不思議空間「遠野」 -「遠野物語」をwebせよ!-:遠野不思議(伝説の地)
2023-10-28T04:58:32+09:00
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遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
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遠野不思議 第九百三十話「沢の口」
http://dostoev.exblog.jp/32743129/
2022-07-25T12:41:00+09:00
2022-07-25T12:41:07+09:00
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遠野不思議(伝説の地)
遠野七観音に関係する沢の口の場所には、石造りの立派な石碑というかオブジェが建っている。山口という地名が、山の入り口であるように、この沢の口も沢の入り口である可能性。しかし、目立った沢が無い事に気づく。それならば、大出・小出が本来は「生出(おいで)」という水の湧き出る地である事から、そこへの入り口の意でもあるか。
この沢の口に関する伝説は「遠野市史 第一巻」において「古老の語り伝えによると、慈覚大師ここで七体の観音像を彫り上げ、それを七つの井戸で洗い清めた、といわれ、観音像を刻んだ木もこの沢ノ口にあったマツで、そのマツの巨木を切り倒した際、梢の先が届いた所が松先すなわち今の松崎である、という。また、東禅寺の境内にはえていたと伝えられる七色アザミは、もとここの七井戸付近にはえていたものを無尽和尚が、移し植えたものといわれる。」という伝承が紹介されている。
遠野市立博物館「遠野七観音」では、遠野七観音江戸時代に始まった三十三所観音巡礼や七福神巡りを当て嵌め解説している。また菊池展明「円空と瀬織津姫(下)」では、白山里宮七社に遠野七観音を当て嵌めて考察している。しかし、妙見を調べると七つ井戸の伝説や、妙見三姉妹の伝説などがあるにも関わらずまったく触れていないのはどうした事だろうか。
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遠野不思議 第九百十五話「三石(さんごく)」
http://dostoev.exblog.jp/32696171/
2022-06-10T18:41:00+09:00
2022-06-10T18:41:33+09:00
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遠野不思議(伝説の地)
「上郷聞書(地名編)」によれば、来内小字三石は昔此の地に豆を撒いたところ、その中の一本が鎌で刈り取る事の出来ない大木になり、鋸で引き倒したとの事。それより豆穀三石を得、またその豆の茎で太鼓の胴を作ったと伝わる。江戸時代、米を計る単位に石が使用された。一石が100升で、重さが150キロ。それが三石分の豆という事だから、重さが450キロにもなる300升もの豆が獲れたという事。つまり簡単に言えば、作物が巨大化した伝説の地という事になろうか。]]>
遠野不思議 第九百十三話「魔所(高室のソウジ)」
http://dostoev.exblog.jp/32693162/
2022-06-07T17:28:00+09:00
2022-06-07T17:28:02+09:00
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遠野不思議(伝説の地)
村々には諸所に子供等が恐れて近寄らぬ場所がある。土淵村の竜ノ森もその一つである。ここには柵に結われた、たいそう古い栃の樹が数本あって、根元には鉄の鏃が無数に土に突き立てられている。鏃は古く、多くは赤く錆びついている。この森は昼でも暗くて薄気味が悪い。中を一筋の小川が流れていて、昔村の者、この川で岩魚に似た赤い魚を捕り、神様の祟りを受けたと言い伝えられている。この森に棲むものは蛇の類なども一切殺してはならぬといい、草花の様なものも決して採ってはならなかった。人もなるべく通らぬようにするが、余儀ない場合には栃の樹の方に向って拝み、神様の御機嫌に障らぬ様にせねばならぬ。先年死んだ村の某という女が生前と同じ姿でこの森にいたのを見たという若者もあった。また南沢のある老人は夜更けにこの森の傍を通ったら、森の中に見知らぬ態をした娘が二人でぼんやりと立っていたという。竜ノ森ばかりでなく、この他にも同じ様な魔所といわれる処がある。土淵村だけでも熊野ノ森の堀、横道の洞、大洞のお兼塚など少なくないし、また往来でも高室のソウジは恐れて人の通らぬ道である。
