不思議空間「遠野」 -「遠野物語」をwebせよ!-:遠野・語源考
2023-11-05T19:45:28+09:00
dostoev
遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
Excite Blog
笛吹峠
http://dostoev.exblog.jp/33574036/
2023-11-05T11:26:00+09:00
2023-11-05T19:45:28+09:00
2023-11-05T11:26:06+09:00
dostoev
遠野・語源考
現在「笛吹峠(ふえふきとうげ)」とは呼ばれているものの、大正時代の「上閉伊郡誌下閉伊郡誌」によれば、「吹雪(ふぶき)」が転訛されて「ふえふき」になったと云う。吹雪を意図した笛吹峠の話に、吹雪の日に峠を誤って転落し、助けを呼ぶ為に笛を吹いたが発見されず、死んでしまった盲人の話がある。
ただ、鉱山などの金属に関係する集団と関わる地に「笛吹」という地名が付く事から、やはり世界遺産登録になった橋野溶鉱炉址を意識せざるおえない。「笛吹」は、鉄を吹く、フイゴを吹くという仕事を意図している言葉になる。フイゴを吹くという行為は、そこに伊吹を伝えるという事で、神霊との結び付きを意図する行為でもある。
北限の海女で有名な岩手県の久慈市に伝わるものとしては、海女が海面に上がって吹き出す息を「常世の風」を招く風招きの風習である。また遠野市の綾織地方では、夜に口笛を吹くと嵐を呼ぶと伝えられている。また同じように青笹地方でもまた、夜に口笛を吹くと大風が吹くと云わっている。綾織地方では、稲刈り後の稲などのゴミが溜まった頃を見計らって、夜に口笛を吹いたものだと云う。そうする事により、収穫後の汚いゴミが全て吹き飛ばされて綺麗になるからだと。だから逆に、普段の日は決して夜に口笛を吹くものじゃないと戒めているそうである。
そもそも、人間の頭という名称の発生は「天の霊(あまのたま)」であり、神霊が降りた部位でもある。その天の霊から生える「髪」は「神」でもあり、「毛」は「気」である。つまり「髪の毛」とは、「神の気」を意味している。そして天の霊の部位である口から吐き出る息は「伊吹」であり、神の霊を吹き入れる行為である。それがタタラのフイゴと連動して考えられている。「上閉伊郡誌下閉伊郡誌」の「吹雪(ふぶき)」が転訛されて「ふえふき」になったという説は、有り得る話ではあるが、遠野の冬は、それこそあちこちで吹雪が発生している。となれば、吹雪を意識した地名がもっと多い筈である。しかし、この笛吹峠の「笛吹」という名を有するのは、橋野溶鉱炉址がある笛吹峠だけである事から、溶鉱炉のフイゴの風を意識した「笛吹」ではないかと考える。
]]>
白望山の語源
http://dostoev.exblog.jp/32265790/
2021-05-07T04:45:00+09:00
2021-05-07T14:18:30+09:00
2021-05-07T04:45:01+09:00
dostoev
遠野・語源考
白望山は、白見山とも記される。それ以前は朝倉山と呼ばれた、星見の山だった。途中から白望山となり、現在は白見山表記となっている。「白を望む」「白を見る」という言葉から単純に思い浮かぶのは早池峯であった。この白望山界隈で、まだ白い雪を被っている山は、早池峯しかない。その早池峯は疑似白山でもある。早池峯山中に白山と同じ地名が名付けられ、まるで白山をそのまま移動したかのよう。白山は「しらやま」である。つまり「しら」を「望む」。もしくは「しら」を「見る」とは、早池峯にかかる言葉であると思える。新山は、早池峯を意味し奥州藤原氏は、新山を信仰した。この遠野と大槌の境界の地にも、奥州藤原氏の祖である安倍氏の信仰が入り込んでいる。新山は、早池峯を遥拝する地でもあったと思われる。その新山から白望山までは稜線上にある。その白望山もまた、早池峯の遥拝所であった可能性も否定できないのかもしれない。
]]>
バッケの語源
http://dostoev.exblog.jp/31085906/
2020-03-07T13:12:00+09:00
2020-03-07T19:15:19+09:00
2020-03-07T13:12:46+09:00
dostoev
遠野・語源考
春になって目に付くのは、福寿草、蕗の薹、そして水芭蕉だと思う。共通するのは、どれにも毒があるという事。なので或る意味、毒の芽生える春の様な気もする。ところで、この中での蕗の薹は、遠野地方ではバッケと呼ぶ。この呼称は、どうやら東北全体にも広がるようだ。そのバッケの語源は定かではなく、仏教用語やらアイヌ語などから、様々な説があるようだ。その中で自分は、「化ける」を支持する。まず自分は、「バッケ」の「ケ」に着目した。
「ケ」は、気枯れ(けがれ)、物の怪(もののけ)など、かなり古くから使われている。また物の怪は「モッケ」とも読むことからも、バッケの語源を意識してしまう。その「気(ケ)」そのものは「生命力」を意味し、また「気配」も意味する。バッケである蕗の薹が雪をかき分け芽生えるのは、春の"気配"であり、春の"生命力"であると感じるのは、もう説明する必要のない事であろう。
さて、それでは何故バッケが化けるから来たのかと考えるのは、蕗とバッケである蕗の薹は、同じ地下茎で繋がっている。見た目は違う、蕗とバッケが実は、同じ地下茎で繋がる兄弟のようなものだが、意識を変換すれば、蕗が化けたのがバッケだと思われたのではなかろうか。いや、蕗よりも先に芽生えるのがバッケであるから、バッケとは蕗に化ける「春の気」だと思える。ゆえに蕗の薹は「春の気が化ける」事から、別名「バッケ」と呼ばれたのではないかと思うのだ。
]]>
トオヌップと遠閉伊
http://dostoev.exblog.jp/25312366/
2016-06-08T22:33:17+09:00
2016-06-08T22:32:55+09:00
2016-06-08T22:32:55+09:00
dostoev
遠野・語源考
遠野の語源に、アイヌ語のトオヌップ(湖のある地)だとする説がある。”トー”がアイヌ語で湖という意味となる。確かに、遠野(トオノ)盆地に、水が湛えられていれば、湖であったろうと思える。ただ以前、考古学者の方が遠野を調べた時、湖では無く恐らく尾瀬みたいな湿地帯だったでしょうとの答えが返って来た。それでも、過去に遠野は湖であってもおかしくはないだろうとは思う。
