崎市には昔、薬湯屋があって、毎晩遅くなると、沢山の河童が集まって来て、湯に浸かったのだと。"河童の使った後の湯は、毛が一面に浮いていて、大変臭くなる"としている。一般的に河童のイメージは両生類に近いイメージで、様々な河童の絵を見ても、毛があるとしたら頭の毛程度しか思いつかない。そして、湯に入るイメージは河童というより、猿のイメージの方が強い。それ故、この薬湯に浸かった河童とは、もしかして猿ではないかと思えてしまう。これは「捜神記」の逆で、まるでで「河童に似て非なるもの」ではないか。「捜神記」の「猿に似て非なるもの」を河童とは断言できないが、実はどこかで猿を河童として面白おかしく話した流れがあったのではなかろうか。<br />
<br />
平安時代末期に編纂された「梁塵秘抄」にも「御厩の隅なる飼猿は絆放れてさぞ遊ぶ」と詠われ、厩に猿が飼われていた事がわかるが、馬を護るという俗信を信じた人間の手によって、強引に厩に紐で繋がれていたのだろう。だが河童譚にも、厩に忍び込んでいる河童の話が多い。猿と河童、その縄張りの共通性と姿態の共通性が、河童=猿であるとする説に気持ちが傾いてしまう。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201612/27/75/f0075075_16233126.jpg" alt="_f0075075_16233126.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center><br />
ところが河童と猿とは、かなり仲が悪いらしい。石川純一郎「河童の世界」には、その河童と猿の仲の悪い事例が、いくつも紹介されている。その中で、気になった箇所がある。それは「猿は馬を疾病から護り、河童の害からも守る。猿には河童除けの呪力があるのであろう。肥後芦北郡では、申年の申の日の刻生まれの者は、河童のいる淵に入って泳いでも何ともないと云われている。」これで気付いたのだが、猿は申であった。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201612/27/75/f0075075_17371668.jpg" alt="_f0075075_17371668.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center><br />
遠野を流れる猿ヶ石川沿いに庚申塔が、いくつも建っている。まあ猿ヶ石川だけでは無いのだが、古代から川沿いに道が開かれた歴史の合間に、石碑が建てられたのだろう。ただ「遠野物語55」の冒頭「川には河童多く住めり。猿ヶ石川殊に多し。」を、もう一度考え直してみたい。<br />
<br />
遠野各地の川に、河童淵と呼ばれるものがある。それは人里離れた川の淵ではなく、人里に近いところである為、各集落ごとに河童淵があると言っても過言ではない。猿ヶ石川に河童が多いというのは、猿ヶ石川自体が遠野で一番長大で、広大な河川であるから様々な集落を経由している為というのは、河童が多いという一つの理由だろう。だがここで、猿ヶ石川という名の語源に素朴な疑問が湧き上がる。何故、猿という名前の付いた河川名になったのかだ。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201612/27/75/f0075075_20432054.jpg" alt="_f0075075_20432054.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center><br />
「猿か?石か?」という猿ヶ石川の語源説話である清瀧姫伝説は、全国に似た様な伝説が点在するのだが、遠野に伝わるものは恐らく群馬県の桐生発祥だと思われるので、元々遠野に伝わるものではなかった。また猿ヶ石川の語源となった猿石があるとは伝わるが、どうやらこれも後世の付会であったようだ。石で気になるのは、前回紹介した河童の祟り除けに、礫石経を１年分である365個を川に沈める事により河童の祟りを抑えるという呪術だが、遠野では聞いた事が無い。また別に河童除けは、猿であった事を照らし合わせても、猿と石とは、河童に深く関係しそうではある。<br />
<br />
ところが、気になる伝承が熊本県の八代市に伝わっていた。「球磨川に露出している大きい岩の上に、女神が毎晩現れるのを猿と河童とが取り合いをした。」というものだ。猿と河童は仲が悪いという伝承があるのだが、何故に仲が悪いのかはわからなかった。筑後川の河童も、元々は球磨川から来たものであったから、この伝承の持つ意味は大きい。<br />
<br />
八代市は、どこか出雲を想起させる地でもある。それは市内に流れる河川名のいくつかが、出雲に流れる河川名と同じであるからだ。その中の河童と猿が女神を奪い合ったという球磨川の畔には、妙見宮がある。この妙見宮の祭神は、亀に乗って来た女神であるとされる。こういう地であるから、球磨川の大石の上に現れる女神とは、妙見神であるのだろう。妙見は庚申、つまり猿と縁が深い。また九州における妙見神とは水神を意味する。それはつまり、猿と河童が互いに信仰する共通の女神を奪い合うという事ではないか。さる高千穂在住のお方によれば、高千穂十社大明神大宮司田尻物部系図に「四十九体妙見即ち瀬織津比咩神是也」と記されているそうで、その高千穂の妙見社は"御塩井大明神"とも呼ばれるそうだ。この御塩井だが、阿蘇に塩井神社があるが、そこに流れる川は塩井川であり、そこでの禊を"シオイカカセ"と呼ぶ。この塩井川は白川に合流するのだが、その白川の水源に鎮座するのは、白川吉見神社。考えて見れば阿蘇山を中心とする水神の根源は、日下部吉見神社が発祥となっている。それが地域によって名を変えているに過ぎない。また竹田旦「水神信仰と河童」を読むと、全国に拡がる水神信仰の祭りが六月と十二月という二度に渡る祭が行われているという調査結果に竹田氏は「年に二度の水の神祭りを行うということは、つまり水神が特定の季節と関連していることを指している。いわば、六月と十二月とはその季節の両端をなしているのだろう。」と述べている。しかし竹田氏が見逃しているのは、六月と十二月の神事として、何が行われる月であるかという事。それは、大祓であろう。日本における穢祓の根源は、水によるものであった。互いのわだかまりを「水に流そう」とする日本の風習は古代から延々と、水の穢祓による力に依存してきた。その穢祓の神として知られる瀬織津比咩こそが、猿であり河童が奪い合う女神であるのだろう。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201612/28/75/f0075075_6554171.jpg" alt="_f0075075_6554171.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center><br />
奇しくも猿ヶ石川の源流は、妙見信仰も重なる北に聳える早池峯山系から始まる。その早池峯の女神は、九州の水神でもある瀬織津比咩である。日下部吉見神でもある瀬織津比咩には、菊池氏も大きく関与する。遠野に一番多い苗字である菊池氏の流れは、人だけでなく信仰の流れもあったであろう。しばしば学者の指摘するところでは、東北地方と九州地方の習俗の近似・類似は、人の流れが大きく関与している。河童という水難除けに猿が存在するのだが、然程猿が多くなかった遠野においての水難除けは、恐らく庚申がその役割を担ったのではないだろうか。庚申塔は、まさに"猿の石"でもある。遠野の北から流れる猿ヶ石川の源流を又一の滝とする伝説は、「又一(またいち)の滝」が妙見の"太一(たいいつ)"からきているだろうとされるのは、滝神である早池峯の女神を妙見神とする事からであった。河童という水難除けの信仰の発端、もしくはそれに付随する河童伝承も、全ては九州から遠野に辿り着いた、物部氏であり菊池氏などが、その信仰を早池峯な重ね合せた事から始まったのだと思えるのである。]]></description>
      <dc:subject>河童と瀬織津比咩</dc:subject>
      <dc:creator>dostoev</dc:creator>
      <pubDate>Wed, 28 Dec 2016 07:02:10 +0900</pubDate>
      <dc:date>2016-12-28T07:02:10+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>河童と瀬織津比咩(其の十二)</title>
      <link>http://dostoev.exblog.jp/27372620/</link>
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      <description><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201612/19/75/f0075075_19285360.jpg" alt="_f0075075_19285360.jpg" class="IMAGE_MID" height="369" width="500" /></center><br />
福岡の水天宮における平家の関わりと信仰を書いてきて、河童から少々脱線したきらいもあるが、ここで少し戻そうと思う。画像は"礫石経(れきせききょう)"と呼ばれるもので、平清盛が始めたようである。平清盛は人柱をやめる代わりに、この礫石経を海や淵に沈める事にした進歩的な人物だった。つまりこれは、水神の怒りを鎮める為のものである。その水神の使いとして河童がいるという認識だが、九州では河童の祟り除けに、この礫石経365個を川に沈める事により1年間、河童の祟りを抑える事が出来ると信じられる風習がある。<br />
<br />
人柱は無かったとの見解を述べる学者もいるが、遠野では例えばメガネ橋の下から、お歯黒をした女性の頭蓋骨が発見されたり、松崎には人柱で死んだ巫女の墓などがある。また陸前高田には、菖蒲姫と呼ばれた遠野の上郷村から来た女性を人柱にしたという伝承が残っている。そして事実として平清盛がこの礫石経を人柱の代わりにしたという事であるなら、やはり人柱はあったとみるべきではないか。<br />
<br />
「耳なし芳一」という小泉八雲の有名な怪談話があるが、平家の亡者から身を守る為、全身に経文を書いたつもりが、耳だけ書き残した為に、平家の亡者に耳を持って行かれる怪談話だ。これを九州の礫石経の河童除けの風習に照らし合わせれば、礫石経を365日に満たない数を川に沈めれば、その足りない日数分だけ、河童の祟りに遭うという事になる。「耳なし芳一」に登場する平家の亡者は、壇ノ浦の戦いに水没した亡者であるようだ。つまり水界から現れた、水の亡者という事であろう。その水の亡者の王は安徳天皇となるのだが、それはつまり水天宮に祀られる神でもある。小泉八雲が「耳なし芳一」の典拠としたのは、一夕散人「臥遊奇談」第二巻「琵琶秘曲泣幽霊」(1782年)であると指摘されているが、全てひっくるめて、平家の信仰を秘めた水天宮から想起されたものではなかったか。<br />
<br />
実は、この発想は漫画である星野之宣「宗像教授伝奇考」に影響されている。学者では無い漫画家である星野氏は、漫画家であるがゆえ学者が書けない自由な発想から漫画を描いているのだと。しかしその発想には、かなりハッとさせられている。独自に、遠野の河童を調べ、遠野の北に聳える早池峯信仰と祭神の結び付きには、どこか九州の息吹を感じさせるものがある。それを感じた時に、たまたま星野氏の漫画に接し、もしかしてという気持ちが湧き上がったのを覚えている。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201612/19/75/f0075075_20453192.jpg" alt="_f0075075_20453192.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center><br />
