不思議空間「遠野」 -「遠野物語」をwebせよ!-:五百羅漢考
2012-03-02T10:44:11+09:00
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遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
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五百羅漢と義山和尚と木喰行道(其の三 微笑仏)
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2010-11-27T09:55:00+09:00
2012-03-02T10:44:11+09:00
2010-11-27T09:55:26+09:00
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五百羅漢考
木喰行道が本格的に造像活動に入ったのは、安永2年(1773年)だ。木喰行道が造像した多くの像には、短文が記されているという。
日本順国八宗一見之行想
十六願之内本願として
仏を仏師国々因縁ある所に
これをほどこす
みな日本千躰の内なり
そして木喰行道は、自らの造仏を供養仏と称している。「微笑仏」で有名な木喰行道の仏像は、全て供養仏というのは、出自にもかかわり、また飢饉という時代を反映しているものと考える。
この木喰行道の足跡は「南無阿弥陀仏国々御宿帳」により知る事が出来る。これによると、安永2年(1773年)2月18日、相模国大山を出発し、秩父三十四番札所を巡り、その後はほぼ関東一円の坂東札所などを廻っている。安永5年には、弟子である木喰白道を伴い、東北地方に赴いている。
ところで商業的仏師は、注文の赴くままに仏像を彫り上げるという。しかし、流麗な仏師の作風とは異形な木喰行道などの放浪の仏師達の作風は異形である。木を目の前にして、その木の中に仏が見えてこそ、造像が始まるのだという。となれば2万点以上もの仏像を残した円空などは驚異的な存在であろう。
ある仏像があり、作者が判らなかったようだが赤外線撮影により梵語が見えた為、円空の作であると断定された仏像がある。木喰などの流浪の仏師は無心に仏像を彫りつつも、その作品に何らかの印を刻んでいたのだろう。遠野の土淵に阿修羅堂なるものがあり、そこに鎮座する仏像には梵語が見えるのだという。作風から円空のものでは無いだろうが、流浪の仏師の作ではあるようだ。
調べてみる木喰行道は、2度ほど遠野に赴いているようだ。安永7年と安永9年に遠野へと「南無阿弥陀仏国々御宿帳」に記されている。弟子である木喰白道とは2度目の安永9年に、遠野に立ち寄ったようだ。
「アヤヲリムラ セイハチ」と記されている事から綾織に立ち寄ったのだろう。こういった流浪の僧は、寺に寄るかその土地の名主にお世話になる事から「セイハチ」と書かれているのは、当時の名主の名前では無かったのか?そのセイハチが何処かはわからないが、五百羅漢の地も綾織に属する事でもあるし、また木喰行道そのものが遠野藩主である南部氏と同郷の為、その南部の菩提寺である大慈寺に足を向けるのは至極当然だったのだと考える。
木喰行道が何故2度に渡って、遠野に足を向けているのか?木喰行道の目的は「仏を仏師国々因縁ある所にこれをほどこす」というものだった。しかし木喰行道の東北での足取りを見る限り、2度に渡って足を向けているのは遠野以外には無い。これは何を意味するのか?あくまで憶測であるが、木喰行道の影響を受けて発願した義山和尚の造像を気にかけてのものではなかったのか。その当時の木喰行道もまだ、造像に関しては本格的に始めてはいない。ただ宗教的信念が同じであった義山和尚に対し、技法の伝授だけは出来た筈である。
木喰行道が遠野に立ち寄った安永7年という年代は、義山和尚が安永6年に隠居して後の年であり、自然石に造像する為に発願した頃である。当初に書いたとおり、義山和尚の造像を始めた年代は不明である。また義山和尚は仏師で無かった為、誰かの教えにより発願し、五百羅漢を彫り始めたのだと思っていた。その人物こそが、木喰行道であったのだと考える次第だ。その技法を伝授した義山和尚のその後を見届ける為に、安永9年7月に木喰行道は再び遠野に訪れたものと思うのである。
まず、遠野の自然石に刻まれた五百羅漢の仏の顔を見ると「微笑仏」と思えるものがいくつかある。飢饉と五百羅漢に影響を受けているだろう木喰行道は、供養仏として造像しているのは、飢饉で死んでいった人々対する意識が強かったのだと思う。その為に、生前日常の生活に足りなかった微笑を仏像に与えたのだろう。そしてその意識と精神を、義山和尚は受け継ぎ発願したのではないだろうか?これから五百羅漢に行く人達は、自然石に刻まれた仏達の中から、微笑仏を探してみるとよいだろう。
以前書いた「遠野物語拾遺127」に木喰上人という話が登場しているが、木喰という存在が知れ渡ったのは近代であり、この「遠野物語拾遺127」で木喰上人という名が登場している事から、この話は大正か昭和の時代の話ではないだろうか?