「遠野物語拾遺124」
「高室のソウジ」は、現在の遠野たかむろ水光園から山口のデンデラ野方面へ続く草地の事を云う。ソウジとは「草地(そうち)」が転訛してソウジと呼ばれている。「遠野物語拾遺124」には「また往来でも高室のソウジは恐れて人の通らぬ道である。」と記されているが、何を恐れていたのかはわからない。ただ昭和50年代の後半、この高室のソウジで怪異が起きている。それは「現代遠野物語(不思議な女性)」で紹介している。普段でも車も人も通らない道。それが現代よりも更に古い時代は、それこそ獣くらいしか通らなかったろう。
何やらムクドリが群れで高室のソウジに入り込み、何かを啄んでいるようだった。
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遠野不思議 第八百七十五話「程洞」
http://dostoev.exblog.jp/28929083/
2017-12-22T11:55:00+09:00
2017-12-22T11:59:33+09:00
2017-12-22T11:55:44+09:00
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遠野不思議(伝説の地)
以前、「遠野物語拾遺140(程洞稲荷由来)」の記事で、この程洞の地に住み、医療をしてきた宮家の話は書いたが、この程洞に至る事を書いていなかった。
宮家は、最後の男当主であった宮康氏が生前、宮家は阿曽沼氏の一族で、阿曽沼氏没落後、この程洞で密かに暮していたと述べていた。宮氏には元々祖先伝来の系図があったが、明治元年私有財産制度確立に伴う縁故払下げが行われた時、程洞稲荷神社付近の払下げを願い出、系図の写しを他の願書に添えて青森大林区署に出したところ、系図を写しでは無く元本を送れとなり、写しは返されたそうな。されから祖先伝来の系図を送ったところ、不幸にして大林区署の火災と共に焼失してたしまった。
阿曽沼氏として最後の殿様であった阿曽沼広長は、失意のうちに仙台で亡くなったというが、その広長には義政という子供がおり、隼人と称していたという。その後、隼人は倉掘と姓を改め気仙より山を越えて、眼下に鍋倉山の横田城を望む程洞山に密かに住み始めたと云う。いつの日か、再び阿曽沼の復興を願っていたが、いつしかその願いも失せ、道義という人物の代になってから姓を宮と改めて程洞山を下り、六日町に住み、明治に至るまで医者として南部氏に召し抱えられたのだと。ただし別に伝わる話では、弘雲の代に山を下りて新町に移り住んだとされる。「遠野物語拾遺140」に登場する"こうあん様"とは、この弘雲であろうとされる。
また別に、五百羅漢は一般的に飢饉で死んだ人達を供養する為に作られたとされるが、本来は阿曽沼氏の一族を供養する為に自然石に彫られたとの伝説もある。ただ五百羅漢を彫った人物が、怨み深い南部氏の菩提寺であった大慈寺の住職義山和尚である事から、何やら皮肉めいて聞こえる伝説でもある。逆に思えば、南部氏が貶めた阿曽沼氏が怨霊とならぬように五百羅漢が彫られたとしても、辻褄は合うだろう。]]>
遠野不思議 第八百五十七話「火を吹く龍」
http://dostoev.exblog.jp/27925987/
2017-06-26T17:17:20+09:00
2017-06-26T17:17:22+09:00
2017-06-26T17:17:22+09:00
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遠野不思議(伝説の地)
「遠野市おける館・城・屋敷跡調査報告書」によれば、火鼻館の近辺には、火を吹く龍の伝説が付随しているのだと。この火を吹く龍が棲んでいたのは、沼袋という地であると。この沼袋の沼に棲んでいた一匹の龍が、火を吹き、その鼻先から一太刀の剣が出たという伝説が紹介されている。