日本列島は、多くの山と谷で成り立っている。遠野のような盆地が、日本列島内に多くあるのが現状だ。そういう中で、例えば蝦夷国であった地にアイヌ文化が入り込んでいたならば、多くのトオヌップが存在していただろうと想定できる。しかし、遠野もしくはトオヌップであったと云われる土地は、現在の遠野市だけが唱えているに過ぎない。福島県の遠野は、上遠野(カミトオノ)から来ているというが、それは京都の流れから葛野(クズノ)の「葛(クズ)」が嫌われ葛野(カドノ)に変わり、それが上遠野になって、後に”上”が取れて遠野になったという。遠野市と同じ遠野を名乗っていても、トオヌップでは無かった。
東北に多くある盆地の中で、他にトオヌップを唱える地が無いのはどういう事か。つまり初めに遠野という地名に、アイヌ語の研究で有名だった金田一京助の流れに乗って、恐らくトオヌップだろうとしたのだろうが、東北で他にトオヌップを唱える地が無い事から、遠野の語源がトオヌップから来ている説は、かなり薄いと思われる。
また「続日本後紀」に”遠閉伊”という地名が登場する。閉伊は現在の宮古市を流れる閉伊川周辺だろうとされているので、遠閉伊は恐らく遠野では無いかとされている。しかし、ここにも疑問を感じる。例えば、上京するとは今では東京へ行く事を上京と言う。しかし以前の都は京都であった為、上京とは京都へと行く意味になる。基準があくまで都中心であるからだ。そこで”遠い”という用法だが、例えば都から遠く離れた大宰府を、やはり遠い意味と、船が行きかう”トウ”の意味を含めて”遠の朝廷”と呼んだ。ならば、遠閉伊とは都から遠い意味と、船の行きかう意味も含んでの遠閉伊でなくてはならないと思う。
南北朝時代、後醍醐天皇の孫である後亀山帝は、南朝の不振、北朝と合一の時期に"菊池百二十七氏"に対し、奥州へ落居せよとの命から、菊池氏一団は熊野水軍によって、東北に来たと云われる。岩手県沿岸の菊池氏の家紋が三つ巴であるのは、その流れを汲むものだとされている。また、茨城県の鹿島神宮は、船による蝦夷国への出入り口となっていた。鹿島神宮から出航した船は海を通って、北上川を溯上したとも云われる。例えば嘉祥元年(848年)、鹿島神宮は奉幣使が蝦夷国へと出航したが、勿来関で追い返されている。しかし、勿来関の場所は未だ不明となっているが、鹿島神宮の奉幣使が幣物を関近くの川に投げ棄てたとされる事から、勿来関は奉幣使団の乗った船が出入り出来る大きな川沿いではないかとも云われる。また北上川沿いでもある胆沢も古代には”遠胆沢”と呼ばれていた。そして安倍一族が北上川沿いに築いた柵もまた、交易の要所であったという事から、三陸沿岸の地域と、北上川沿いの地域は、”トウ”という、船の行きかう地に適している。
東和町の成島兜跋毘沙門天は、猿ヶ石川を利用して物資を運んだ蝦夷を睨む形で造られたとされるが、猿ヶ石川の場合、遠野までの高低差を加味すれば、船が行き交う地には程遠い。それ故、船の行き交う遠閉伊の地であるならば、遠閉伊は遠野では無いと言えよう。「日本後紀」によれば、弘仁二年に爾薩体と閉伊二村を攻めた様だ。蝦夷征伐の殆どは、現在の東北自動車道が走り、東北新幹線が走る平野部が主体であったようで、その流れから爾薩体が攻め入られたようだが、爾薩体は現在の二戸である様。そして閉伊村が閉伊川の流れる現在の宮古市近辺であるなら、盛岡や二戸の辺りから攻め入るとしたら、現在の国道106号線の果てに、閉伊村がある事になる。盛岡や二戸辺りまで攻め入った朝廷軍にとって見れば、閉伊村は更なる遠閉伊の地でもあろう。もう一度朝廷からの視点で考えて見れば、都から見た場合遠野市と宮古市では、どちらが遠いか?という事になる。恐らく、遠閉伊も閉伊も、どちらも閉伊川周辺ではなかっただろうか。それ故に、遠閉伊は遠野では無いと考えるのだ。]]>
白望山(白見山)の語源(其の二)
http://dostoev.exblog.jp/23730064/
2015-03-01T12:07:00+09:00
2017-05-20T05:37:43+09:00
2015-03-01T12:07:36+09:00
dostoev
遠野・語源考
以前の白望山の語源は、九州の銀鏡(しろみ)から来ているのでは無いかと書いた。実は、それを裏付ける様な内容が「米良史 菊池氏を中心とせる」に記されていた。
「古事記」に登場する木花咲耶姫と共に、醜いとされる磐長姫の話は有名だが、その磐長姫の醜さが銀鏡神社の由緒に記されているが、それを分かり易く紹介している。
瓊々杵尊が木花咲耶姫を選び、磐長姫を返した為、磐長姫は怒りと悲しみで一日たりと安き心無く過ごしていたという。或る日大山祇神秘蔵の御鏡を取り出して姿を映すと、その面は龍の如くであり、憤然としてその鏡を乾(北西)の方へと投げたという。その鏡は米良の山中、龍房山(鏡山)に落ち、頂上の大木にかかり、日光、月光の光を浴びて、昼夜四方を照らしたという。それ故か、この一帯を唯いうことなくシロミ(白見)と称した。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
柳々銀鏡と申す由来は神代大山祇尊、第一御娘、市姫尊(磐長姫)、御父大山祇尊より譲り玉ひし鏡にて御姿を寫し見玉ひしに其容体余りに悪しきを悲しみ玉ひ、其後、鏡は捨て玉ひけり年月久しく木枝に懸りて御光を放ち玉ひしを里人銀三大明神と崇め奉りけるとなん。依って此川筋を銀鏡といへり、御鏡光り給ひし時夜昼の如くありし故又白見とも書けり。
「銀鏡神社蔵」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
白は百にも通じ、磯良(しら)でもあるという。遠野の白望山は夜間の発光現象が取り沙汰されていたが、そのまま銀鏡の伝承が伝わったのであるならば、白望山は光って当然の山であった。醜いとされる磐長姫も、同じく醜いとされる磯良もシラであり、龍神と関わってくる。
宮崎県の銀鏡の地は、菊池の本城落城の後、菊池氏が懐良親王の一子、爵松丸を奉じて米良山中に逃れ、ここ一帯を支配したという。この銀鏡の地で有名なのは、一晩中行われるという神楽だ。その神楽は、菊池氏と大きく関わるという。その神楽の中で、特に祈願を申し込んだ氏子の為に舞われる「星の舞」というものがあるらしいが、その星とは二十八宿であり、月の運行を意味する。月の道筋の星を選び、月は一日一宿と宿りながら運行すると考えられ、月と星々の運行が自然や人間の全てに影響を及ぼすと考えられた。遠野の白望山では、わざわざ白望山に登って二十三夜の月を見るという習俗があった。山々に囲まれている遠野盆地の中で、二十三夜の月を見る習俗は知る限り、白望山だけでしか行われていない。ただし、日本人が挙って山に登り始めた時代は明治時代であるが、遠野という僻地は都会の習俗などが半世紀ほど遅れて来るもの。恐らく白望山の頂まで登り始めたのは、かなり新しい時代になってからだとは思えるが、それ以前に山に登る民か、山そのものに住む民によって伝えられた可能性はある。