大慈寺には歴代住職の碑があり、17世南能節山大和尚、18世法演義堂大和尚、19世義山玄峯大和尚とある。「報恩寺末寺諸留」による19世量玄和尚というものと食い違いは見せるものの、取り敢えず誰もが19世義山和尚と認めているので、義山という名は、忌み名か字(あざな)の関係なのかもしれない。
大慈寺では義山和尚の墓は、歴代住職の墓とは別の場所に建てられている。五百羅漢の功績を称えてのものなのか、それは定かでは無い。ただ言えるのは、大慈寺にとって義山和尚の存在は輝くものであったのだと思う。
ところで木喰行道の本格的造像活動は北海道に渡ってからであった。江刺に2年滞在し造像を手がけていたと云う。ただ木喰行道は造像だけが目的ではなく納経という事も手がけていた。日本各地の霊場を巡り、書写経巻を奉納していたのだとされる。となれば、遠野の大慈寺に木喰行道による納経もあったのかもとれないが、大正12年の火災により木喰行道の痕跡は消えてしまったのだろう。ただ残っているものは、死者を供養する為自然石に彫られた五百羅漢像の表情に与えた、微笑だけなのかもしれない。]]>
五百羅漢と義山和尚と木喰行道(其の二)
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2010-11-27T09:45:41+09:00
2012-03-02T10:44:11+09:00
2010-11-27T09:45:40+09:00
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五百羅漢考
遠野に立ち寄ったという、木喰行道という人物がいる。この木喰行道は、享保3年に甲斐国西八代郡古関村、現在の山梨県南巨摩郡身延町に生まれた。実は、南部氏の出身である南部町に隣接する地域であるが、巨摩郡として木喰行道と南部氏は同郷であった。
ところでこの木喰行道は14歳の時「畑仕事へ行く。」と言ったきり、行方不明となったという。どうも自ら発心し独自の宗教活動をしていたようだが、詳細は不明だとされる。木喰行道は22歳の頃、相州大山不動の石尊大権現に参篭していた時に、子安町で泊り合わせた古義真言宗の僧と師弟の契りを結び、仏門入った。木喰行道の住んでいた甲斐の国は、天台宗と真言宗による山岳宗教が盛んであり、その為なのか真言宗の僧と師弟の契りを結んだのは、自然の流れであったのかもしれない。
しかしその後再び木喰行道の行動は不明であったが、宝暦12年木喰行道が45歳の頃、常陸の国の木喰観海の弟子となり、木喰戒を受けている。この宝暦12年という年は、木喰観海の勧進活動により羅漢寺が普請される途中に職人小屋から出火して、羅漢寺が炎上した年でもあった。実は木喰行道の地元である巨摩郡にも、正治2年(1200)開基とされる羅漢寺があった。つまり南部氏にとっても五百羅漢の存在は大きかったのだろう。そして木喰行道の人生において、羅漢は避けて通れぬものであったらしい。
恐らくであるが、真言宗の僧の関係から木喰観海との繋がりができたと思うが、その基本は焼失した羅漢寺の復興なのだろう。恐らく木喰行道は、不明であった時代に仏師としての修行をしていたのだと思う。いや真言宗の僧との出会いが石尊大権現であったのも、自らの我流であろう仏師としての宗教活動を認められての師弟関係だったのと考える。そうでなければ、出会ったばかりの真言宗の僧と師弟関係を結ぶ筈も無い。その後、木喰観海と出会うまでの不明時期は、推測であるが仏師としての腕を磨いていた期間であると思う。仏像を彫るというのは、誰でも簡単に彫れるものではない。彫れるという技術も当然必要だが、その仏像に対し、いかに魂を込められるかだ。
14歳で発心した木喰行道の根底に流れていたものは、故郷である巨摩郡の羅漢寺であったようだ。そしてそこには、飢饉の影響も多分にあったのだろう。甲斐の国での有名な飢饉は天保の飢饉であるが、それ以前から細かな飢饉に襲われ、農家を営む者達は悲惨な状況であったようだ。そういう時代に生まれた木喰行道が発心した理由とは、その育った環境に帰するものだと考える。