「川には河童多く住めり。猿ヶ石川殊に多し。」という「遠野物語55」の冒頭だが、何故遠野の河童は、猿ヶ石川に多いのだろうか?を純粋に考えた場合、どうしても九州に行き着いてしまう。ところで猿ヶ石川の語源に、猿と石を間違い「猿か?石か?」として、猿ヶ石川と名付けられたという、とってつけたような語源伝説がある。<br />
<br />
「遠野物語」において猿の話は、四話しかない。そのうちの三話は、猿の経立という化物猿に関するもので、六角牛の山が舞台となるのが二話。もう一話は、猿の経立の名前に触れている程度である。そしてもう一話は「遠野物語48」で、仙人峠の猿ヶ石川の話が書かれている。「遠野物語47」では「六角牛の猿の経立が来るぞ」という内容から、猿の経立の棲家は六角牛だという事で理解できる。猿がいるという六角牛と仙人峠は、遠野盆地の東側の山に面している。「猿か?石か?」の語源説は、猿ヶ石川の源流に伝わる話だが「遠野物語」では、まったく触れてはいない。その前に、猿そのものの話が遠野には少ないのがわかる。せいぜい、淵の傍に棲んでいる猿を淵猿と言って、河童の正体の一つとされる伝承が唯一、遠野の里に出没する猿の話となる。実際、今の遠野で猿を見るならば、やはり仙人峠か、六角牛山の脇を通る笛吹峠か、それを過ぎた場所にある橋野町で猿を見かける事が出来る。つまり、昔も今も猿を目撃できる場所は変って無いという事。たまに遠野の街に"はぐれ猿"が目撃される事があるが、それも一時だけである。<br />
<br />
大正時代の記録に「遠野の獣と鳥」と題されたものが記されているのが、【鳥類】には当然、猿の名は無い。では【獣類】はどうかというと、下記の通りに猿が記されていない。<br />
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【獣類】 <br />
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「きつね、ねこ、ねつみ、いたち、からたち、犬、むくいぬ、ちんけん、 <br />
おふくかめ、むささび、うさき(鎌せをい、白兎共)、くさい、こはみ、 <br />
山ねつみ、まみ、てん、しいね、とりう、きねつみ、くま、馬、牛、 <br />
鹿(あをしし、かのしし、うしゐ)、かはもり」<br />
<br />
だが大正時代に認識されていなくとも、吉田政吉「新・遠野物語」には、猿の話が記されていた。猿の悪戯はそれなりにあったようで、鉄砲を駆使して猿を撃とうとしても事前に察知され、なかなか撃てなかったらしい。猿の被害はそこそこあったようだが、吉田氏によれば、狼に比べれば大した事は無かったそうな。だからなのか、遠野での猿の話が少ないのは。ただ、遠野の里に下りて来て悪戯を成した猿も、大正時代には見られなかったという事になる。明治の半ばで姿を消した獣は、狼が狂犬病の蔓延と、多額の懸賞金がかけられた事による率先した駆除によって滅び、猪は豚コレラの蔓延によって、やはり滅びた。しかし猿が、遠野の里から消えた理由がわからない。まるで河童の目撃数と比例するかのように、猿が里から姿を消したようにも思える。]]></description>
      <dc:subject>河童と瀬織津比咩</dc:subject>
      <dc:creator>dostoev</dc:creator>
      <pubDate>Tue, 20 Dec 2016 06:26:46 +0900</pubDate>
      <dc:date>2016-12-20T06:26:46+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>河童と瀬織津比咩(其の十一)</title>
      <link>http://dostoev.exblog.jp/27365837/</link>
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      <description><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201612/17/75/f0075075_1731269.jpg" alt="_f0075075_1731269.jpg" class="IMAGE_MID" height="800" width="448" /></center><br />
風琳堂氏が北海道の滝廼神社で撮影した、恐らく唯一存在する瀬織津姫の神像ではないかとの事。前回「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命は、剣に斎く神」と書いたのは、剣は荒魂の証でもあるからだ。右手に剣を持つのは、相手を薙ぎ払うなどの武力としてのものであるが、穢れを祓う霊威をも意味する。この前は、天叢雲剣を祀る熱田神宮に関して簡単に書いたが、「円空と瀬織津姫(下)」に展開される熱田神宮祭祀は、まさに天照大神荒魂についてであった。実際に、熱田神宮の禁足地である本殿西北背後に鎮座する一之御前神社に天照大神荒魂は祀られているのだが、「「円空と瀬織津姫(下)」では熱田大神そのものが天照大神荒魂であり、天叢雲剣に斎く神であったと展開している。<br />
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八岐大蛇の尻尾から取り出された天叢雲剣、別名草薙剣を「日本書紀」では「大蛇のいる上に常に雲があったのでかく名づけた。」と説明している。その天叢雲剣は、朱鳥元年(686年)に天武天皇を祟ったとしている。これはつまり、天叢雲剣に斎く神の祟りとなるのだが、同じように天皇を祟った神がいる。それは崇神天皇を祟った、天照大神荒魂である。<br />
<br />
長元四年(1031年)、「大神宮諸雑事記」によれば、外宮の月次祭の時、急に大雨となり雷光が走り天地が振動したかと思うと斎宮が叫び声をあげて「我は皇大神宮の第一の別宮、荒祭宮也。」として託宣を述べ始めたと云う。その託宣の内容は「最近の天皇には敬神の念が無く、次々に出る天皇もまた神事を勤めない。」などと批判している。実際は斎宮が天照大神荒魂を名乗っての仕組みであろうが、だがこれは伊勢神宮の歴史から、天皇を祟ってきたのは天照大神荒魂であったとの証でもあろう。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201612/17/75/f0075075_19431785.jpg" alt="_f0075075_19431785.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center><br />
剣に斎く神は、佐賀県は神埼郡の櫛田宮にも祀られている。櫛田宮の由緒は「往昔此の地に荒ぶる神あり。往来の諸人多く害されたり。此の時に景行天皇の筑紫御巡狩ありて、此の地御通軍の際、櫛田大神を御勧請ありしかは、更に殺害に遇ふ者なく蒼生皆幸福を蒙りたり、故に郡名を神埼と謂ひ、鎮座の地も、神埼と云ふ。」<br />
<br />
櫛田大神とは世間一般に"お櫛田様は女神"と信じられ、その御神徳は「諸々の禍を払い除き、逃れさせたもう」と伝わっている。これは「佐賀県神社誌要」によると、弘安年中蒙古襲来の時、櫛田の神の御宣託に「我れ異国征討の為に博多の津に向ふ。我が剣を末社博多の櫛田に送り奉る可し。」蒙古襲来の戦地に赴いたと云う。蒙古との合戦の最中、海上には数千匹の蛇が浮かび出たとし、その三か月後、櫛田宮の末社である櫛田神社に疵を受けた数多くの蛇が現れ、再び櫛田神の御宣託があり「各蛇疵をこうむるといえど、蒙古は既に全滅した。」と宣ったと。これから察するに櫛田神とは、剣に斎き蛇を眷属する神だと理解できる。<br />
<br />
現在の祭神は、櫛名田比売を主祭神として素戔男尊と日本武尊の三柱となっているのだが、その祭神についての論争が諸説ある為、取り敢えず現在の祭神で収まっている事情の様だ。ただ櫛田神は剣に斎き、蛇を眷属する神であるが、それがどうも櫛名田比売に結び付かない。櫛名田比売は八岐大蛇に怯え、素戔男尊に退治して貰ったか弱き姫というイメージであるからだ。<br />
<br />
それでは、その祭神の諸説を見ると、櫛名田比売説と大若子命説と豊次姫命説の三つがある。確かに櫛田宮という社名から櫛名田比売を想像する場合が多いのだろう。しかし、長い間信じられた祭神は、豊次姫命だとされている。これは「櫛田宮由緒記」に、「櫛田大明神をもって総社とす。伊勢大神宮の大娘豊次姫命これなり。」と記されている為だが、この神名の正しくは"豊鍬入姫命"であり、崇神天皇を祟った天照大神荒魂を倭の笠縫村に祀った初代の斎宮であった。また大若子命説だが、白井宗因「神社啓蒙」に「櫛田神社在肥前国神埼郡　祭神一座　大若子命」とあり、また「佐賀繁昌記」にも「櫛田社祭神大若子命也。」と記されているとの事。この大若子命とはなんぞや?と思ったが、別名"大幡主命"とされる。だが"大幡主命"といってもピンとはこない。しかし調べてみると実は、崇神天皇を祟った天照大神荒魂が流離った時に帯同した人物であった。正しくは、伊勢国の櫛田郷辺りの国造で、倭姫命に奉仕する大神主であった。「神社啓蒙」によれば、いつの間にか斎祀る側が櫛田宮に神として祀られてしまったとの事である。櫛名田比売はさて置いて、豊鍬入姫命も大若子命も、天照大神荒魂を奉斎した者達であった。また「禰宜補任」によれば、櫛田宮の由緒に登場する景行天皇のくだりだが、実は景行天皇にも仕えこの神埼に来た大若子命が、此処にも来て荒ぶる神を和ませたという事の様である。それはつまり、この神埼の地の荒ぶる神とは、櫛田大神であり、それは天照大神荒魂であったという事実があった。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201612/17/75/f0075075_21174997.jpg" alt="_f0075075_21174997.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center><br />
この櫛田宮の目と鼻の先に、與止日女神社がある。「肥前国風土記」にも登場する女神だが、「佐賀郡誌」によれば、「神功皇后を助けて三韓征伐に軍功ある女神」という事であるが、その正体は神功皇后の妹であるともされている。しかしだ、阿蘇の菊池氏の主流である日下部氏が奉祭する母神に蒲池比咩がいる。この蒲池比咩は、この肥前国一宮である與止日女神社(川上神社)に祀られる與止日女と習合している。そして筑前糸島の桜井神社（與止日女宮）」で川上の與止日女は瀬織津比咩と同神とされている。瀬織津比咩は天照大神荒魂とされる事から、櫛田宮と同神という事になる。そもそも「肥前国風土記」に登場する"荒ぶる神"そのものが天照大神荒魂であると伏せられていた事からの混乱でもあるのだろう。<br />
<br />
更に、この櫛田宮の目と鼻の先、筑後川を間に挟んだすぐ傍に水天宮が鎮座している。平安時代の神埼御荘の長官は、平忠盛であった。平氏一門は、この神埼に宋の商船を迎え入れ、密貿易によって利益を蓄えたとされている。恐らく按察使局伊勢は、この平氏一門の力が根付いている筑後川界隈を頼って訪れたものと察する。更に加えれば、平家一門の信仰の共通もあったからではなかろうか。]]></description>
      <dc:subject>河童と瀬織津比咩</dc:subject>
      <dc:creator>dostoev</dc:creator>
      <pubDate>Sat, 17 Dec 2016 21:52:28 +0900</pubDate>
      <dc:date>2016-12-17T21:52:28+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>河童と瀬織津比咩(其の十)</title>
      <link>http://dostoev.exblog.jp/27293710/</link>
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      <description><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201612/12/75/f0075075_17292614.jpg" alt="_f0075075_17292614.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center><br />