また、遠野の白望山の麓の琴畑の地名の由来には秦氏が住み付いてとの伝承もある。マヨヒガの朱塗りの椀伝説も、秦氏の持ち込んだものであろうとされている。そして白望山の東側には金糞平というタタラ場があり、人が住んでいた事がわかっている。白は輝く意もあり、鉱物の意もある。そして龍神にも結び付き、それが鏡と月に繋がるというのなら、鏡と月は同一とされる事から、月を見るとは鏡を見るに等しい。増鏡とは月を意図して作られたものだという事から、磐長姫が投げた鏡が落ちた山を鏡山というのは、月が昇る山の意でもあるだろう。遠野の地から東に聳える白望山は、まさに月の昇る山でもある。そして鏡そのものが金属製錬の形である事から、銀鏡(しろみ)=白見(しろみ)の名と習俗を遠野に持ち込み定着させたのは、菊池氏と同じ地域に住んでいた秦氏の可能性は高いのではなかろうか。]]>
異説「附馬牛考(其の四)」
http://dostoev.exblog.jp/23305649/
2014-11-19T10:36:46+09:00
2014-11-19T10:37:00+09:00
2014-11-19T10:37:00+09:00
dostoev
遠野・語源考
「付け馬」という言葉がある。小学館「日本語源大辞典」によれば、遊郭や飲み屋などで、客が代金を払えない場合、その客に付き添ってその代金を取り立てに行く事を仕事とした者を云うのだと。また別に「附く」とは「空来(うつき)」の略であるという。「空(そら)」とは空っぽの意味であるから、ただ「附く」だけでは空っぽであり、何かに附いてこそ、意味を成すのだと思える。当然、飲み屋のツケも、ツケのままでは空っぽであり、回収出来てこそ身と成り形となるのだろう。つまり、ツケとは後で飲み屋などに支払うものであり、捧げる意にもなる。それでは、牛馬を払う、捧げるとはどういう事になるのだろう。
附馬牛地区には別に、「大出・小出」という地名がある。これは以前、恐らく「生出(おいで)」という水の湧き出る地の意味を、大出・小出と二つに分けたのだろうと考えた。大出・小出もまた、どちらも「おいで」と読めるからである。
「続日本記(791年)」には「牛を殺して漢神を祭るに用いる事を断つ。」という禁令が発布されている。古来から、雨乞いなどの儀礼に馬や牛を神に捧げていた歴史がある。しかし馬に関しては、いつしか生身の馬から絵馬に代えられたが、牛に関しては恐らくこの「続日本記」から禁止されたのだろう。絵馬の古いもので奈良時代の物がある事から、奈良時代以前には生きている馬を神に捧げる事を止め、絵馬がその代用品となったのだが、牛は8世紀後半になってやっと禁止されたようだ。だからといって、都で発布された禁令が遠野の地までに広がったのはいつの頃であるだろう?8世紀後半はまだ蝦夷征伐の真っただ中であった。恐らく蝦夷国が文化的にも安定したのは、奥州藤原時代の事であったろう。未だに伝えられる雨乞いの儀礼に、滝壺などに牛馬の死体や骨を投げ込んで、水神を怒らせて雨を期待するというものは、牛馬を神に捧げた名残であったろう。
大出・小出、そして牛馬と、水に関する地名が点在しているのが附馬牛という地名である。考えてみれば、早池峯に祀る神とは水神である。その早池峯の麓の附馬牛には、水との関わり合いが深いと云わざる負えない。
京都の貴船神社は、水神を祀る事で有名だ。その水神は罔象女神であり、古代において生きた馬を神に捧げた吉野川上流の丹生川上社からの勧請であった。その貴船神社の貴船とは、「気・生・根(きふね)」からの命名であり、大自然の「気」が生ずる地という意味となる。その貴船神社では当然、雨乞い儀礼が行われたが、それ以外に歴代の天皇は疫病が流行らないよう厄除け祈願をし、徳川家光は疱瘡平癒を祈願している。疫病は水神と関わりが深いと云われる。それは水が腐ると、そこから疫病が発生し流行った為だろうか。確かに、その家の者を憎んだ場合、井戸に毒や呪詛をかけるのは、水が穢れや疫病の始まりとされた為なのかもしれない。だからこそ、水は清くあって欲しい為の疫病除け祈願であったろうか。
実は、遠野の宮守地区の神社を見ていると、疫病神でもある牛頭天王と早池峯大神が並んで祀られているのを目にする。早池峯大神は東禅寺の伝説などから白馬に乗った貴人という表現で語られるが、早池峯神社の大祭を見ていても、早池峯大神を載せた神輿は、境内を出る前に同じ境内の駒形社に寄るというのは、早池峯大神が馬に乗る事を意味しているのだろう。その後に神輿は境内を出て、祓川へと向かう。この疫病神でもある牛頭天王と水神である早池峯大神の組み合わせは、牛と馬との組み合わせにも思える。
「附」とは「空来」の略だと書いたが、空とは天を示す。古代における天とは、高く聳える山でもあった。「附」が「捧げる」意であるならば、「附馬牛」とは、水神である早池峯大神に捧げる意にもなるのではなかろうか。]]>
琴畑の由来
http://dostoev.exblog.jp/22663096/
2014-08-02T17:19:00+09:00
2023-08-20T11:47:30+09:00
2014-08-02T17:20:00+09:00
dostoev
遠野・語源考
八橋とか言へる瞽しやのしらべをあらためしより、つくし琴は名のみにして、その音いろをきゝ知れる人さへまれなれば、そのうらみをしらせんとてか、かゝる姿をあらはしけんと、夢心におもひぬ。
「百鬼夜行絵巻(琴古主)」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
画像の琴古主は、付喪神という表現での姿なのだろう。解説には「龍形の胴を現し、鳳舌の下に大きな目玉が二つ光っている」と記されており、龍の姿になった箏なのだろう。ただ箏は、奈良時代には既に龍の象徴として、古代中国から日本にもたらされているので、古代中国では初めから龍の象徴として作られた楽器だったのかもしれない。その箏を"魂の器"と古代日本では呼んでいたのは、箏の持ち主の魂が宿ると云われた為だった。ただ、この箏古主の姿は龍である。九州の銀鏡神社に伝わる磐長姫の伝承では、鏡に映った顔が醜い龍の顔であった為に、磐長姫は鏡を放り投げたと云う。つまり、古代においての龍の姿は醜いとされていた。例えば蛇神と云われる磯良神も、自らが醜いと悟っていた為、神功皇后に呼ばれてもなかなか出てこなかったのだろう。そういう意味では、付喪神であるこの琴古主の持ち主とは、龍の心を持つものであったろうか。
菊池照雄「山深き遠野の里の物語せよ」によれば、琴畑の地名の由来は、遠野に流れ着いた秦氏が今の琴畑に住み付いて土地を開拓し、その畑仕事の合間に琴を奏でたからだという伝承を紹介している。確かに秦氏は、中央を追われ全国に散らばったと云い、その秦氏の住み付いた地には、秦・旗・幡・畑・波多などの名が残っている。常陸国にもそれは顕著で、秦氏関連の地名には何故か、星宮神社や静神社などの織物系神社が建立されている。倭文織物は古来「志豆波多(しずはた)」と呼び、秦氏が持ち込んだものと云われている。