仏師には、注文による仏像製作を受ける技術集団がいるが、それとは別に放浪の仏師、例えば円空など、自らの宗教的信念によって仏像を彫るものか存在する。慈覚大師円仁は天台宗の布教活動と共に、各地の地神の上、もしくは併せ並べるようにして地神を隠す・暈すという行為によって仏教を普及させた。その円仁とは別の行動を取ったのが円空で、円空は隠された地神を再び世に知らしめた。それでは木喰行道はというと、生まれた時代か時代であった為、恐らく死者への供養であったのかもしれない。
一般的に木喰行道の仏像は「微笑仏」と呼ばれる。穏やかな笑みを浮かべる木喰行道の作品群には、苦しみ死んでいった者達が、極楽浄土で安堵の笑みを浮かべている姿を彫り上げているものと思う。
遠野の飢饉で死んでいった人々を語り伝える物語「亡者の列」には、死んだ事によって、苦しみから逃れる事ができた喜びが描写されている。平安時代の後半、末法思想により多くの人々が、極楽浄土を求めて命を絶った。坊さん達の中にも、土中入定・水中入定・火中入定などが流行ったのは、それだけ現世が乱れていたからに他ならない。
木喰行道の生まれた時代もまた、1世紀の間に何度も飢饉が訪れるという、いわば近世の末法の世の中でもあった。この時代に生まれた者達は、日々の苦しみから笑うという事が少なかったのだという。木喰行道の「微笑仏」は、その生き地獄に苦しんだ人々に対する供養と共に、安堵の笑みを与えたものであろう。木喰行道の宗教的信念、魂の根源は、そこに要約されている気がする。]]>
五百羅漢と義山和尚と木喰行道(其の一)
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2010-11-27T09:40:00+09:00
2012-03-02T10:44:11+09:00
2010-11-27T09:40:32+09:00
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五百羅漢考
天明の飢饉で餓死者数千人の霊を供養する為に、自然石に彫られたという五百羅漢。それを彫り上げたのは、大慈寺の義山和尚と伝えられている。何故五百羅漢なのか?というのはやはり、盛岡報恩寺の影響があったのかもしれない。
盛岡の報恩寺は南部家13代守行によって1394年、三戸に開創されたが盛岡藩主、南部利直の時代、盛岡へ移った。報恩寺の羅漢堂は1735年に建てられたとの事だが、羅漢像は京都の仏師によって1731~1734の間に彫られたのだという。遠野の大慈寺は、南部の菩提寺でもある。当然、盛岡南部の影響もあり、五百羅漢を彫ったのかもしれない。しかしだ…。
五百羅漢の彫刻時期は、実は様々な説がある。現地の説明文には、天明2年(1782年)から5年をかけて彫ったと記されている。ところが「遠野町誌」では明和2年(1765)とある。そして「民族の旅」でもやはり、明和2年とされている。
ところが伊能著「遠野史叢」によれば、天明3年(1783年)とされているのて、その事実はどうも定かでは無い。ただ、義山和尚が隠居後に発願し、五百羅漢を彫ったとされるので、大慈寺の歴代和尚を調べればおのずとわかる筈なのだが。ちなみに大慈寺の17世は節山和尚。18世は義堂和尚。19世は量玄和尚となっており、年代的には量玄和尚が、義山和尚では?という事らしい。
大慈寺の寺伝によれば、19世義山玄峯和尚、寛政2年(1790年)3月23日示寂(死去)となっているが、大慈寺は大正12年に火災に遭い、古来から伝わる寺伝を焼失しており、現在の寺伝は29世明三和尚の手によって書かれたものであるようで、義山和尚の死亡年代が寛政2年というのは、いささかおかしい。「報恩寺末寺諸留」では、義山和尚では?と云われる量玄和尚は、宝暦11年12月に大慈寺に入院し、安永6年に隠居、、そして天明4年3月に病死となっている。