画像の沼袋の地は、岩から水が染み出て流れる地で、沼御前(龍神)と不動尊を祀っている。そして社の手前には4月になると水芭蕉が咲く地でもある。恐らく昔は、この水芭蕉の咲いている辺りが沼であったのだろう。
沼御前は阿曽沼に関係する館跡に付随するものとも思えたが、この沼袋近くの火鼻館は、どうやら安倍貞任に関係ありそうだ。「東日流外三郡誌」に「日高見国閉伊郷貞任山ノ事」という文書に、下記の様に記されている。
「天喜元年七月安倍日下王頼良、川井五郎作に主命なして、討物刃鉄を探鉱せしむ。時に土淵七三郎ポロホノリ(貞任山)に採鉱す。製鉄瀬川米通にてタタラを築き、品宣しき刃鉄を製りければ、時の刃工師宝寿、この鉄に太刀を練ふるに、その斬刃馬胴一にて斬断てり。」
米通りは、貞任山に通じる道がある。話の流れ的には貞任山で採掘された鉄を、この火鼻館の地でタタラを築いて吹いたという事か。「遠野市おける館・城・屋敷跡調査報告書」の著者は、これが火鼻館跡と火を吹く龍を結び付けるものとして認識している。
実は、この火を吹く龍の顛末だが、最終的には退治され、三分割となって石化した事になっている。それぞれ頭は「舌出岩」胴体は「続石」尻尾は「尾岩」が、小烏瀬川沿いに分散しており、尾の岩の地には白龍を祀る神社が建っている。
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遠野不思議 第八百三十四話「遠野の魔女狩り」
http://dostoev.exblog.jp/23212276/
2014-11-01T08:31:00+09:00
2022-07-26T05:49:42+09:00
2014-11-01T08:31:12+09:00
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遠野不思議(伝説の地)
「上郷聞書」には、こういう話が紹介されていた。
川原の某家の娘が、羽場の藤兵衛家に嫁に行った。その娘は、非常に美人で、嫁に行く前から近所の若者達の羨望の的になっていた。ところが、かねてから当時肝煎りをしていた某が、その娘に恋をしていたのに嫁に行かれたので、何時か折があったらと思っていた。
たまたま藤兵衛家に嫁に行ったその娘が婿を嫌っていたのを聞いて、肝煎りは、その娘は前に誰かと関係があった為に、婿を嫌うのだと言い触らしたそうである。その噂が元で娘は七日七晩土蔵の中に入れられて折檻されたという。しかし、元からそんな恋人も無く白状もしようがない娘は、結局何も言う事ができなかった。そこで遂に赤沢の前で打ち首する事となり、某家より連れ出し、途中簾から流れ来る小池の水を末期の水と飲み、刑場へと引かれていった。
この事を、森の下の慶雲寺の十二代目和尚が聞き、可哀想に思い、何とか救いたいものと、古戸まで来たが間に合わなかったと…。娘は、首を切られる時に嫁いだ羽場の方をうらめし気に見ながら死んでいったそうである。その時、刑場にヒバの木があったが、以後その羽場の方向を向いた木の枝は、何時も枯れてしまうという話である。また、最後の水を飲んだ小川の水は、今でも飲む人がいないと言われている。現在その小川は、田になっており、ウッコの木が生えている。
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可愛さ余って憎さ百倍と云うが、似た様な事が中世ヨーロッパでも起きたという。それは、魔女狩りの時代だ。魔女を恐れ、あらゆる人々が魔女に認定されて、火刑に処された。当初は純粋に魔女だとされた場合もあったが、途中から人を貶める為に魔女というデマが飛ばされた。それは裕福な家を妬む心が、その家の人を魔女にして、家の財産を奪おうとしたり、この上郷の話と同じ様に、好意を持っていた女性にフラれた為、その反動からその女性を憎み、魔女であるとして噂を広めたなど、人の心が荒んでいた時代であった。