菊池照雄は、琴畑に秦氏が住み付いたという裏付けに、マヨヒガ伝説をあげている。朱塗り文化の無い遠野に、何故マヨヒガ伝説では琴畑川に朱塗りの椀が流れて来たのか?多種多芸であった秦一族の一部は北陸へと逃げて、今では有名な輪島塗の祖となった。恐らく遠野に逃げ延びた秦氏は、鉄器集団の一族であり、白望山などに携わった可能性はあるだろう。朱塗り椀の話は、遠野では朱塗り文化がそれ程発達していない為に、ただ秦一族の伝承を持ち込んだだけのように思える。ただ伝承によれば、畑仕事の合間に箏を奏でたとあるが、それでは秦氏の秦(はた)と畑(はた)が重複してしまう。
それでは、何故に箏であったのか考えてみよう。箏は「琴」と「箏」の二つの漢字を使用する場合があるが、正しくは「箏」であり、「琴」は弦楽器の総称であった。その箏の材質は桐材で造る。そう、桐で思い出すのは、やはりマヨヒガの伝承となる。琴畑川から"桐の花"が流れてきた為、それを遡ったらマヨヒガに行き当ったという話もあり、そのマヨヒガの中心となる白望山への入り口は、琴畑集落であった。ここでも、桐を通して箏と繋がってくる。
また白望山の白望(しろみ)も本来、九州の銀鏡(しろみ)ではなかったろうか。九州の銀鏡周辺は秦氏の縄張りであるのに加え、その秦氏と共存していたのは、遠野にも姓の多い菊池氏であった。もしもそうであるならば、琴畑に移り住んだ秦氏とは、地名や伝承を考慮に入れたなら、九州の銀鏡地域に住んでいた秦氏である可能性は高いのではないか。
そして箏だが、先に紹介したように龍の象徴であり見立てであった。その箏を利用したものに、琴占というものがある。神を招く審神者が神懸りする時に用いるのが箏であり、その箏の調べが神の降臨する神聖な空間を作れ出したのだという。ところで、畑仕事の合間に箏を奏でたという伝承だが、琴畑集落は、完全な山間の集落であり、その中心に琴畑川が流れている。つまり琴畑集落の畑とは全て川傍である。箏の名称に竜頭があり、竜尾がある。他にも竜角・竜甲などという部分名称があるのは、その箏が龍そのものである事に加えて、その箏の形状が川を意識していると云われる。確かに龍は川に見立てられ、その龍は箏にも見立てられるのならば、箏の形状が川であってもよいのだろう。その箏を奏でて、どういう神を呼び出すのか?と考えれば、それは恐らく龍神でしかないだろう。奇しくも琴畑川には、その龍神を祀る神社があるではないか。箏を奏でたのは畑仕事の合間というより、遠野の飢饉の歴史を考えみても、その琴畑川伝いに箏の音色を響かせ、龍神を呼ぶ為の雨乞い儀礼ではなかったろうか。箏が龍そのものであるならば、琴畑とは「秦氏の崇敬する龍神」という意になるのではなかろうか。]]>
新説「遠野」語源考(とおの宮)
http://dostoev.exblog.jp/22270289/
2014-06-11T09:49:00+09:00
2014-06-11T10:30:18+09:00
2014-06-11T09:49:40+09:00
dostoev
遠野・語源考
遠野の語源は、未だにトオヌップという「湖のある地」の意味を持つアイヌ語を採用している。しかし以前、遠野の考古学調査をしていた考古学者に聞くと「湖というより、尾瀬みたいな湿地帯だったと思います。」との発言と、遠野の町の歴史と民俗を照らし合わせれば、確かに湿地帯であっただろうという説は納得するものだった。
ただ、こうして「遠野物語」「遠野物語拾遺」を読んでいると、遠野の里とは早池峯を中心とした里であるという認識を深くしてしまうのだった。自分が好んで調べている早池峯山と神社に祀られる神とは、単なる田舎の里に祀られる神では無く、かなり謎が深く、古代の日本では重要な神であるという事がわかっている。考えてみれば、歴代の為政者達も、早池峯には敬意を表してきた。それは南部氏や阿曽沼氏もそうだが、奥州藤原氏も、その祖である安倍氏もそうであった。つまり、その地を支配するにあたり、避けるわけにいかないのが早池峯の神であったようだ。
2011年の津波の後、現在の愛媛県に住む、かっては河野水軍として名を広めた河野氏の末裔も、家に代々伝わる安倍氏と早池峯の神に対する恩から、津波の復旧を手伝いに来てくださった方もいる。遠野市民が思っている以上に、早池峯の神は全国に広く崇敬されているのだった。
その早池峯神社の神は、伊勢神宮にも天照大神の荒御魂として荒祭宮に祀られている。しかしそれとは別に、延暦23年(804年)の皇太神宮儀式帳及び延長5年(927年)の延喜太神宮式には、天照大神の遙宮が伊勢神宮の別宮としてあった。その遥宮の以前は瀧原宮とも云われた。その遥宮には現在、天照大神と共に、天照大神の荒御魂が祀られている。天照大神の荒御魂は、遠野の早池峯大神でもある。
その「遥宮」だが、どう読むかというと「とおの宮」と読む。単純に訳するなら「遥か遠くに天照大神の荒御魂を祀る宮」とでも言おうか。早池峯神社の成立は大同元年(806年)と云われており、遥宮の成立した2年後でもある。つまり、伊勢神宮に祀られていた早池峯大神を、蝦夷国平定の為に、早池峯という山に祀り、蝦夷国に設置した遥宮としての遠野では無かったかと思う。つまり遠野は、早池峯大神を祀る遥宮であり、遠野宮なのだと考えてしまうのだ。ただ検証すると、早池峯の神は、それ以前にも祀られていた痕跡はあるので、改めて朝廷の権威の元に祀られたと考えても良いのではなかろうか。伊勢神宮の遥宮が、早池峯の御山に守られた遠野という地であるという考えに魅了されている自分がいる事も確かだが、曖昧なトオヌップというアイヌ語説よりも「遥宮(とおのみや)=遠野宮(とおのみや)」の説は、魅力的であると思うのだ。]]>
異説「附馬牛考(其の三)」
http://dostoev.exblog.jp/21576107/
2014-03-16T21:38:18+09:00
2014-03-16T21:38:27+09:00
2014-03-16T21:38:27+09:00
dostoev
遠野・語源考
附馬牛という言葉から牛に関係するだろうと、早池峰周辺が牛馬の飼育に適していた事と、恐らく牛頭天王にも結びつくのではないか?とも考えていたが、牛頭天王=素戔嗚尊で思い出す話がある。それは「古事記」において、素戔嗚が皮を剥いだ馬を高天原の忌服屋に投げ入れ、それから天照大神は岩戸に籠ったくだりがある。遠野における雨乞いの風習の中に、牛馬の死体や骨などを滝壷などに投げ入れ汚して水神の怒りを買うと云うものがあり「古事記」の場合では、天照大神が驚いて岩戸に隠れ(あるいは怒って隠れ)、世の中は暗闇に包まれたとの共通するものは、それは神の祟りである。そしてその後に、祟りがおさまり岩戸から天照大神は出でて、世の中に明りが戻ったとされている。