水天宮を初めに祀った尼御前は、物部の女であり、平家に仕えていた。それはつまり、平家の信仰にも携わっていたという事だろう。平家の信仰の拠点といえば厳島神社だが、平清盛を筆頭とする平家は伊勢平氏と呼ばれ、伊勢の地が発祥となる。伊勢の地で地盤を固め、頭角を現したのが伊勢平氏だ。当然、その信仰の拠点も伊勢にあったものを、厳島に移したと考えて問題は無いと思う。しかし、伊勢平氏の伊勢での信仰の拠点は多度大社であり、現在その祭神を確認すると、天津彦根命を主祭神としている。そして境内には、天津彦根命の子である天目一箇命を祀る別宮・一目連神社があり、本宮とともに多度両宮と称される。しかしこれでは、厳島神社との共通点が見出せない。わずかに摂社として美御前社には、厳島神社と同じ市杵島姫命が祀られているに過ぎない。<br />
<br />
「お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば片参り」<br />
<br />
上記の歌が詠われたように、多度大社と伊勢神宮との関係は深そうだが、それは、天照大神の御子である天津彦根命を祀っているからだとされている。だが上記の歌以外に「梁塵秘抄」に、下記の様な歌が詠われている。<br />
<br />
「関より東の軍神、鹿島香取諏訪の宮、又比良の明神、安房の州龍の口や小野、熱田に八剱伊勢には多度の宮」<br />
<br />
多度大社は軍神と呼ばれているのだが、天津彦根にそれを感じないのはどういう事だろう。高橋昌明「清盛以前」を読むと、多度の地には、多度神社と多度神宮寺があり、伊勢平氏にとっての氏寺が多度神宮寺であったと。ただしそれは多度神宮寺と多度神社が一体不可分のものであるから、多度神社に祀られる祭神は当然、多度神宮寺と本地垂迹の関係になるのだろう。高橋昌明氏は「多度の地の多度山は、まさしく伊勢平氏の氏の祖霊の鎮まる霊山であり、多度神社及び多度神宮寺は、その神聖な祭壇と見做す事が出来る。要するにこの多度山は、伊勢平氏一門同族の結集の場であり、何よりも伊勢平氏の精神の故郷にほかならなかった。」と説明している。<br />
<br />
八巻照雄「伊勢平氏盛衰史」には簡単な年表と共に、平氏と厳島神社との関わりを紹介している。例えば「長寛二年(1164年)九月、平家一門三十二人が法華経(三十三巻)を書写し、安芸にある平家の守護神・厳島神社に奉納した。」とある。この法華経の三十三巻は"十一面観音の三十三応現身"になぞらえたという。つまり、"平家の守護神"とは、十一面観音と関係の深いものであるという事。<br />
<br />
伊勢平氏の精神の故郷であり軍神である多度大社であったが、主祭神の違う厳島神社もまた軍神を思わせる"平家の守護神"であるとしている。精神の故郷を捨て去って、新たに厳島神社を信仰する程、平家の信仰は移ろいやすいのだろうか?伊勢平氏は、軍事的貴族とも呼ばれた。それは、伊勢平氏が超人的武運に恵まれる事を願った為に、多度大神を信仰したのだと。その軍事的貴族を永続するのであるなら、多度大神と厳島明神は戦神という神威を共通する同神でなくてはならない。何故なら、神は祟るからだ。伊勢平氏の地盤を築いた多度大神を簡単に捨て去る事は、その時代の信仰の深さからみて有り得ない話だ。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201612/12/75/f0075075_21482570.jpg" alt="_f0075075_21482570.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center><br />
木野戸勝隆「百日参籠」によれば、多度大社の主祭神である天津彦根を否定し、本来の祭神は不明であるという。その神は、"近江国より来た神なり"とのみ言い伝えられ、神名はわからないとしている。そしてもう一つわかったのが、この多度の地は"元伊勢"と呼ばれているという事だ。元伊勢とはどういう事かと云うと、伊勢大神が一時坐した地であるという事である。近江国、琵琶湖の辺に、やはり元伊勢の地がある。それは、崇神天皇時代に祟った天照大神荒魂が流離った過程の一つが、近江の地であり、この多度の地であった。<br />
<br />
近江雅和「記紀解体」によれば、崇神天皇から離れ遷座の地を求め彷徨ったとされる旅の面々を見る限り、それは武力平定の移動であったろうと述べている。ここで思い出して欲しいのは、神功皇后の武力平定の先鋒でも、荒魂が務めたと云う事。鎮座後に留まるのは和魂であり、行動するのは荒魂であるという事から、滝宮に至る四十年間に、各地を荒魂を先鋒として武力平定し続けた旅であったのだろう。それ故だろう、多度の地にも訪れた天照大神荒魂であったからこそ、軍神として「梁塵秘抄」にも詠われた。また、天武天皇が壬申の乱の前に、伊勢大神に向って祈ったのは、今の伊勢神宮の方向ではなく天照大神荒魂が彷徨い最後に落ち着いた滝宮に向ってのものであった。物部氏に伝わる伊勢大神とは、三韓征伐にも関係した天照大神荒魂である撞賢木厳之御魂天疎向津媛命である事から、天武天皇は戦神に勝利を願ったのだと思う。そしてその撞賢木厳之御魂天疎向津媛命は、剣に斎く神でもあった。<br />
<br />
多度の地を武力平定して一時坐した天照大神荒魂は、多度の地にはもういない。しかしその神威は衰えずに伊勢平氏の"祖霊"として残っているからこそ、信仰されたのだろう。仁安三年(1168年)、平清盛は厳島神社を修築している。平清盛が厳島神社を重視したのは、在来の神社・仏閣が皇室、貴族の深い信仰を受け、それに増長して横暴を極め、更に僧兵まで養って、強訴を繰り返して朝廷を圧迫していた事が大きかったという。つまりその当時の厳島神社は、朝廷や貴族の息がかかっていなかった神社であり、平清盛にとっては聖地に思えたのではないか。奇しくも、平清盛が厳島神社を修築した同じ年に、伊勢神宮が燃え落ちている。もしかして、伊勢で祀られている天照大神荒魂を厳島神社に移す為に、平清盛が伊勢神宮に火を放ったのかとも思えてしまう。そしてその六年後の承安四年(1174年)に、後白河法皇の厳島神社の参詣に、伊勢平氏一門が同行した。これが平清盛が準備してきた伊勢平氏の守護神である厳島神社信仰の始まりであり、そしてこれまで信仰していた多度大神信仰の終焉となった。]]></description>
      <dc:subject>河童と瀬織津比咩</dc:subject>
      <dc:creator>dostoev</dc:creator>
      <pubDate>Mon, 12 Dec 2016 22:40:14 +0900</pubDate>
      <dc:date>2016-12-12T22:40:14+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>河童と瀬織津比咩(其の九)</title>
      <link>http://dostoev.exblog.jp/27278211/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://dostoev.exblog.jp/27278211/</guid>
      <description><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201612/10/75/f0075075_17472016.jpg" alt="_f0075075_17472016.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center><br />
遠野で水天宮を祀る場所は、殆ど見かけない。もしかして、この小烏瀬川の滝だけに祀られているのかもしれない。この水天宮の総本社は、福岡県久留米市の水天宮となるが、そこに河童伝承が伝わる。石田純一郎「河童の世界」では簡単に、この水天宮の河童伝承を紹介しているが、それを更に略して紹介する事にしよう。<br />
<br />
昔、河童は唐天竺の黄河の上流に大族をなしていたが、その中の一族が郎党を引き連れて黄河を下り、海を渡って九州一の大河である球磨川に棲み付いたと云う。九千坊という河童の族長は乱暴者で、田畑を荒らし、女子供をかどわかしたりするので、加藤清正が怒って、九州の猿を集めて河童を攻め立てた。河童にとっての猿とは、大変仲が悪く、手強い敵であった為、降参して肥後を立ち去る約束をして詫びを入れ、土地の者には害をしないと誓約したそうな。その後、筑後は久留米の有馬公の許しを得て、河童達は筑後川に棲み付く様になり、水天宮の使いになったそうな。河童は、お宮の堀にも住んでいて、神主が手を叩くと水底から浮き上がって来るのだと伝わる。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201612/10/75/f0075075_18573577.jpg" alt="_f0075075_18573577.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center><br />
どうやら九州の河童は、中国の黄河から来たようだ。しかし日本の秩序を乱すので懲らしめられ、権力者に服従する事になったという事であろうか。その中でも橘氏の流れを汲む、菊池氏と繋がりの深い渋江氏の眷属となっているのは事実というより、信仰の繋がりを感じる。<br />
<br />
ところで河童は、よく相撲を取りたがる。河童に相撲で負けた人間は、尻子玉を抜かれたなどと云う話があるが、負ければ諂うのが河童だ。黄河から来たという事で面白いと思ったのは、一般的に知れ渡る中国人との接し方だ。中国人に対して弱気に接すれば、どこまでもつけ上がるが、強気に接すると大人しくなるというもの。まあこれは中国人に限った事では無いだろうが、相手を平伏せる為には、相手の上に立つしかないのだろう。それは相撲で勝つという事もあるだろうが、信仰にのっとれば、同じ水系の神には、頭があがらないものと思える。そういう意味では、渋江氏の下に付いた河童とは、渋江氏の奉斎する神の下に付いたと考えてもおかしくはないだろう。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201612/11/75/f0075075_13282716.jpg" alt="_f0075075_13282716.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center><br />
久留米の水天宮の由来は、壇ノ浦で平家の最後を見届けた後に、筑後川に辿り着いた尼御前と呼ばれる按察使局伊勢から始まる。寿永4年の夏という事である。筑後川の畔に住み付き、小さな祠を祀るようになったが、尼御前の人徳に触れ地域の人々も又、尼御前の祀る祠を拝むようになったという。その祠に祀られていたのは、幼く死んだ安徳天皇と、その母である建礼門院に、祖母の二位の尼の三柱の御霊であったというが、それとは別に天御中主命を祀ったとされる。実際に現在の水天宮の祭神は、この四柱の御霊となっているようだ。しかし「明治神社誌料(下)」によれば、当初は水天龍王を祀っていたものを、後に天御中主命に改めたようだ。また、この尼御前である按察使局伊勢は、大和國布留の神社の神官某の女であるとしている。按察使局伊勢は、安徳天皇の内侍でもあるのだが、内侍とは天皇の身辺に奉仕する者であり、ここでは厳島神社の女性神職で、神事のほかに、同神社に参籠する貴人の旅情を慰めるために今様を朗詠したり舞楽などを行った存在でもあるのだろう。同じ福岡県の榊姫神社に祀られる御霊の中に榊内侍と呼ばれた、やはり平家の内侍が祀られている。恐らく按察使局伊勢は、平家の信仰にも詳しいのであると思われる。<br />
<br />
壇ノ浦の合戦で最後、水の都に向った安徳天皇だったが、按察使局伊勢はその水の繋がりから、安徳天皇の霊を慰めようとする為の筑後川の畔に祀った祠であったろうか。しかし按察使局伊勢が物部の女であるとわかり頭を過ったのは、死人さえ生き返るほどの呪力を発揮すと云う「布瑠の言」である。<br />