遠野の五百羅漢は、義山和尚が隠居した後に彫られたとあるので、安永6年10月に隠居している量玄が義山和尚という事になる。しかし、その量玄和尚は「報恩寺末寺諸留」によれば、天明4年の3月に病死しているとあり、五百羅漢の現地の説明書きにある、天明2年から5年をかけて五百羅漢を彫ったというのには、当てはまらない。
大慈寺の寺伝では、義山和尚は寛政2年3月23日死去とあるので、天明2年から5年の歳月をかけて彫ったとする説には当てはまる。しかしあくまで量玄和尚が義山和尚であるならば、量玄和尚が隠居したのが安永6年の10月であるから、発願し五百羅漢を彫り始めたのが翌年の安永6年であるなら、5年の歳月をかけた彫り上げたとしたら、天明2年の完成であれば、5年の歳月となる。だが天明2年説を書き記しているのは、毎日新聞社の「宗教は生きている」で天明2年に発願とあり、天明2年から彫り始めたとある。また「岩手のお寺さん」では天明2年から彫り始め天明5年に完成とあるので、現地の説明文と同じである。しかしそれでは、量玄和尚が彫ったとはならないのだ。
果たして、義山和尚とは、本当に存在したのだろうか?本当に、一人で五百羅漢を彫り上げたのだろうか?という疑問が噴出する。江戸三大飢饉、もしくは四大飢饉と呼ばれるものが「寛永の飢饉」「享保の飢饉」「天明の飢饉」「天保の飢饉」だ。また東北では南部藩の四大飢饉というのもあり、それが「元禄の飢饉」「宝暦の飢饉」「天明の飢饉」「天保の飢饉」となる。
ここで飢饉の悲惨さを書こうとは思わないが、享保17年(1732)の飢饉から天保8年(1837)の飢饉まで約100年の間は、まさに飢饉の歴史でもある。しかし東北は、それ以前の元禄の飢饉(1688~1704)も含めるので、身近な飢饉の歴史は他地域よりも長かったのである。
松崎宮代の道端に、飢饉の古碑がある。遠野における唯一の凶作時の死者に対する供養塔で、後世の飢饉への戒めの碑でもある。凶作は宝暦5年から、3年にわたるもので、生き残った人々も、人馬の死体を取り除く力も無く、道路に野垂死にした死臭が立ち込め往来も困ったと云う。町々の店先では人より早く起きないと家の前に死人が山と積まれて困るので、早起きの習慣がついたと云われている。
ところで五百羅漢とは、簡単に言えば羅漢の集まりだといってよい。羅漢は、正しくは阿羅漢といい、古代インドのサンスクリッド語のアルハンの音写で、尊敬と施しを受けるに値する人という意であるという。初期の仏教では、もはや学ぶ事の無くなった人、即ち悟りを開いた人を称し、釈迦をさす場合もあるのだと。ただ日本では、釈迦に従った五百人の仏弟子を五百羅漢と称し、尊崇したのだと。つまり遠野の五百羅漢の場合が、飢饉で死んだ人々を供養したというのは、釈迦に導かれていった者達という意味を込めての供養心であったのだろう。
ところで遠野の五百羅漢の表情を読み取ると、ある事に気付く。一般的に五百羅漢像というものは、孤立した一体ごとがリアルであり、温和な表情が刻まれ、まるで生き仏の如しである。それは盛岡の報恩寺の五百羅漢像にも受け継がれているのがわかる。ある意味、五百羅漢像の確立した技法を感じる。しかし、遠野の自然石に刻まれた五百羅漢の表情は、一般的な五百羅漢像のそれとは違うのである。
仏師になる為には、それなりの集団に属し、技術を継承するものである。単独で仏像を彫るものも少なくは無いが、全ての面で技術の継承が無い者とある者の違いが顕著となるのは、例えば以前遠野の博物館で発行された「遠野の仏像」を見ると、遠野に伝えられる仏像の数々には、その技術の未熟さは明らかであると思っている。では、遠野の自然石に掘られた五百羅漢を彫ったとされる義山和尚という人物は、誰にその技術を学んだのだろう?実はここで、一人の人物が浮き上がってくる…。]]>
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