その「古事記」には有名な「因幡の白兎」の話が紹介されているが、その因幡には、もう一つ別の「因幡の白兎」の話が伝わっている。天照大神が霊石山へ行った時に白兎が現れて、天照大神を伊勢が平まで案内して消えると云う話だ。兎はしばしばその多産性から豊穣を意味し、月と結び付けられてきた。実際に月と兎の話は多く、兎はある意味月の象徴でもある。
天照大神は太陽神であると伝えられているが、古今東西、太陽神は男神であり、陰陽五行においても太陽は陽であり男を意味し、女神であるのは不可解であると広く認識されている。天照大神が岩戸から出て来た時「天照大御神出でましし時に、高天の原と葦原の中つ国と、おのづからに照り明りき。」と記されており、決して太陽が昇ったとは記されていない。つまり月が昇っても、世の中は明るくなるのだ。ましてや古代の一日の始まりは、太陽が沈んだ後の夜からであった。もう一つの「因幡の白兎」では太陽神である天照大神を導いた兎が伊勢の平で消えるというのは、月から太陽へとバトンタッチしたものと考えても良いのではないか。となれば、岩戸から出てきた天照大神は月神の可能性もあると考えて良いだろう。撞賢木厳之御魂天疎向津媛命は、天照大神の荒御霊だと云う。その撞賢木厳之御魂天疎向津媛命は、西に向かう月を意味するという。和魂と荒御霊は同属でなければいけないという事から実は、天照大神が月神であったとしても、何等不思議ではない。
京都の宇治を調べると、宇治は兎路であり、それは月の運行に関わる様である。つまり、宇治川そのものが月の運行を映し出す鏡と考えるべきか。東山文化では、月は直接見るものでは無く池に映して見るものだとされ、そういう庭園が造られたのは、月の変若水でわかるように、月と水との関わりが深い事を意味している。そして牛もまた、水や月と大きな関わりを持つ。日本の古代から伝わるものに絵馬があるが、絵馬の以前は生きた馬が丹生川上神社に奉納されていたのがわかっている。恐らく、雨が欲しい時は黒い馬を殺し、晴天が欲しい時は白い馬を殺していたなどと云われている。ところが「続日本紀」では近畿一円で農民が牛を殺して漢神に捧げるのを禁じたとある。牛もまた水神に捧げる生き物であった。牛の角はローマ字のAを意味し「アレフ」という名を別に持つ。そのAは牛の角の意味でもあり、月である三日月を象ったものと伝わっている。
遠野のデンデラ野の語源は、未だに定かでは無い。その「デンデラ」という語は以前、エジプトにも伝わると紹介した。古代エジプトのハトホル神殿はデンデラの地に鎮座している。デンデラは魂の復活の意味があるのだが、このハトホルとは女神の名前で、母性の象徴であり死者を守る者としての属性を兼ね備えている。また近藤二郎「星座神話の起源」によれば、ハトホル女神はアフロディーテ(ヴィーナス)と同一視されているのは、世界三大美女であるクレオパトラがこのハトホル神殿の建造に携わったから?との見方もあようだ。そして、そのヴィーナスは金星を表す。
遠野のデンデラ野は野原である為かひらけており、星空が良く見えるようになっている。エジプトのデンデラのハトホル神殿の天井には天体レリーフがあるのだが、これはギリシア系プトレマイオス朝であった為、公用語もギリシア語であり、星座の神話もこの王朝時代に融合したのではなかろうか。つまりデンデラは魂の復活の意味と共に、星を見る場所でもある。遠野のデンデラ野には星谷という地があるのも偶然だろうか?
そのハトホル神は、頭に牛の角を持つ女神である。古代ヨーロッパにおいて牛は多産の象徴とされたのは月と結び付いただけでは無く、牛の頭の形の三角形と日本の角が子宮と卵管を想起させたからだと云われている。そして豊かな牛の乳は豊穣の象徴でもある事から、いつしかそれは水の源であり、樹木が生い茂り、獣が発生する山と同一視された。
遠野市と友好姉妹都市となっているイタリアのサレルノ市出身の元環境大臣アルフォンソ・ペコラーロ・スカーニォ氏は、イタリアのロッカスモンフィーナ山に鎮座するメフィナの女神と、遠野の早池峯に鎮座する瀬織津比咩とが何故似ているのか?と疑問をぶつけた。メフィナの神は、イシスと同一視されている女神だ。そのイシスはしばしばハトホル神と混同されている。時代的に恐らく、イシス信仰がイタリアに伝わり、ロッカモンフィーナのメフィナとして定着したものと思える。ロッカモンフィーナ (Roccamonfina) の「Rocca」は「砦」や「城」を意味し、「monfina」は「メフィナ神」の変化形である。つまり「ロッカモンフィーナ山」とは「女神の城」を意味するる。ロッカモンフィーナ山は水を豊かに有する山だが、火山でもある為、そのまま祟り神としても恐れられたようだ。つまり、日本と同じに恐ろしい山の神であったのだろう。
大野晋の著作「日本語の起源」「日本人の神」などを読むと、日本語の源流はシュメールに行き着きそうである。実際に、日本人のDNAはチベット人や古代イスラエル人に最も近いと云われる。見た目は似ていても、朝鮮人や支那国人とはDNAレベルで全く違うと云うのだ。では、そのDNAはどうやって日本に伝わって来たのか?という事になる。デンデラのハトホル神殿はエジプト文明とシュメール文明の融合でもあると云われるのだが、そうして考えれば、遠野のデンデラ野の語源が、もしかしてエジプトのデンデラではないのか?という道筋が、ぼんやりと見えてしまうのだ。肯定は出来ないが否定もできない。例えば厩戸皇子である聖徳太子の伝説もイエス・キリストと何故似ているのか?という問題も、キリスト教伝来以前、既に日本にその関係者が海を渡って伝え広まったとの説もある。正史に載らない謎は、まだまだ日本には存在するものと思う。
とにかく、古今東西、山には女神が鎮座するのは、その女神に月や牛の豊穣性が結び付いているからのよう。ロッカモンフィーナがそのまま「女神の城」であるならば、確かに山そのものは女神の城である。神奈備といわれる三角形の山は、日本では三輪山などを含め、聖なる山と云われる。その三角形が牛と月の豊穣性を示す形であるのならば、それを遠野の山に当て嵌めれば、それは六角牛であり、それは薬師岳となるのではなかろうか。
薬師岳は別名「前薬師」と云われるのは、そのまま早池峯に属する山であるという意味であるからだ。つまり、早池峯は早池峯山だけでなく、薬師岳を含めてこその早池峯なのだと考える。麓の早池峯神社には瀬織津比咩と共に天照大神が祀られるのは、そのまま太陽と月を祀るものと考えて良いだろう。太陽神である天照大神の荒御霊は、月を意味する撞賢木厳之御魂天疎向津媛命であり、別名瀬織津比咩であるのは、早池峯と薬師岳の二つの山を上手く使い分けての祭祀方法なのだろう。