<br />
「ひと ふた み よ いつ む なな や ここの たり、ふるべ ゆらゆらと ふるべ」<br />
<br />
もしかしてだが、水天宮とは当初、安徳天皇の復活を期してのものではなかったか?何故なら、布留を調べると月神へ辿り着く。月には、不老不死にも繋がる変若水があるからだ。「佐陀大社縁起」には、こう記されている。「月神とは大和國に在りては春日大明神と号し、尾張國に在りては熱田大明神と号す。安芸國に在りては厳島大明神と号す。」<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201612/11/75/f0075075_177592.jpg" alt="_f0075075_177592.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center><br />
月神に向かう前に、まず布留の神社について書かねばならない。布留の神社とは、つまり物部氏が奉斎する石上神宮の事。この石神神宮に祀られる神とは、布都御魂大神と布留御魂大神となる。布都御魂は武甕雷男神と共に国譲りの神話に登場する、剣の化身のような武神でもある。それと共に祀られる布留御魂とは、石上神宮の神域を流れる布留川に関係する。「円空と瀬織津姫(下)」によれば、布留川の源流には布留滝があり、それを「桃尾の滝」または「布留の滝」と呼ばれている。「布留神宮縁起」によれば、その布留の滝は「布留御前」として、石上神宮の元社である布留神宮に祀られているのだと。そしてこの布留川の川上は「日の谷」と呼ばれ、"八岐大蛇伝説の異伝"が伝わっていた。<br />
<br />
むかし、出雲国の肥の川に棲んでいた八岐大蛇は一つ身に八つの頭と尾をもっていた。素戔男尊命がこれを八つに切り落とした。大蛇は八つの身に八つの頭がとりつき、八つの小蛇となって天に昇り、水雷神と化した。そして天叢雲剣に従って大和国の布留川の川上にある日の谷に臨幸し、八大竜王となった。今そこを八ツ岩と云う。天武天皇の時、布留に物部邑智という神主があった。ある夜夢を見た。八つの竜が八つの頭を出して、一つの神剣を守って出雲の国から八重雲に乗って光を放ちつつ布留山の奥へ飛んできて山の中に落ちた。邑智は夢に教えられた場所に来ると、一つの岩を中心にして神剣が刺してあり、八つの岩は、はじけていた。<br />
<br />
物部氏の祀る経津御魂は神剣の神だが、この伝説に登場する神剣は布留御魂の事を意味しているのだと思われる。となれば、物部氏の祀る剣は、二振りという事になるか。三種の神器の一つとなる、天叢雲剣を祀る熱田神宮の別宮である、やはり熱田大神を祀る八剣宮縁起にも、祀る剣は布都であり、布留でもあり石上布留の神社とも祝ひ奉るとされるのは、熱田神宮と布留神宮の剣は同じという事。これらから、久留米の水天宮に尼御前が祀った水天龍王の正体が見えて来た。]]></description>
      <dc:subject>河童と瀬織津比咩</dc:subject>
      <dc:creator>dostoev</dc:creator>
      <pubDate>Sun, 11 Dec 2016 17:25:11 +0900</pubDate>
      <dc:date>2016-12-11T17:25:11+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>河童と瀬織津比咩(其の八)</title>
      <link>http://dostoev.exblog.jp/26728266/</link>
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      <description><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201611/04/75/f0075075_18502955.jpg" alt="_f0075075_18502955.jpg" class="IMAGE_MID" height="320" width="480" /></center><br />
水天宮の本社を紹介する前に、遠野の土淵を紹介しようと思う。何故に土渕かというと、現在遠野に住んでいる方々は実感できるかどうかわからないが、朝廷の都が藤原京だの平城京、そして平安京と遷都し続けた歴史があるように、遠野もまた遷都されてきた歴史がある。現在の遠野の街は、１７世紀末以前までは、誰も住んでいなかった。現在の遠野は城下町であり宿場町であったと知られるのは、鍋倉山に横田城があったからだ。だがそれ以前は、高清水山の麓、光興寺に横田城があったのが、鍋倉山に遷都されたからだった。その間に為政者も、阿曽沼から南部氏に移り変わっている。阿曽沼氏は、奥州藤原氏が源頼朝により滅ぼされた後、その恩賞として遠野郷を授かったからだった。ただし細かな支配領地は、未だ定かでは無いが、光興寺に横田城を築いた事から、遠野の中心地は光興寺を含む松崎町であったのが事実である。そして、更なる以前はというと、それは恐らく土淵を拠点として北に続く松崎、附馬牛のラインであったろう。それは、早池峯への道筋でもあった。<br />
<br />
「土渕教育百年の流れ」によれば「土渕の地名は、大字土渕小字土渕を通称土渕といって、土淵はここから出たという。ここには淵があって、常にその水が濁っており、その渕の底を見る事が出来なかったそうだが、アイヌ語で「河の穴」という意である。」と記されている。これを裏付ける様に「まつざき歴史がたり」には、猿ヶ石川に関する昔話が紹介されている。その話は、早池峯の麓にある又一の滝から始まる。<br />
<br />
猿ヶ石川の始まりは、猿石からだとも云われるが、その猿石は又一の滝がある沢から発生しているのか、もっと西寄りの沢からだという説があるようだが、物語は又一の滝から発生している。その猿石が砕けて八つの石に別れ、その一つ一つが様々な淵に収まる様子が語られている物語である。一つ目の石は、地蔵岩が(次郎岩とも)あるという地蔵沢から始まっている。その地蔵沢は、遠野三山の三女神が最後の晩を過ごしたとも云われる沢だと伝えられる。土淵へ入ったのは五つ目の沢で、こう記されている。<br />
<br />
「五つ目の石は、流れて来て広い場所を見付けて、俺はここに入りたいと言ったと。すると恩徳の不動様が何故だと訊いたら、俺はここの広い村にいて、この村を繁栄させたいと言ったので、お不動様がよしよしと言って許した。それまで、お不動様がこの村を見守っていた…。」<br />
<br />
恐らくこの話は、修験の歩いた道筋を物語として語ったのではなかろうか。聖武天皇時代に、奥州で金が発見され、今まで輸入に頼っていた金を探しに、多くの修験者が奥州へ来たと云う。登山という文化が日本に入ったのは明治になってからだった。それ以前は、山とは遠くから眺め拝むものであった。ほぼ未踏の地であった山を修験者が登るには、砂金探しも含め沢を溯上するのが理にかなっていたようである。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201611/04/75/f0075075_1851569.jpg" alt="_f0075075_1851569.jpg" class="IMAGE_MID" height="320" width="480" /></center><br />
画像は、小烏瀬の滝と呼ばれるものだが、この水源は荒川高原に聳える一ッ石山の麓を源流とする沢の名前を"不動沢"という。不動という名称には、不動の滝や不動岩などがあるが、大抵は修験者が山を開拓した道筋に名付けられる場合が殆どである。つまり、この小烏瀬の滝から上流へ、修験者が歩き進んだ道であり、この小烏瀬川の滝が始点でもあり終点てせもあるのだろう。だからこそ、不動明王を祀る社が建てられている。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201611/04/75/f0075075_19183574.jpg" alt="_f0075075_19183574.jpg" class="IMAGE_MID" height="320" width="480" /></center><br />
そして、その不動堂の背後に、小さな社が三つ並んでいる。一つは、稲荷社。一つは、薬師大神を祀る社。そしてもう一つが、水天宮である。気付かれる方もいるとは思うが、不動明王と薬師如来が並ぶ姿とは、早池峯山と薬師岳を思い浮かべるだろう。ここでの注意点は、薬師如来ではなく、薬師大神となっている事だ。神仏混合となり、本地垂迹という概念が発達し、神は仏の同体とされたが、実際は仏の下の階級に零落した。しかし、ここでの薬師大神という名前は、まさに神と仏が同体であるかのよう。早池峯の麓、荒川から流れ落ちる不動沢とは、そのまま早池峯山麓の息吹を伝えるかのよう。恐らく、それを意図して、この小烏瀬の滝に祀ったのだろうと思う。そしてこの不動堂に古い時代、女人が住みついたとも伝えられる。それはもしかして、大迫の傀儡坂と同じ様に傀儡女であったのだろうか。傀儡女は水辺に住むと云い、その傀儡女に夢中になった男の話もある事から、身体をも売っていた傀儡女の可能性は高いであろうか。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201611/04/75/f0075075_2025966.jpg" alt="_f0075075_2025966.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center>]]></description>
      <dc:subject>河童と瀬織津比咩</dc:subject>
      <dc:creator>dostoev</dc:creator>
      <pubDate>Fri, 04 Nov 2016 20:01:12 +0900</pubDate>
      <dc:date>2016-11-04T20:01:12+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>河童と瀬織津比咩（其の七）</title>
      <link>http://dostoev.exblog.jp/26710234/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://dostoev.exblog.jp/26710234/</guid>
      <description><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201611/03/75/f0075075_13502477.jpg" alt="_f0075075_13502477.jpg" class="IMAGE_MID" height="526" width="500" /></center><br />
川の童で、河童。座敷の童で、座敷ワラシ。この物の怪の様な"童達"は、微妙にイメージを変えてあらゆるところに出没する。例えば「遠野物語拾遺63」では、華厳院に火事が起こった時、二人の童子が火消ししていたのは、二寸ばかりの小さな大日如来と不動明王像であったのかもしれないとされている。それかもしかして、不動明王の眷属である、矜羯羅童子と制多迦童子であったか、とも。<br />
<br />
「聖徳太子伝記」に、ある晩の事、歌の上手い土師連八島の元にある童子が来て歌を競い合ったが、その声が普通の人の声とは違うので不思議に思ったが、その童子は空が開ける頃に、海に入って行った話を聞いて、聖徳太子はこう答えた。<br />
<br />
「是は螢惑星と申す星なり。人間に軍兵・飢渇・不熟等の災難あらんと欲するの時は、彼星童子に形を現し、人間の者に相交りて、未来善悪の事を歌に作りて披露す。天に口無し、人の囀を以て事とす。」<br />
<br />