遠野の歴史は、飢饉などの災害の歴史でもあった。しかし、そういう中でも裕福な家は、存在した。「遠野物語19」の様に、その家の主人が死ぬと、遠い縁者やら近所の人間が寄ってたかって、その家の物をむしり取る様に持って行くさまは、まさに人々の鬱屈した妬み心からきているものだろう。また、同じ上郷の来内では村主と神社の神官が結託していたらしく、その村での強権政治を行っていたらしい。しかし、発生した百姓一揆の勢いから、その村を支配していた村主と神官は真っ先に襲われ殺されたという。ロシアの農奴解放時、農奴達が手に鋤や鍬を手にして、領主を襲ったという事件がロシア国内のあちこちで起こったという。貧しいが故の心の歪みを治すのは、全体が豊かになるしかない。しかし、異性に対する妬みつらみは、今の時代でも形を変えて起きている。人を貶める一つの嘘が、取り返しのつかない事になるのは、ままある事だ。]]>
遠野不思議 第七百六十一話「柳婆」
http://dostoev.exblog.jp/20150434/
2013-08-05T11:49:12+09:00
2013-08-05T11:49:08+09:00
2013-08-05T11:49:08+09:00
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遠野不思議(伝説の地)
健保年間、遠野郷の地頭職に補せられた阿曽沼広親の次子親綱は、其の本領であった下野国阿曽沼郷わり下向して封に就いた。これが即ち、遠野郷の組織的な治民の端緒であった。
暫くして阿曽沼氏は、松崎光興寺の護摩堂に居城を卜し、之を横田城と称した。また之と同時に、南方に猿ヶ石川を隔てて、松崎白岩に属する平地一帯に城市の設計を企てた。故老の口碑と現在の遺跡とを合わせて考えてみると、字大柳を中心として、北は清水柳、東南は畠中に至る、東西に長く南北に短く折れた市街の様であった。
大柳と云うのは、其処に巨大な柳の老木があったのに因んで出来た名称である。清水柳もそうであるが、ここには往時市街のあった頃、酒屋があって、大柳の酒屋と呼んだと伝えられている。
その後、約三百六十年経て、天正年間、即ち阿曽沼広郷の時、物見山の一友峰鍋倉山に新城を築き移転したが、その時、この市街地も遷都したという事である。その後も、この柳はここに遥かに鍋倉山を望んで立っているのである。幹には空洞が出来て腐れかけているが、無言のうちに遠野の歴史を語っている。
「上閉伊今昔物語」
清水柳も大柳もだいたいの位置はわかるものの、柳の木は確認できなかった。大柳は既に枯れ果て、時代の流れに飲み込まれてしまったようだが、清水柳さえ既に、この世には無いようである。この記事が書かれたのが昭和32年であるから、既に56年も経過している為に、既に枯れてしまっただろうか。
古き柳には精有て妖をなす事むかしよりためしおほし
竹原春泉「絵本百物語」には「柳婆」という妖しを紹介しているが、柳の木は「老・病・死」の象徴とされ、また枝垂れる様が女性のイメージと重なり、柳の下の女幽霊のイメージは広く全国に伝わっている。枝垂れ柳などは黄泉の国と繋がっているとされるのは、天から降ってきた霊が枝垂れを伝って地面の下にある黄泉の国へと行き、再び枝垂れを伝って天へと昇ると信じられていた為だ。それは枝垂桜にも通じるが、柳の木に対する意識は、川沿い、もしくは境内や墓地に植えるものであるから屋敷内には植えないもにのとされ、同じ枝垂れの桜の木とは差別化されていたようだ。
実際、この清水柳であり大柳だけではなく、かっての猿ヶ石川沿いには、かなりの柳の木があったとされる。古老に聞いた話によると、巫女の化け物が出るなど、昔は女の化物や幽霊の話が多くあったそうである。そういえばリアリティを感じる「遠野物語8(サムトの婆)」なども本当は、こういう類の話と掛け合わさったものであったのかもしれない。そのサムトの婆の碑が建つ場所も、この周辺であるのだ。それ以外にも、女を沈めた女淵の話など、この松崎の猿ヶ石川沿いに水と関連する女の話が多いのは、やはり猿ヶ石沿いにかってあった柳の木との関連があったのかもしれない。
柳の木は先に述べた様に不吉の象徴でもあり、例えば長男が死に家が潰れる、病人が絶えない、禍がある、などの俗信が付随するのは、そのまま遠野の猿ヶ石川沿いの伝説に対応するものだ。ただしそこには柳の木の話が入っていないのだが、柳の木が自生していた猿ヶ石川沿いに不吉な伝説が蔓延し、後から発生したものと結び付き語られた可能性があったのではなかろうか。