ところで、以前の遠野の中心は土渕であり、附馬牛であった。現在、遠野の六日町に鎮座している伊勢両宮神社も、元々は土淵の似田貝に建立された神社であった。その伊勢両宮神社のあった近くには、早池峯古参道跡を示す古い鳥居が今でもある。つまり土渕は、早池峯への入り口でもあり、天照大神である和魂と荒魂が向かい合う地でもあった。その土渕の奥にデンデラ野のある山口部落があり、そこに薬師堂が鎮座してある。その方向は北を向いて鎮座し、まるで早池峯に向けて建てられたかのよう。七薬師であれば北斗七星と結び付くのだが、山口部落の薬師堂は十二支薬師であり、山の神との結び付きが強い。十二様は山の神の別称であり、やはり豊穣を意味する。
エジプトのデンデラの地に建てられたホルスト神殿は、天体のレリーフがある事から天空に輝く星々の為の拝殿であろう。ギリシア文明とも融合しているホルスト神殿であるから、死んだ人間は星になるという伝承も伝わっていたようだ。これと似た様なものが日本では、死んだら人の魂は高い山へと昇るというものがある。その高い山とは、遠野で云えば早池峯となる。デンデラ野で死んだ人達の魂は、高山である早池峯へと昇って行った。その魂を鎮め、そして祈る地として、エジプトと同じようにデンデラがあるとすれば、早池峯の鎮座する土地である附馬牛とは本来、「月の牛」という意味では無かっただろうか?月の変若水では無いが、附馬牛の地名にある、大出・小出のどちらも水の湧き出る「おいで」の意に通じる。水が生命の源であるならば、その水を発生させる意味の大出・小出がある附馬牛は、そのまま「月の牛」という意味でも通じてしまうのである。]]>
白望山(白見山)の語源
http://dostoev.exblog.jp/20950988/
2013-11-24T13:00:00+09:00
2013-12-01T22:02:53+09:00
2013-11-24T13:00:51+09:00
dostoev
遠野・語源考
白望山(しろみやま)は「遠野物語」や「遠野物語拾遺」に多く登場する有名な山だ。伊能嘉矩「閉伊地名考」では、アイヌ語で考察され、白見は「石・矢の根」の意味であるとされている。アイヌ語からの地形の言葉を適用したわけだが、白望山は長者屋敷を経るなどして、その稜線は立丸峠・川井村方面へと延びているのは、確かに矢の根と捉えて良いのかもしれない。
その白望山の麓に、琴畑という古くからの集落がある。菊池照雄「山深き遠野の里の物語せよ」で菊池照雄は、秦氏がこの地に移り住み、畑仕事の合間に琴を奏でたので琴畑と書いてある。確かに秦氏は、朝廷が新羅仏教から任那仏教に切り替えた時にお払い箱と成り、日本全国に散らばって、氏名を変更したりした氏族である。その多くは、北陸などに住み着き、その技術を生かして朱塗りの椀などの政策を手掛けて居付いたようだ。それ故、白望山に関わるマヨヒガの伝承の中に、朱塗りの椀が流れてくる話は、確かに秦氏との関連を感じる。
琴畑集落に住む人々は、元々別の姓の集まりだったが、明治時代に百姓も姓を名乗って良いという事から、挙って琴畑姓を名乗ったという。その中には、本来は阿蘇という姓で、九州から移り住んだという家系も琴畑集落内にはある。
その九州の宮崎県に、銀鏡(しろみ)という地域がある。その銀鏡地域には、今でも多くの菊池氏と秦氏の家系が住んでいる。その銀鏡地域には、銀鏡神社というものが鎮座しており、山神の娘と云われる石長比売を祀っている。伝承には、磐長姫が鏡で自らの醜さを垣間見、その自分の顔が映った鏡を投げ降りた場所に、銀鏡神社を建立したという事だ。
サントリーの佐治会長の「東北は熊襲の国」発言は、熊襲と蝦夷を混同したものだった。それは、混同しやすい文化を蝦夷と熊襲は有していたからであったのだろう。熊襲と近いものに狗奴国がある。どちらも狩猟民族であったと云われる。その狗奴国の党首は狗古智卑狗で、中世に名乗りを上げた菊池氏の原型だとも云われる。その熊襲は、アイヌ人と云われている。九州に住んでいた熊襲であるアイヌ人が朝廷に追われて北へと逃げ、最後に行き着いた安住の地が北海道であったと云う。とは言っても、全てのアイヌ人が北海道へ行ったわけでもなく、日本列島を縦断している最中に、あちこち点在して住み着いたのだろう。その一つが東北である蝦夷国である。つまり地名を考える場合、アイヌ語の採用は良いけれど、その大元である九州はどうであったのかも意識しなければならないだろう。
そのアイヌ人の原型に近い、狗奴国の党首である狗古智卑狗は熊襲でもあり、菊池氏の原型でもあると云われる。蒙古襲来時に活躍した菊池一族は、その勇猛果敢さから蒙古撃退に活躍したのは、その血の為せる技であったのかもしれない。
その菊池氏や秦氏が住み着く宮崎県銀鏡地は、あくまでも銀鏡(しろみ)という音で呼ぶ。日本語に使用される漢字は、後であてられたものであるから、九州の銀鏡(しろみ)と、遠野の白望(しろみ)は同じ意味であるべきだ。ただ九州の銀鏡には「銀」という漢字があてられている。「銀」とは白金(しろがね)と古くから呼ばれ、黄金は金、白金は銀、黒金は鉄、赤金は銅などと、金属を「金」という総称で読んでいた時代での銀とは白を意味していた。つまり銀鏡とは、銀製の鏡を意味している。鏡は見るものであるから、銀製の姿見で、自らを見るで銀鏡なのだろう。
白見山の背後には金糞平と呼ばれるタタラ跡がある事から、白見山周辺は金属の採掘が成されていたというのがわかっている。遠野から望む白見山の背後は大槌町となる。製鉄に結びつく伝説の中に、鬼が登場しているのだが、その鬼とはなんだったのか。つまり地域住民とは縁の無いものを鬼と呼んだのならば、鬼とは余所者であったのだろう。記録的には、大槌町の製鉄は平安時代まで遡る事が出来るが、それから遡ればどこまで行き着くのかわからない。ただ、東北である蝦夷国は逃げ延びた人間達が移り住む地でもあった。古くは、蘇我氏に敗れた物部氏が逃げ延び、朝廷に追われた秦氏が逃げ延び、兄である頼朝に追われた源義経が逃げ延び、南北朝の争いで長慶天皇が逃げ延び、近代では幕府側の土方歳三は福島経由で、北海道へと逃げている。北という地域は、為政者によって追われた者達の終焉の地となっている。
つまり安住の地を求めて逃げ延びてきた者達は、定住した地域に、文化や言語を持ち寄っている筈だ。また琴畑には、早池峰の遥拝所が2か所ある。その早池峯の女神は瀬織津比咩だが、銀鏡神社から流れ下る銀鏡川を下ると、その川沿いに磐長姫を祀る銀鏡神社と木花咲耶姫を祀る都万神社があり、何故かその間、つまり、上津瀬に磐長姫を祀る銀鏡神社、下津瀬に、木花咲耶姫を祀る都万神社、そして中津瀬に瀬織津比咩を祀る速川神社が鎮座しているのは偶然だろうか?