この時代、神は童子の姿で世に化現し、童子に交じって遊ぶ中で、その意志を伝えるとされていたようだ。例えば座敷ワラシはよく、子供達の中に交じって遊ぶとされるのは、子供故と思われていたが、柳田國男曰く「神が零落し妖怪となった。」という説に則れば、まさしく子供達の中にこそ、神は交じって遊ぶのであり、それは地蔵や仏像が子供達と遊ぶのが好きという話に近似する。つまり、子供達に交じって遊ぶ神仏は、人間に対して意志を伝える前ふりでもあるという事。それを止めさせる事は、罪でもあるからこそ、それを止めさせた大人が祟りを受けたのだろう。例えで言えば、天皇様の詔を無視した罪という事になるのだろうか。<br />
<br />
とにかく遠野には、川には川の童がいる。そしてそれが家に入れば、家の童となるとされ、もしかしてそれは本来、神であったものとして伝わったものが、物の怪に零落したのだろうか。しかし座敷ワラシは物の怪でありながら、神としての存在を示している。そして河童もまた、悪戯のお詫びとして薬などの秘伝を人間に授ける神に近い存在になっている。<br />
<br />
また遠野には、人形に魂が吹き込まれ神になったオシラサマというものがある。ただオシラサマは、初めから神として作られた人形であるから、人形から物の怪に変化した河童とは違う立場にあるが、人形が神に昇格できる要素を示す事は出来るのだろう。「河童と傀儡と瀬織津比咩（其の六）」に書き記したように、人形を大黒柱など家屋のいづれかに組み込む事で、家屋を支える神にもなれるのである。つまり当初は人形であった河童が家屋に入って、家の支えとなる事によって、神、もしくは神の眷属となれる。それは結局、座敷ワラシになったという事になるのだろうか。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201611/03/75/f0075075_14573827.jpg" alt="_f0075075_14573827.jpg" class="IMAGE_MID" height="466" width="500" /></center><br />
若宮神社の例を確認すると、あくまでも河童は女神の眷属として存在し、その女神を祀る社の梁を護る存在にもなっている。若宮神社と同じ福岡県に瀬成神社という、やはり瀬織津比咩を祀り、河童を眷属とする神社がある。水神系に属する河童は、やはり水神の女神に仕えるのが通常なのだろう。「遠野物語拾遺33」は、まるで「肥前国風土記」に記される與止日女に関する話に近い。「肥前国風土記」の記述には「此の川上に石神あり、名を世田姫といふ。海の神鰐魚を謂ふ年常に、流れに逆ひて潜り上り、此の神の所に到るに、海の底の小魚多に相従ふ。」とある。とにかく水性の生物は、水神の女神に従うようである。<br />
<br />
ところでこの肥前国一宮である川上神社(與止日女神社)に祀られる與止日女は、肥後国の日下部吉見氏が奉祭する母神"蒲池比咩"と習合していた。そして筑前糸島の桜井神社（與止日女宮）」で川上の與止日女は、瀬織津比咩と同神とされている。ここで早池峯の女神である瀬織津比咩が、九州における水神の大元である可能性が出て来た。そして福岡の河童の総本山というべき神社に、久留米の水天宮がある。そこには前回紹介した、渋江氏が関係しているのだが、その水天宮を紹介してみようと思う。]]></description>
      <dc:subject>河童と瀬織津比咩</dc:subject>
      <dc:creator>dostoev</dc:creator>
      <pubDate>Thu, 03 Nov 2016 16:18:11 +0900</pubDate>
      <dc:date>2016-11-03T16:18:11+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>河童と瀬織津比咩（其の六）</title>
      <link>http://dostoev.exblog.jp/26698170/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://dostoev.exblog.jp/26698170/</guid>
      <description><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201611/02/75/f0075075_19442473.jpg" alt="_f0075075_19442473.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center><br />
人形が河童になった話は、「河童と傀儡と瀬織津比咩（其の一）」で簡単に書いたが、その流れを続けよう。菊池氏の流れに、橘氏を祖とする渋江氏がいる。その渋江氏は、河童を使役する水霊祭祀の家柄で、菊池郡にある多くの神社の宮司も務める家柄である。そして肥前国杵島郡橘村(現在は佐賀県)に鎮座する、潮見神社社家の一族になる。この潮見神社の笠懸(流鏑馬)に、菊池第五代城主菊池経直が参加し落馬して死亡しているが、わざわざこの潮見神社に来ている事から、菊池氏と渋江氏との関係と信仰の深さを結び付けるものだろう。<br />
<br />
「北肥戦志」には、渋江氏の祖である橘氏に関する河童譚が、潮見神社の縁起譚として紹介されている。聖武天皇の頃、橘諸兄が政道を補佐してからの後、孫に当たる兵部大輔島田丸が朝廷に仕えた神護景雲の頃、春日社を常陸国鹿島から奈良の三笠山へ遷宮する時に、この島田丸が匠工奉行を勤めたという。その時、内匠頭の菅原氏が九十九体(百体とも)の人形を作り、匠道の秘密をもって加持祈祷したところ童と化したのだと。その童達の力を借りて、遷宮という大事業が早く成就したのだという。さてその後に、その人形を川に捨てたところ、人や馬などを害するようになり、世の禍根となったそうな。それを知った称徳天皇が、兵部島田丸に対して、化人(河童)の災禍を鎮めよとの詔を下し、島田丸が早速その趣旨を河中水辺に触れ廻った以降、災禍が無くなったと云われる。それより河童を兵主部(ひょうすべ)と名付け、橘氏の眷属となったという事である。つまり以前に紹介した人形が河童になった話で一番古いものが、潮見神社の縁起譚でもある河童譚である。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201611/02/75/f0075075_2027387.jpg" alt="_f0075075_2027387.jpg" class="IMAGE_MID" height="375" width="500" /></center><br />
画像は以前に紹介した、若宮神社の社殿の梁を支える河童の彫刻である。春日大社の建築に携わった河童であるが、他の河童譚でも、城の造営や館の建造などにも携わっている事から、建築と河童が結び付いている。また、加藤清正の河童成敗の話もまた、清正の土木事業に携わった河童だと云われ、利根川の土木事業にも河童が携わっている。そこでフト思うのだが、例えば河川工事や橋の建築には、人柱があったとされるのは、水神に対する贄でもあった。それとは別に、家屋の建築においても大黒柱に人形を置いたりして、家屋の守護とする民俗が多々ある。民俗的に家屋や船の神霊は女性とも云われるのは、その神霊が女神であり、その眷属によって護るという意味があるのではなかろうか。つまり、若宮神社の場合は、女神とその社を支え護る為に、眷属である河童の彫刻を彫ったものと考えれば納得する。<br />
<br />
遠野に伝えられる話に、川から河童が這い出して来て家に上り、座敷ワラシとなると伝えられる。座敷ワラシは家の守護でもあるのだが、その前身は河童だと云われるものを考慮すれば、若宮神社の梁を支える河童の彫り物は、その民俗を具現化したものとも考えられるのだ。ここで再度問われるのは、誰が遠野に河童伝承を運んで来たかという事になる。]]></description>
      <dc:subject>河童と瀬織津比咩</dc:subject>
      <dc:creator>dostoev</dc:creator>
      <pubDate>Wed, 02 Nov 2016 21:52:49 +0900</pubDate>
      <dc:date>2016-11-02T21:52:49+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>河童と瀬織津比咩（其の五）</title>
      <link>http://dostoev.exblog.jp/14996264/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://dostoev.exblog.jp/14996264/</guid>
      <description><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201011/17/75/f0075075_120258.jpg" alt="_f0075075_120258.jpg" class="IMAGE_MID" height="737" width="500" /></center><br />
菊池照雄著「山深き遠野の里の物語せよ」に岩手県の花巻市で伝わる「傀儡坂物語」が紹介されている。これを簡単に紹介してみよう…。 <br />
<br />
大昔、亀ヶ森の蓮花田村の長が、川に登ってくる鮭が思いのほか大漁で、<br />
その鮭を運ぶ人手が足りなくて困っていた。その時、一人の傀儡女が長い<br />
旅を続けたのかボロボロの格好をして足取りも重く、村長の方に歩いてきた<br />
のだと。その道は、早池峰に続く道であったが、村長はこの鮭を運ぶのを手<br />
伝わないと、この道は通さないと言った。 <br />
<br />
そして無理やり、その傀儡女に鮭を背負わせ、何度も手荒く運ばせたところ、<br />
無理がたたり傀儡女は倒れてしまったという。<br />
<br />
「罪の無い私を、こんな目にあわせたからには山河の形が変わり、　この川<br />
の流れが別の場所に変わるまで、この川上には決して鮭を登らせないから。」<br />
<br />
と言い残し、傀儡女は息絶えたのだと。それからこの川には鮭が登る事無く、<br />
そして傀儡女が倒れた場所を傀儡坂と呼ぶようになった。<br />
<br />
<br />
現在は、傀儡坂とは呼ばずに、葛坂となっている。また村長のいる亀ヶ森蓮花田村というのは、やはり三女神が宿った場所が亀ヶ森で、蓮花田というのは三山に分かれる占いをした蓮池のある地の事をいう。この「傀儡坂物語」を菊池照雄は、こう解説している…。 <br />
<br />
<br />
「たぶん、早池峰山麓は、早池峰大権現の聖域の境界までが、彼女らの <br />
　支配の及ぶ地で、この傀儡坂が両者の境であったと思われる。傀儡坂 <br />
　の悲劇は、この早池峰大権現との誓約を破り、この境の坂を通り抜け <br />
　たためにおきたのだろう。」 <br />
<br />
<br />
この菊池照雄の考えは、間違っていると断言できる。傀儡女が誓約を破って息絶えたという話よりも、何故に鮭が遡上してこなくなったのかという方向を見据えて考えなければならなかったのだろう。 <br />
<br />
現代では、あちこちにダムが建設されて、鮭は遡上してこなくなったのだが、昔は鮭が遡上し、山間部の貴重な蛋白源となっていた。それでは何故、鮭は遡上してこなくなったのだろう？これは単純に言い換えれば、傀儡女の祟りとなる。しかし、単なる祟りではなく、早池峰の神が絡んでいる祟りと考えなければなかった。<br />
<br />
傀儡女が東北にまで足を伸ばし、またオシラサマの起源に関わっているものと一般的には認識されている。また傀儡女は河原に住む事が多かったと云われるが、これは水辺での祭祀を行っていたと、やはり認識されているが、その祭祀は果たしてどういうものだったのか？までは謎となっている。 <br />
<br />
ただ「傀儡坂物語」で言えるのは、傀儡女は早池峰を目指して来たという事だろう。菊池照雄は傀儡女が境界侵犯をしたものだと考えていたのだが、実は体をボロボロまでにして早池峰を目指した傀儡女には、早池峰に対しての想いからの旅であったと推察される。 <br />
<br />