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遠野不思議 第七百三十六話「白山様」
http://dostoev.exblog.jp/19671110/
2013-06-01T05:14:00+09:00
2023-10-28T04:58:32+09:00
2013-06-01T05:13:33+09:00
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遠野不思議(伝説の地)
境木峠の旧道には、白山様と呼ばれる岩山がある。傍には小さな滝があるが、以前は上流の沢水をこの白山様の岩山の上に流し、人工的に滝にしてその景観を楽しんでいたという。この頂には昔、高さ二尺ほどの石塔が建っていたそうな。
白山様の下には、金毘羅の石碑が今でも立っている。他にもいくつかの石碑があったというが、今はそれを見つける事ができない。
金毘羅の石碑のすぐ奥に、大きな岩屋があり、以前はここで何かを祀っていたという。似た様なものに、米通りへ行く途中の巨大な岩屋には不動明王が祀られたいたが、それと同じ可能性はあるかもしれない。
画像は、白山様を横から見たものだが、この白山様の頂には一つの伝説があり、長者を祈願するとなれるというものであったらしい。山口部落の長者は皆、この白山様の頂で祈願したというのだ。とにかくどんなものか登って見る事にした。
この白山様の途中で下の沢を見下ろしてみた。かなり高い。画像では、この白山様の高さは意外に低いと感じると思うが、直接垣間見る白山様は、かなり高い岩山で威圧感がある。
頂には、また別の岩が載っており、巨木も何本か生えている。この岩を側面から見ると、船の様な形に見える。まるで岩船であった。
白山様の先端は平坦になっており、ここから長者になれるよう祈願したのだろう。ただ、見晴らしは樹木の影響から良くない。
白山様の頂から沢水を落として人工的な滝を造ったという事だが、これと似た様なものが小友の厳龍神社の不動岩だ。あそこにも昇竜・降竜の跡があり、恐らく昔は滝では無かったか?と云われているが、小友の不動岩の降竜跡の麓には早池峯の石碑がある様に滝神を意識してのものだったろう。実は今では不明の石碑の中にも、早池峯と刻まれた石碑があったとも聞く。ここも早池峯の滝神を意識してのものであったのだろうか。]]>
遠野不思議 第七百三十五話「琴畑のカクラモリ(魔所)」
http://dostoev.exblog.jp/19663019/
2013-05-31T15:06:09+09:00
2013-05-31T15:05:45+09:00
2013-05-31T15:05:45+09:00
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遠野不思議(伝説の地)
「遠野物語72」に、琴畑集落の事が書かれている。「琴畑の入り口に塚あり。塚の上には木の座像あり。およそ人の大きさにて、以前は堂の中に在りしが、今は雨ざらし也。(抜粋)」
「注釈遠野物語」を読むと、その解説に大木があってオカクラサマの祠があったと記されている。つまり、今はもう無くなってしまったらしい。地元の古老に聞くと、その大木とはヒバの木であったらしい。しかし、別の土渕の資料を見ると、土淵の魔所として「琴畑のカクラモリ」というのがある事に気付いた。そのカクラサマを祀ったカクラサマの地をカクラモリというのかどうか確認してみた。
現地の古老に聞くと、カクラモリとはカクラサマを祀っていた場所から1キロ弱の山奥にあるという、そこに以前は、何かを祀っていたらしい。傍には栗の木の大木があったが、今では枯れ果ててしまいわからなくなっているという。
実は「遠野物語拾遺8」に離れ森の話が紹介されているが、現地で採集した口伝によると、その離れ森と、このカクラモリには大蛇がいて、どちらかが雄の大蛇で、どちらかが雌の大蛇であったらしいが、その大蛇を祀ったのがカクラモリの奥であったようだ。そこには岩穴があり、それが大蛇の巣であったよう。実際に行って見ると、岩がゴロゴロした中に岩窟が確かに存在した。魔所と呼ばれる理由もまた、その大蛇伝説に対するものからであったのだろう。
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遠野不思議 第七百三十四話「熊野ノ森の掘(魔所)」