先程書いたように、民族の移動によって言語や文化と共に、信仰もまた伝わってくる。白望山周辺や、その麓である琴畑の習俗を考えた場合、白望山がアイヌ語の「石・矢の根」の意であると断定はし辛い。白望山も本来は「しろみ山」であり「白望(白見)」という漢字は、後からあてられたものであるだろう。自分は「しろみ山」は音で伝わり、後から「白望(白見)」があてられたが、本来は「銀鏡(しろみ)」の地名が遠野まで伝えられたものと考えたい。ただ、山伏用語で百と白は金鉱石を意味し「ミ」とは、鉱石そのものを意味する。つまり山伏用語で「シロミ山」とは「金鉱石の内包する山」の意にもなるので、捨てがたい説だ。]]>
立丸峠の語源の由来?(其の二)
http://dostoev.exblog.jp/19989622/
2013-07-10T14:54:00+09:00
2020-10-26T16:49:21+09:00
2013-07-10T14:54:10+09:00
dostoev
遠野・語源考
小国の者が米を買いに遠野へ行った時の事である。狼が良く出るという帰りの山道で、年老いた狼に出遭った。その狼はお腹が空いているらしく、持っていた握り飯を与えて食べさせたという。
またある日の事、再びその山道を通るとその年老いた狼に、いきなり倒され木の葉を被せられた。するとその後に、千匹程の狼の群れがそこを通り抜けて行った。起きて見ると狼が木の葉を沢山丸く集め、その上に立っていた。どうやら小国の者を他の狼に見つからない様、隠してくれたのだった。それから、そこを立丸峠と呼び、狼が待っていた所を道待と呼んだが、今では道又という。
「遠野の昔話」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「立丸峠の語源の由来?(其の一)」では立丸は「立ちマラ」からという笑い話を紹介した。今回は、狼が人間を助けた話となるが、狼が木の葉を丸めて上に立ったので「立丸」とは、少々語呂が悪い話でもある。
ところで遠野に「丸」と名の付く峠は二つある。一つは秋丸峠で、一つはこの立丸峠となる。丸というと大抵、船などに「〇〇丸」という名を付けるのだが、「丸(マル)」とはポリネシア語で「船」の意味を持つ。ところが昔から、船の名前に丸を付けるのは当然の事であった。ただ丸は船の名だけでは無く、幼名にも使い、刀などの物にも丸を使うが、峠の名に丸というのは違和感がある。可能性があるとしたら、人の幼名をそのまま峠の名にしたのなら納得する。例えば、上郷の日出神社傍にある秋丸峠だが、あの辺一帯は安倍氏の影響が強い。傍に安倍氏の鳥海舘があったと云われる地域であるからだ。そういう事から察すれば、秋丸(アキマル)峠とはもしかして、安倍貞任の息子である高星丸(タカアキマル)の名から来てるのでは無いかと考えてしまう。そういう意味から本当は立丸峠も、誰かの幼名が転訛したものではなかろうか。]]>
「青ノ木」の意味
http://dostoev.exblog.jp/19273713/
2013-04-24T19:21:00+09:00
2013-05-02T06:33:02+09:00
2013-04-24T19:21:55+09:00
dostoev
遠野・語源考
昨日の黄昏時、空はまだ青みを残している中、雲をまとった朧月は、青く見えた。しかし日本の古代では、青とは黒と同じだった。漢字の「青」は井戸に通じ水を意味する事から、いつからか青色という認識が成された。しかし、夜から朝にかけて、もしくは夕暮れから夜にかけての色のグラデーションは青から黒。もしくは黒から青となる。
空の色を反映される水もまた、光の加減で青と黒との交わりを見せる。また青毛と呼ばれる馬がいるが、実際は真っ黒の馬の事を青毛と言うのは古代の青の概念の名残を残している。
ところで笛吹峠を越してすぐのところに「青ノ木」という土地がある。大槌の伝承に、ある家を毎晩鬼が家の中を荒らす為、ある晩待ち伏せをして鬼を叩き出した。その時鬼を叩いた槌を川に捨てたところ、小さな鉄の鎚は小鎚川に沈み、大きな木槌は流れて大槌川河口で打ち上げられた事から大槌、小鎚の地名が生まれたと云う。叩き出された鬼は、笛吹峠の下で仰向けになって倒れているのが発見され、以来そこを青ノ木と呼ぶようになったという事だが、どうも後で取って付けたような話である。
陰陽五行において、青は太陽の昇る東を示し春の方角でもある。また青は木気でもあるので、そのまま青ノ木は東で春を意味するものか?とも考えたのだが、峠の狭間の青ノ木は太陽の昇るのも遅く、全体的に日当たりが悪い。とても陰陽五行の春の気にそぐわない土地の様な気がする。
笛吹峠は魔物が出るなどの恐ろしい峠として、延々と名を馳せていた。しかしあからさまに"鬼"が出るなどの話は、この青ノ木の伝承以外に聞いた事が無い。ただ唯一考えられるのは、鉱山だ。鉱山というものは地面に穴を掘り、山に穴を開ける行為だ。黄泉の国は「古事記」で読む通り、洞窟と繋がっている。井戸やトイレに幽霊の話が多いのは、地面の穴が霊界や黄泉の国へと繋がっている俗信からきている。
青の洞窟というのは沖縄が有名だが、岩手県にも青の洞窟がある。宮古の浄土ヶ浜には八戸に繋がれるとされる八戸穴の伝説がある。どちらも美しいマリンブルーを謳っての青の洞窟だが、本来は地獄穴として伝えられている。そしてその、八戸に繋がるという地獄穴は、複数存在するという。つまり本来、そういう穴という者は地獄であり黄泉の国であり、恐ろしいこの世のものでは無い場所に繋がっていると認識されているのだ。
丹内山神社の「胎内巡り」として有名なアラハバキの岩も、恐らく甲賀三郎伝説が基礎となっているのではなかろうか。そういう意味から、洞窟などの穴は異界に通じる場所であり、それがいくつも開いていたのが青ノ木であった。とにかく青は黒と同じであり、黒は闇を意味する。闇は魔の世界である人間の住む場所では無い。だから笛吹峠には恐ろしい話が多いのだと思う。また先の伝承で、逃げた鬼が仰向けになって死んだ地が青ノ木という事だが、それは鬼が逃げ帰る場所が青ノ木であったからと考える。
それでは「青ノ木」の「木」は何かといえば、それはそのまま「木」であろう。白望山の背後にある金糞平もそうだが、そのタタラ跡には大きな桜の木が植えられている。何故か全国の鉱山跡には桜の木が植えられている。琵琶湖の桜谷は黄泉の国と繋がっているという伝承もある事から、桜と黄泉の国が何故か繋がりを持っているようだ。「桜の木の下には死体が埋まっている」という俗信が広がっているように、また猿ヶ石川に水没者を供養する為に桜を植えた事実があるように、桜と黄泉の国の繋がりは歴史的に深い。
実は、この青ノ木の山神神社跡地にも立派な桜が植えてあった。となれば青ノ木の「木」とは、黄泉の国への道標では無かったのか?つまり「青ノ木」とは「黄泉の口の入り口」を意味する言葉であったのではなかろうか。]]>
雛森の語源(其の一)
http://dostoev.exblog.jp/17733450/
2012-07-06T20:33:00+09:00
2012-07-06T21:21:37+09:00
2012-07-06T20:33:10+09:00
dostoev
遠野・語源考
上郷町に伝わる朝日巫女の影響は、住んでいた岩崎の辺りから、同じ上郷の平野原までとなる。その平野原には雛森と呼ばれる地があり「上郷聞書」では「朝日神子が常に所持せる御雛様(オシラ様か)は、神子の死後に部落の前の小山に葬れり。この山は現在雛の森と呼び、部落を平野原と呼んでいる。」。別に「ひな森は、平野原に偉い人がいて、そのお姫様が3月3日に雛遊びして場所と伝えられるという。また別に「スナモリ」とも発音する事から、砂の森ではなかったとされ、格別祭祀儀礼は伴わなかったとされる。」などと書かれているが、ここに混同が見受けられる。朝日巫女が死んだのは、岩崎にある朝日巫女の墓がある岩船山なのか、それとも雛森なのかだ。朝日巫女の一説に「朝日巫女は死後、部落の前の小山に御雛様を添えて葬られた。」というのもあるが、一体どうなっているのか?雛森は、朝日巫女と関係があるのか無いのか?