そこには確かに、傀儡女と早池峰の神との誓約があったのだろう。ただそれは、菊池照雄の言うところの誓約ではなく、早池峰の神と取り交わした傀儡女との純粋な誓約であったものと考える。何故なら、早池峰の神とは水神である瀬織津姫だからだ。 <br />
<br />
川辺て寝泊りしながら祭祀を行ってきた傀儡女とは、早池峰の神である瀬織津姫との誓約を守り、水辺での祭祀を繰り返しながら、旅をしてきたものだと考える。それは先に記した、傀儡女の発生が海人族である安曇からのものであるからだろう。その想いがあるからこそ、体がボロボロになってまで早池峰の麓まで旅をしてきたのだろう。 <br />
<br />
だから、早池峰の神である瀬織津姫と祭祀を通して繋がっていた傀儡女を村長が殺した為に、早池峰の神が怒って、鮭を遡上させなくなってしまったと考える方が、普通であると思う。菊池照雄の考察は、傀儡女の発生と瀬織津姫との繋がりを理解していなかった為からの考察となっている。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201011/17/75/f0075075_1242562.jpg" alt="_f0075075_1242562.jpg" class="IMAGE_MID" height="733" width="500" /></center><br />
鮭を祀る神社で一番古いのが、福岡県の鮭神社となる。祭神は、彦火々出見尊鸕鷀草葺不合尊　豊玉姫尊。 <br />
<br />
古文書によれば、祭礼の日に社殿まで鮭が遡上してくるのだが、これは豊玉姫尊が御子である鸕鷀草葺不合尊の元へ遣わされるものであり、これを途中で殺すと”災い” があるとされる。ある時代、鮭はエビス信仰とも結び付いたのだが、鮭を含む魚類全般は”鱗族”として龍蛇神とも重ねられたようだ。 <br />
<br />
また、この福岡の鮭神社では、この地域で牛の病気が流行った時に、万年願として傀儡人形が奉納されたという。そこには穢祓の意識が働いてのものだったらしい。これを「傀儡坂物語」に当て嵌めて考えてみると、海神との繋がりを持つ傀儡女と、早池峰山へと遡上する鮭を途中で殺した為に、海神の怒りに触れて鮭は遡上しなくなった。つまりここでいう傀儡女とは鮭の掛詞でもあり、共通するのは、海神の使いという事であり、早池峰大神である瀬織津姫は海神との繋がりが深いのであるという裏付けにもなる。]]></description>
      <dc:subject>河童と瀬織津比咩</dc:subject>
      <dc:creator>dostoev</dc:creator>
      <pubDate>Wed, 17 Nov 2010 12:05:29 +0900</pubDate>
      <dc:date>2010-11-17T12:05:29+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>河童と瀬織津比咩（其の四）</title>
      <link>http://dostoev.exblog.jp/14996218/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://dostoev.exblog.jp/14996218/</guid>
      <description><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201011/17/75/f0075075_11503996.jpg" alt="_f0075075_11503996.jpg" class="IMAGE_MID" height="620" width="465" /></center><center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201011/17/75/f0075075_11511930.jpg" alt="_f0075075_11511930.jpg" class="IMAGE_MID" height="375" width="500" /></center><center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201011/17/75/f0075075_11514142.jpg" alt="_f0075075_11514142.jpg" class="IMAGE_MID" height="375" width="500" /></center><br />
画像は全てブログ「梨の木平の桜」様からの提供<br />
<br />
<br />
福岡県に若宮神社というものがあるという。若宮神社は、俗に「有富のカッパさん」とも言われているらしく、若宮神社のある有冨地区は昔から開けた土地で、今から二千年も前に海人族が渡来し、原住民と交流同化して、新しい渡来文化、技術を教えながら、部族の勢力を拡大してきた土地であったそうな。 <br />
<br />
この宮には干珠、満珠の玉を棒持した女神を囲んで１９体の河童像が安置されているらしく、普段は一般公開されていないとの事。そして、写真撮影も禁止されていると。ただ、例祭時には公開されるよう。九州在住の方は、直接その河童像を見たらしく、その河童像は腰に布を巻き、各自が色々な品を持ち、各像とも変った表情をした珍しい神像群であったという。<br />
<br />
女神とは、安曇族の祖である綿津見神の娘、豊玉姫と玉依姫で、河童像が一門の部族男子を表現したものだと、されているそうな。写真の像は社殿の梁を支える寄神の彫刻で、力神とも河童とも言われるそう。つまりここでの河童とは、安曇族の信仰する女神の元に集まった者達。、もしくは、それを守る者達の事を河童とも言い表したのだと思う。これから察すれば、この信仰と概念が普及した地域には、やはり似たような河童というものが伝わった可能性があるだと考える。<br />
<br />
初めに紹介した、傀儡と安曇族。そして河童と安曇族。川には河童というものが棲むと信じられる以前、その河童の概念を運んだ存在は、安曇族とも考えてしまう。そして更に、この若宮神社には瀬織津比咩が、かって祀られていたそうである。海人族に信仰されていた瀬織津比咩の普及に伴い、水神である瀬織津比咩の元、同時に河童が普及されたとしても、何等おかしくはない。<br />
<br />
河童という名称か後付だとしても、瀬織津比咩の普及に合わせて、河童の根本概念が伝わった可能性はあるかもしれない。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201011/17/75/f0075075_11555763.jpg" alt="_f0075075_11555763.jpg" class="IMAGE_MID" height="375" width="500" /></center><br />
平家が祀っていた有名な神社に、厳島神社というのがある。その厳島神社の平家納経の金銅製経箱には、銀製の雲を吐き出す金製の龍の姿が刻まれているのだが、その龍は牝龍である。その形象は、厳島神社のオナリ信仰である緞子の厳島切れに、海の青を示す藍色に黄色の蛟竜紋として示されている。龍には、牡牝の性別があり、牝龍はミヅチで現されるのは、牝龍が水神の証でもあるからだ。 <br />
<br />
以前「荒ぶる女神」で展開した、各風土記などで伝わっている伝説の「荒ぶる女神」の根源は、宗像三女神であると確信した。その「荒ぶる女神」は、男神が去ってしまった為に、怒りを人間に向け、関係無い人々が死んでしまう話となる。つまり、荒ぶる神の大抵は女であり、女神となる。そしてその女神の大抵は、山に鎮座し水神としても扱われるのは、その正体が龍であり、それも水を自在に操るミヅチという牝龍となる。 <br />
<br />
そのミヅチを示す紋が厳島神社にあるというのは、厳島で祀られ畏怖される存在であるのが、荒ぶる女神であるという証にもなるだろう。 <br />
<br />
宗像三女神＝出雲大神＝早池峰大神＝瀬織津比咩という図式から考えれば、当然厳島神社にも瀬織津比咩が祀られていた事になるのかと考える。つまり、瀬織津比咩に付随する河童と云われる正体もまた、安曇族などの海人族が信仰してきた瀬織津比咩の元に集う者達であり、それが平家の施行した禿髪制度の根源でもあった可能性はある。何故なら、人を密告し貶めるというものは、国津罪であり、穢れの行為であるから、その穢れをまた纏う者達とは、傀儡人形と同じと考えるからだ。]]></description>
      <dc:subject>河童と瀬織津比咩</dc:subject>
      <dc:creator>dostoev</dc:creator>
      <pubDate>Wed, 17 Nov 2010 11:57:06 +0900</pubDate>
      <dc:date>2010-11-17T11:57:06+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>河童と瀬織津比咩（其の三）</title>
      <link>http://dostoev.exblog.jp/14996179/</link>
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      <description><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201011/17/75/f0075075_11393955.jpg" alt="_f0075075_11393955.jpg" class="IMAGE_MID" height="375" width="500" /></center><br />
遠野には、オシラサマという民間の神様がいる。このオシラサマは、毎年衣を上から被せていくので、着せ替えではなく着重ねとなる。 <br />
<br />
黄泉の国から帰還したイザナギが投げ棄てた御衣から生まれたのが和豆良比能宇斯能神（ワズラヒノウシノ）だった。つまり人間の体もそうなのだが、衣服もまた穢れが付きやすいものだと考えてもいいのだろう。つまりオシラサマとは、傀儡人形と同じ穢れを吸い取る呪具であり人形だと思って良いのだと思う。リカちゃん人形など、子供達が遊ぶ人形ならば、着せ替えをして遊ぶものなのだが、古い衣服にそのまま重ねていくというのは、その古い衣服には既に穢れが付いているからなのだと考える。 <br />
<br />
罪とは”着るもの”である。罪と穢れの古代の概念から考えると、罪を重ねるとは、つまり”罪の重ね着”に他ならないのだろう。よってオシラサマの衣服は、罪や穢れで汚れているものだと考える。<br />
ただし、雛人形とオシラサマの違いは、オシラアソベという所謂動かす事による傀儡舞に近いものがある。 <br />
<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201011/17/75/f0075075_11411923.jpg" alt="_f0075075_11411923.jpg" class="IMAGE_MID" height="482" width="500" /></center><br />
「蚕祭文」を読むと、白山信仰と仏教の須弥山信仰の融合があり神仏習合となっている。また白水をイズミと訳している事や、龍馬がその眷属となるという事から、オシラサマで有名な白馬と娘の結び付きを感じる。水辺にいる馬と龍が結び付いて龍馬となるのは、古来中国から伝わっている。その媒介となるのが聖なる水だ。それが白水であり、白山信仰の根源では無いのか。 <br />
<br />
水神としても現される龍は、天候を司る。五穀豊穣の祈願において、水神信仰が盛んとなるのは当然の成り行き。山伏系は山の頂に立ち千駄木を焚く。それが雨乞いの儀礼となるのだが、山はいつしか修験者であり男である山伏の場所となり、女人禁制の山に立ち入れない女はいつしか家に篭り、オシラサマ媒介として天と交信する。それがオシラアソベであり、古来傀儡使いとしての歩き巫女の名残が伝わり、交信としての手段となったのだと考える。 <br />
<br />