http://dostoev.exblog.jp/19657903/
2013-05-31T08:34:00+09:00
2021-03-25T17:18:24+09:00
2013-05-31T08:33:50+09:00
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遠野不思議(伝説の地)
…竜ノ森ばかりでなく、この他にも同じような魔所といわれる処がある。土淵村だけでも熊野ノ森の堀、横道の洞、大洞のお兼塚など少なくないし、また往来でも高室のソウジは怖れて人の通らぬ道である。
「遠野物語拾遺124(抜粋)」
「遠野物語拾遺124」に語られる魔所の一つ「熊野ノ森の掘」は、山口修理の館跡のようで、薬師堂の裏地が東門にあたるなら、この熊野ノ森の堀は西門にあたる場所だ。この森に入ると、いきなりモミジガサ(シドケ)があった。
その奥に進むと、深い館の空堀跡があった。館跡の堀としては、遠野でも大きい方ではなかろうか。何故、ここが魔所になったかというと、うらぶれて荒んだ場所は、廃屋が後に幽霊屋敷と語られるような感覚に近いのではなかろうか。そして何故「熊野ノ森」と呼ばれるのかは、この堀の傍に、やはり荒んだ熊野神社があるからだ。]]>
遠野不思議 第七百十五話「行灯堀」
http://dostoev.exblog.jp/18287715/
2012-12-25T05:52:00+09:00
2020-10-16T10:25:37+09:00
2012-12-25T05:51:52+09:00
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遠野不思議(伝説の地)
鍋倉山の裏側に「行灯堀址」の立て看板がある。そこには、こう記されている。
「遠野古事記」には、次のような言い伝えが記されている。慶長五年(1600年)に阿曽沼氏が没落し、遠野が南部領になって盛岡南部利直が領地巡視に来た時、二の丸の西の方は山林になっていて、要害のとしてはおぼつかなく見えたので、利直は遠野を出発する前に、草木を刈り払い新しい空堀を完成させるように現場を指図した。ところが岩があったりして思うように仕事がはかどらず、夜中も提灯や角行灯などを灯して工事をしたので、後の人々はこれを「行灯堀」呼んだ。また物見山に続く丘には段上の帯郭を開き、白兀(しらはげ・しらはぎ)と称した。物見山に向かって左側に鉄砲稽古場の跡といわれる段丘がある。
ところが、この行灯掘には別の伝説があった。
その昔、白萩が昼でもなお薄暗い気味の悪い程に鬱蒼とした森があった頃の事である。この森には夜になると、いつも出て来ては行灯を灯し、糸もみをする女がいた。これはおかしいと、ある猟師の男がその女を鉄砲で撃ってみた。ところがどうした事か鉄砲の弾は一向に当たらなかったと云う。猟師は不思議に思って、上郷町細越の師匠に相談しに行った。すると師匠は「それは人間では無いから、女を狙って撃つのではなく、行灯の灯りを狙って撃て」と教わった。
猟師は再び白萩へ行き、暗くなるのを待っていた。辺りが真っ暗になると女が現われてきた。今度は、女では無く行灯の灯りを狙って撃ったところ、手ごたえがあったという。見るとその正体は、この白萩の森に何百年と棲む巨大な蝦蟇であったと云う。それから遠野の人達は、この森を行灯森と呼ぶようになり、その地名は今も白萩に残されている。
今年、この行灯掘の下方にカメラを仕掛けてみると、キツネとハクビシンなどが写っていた。然程、多くの動物が写っていたわけでは無かったが、それなりに動物の通り道であるようだった。
ところで、ここでもう一つの似通った話を見つけた事になる。">「遠野不思議 第七百十四話「怪異狐の稲荷」にも書いたように、似た様な話は綾織の笠通山、宮守の寺沢、小友の外山、そして遠野の鍋倉山にあった。探せばまだあるかもしれないが、全て共通するのは昼でも暗いという場所という事だろう。現代とは違い、昔は暗闇に対する恐怖が、かなりあった。照明器具は現代とは違い、ロウソクや行灯の灯り程度で、灯りの周りを仄かに照らす程度で、その奥には闇が広がっていた為、家の中でも魔物は潜んでいると信じられていた時代があったのだ。それがましてや、魔物の巣窟の様な日の明りが差さない深い森では、この様な物語が作られたのかもしれない。南部の行灯掘の話は、城を築くにあたっての逸話となるが、城が築かれてから現在の遠野の町が開かれたのであって、それ以前は、人の住まない、それこそ鬱蒼とした森が広がっていたのが、鍋倉山とその背後の山々であった。しかしそんな中にも、ポツリポツリと人が住んでいたようで、鍋倉山に城を築く以前の物語であったとしても、何等不思議は無い物語ではある。]]>