つまりお告げを受けるものであるから、千里眼という感覚に等しいものであるので、これは巫女にとっての一つの眼。だからいつしかオシラサマは眼の神とも信仰されたのかもしれない。また自分自身のの生活の吉凶を占うものでもあった為、狩猟に従事する者にとっては狩猟の神と信仰されたのだろう。 <br />
<br />
また水神と結び付くものであるから、オシラサマに使われる木は桑の木であり、天神のもう一つの神威を現す雷除けにも通じ「クワバラクワバラ…。」という呪文が現すように、桑の木で出来ているオシラサマは魔除けとしての効果も信じられたのかもしれない。 <br />
<br />
信仰とは人の観念に通じるものであるから、一つの信仰から人々の想いを通し、信じるという通念が様々な形で広まるもの。オシラサマの様々な信仰は、人の想いの反映を示しているものと思う。だからオシラサマは養蚕の神であり、眼の神であり、女の病を祈る神であり、子供の神であり、狩の神、祟り神ともなっているのだろう。 しかしそのオシラサマの本義は、あらゆるものの穢れを吸い取る存在であったのだろう。<br />
<br />
「オシラサマ」として伝わる話には、娘と馬の恋物語？があるが、これは異類婚であり、獣婚である。つまり、罪と穢れの話となる。また怒った父親は、その娘が恋した馬を殺し、その皮を剥ぎ取る。これもまた賤民と同じ、穢れた仕業となる。 <br />
<br />
つまり「オシラサマ」の物語には、罪と穢れが付き纏う話となっている。しかし、この物語に登場する馬は白馬となる。馬の最高位は龍であり、つまり馬とは現世に現れた龍の具現化でもある。よって白馬の本義は白龍なのだろう。だからこそ、死して尚、娘を乗せて空へと舞っていった。 <br />
<br />
これは穢れのところで述べた、穢れの神の神業を望む人々の想いが、伝わる物語なのだろう。だから、白馬は殺された。 しかし神は、殺されても尚甦る。白馬＝白龍という神に対する残虐なまでの行為が、罪と穢れを祓う方法であったのだろう。 <br />
<br />
太陽は東から毎日生まれて、西に死ぬ。太陽は神でもあるから、死んでも必ず甦ると信じてきた人々は、その神の神業にすがったのが、オシラサマであり傀儡人形であり、雛祭りのなどの雛人形なのだろう。そして、遠野に伝わるオシラサマの話には、ご利益が無いと言って川に棄てて流したら、流れに逆らって戻ってきた話がある。また、やはりご利益が無いからと、棄てたらいつの間にか、家に戻っていたという話も伝わる。 <br />
<br />
つまりこれらの話から、先に述べた安倍清明の話と同じように、オシラサマとは一人歩きする存在でもあるという事だ。穢れを纏った存在であるから、女を犯したり、悪事を働いたりもする。それゆえ祟り神とも呼ばれたオシラサマの所以なのだろう。 <br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201011/17/75/f0075075_11463696.jpg" alt="_f0075075_11463696.jpg" class="IMAGE_MID" height="366" width="500" /></center><br />
河童もしばしば、悪事？悪戯を働く。穢れを纏った存在が、川に棄てられれば河童となって悪戯をする。これはオシラサマも傀儡人形もまた同じなのである。 <br />
<br />
先ほど、馬は龍であると説いたが、龍は水神でもある。しかし河童もまた水神として祀られている。その水神である河童が、同じ同族である水神である馬を川に引き込もうとするが、逆に馬に川から引きずり出されてしまうという「河童駒引」というのがあるが、これは結局、同じ水神であっても、龍とは格が違うのだよという、河童の生い立ちに含まれる悲しさを現した話なのかもしれない。 <br />
<br />
柳田國男曰く「妖怪とは神の零落した姿」と述べているが、河童とは「神に昇華できない存在」なのだと「河童駒引」の話は伝えているのだろう。]]></description>
      <dc:subject>河童と瀬織津比咩</dc:subject>
      <dc:creator>dostoev</dc:creator>
      <pubDate>Wed, 17 Nov 2010 11:47:42 +0900</pubDate>
      <dc:date>2010-11-17T11:47:42+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>河童と瀬織津比咩（其の二）</title>
      <link>http://dostoev.exblog.jp/14996131/</link>
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      <description><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201011/17/75/f0075075_11233747.jpg" alt="_f0075075_11233747.jpg" class="IMAGE_MID" height="375" width="500" /></center><br />
傀儡の発生は、人間の人型・雛形であり、それは人間の罪や穢れを移して、川や海に流したり、焼かれた呪物だった。穢れの憑いたものだったから、人々はそれを恐れ、故にそれを祀り、信仰の対象ともしてきた歴史がある。 <br />
<br />
人形を回すとは、人間に憑いた穢れを人形に祓い取って貰うもので、昔は常に人形とか形代を使用する民俗が全国各地に存在した。そしてこうした穢れ祓いの仕事というものは、もっぱら、大和朝廷に服従した部族の仕事でもあった。なので安曇族の傀儡舞もまた、大和朝廷に服属した証では無かったのか？ <br />
<br />
伊勢神宮の境外摂社には、久具都比命神社があり、大和朝廷にとっても傀儡というものが必要だというのが理解できる。「皇太神宮儀式帳」には、この久具都比命を別に、大水上神ノ御子というのだと。つまり傀儡の本来は、水神でもあった可能性がある。 <br />
<br />
<br />
「くぐ」といえば菊理姫の語源は、水を潜るの「くぐ」から来ていると折口信夫は説いた。 <br />
<br />
<br />
玉藻刈る海処女ども見にゆかむ船舵もがも浪高くとも <br />
<br />
<br />
「万葉集」にみられるこの歌から、海女は海に潜って藻を刈り取り、神に供える神事があったのだろう。その藻を入れる器もまた”くぐつ”と呼ばれた。つまり海女はまた、神との繋がりを持つ存在で、巫女に近かったのだと思う。いつしか”くぐつ”を操る存在が、人間の神との間に立ち、人間の穢れを取る存在に変わって、蔑まれたのかもしれない。 <br />
<br />
葬式という概念が無かった時代、人の死とは黒不浄であり、穢れの元だった。それ故に、誰も死体に触れるものは居なかった。それは、自らが汚れるのを恐れたせいでもあった。その為なのだろう。朝廷にとっても、その穢れを取る存在である傀儡（くぐつ）を必要とし、崇め、伊勢新宮の境外に祀ったのだろう。 <br />
<br />
つまり、これから考えると、傀儡子とは水神系を操る存在であり、傀儡人形とは、陰陽師における式神と同じたであったのだと思う。その為しばしば、傀儡子の呪力を受けた傀儡人形は一人歩きして、女と交わったりする物語が伝えらている。 <br />
<br />
遠野だけでは無いだろうが「水は三尺流れると清いもの」という意識がある。上流で、牛や馬が小便を流そうとも、三尺の間があれば、問題なく飲み水として飲めるのが、流れのある川である。ところが、河童と呼ばれる存在の生息する川とは”淵”と呼ばれる場所である。淵とは淀みであり、水の流れが止まり、穢れが溜まる場所でもある。 <br />
<br />
遠野の常堅寺の裏手には、観光名所で有名な河童淵と呼ばれる場所がある。以前は、飢饉で間引きされて川に流された赤ん坊などが溜まった場所でもあったという。それを昔の住職は、ねんごろに供養し祀ったと伝えられている。それは流され、淵という淀みに流れ着いた赤ん坊でさえも、穢れが生じていた為だ。その穢れが生じる淵に棲む河童とは、やはり穢れの象徴なのかもしれない。ここで考えると、人間の穢れを移した存在の傀儡人形と、河童との奇妙な接点が見受けられる。<br />
<br />
ところで遠野の早池峰神社に祀られている瀬織津姫という女神がいる。瀬織津姫は、宗像などの海人族が信仰する女神であったのは確実だろう。しかし、全ては大和朝廷に服属してしまった為に、悲劇が訪れた。先に述べた安曇族もまた大和朝廷に服属し、穢れ祓いとしての傀儡に従事されられたというのは、瀬織津姫に対応するのだと考える。 <br />
<br />
「古事記」において、瀬織津姫という名は出てこない。ただしイザナギが黄泉の国から還り、中津瀬で禊ぎをした時に誕生したのが、瀬織津姫の別名八十禍津日神であった。つまり、海人族が大和朝廷に服属した為、安曇族なども含め、その信仰する女神もまた海人族らと共に貶められた姿が、八十禍津日神という傀儡と同じ穢れ祓いに従事する女神に降格されて、瀬織津姫という名前も伏せられたのだろう。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201011/17/75/f0075075_11281587.jpg" alt="_f0075075_11281587.jpg" class="IMAGE_MID" height="375" width="500" /></center><br />
賤民に落ちたものが河童となった説には当然、全国に広がる伝説の一つに落ち武者というのがある。要は、戦に敗退し、追われる者達になった存在だ。この落ち武者のイメージの一般的に広がるものは、髷は落ち、ザンバラとなった姿は、やはり河童の姿のイメージに近い。<br />
<br />
確かに遠野でも、落ち武者伝説。もしくは、逃げ延びた平家一門の隠れ里伝説が存在し、やはりそこには河童伝説も付随している。これは遠野だけではなく、全国に広がっているものでもある。要は、落ちて蔑まされた者達が河童となった。しかし、この河童なきにして人々の生活も、また成り立たなかったのも事実。死体処理に、河川工事に…所謂国作りに貢献したのが、まさしく河童？<br />
<br />
ここで一つ、気になる神がいる。それはスクナビコナ。実は、このスクナビコナに対応する神が、一人。それは、ヒルコではないか？と考えている。ヒルコは、イザナミとイザナギから生まれた子ではあったが、足が立たず海に流された存在の神。ある意味、棄てられ蔑まされた、存在の神。 このイザナギとイザナミは兄弟である近親婚による穢れの罪によって生まれたのがヒルコであり、海に流されてしまった。<br />
<br />
ところがスクナビコナは、海から渡ってきてオオクニヌシと国づくりをする立派な神？四股を踏んだ話もあり、ヒルコと逆に足が強い存在という対比がある神。赤ん坊は、生まれてすぐには立てない存在というのは、誰でも知っている事。つまりヒルコが生まれてすぐに立てなかったのは、当然の話であった。<br />
<br />
「鬼子」という存在が居る。昔は、生まれて１年経過して後、すぐに歩く子は鬼子と呼ばれて忌み嫌われた。その鬼子を見分ける方法は、生後一年経った時に1升餅を背負わせて、歩くかどうか調べる事。もしも人間の子であったならば、歩ける筈は無いと信じられていた。<br />
<br />
神話の中で生まれた神々の大抵は、生まれて直ぐに自らの足で歩いている。しかしヒルコは歩けなかったというのは、ヒルコそのものが限りなく人間に近い存在であったという事。つまり言い換えれば、人間も生まれてすぐに歩けない存在であるから、人間そのものもヒルコと同じ、穢れた存在であったという事になるのだろう。それはつまり、神々にはなれない存在でもあるという意味であったのかもしれない。 <br />
<br />
ところで、ある沿岸地域では、ヒメオコゼを「イザナギ」と呼ぶのは、イザナギが海の神の証である事。実際、イザナギの「ナギ」は、海の凪。イザナミの「ナミ」は、やはり海の波。イザナギもイザナミは、海の神。そのイザナギとイザナミの子供であるヒルコが棄てられ、海に流されたのは意味深である。これはもしかして、海人族を切り捨てた話にも繋がるのかもしれない。<br />