遠野不思議 第七百二話「竜神の滝壺」
http://dostoev.exblog.jp/18113602/
2012-10-29T07:18:27+09:00
2012-10-29T07:18:25+09:00
2012-10-29T07:18:25+09:00
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遠野不思議(伝説の地)
古老に聞くところによると、この滝壺には竜神が現われ、願いを叶えるという。
えぐれた、この窪みから竜神が現われるのだろうか?お賽銭を投げ入れ、お願いをしてみた。。。]]>
遠野不思議 第六百九十六話「角助の墓」
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2012-10-14T16:08:53+09:00
2012-10-14T16:08:17+09:00
2012-10-14T16:08:17+09:00
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遠野不思議(伝説の地)
角助は江戸時代の中頃、遠州掛川でシシ踊りを見て、その優れた点を取り入れ「駒木シシ踊り」を完成させた舞い手であり、振付師として語り継がれた伝説の人物であるという。その墓が、この画像である。
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遠野不思議 第六百六十二話「神の隠里」
http://dostoev.exblog.jp/13236961/
2010-03-29T07:55:38+09:00
2012-03-02T10:36:14+09:00
2010-03-29T07:55:36+09:00
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遠野不思議(伝説の地)
昔橋野川を、神が石の船に乗って下ってきた。そうして早栃まで来て、ああ
ここが気に入ったと言って、川の岸の丘の上の岩穴に入られた。そこを隠里
といって、祠を建ててその神を祀った。石船は二つ、今でも遺っている。腰
かけなどで祟りがあるということで、村では堅く戒めている。
「遠野物語拾遺38」
石船は過去に紹介したのだか、神が入ったという岩穴で隠里と呼ばれる場所はまだ
紹介していなかった。確かに岩がゴロゴロしている場所ではあるか、岩穴と呼ばれ
るようなものは無かった。現在その手前は畑になっており、鉄塔も建てられ、神が
入ったという神秘性は皆無に感じる…。]]>
遠野不思議 第六百三話「彌勒院の墓(入定跡)」
http://dostoev.exblog.jp/9798821/
2008-12-01T17:42:00+09:00
2020-10-13T16:58:15+09:00
2008-12-01T17:43:38+09:00
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遠野不思議(伝説の地)
彌勒院という法院ありしが、心願を込め入定したと云われる。入場時は、土中より竹の節を抜いた筒を土中に挿し、地下にて鉦を打っていたいたというが、七日後には、その鉦の音も聞こえなくなったという。
この彌勒院の塚までは、巨石がごろごろしている。以前この塚までは松百本を植え、百本松坂、もしくは八方松とも呼ばれた聖域でもあった。
以前は見晴しも良かったそうだが、今では杉の木が植林され、その墓の場所を簡単に見つける事はできない。この塚の傍には、たた一本ウッコの木が植えられている。]]>
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