<br />
「古事記」において、イザナミとイザナギには、何故か海の意識が薄らいでいる。とにかく海へ流され棄てられ、蔑まされた存在のヒルコは、ある意味賤民と同じであった。その賤民に落ちてしまったヒルコが成長して、足が立つようになり、スクナビコナとして、この世に戻り、オオクニヌシと一緒に国作りをしたのかと考えてしまう。そしてその後、スクナビコナは、何故か再び海に戻ってしまう。これを用無しになって棄てられた存在…もしくは殺された存在として解釈するならば、スクナビコナもまた、賤民が零落して河童と同じ存在であると考えてしまう。スクナビコナは一寸法師のモデルとも云われ、とにかく普通の人間より小さな存在だ。河童の大きさは、せいぜい３尺であると云われるのは、スクナビコナに近いイメージがある…。<br />
<br />
遠野の六角牛山には以前、神社が存在していなかった。その後に祀られたのは、住吉三神であり、海の神を祀っていた。その六角牛山の伝説にミソサザイという鳥が登場し、それをスクナビコナの化身として扱い、スクナビコナをまた六角牛山に祀ったのだと。 <br />
<br />
現在の六角牛山の麓には六神石神社があり、様々な神が祀られているのだが、その中に白蛇を祀る石碑があり、それがどうもスクナビコナであったようだ。スクナビコナは、海蛇だという説もあるので、確かに蛇なのだろう。しかしヒルコもまた、蛇であった。足の立たない存在の暗喩は蛇であり、ヒルコは蛭子（恵比寿）でもある。 <br />
<br />
ご存知、恵比寿の被っている帽子は烏帽子であり、吉野裕子はその烏帽子を蛇の象徴であると紐解いた。だから映画「もののけ姫」に登場するタタラの女首領はエボシ様で、最後に狼に片腕を食いちぎられたのは、クシナダヒメの両親であるアシナヅチ・テナヅチが、オオヤマツミの子であり、実は蛇である存在に対応する。とにかく「ヒルコ」と「スクナビコナ」を同一神と考えれば、棄てられ蔑まされた存在が、賤民であり河童とされた存在と重なると思ってしまう。 <br />
<br />
また河童が腕を斬られ、これを取り返す為に詫び証文を書いた物語と別に、秘伝の薬を渡した話もあるのは、なんとなくだが、スクナビコナが医療と禁厭の法の制定者でもあるのは、河童とスクナビコナがまた繋がるのでは？と思ってしまう。]]></description>
      <dc:subject>河童と瀬織津比咩</dc:subject>
      <dc:creator>dostoev</dc:creator>
      <pubDate>Wed, 17 Nov 2010 11:36:54 +0900</pubDate>
      <dc:date>2010-11-17T11:36:54+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>河童と瀬織津比咩（其の一）</title>
      <link>http://dostoev.exblog.jp/14995884/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://dostoev.exblog.jp/14995884/</guid>
      <description><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201011/17/75/f0075075_10214782.jpg" alt="_f0075075_10214782.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center><br />
俗に云わる、日本三大河童地帯というものがある。福岡・茨城遠野と、どうもなっているようだ。まあそれ以上に、河童の話の多い地域はあると思うし、また岩手県内でもあちこちに河童の話はある。ただ三大河童地帯と呼ばれる地域のの共通性が、なんとなく見えてきたような気がする。 <br />
<br />
実は河童の話の中で、河童が腕を斬られ、その腕を取り返したい為に詫び証文を書くという話は、簡単に切り取れる腕を持つ存在の河童は、傀儡人形と結び付いてのもの、という説がある。その傀儡人形を広めたのが、海人族である安曇族のようだ。<br />
<br />
海人族の信仰の普及の一つに、九州福岡の安曇磯良を祭神として祀っている志賀海神社を根拠地とし、安曇や厚美などの名を頂いて、全国の海辺伝い、もしくは山奥まで広まっているようだ。これには傀儡舞などの芸能が核となり八幡信仰と結び付いて、西日本に広がり、摂津西宮神社に隷属して、第二の拠点となったと。つまり仮説だが、河童伝承の残る地域には、海人族である安曇族の流れが定着したものではないか？ <br />
<br />
茨城は古代、常陸の国であり、蝦夷の国の入り口でもあった。三大河童地帯が、九州の福岡から西日本を飛んで、蝦夷の国である常陸と遠野に定着したと考えると、かなり面白い流れとなると思う。<br />
<br />
肥前の国の武田番匠の使いとも、名匠左甚五郎の使いとも伝えられる大工が、人手が足りないので藁人形や、おが屑の人形を作って命を与えて手伝わせ、無事に仕事を完成させる事ができた。仕事を終えた後、不必要となった人形は河原に棄てたのだが、いつしかその人形達は人を襲い、人の尻こ玉を抜いて食べるようになったなどの伝承が伝わる。 <br />
<br />
ここで"尻こ玉"の話が出てくるが、未だに"尻こ玉"とはわかっていないようだ。ただ、水死体を見ると、尻から腸が脱肛している事からの連想ではないか？とされているようだ。上記の似たような人形の話には、安倍清明の話もある。 <br />
<br />
清明が人形を作って占術を施し、用済みとなった人形を、一条大橋の河原に棄てたところ、その人形が人間と交わって子供を産んだと。また一説には、飛騨の大工と武田の番匠が内裏を造営した時に人形を作って働かせていたというが、その人形が官女と交わり子を産んだ。内裏の造営が終って、河原にその人形を棄てたところ、牛馬の皮を剥ぎ、それを専業とするようになった。彼ら人形のあばら骨は一枚であり、膝の骨は無い。非人というのはこれである…という話もまたある。 <br />
<br />
「えた」「ひにん」という階級が以前はあった。ここでの人形の話も「えた」「ひにん」の発生の話となりそうではあるが、その前に「人の代りに…。」という傀儡人形の存在、もしくは概念があったのかもしれない。ところで「えた・ひにん」の話が出てしまったが、この「えた・ひにん」もまた、一つの河童の流れでもあると思う。 <br />
<br />
例えば、利根川の治水工事には、河原に住み着く乞食達が強制労働させられ、それがそのまま河童と呼ばれたのだという話がある。それより遡る事天平年間、一気の仏教文化の導入が日本国に施された。その為、全国から多くの人々が寺院建設などの都市造りに強制的に参加させられた歴史がある。<br />
その多くの強制労働者たちは、工事が終ると共に、何の恩恵も受けずに故郷へ追い返されたのだという。そして故郷への帰路、行き倒れや餓死者も多く出たのだという。生き残ったものも、故郷へ帰るのを断念し、浮浪者として、そのまま都市に残ったり、途中の村々に住み着くようになったのだと。 <br />
<br />
その浮浪者達が、当時の朝廷には厄介となり、陸奥の伊治村に、捕らえられた浮浪者２５００人を送ったという記録が残っている。しかし保守的な村では、余所者は禍をもたらす存在として扱われた。その浮浪者達は、生きる為に水辺の近辺に住み付いたのも、また河童の原像だとも云われる。陸奥の伊治村は、現在の宮城県にあり、奈良時代は朝廷と蝦夷の丁度中間点だった。その伊治村の近隣には、８０６年に坂上田村麻呂の勧請したという、河童を祀ってある磯良神社がある。<br />
<br />
ところで、話を傀儡師に戻す。傀儡子は、定まった所も家も無い流浪の民である。<br />
<br />
「傀儡子記」 <br />
<br />
「男はみな弓矢を使い、猟銃をもって仕事とし、或いは両刃の剣を７・　９本<br />
同時に弄ぶ。また、桃の木で作った人形を舞わせ、相撲をとらせ　るが、ま<br />
るで生きた人を動かすようである。殆ど魚が竜になったり、　竜蛇や熊、虎<br />
になったりする変幻の戯術である。更に、砂や石を金銭　に変え、草や木を<br />
鳥獣に化し、よく人の目を誑かす幻術も行う。」 <br />
<br />
<br />
「女は愁い顔で泣く真似をし、腰を振って歩き、虫歯が痛いような　笑いを装<br />
い、歌をうたい、淫らな音楽をもって、妖媚を求める。　父母や夫や聟は、彼<br />
女らがしばしば行きずりの旅人と、一夜の契　りを結んでも、それを構わない。<br />
身を売って富んでいるので、金　繍の服・錦の衣・金の簪・鈿の箱を持ってい<br />
るから、これらのものを贈られても、異にせず収める。」 <br />
<br />
<br />
傀儡子ではあるが、女は傀儡女とも呼ばれ、どちらかというと遊女という扱いを受けているが、遊女と傀儡女の違いは歌にあるようだ。遊女の条件は美声で美女であるのだが、傀儡女の場合は、歌が上手で美声である事のようだ。「更級日記」では傀儡女の歌を称して…。 <br />
<br />
「声すべる似るものなく、空に澄み昇りて、めでたく歌をうたふ。」 <br />
<br />
また…。 <br />
<br />
「声さへ似るものなく歌ひて、さばかり怖ろしげなる山中に立ちゆくを、 <br />
　人々あかず思ひて皆泣くを、幼きここちには、まして此のやどりを立 <br />
　たむ事さへ飽かずおぼゆ。」とある。 <br />
<br />
<br />
この「更級日記」の記述から読み取ればつまり、本来の傀儡女とは、歌女なのだろう。それも、西洋の船人を惑わすセイレーン、もしくはローレライのような歌の力を持った存在に等しかったのかと想像する。<br />
<br />
<br />
熊野は、朝廷からの支援を受けられぬ時、財政難に陥ったのだという。その時の熊野を支えたのは、歩き巫女であったという。熊野の信仰を広めると共に、お札を含めて売り歩き、信仰の普及と財政難の一挙両得としたと。この歩き巫女が、遠野にも赴いてオシラサマなどの信仰を伝えたともいう。 <br />
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巫女には、神社に属していた定住の巫女と、歩き巫女という漂白の巫女がいた。その歩き巫女の代表格は、熊野三山の巫女であったのは有名な話だ。ただ遊女と同じく、歩き巫女もまた体を売ったと伝えられる。しかし、日常の夫婦間の性行為と違って、不特定の人との性行為は、非日常の「ハレ」だという概念があるようだ。つまり、歩き巫女との性行為とは「神婚」であり「聖婚」であったのだと。 <br />
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笑い話に、女性の女陰に向って手を合わせ「菩薩様」と拝むのと、同じ感覚である。実際、浄土宗の親鸞は、夢の中で救世観音（救世菩薩）の化身と交わる内容を許す夢を見たとされる。つまりこの「聖婚」「神婚」の具現化は、神に仕える巫女との交わりであったのだと思われる。 <br />
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確かに「性」は「生」であり「聖」なるものであり「せい」という音には、全てが含まれているのだろう。その現世ご利益である「聖婚」を体験できる巫女との交わりは、男どもが殺到したものと推測される。]]></description>
      <dc:subject>河童と瀬織津比咩</dc:subject>
      <dc:creator>dostoev</dc:creator>
      <pubDate>Wed, 17 Nov 2010 10:29:25 +0900</pubDate>
      <dc:date>2010-11-17T10:29:25+09:00</dc:date>
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