ところでスナモリが砂の森というのは、有り得ないだろう。恐らく…例えば山菜の学名「モミジガサ」というのがあるが、遠野では一般的に「シドケ」というのだが、人や地域によっては「スドケ」と訛って発音される。「シ」が「ス」に転訛してしまうのだ。また「ヒ」自体も「シ」と転訛する場合も多くある事から「ヒナモリ」「シナモリ」「スナモリ」は、元々同じ言葉である転訛による変化の言葉だろう。
昔は、文字よりも言葉…音による言葉によって伝わってきたことを考えると、「ヒナモリ」と呼ばれてきた地名に、後で「雛」という文字をあて「雛森」となった可能性はあるだろう。
画像を見てわかる通りに、ひな森は平野原舘であったようで、舘主は平原備後吉竹(本名 菊池)であり、阿曽沼の家臣で築城は(1213年~1219年)とされている。
ところで「ヒナモリ」という名称の古くは「魏志倭人伝」に記載される「卑奴母離(ひなもり)」であった。
ウィキペディアから引用すると「『魏志倭人伝』は、邪馬台国に属する北九州の対馬国、一支国、奴国、および不弥国の副官に「卑奴母離(ヒナモリ)」がいたことを伝えている。これらの国々は邪馬台国の外国交易ルートに位置し、外敵や賊に対する守りを固めるために置かれた男子の軍事的長の称号と考えられる。」とある。
雛森から少し登って見渡すと、確かに見晴らしはよくなるが、遠いところをも見るにはどうであろうか?それよりも手軽に、洪水から避難する高台であった気がする。実際に、不地震地と云われている事から、災害から逃れる地であったろうし、そこには少なからず信仰があったのではなかろうか。「上郷村郷土教育資料」には「避難の森」が「ヒナノモリ」に訛ったのではと書かれているようだが、「避難」という音読みの言葉を遡っても、せいぜい江戸時代であろうから、この「避難の森」は、ここでは当て嵌まらないだろう。
ところで「ひな」の用法だが「日本書紀」景行天皇27年に「日本武尊に授けて曰はく、「朕聞く、其の東の夷(ひな)は…。」」とあり、蝦夷の「夷」は「ひな」とも読まれていた。
「万葉集3291」には「大君の まけのまにまに 夷(ひな)離(さか)る 国治めにと 群鳥の 朝立ち行かば」とあり、ここでの「夷離る」は「田舎の方に遠く離れる」もしくは「辺鄙な」という解説が付いている。
また別に「万葉集4071」には「大君の 任のまにまに しな離る 越を治めに 出てて来し」とあるが、「しな」は「ひな」にも通じるとあるので同義だと考えても良いのだろう。ここでの「しな」は「越」にかかるのだが、この「越」とは「越の国」であり、当時は蝦夷国でもあった。「万葉集」の解説には「ひな」を構成するのは北方の越と、西方の筑紫であるとされている。これは恐らく「ひな」とは、太陽か月の運行を意識して付けられた名称ではないだろうか?常に太陽であり、月が真上にくる都を日本の中央に置き、日が昇ったり沈んだりする方向を辺鄙な地と見ていたのではと思う。これは中国の皇帝が、玉座を南に置き、玉座に向かって日が昇る方を左大臣とし、日が沈む方を右大臣としたのと同じ考えを採用しているのではなかろうか。
そして「雄略記」には、このような歌がある。「百足る 槻が枝は 上つ枝は 天を覆へり 中つ枝は 東を覆へり 下つ枝は 鄙(ひな)を覆へり」とある。槻は「月」を意味するものであるから、上つ枝が被うのは中心である天に等しい都を意味しているのだと思う。その当時、東は今の関東近辺を意味していた為、下つ枝の覆う鄙とはやはり、月の昇る地域と、月の沈む地域を意味しているのだろう。それはつまり、蝦夷国と筑紫であったのだと考える。先に記した「魏志倭人伝」の「卑奴母離(ヒナモリ)」は役職名で、筑紫や蝦夷の夷は地名と考えて良いだろうが、恐らくどちらも「辺鄙」の意味を含んでいるのだろう。]]>
多賀という語源(其の四)
http://dostoev.exblog.jp/17574110/
2012-05-23T17:47:00+09:00
2012-05-23T18:57:19+09:00
2012-05-23T17:47:50+09:00
dostoev
遠野・語源考
又、此の川上に石神あり、名を世田姫(または與止日女)といふ。海の神、
鰐魚と謂ふ 年常に、流れに逆ひて潜り上り、此の神の所に到るに、海の
底の小魚多に相従ふ。或は、人、其の魚を畏めば殃なく、或は、人、捕り
食へば死ぬることあり。凡て、此の魚等、二三日住まり、還りて海に入る。
「肥前國風土記(抜粋)」
橋野の沢の不動の祭りは、旧暦六月二十八日を中にして、年によって二月祭と
三月祭の、なかなか盛んなる祭であった。
この日には昔から、たとえ三粒でも必ず雨が降るといっていた。そのわけは昔こ
の社の祭の前日に、海から橋野川を遡って、一尾の鮫が参詣に来て不動が滝の
滝壺に入ったところが、祭日に余りに天気がよくて川水が乾いた為に、水不足して
海に帰れなくなり、わざわざ天から雨を降らせてもらって、水かさを増させて帰っ
て往った。
その由来があるので、今なおいつの年の祭にも、必ず降ることになっているといい、
この日には村人は畏れつつしんで、水浴は勿論、川の水さえ汲まぬ習慣がある。
昔この禁を犯して水浴をした者があったところ、それまで連日の晴天であったの
が、にわかに大雨となり、大洪水がして田畑はいうに及ばず人家までも流された
者が多かった。わけても禁を破った者は、家を流され、人も皆溺れて死んだと伝
えられている。
「遠野物語拾遺33」
笛吹峠を越えたところに、橋野という地がある。「遠野物語拾遺33」に鰐が川上を遡って来るという話が伝わっている。それでは何故、鮫が川を遡るのかというと、そこには神がいるからであろう。「肥前國風土記」のように神を求めて鮫だけでなく、魚が遡って来たのだろう。そしてこの瀧澤神社には、竜神の石というものがある。伝説で鮫が川を遡って来たのは、竜神が石の形として鎮座しているからであったろう。
そしてもう一つ、楕円形のボコボコの瘤だらけの石がある。遠目で見ると、鱗状の石にも見える。この石は、かなり昔、ある人物が竜神様の姿だとして持ち込んで祀ったのだと。この石を見て「磯良エビス」であると直感した。磯良神は対馬の和多都美神社に安曇磯良の墓なるものがあり、それは本来、磯良神の神体石であるという。それを"磯良エビス"と云う。その磯良は、白蛇&白竜と信じられる神でもあった。
ところで話は変わるが、各風土記の荒ぶる女神の項を読んでいると、例えば「筑後国風土記」での筑紫の神とは「肥前国風土記」から、それは女神であり"人の命を尽くす女神"であるという。しかし、それ以前に人の命を絶つ神として君臨していたのは、黄泉津大神とも呼ばれる伊邪那美であった。
伊邪那美である黄泉津大神と筑紫の神も女神としては共通するが、その筑紫の神を紐解くと、川上に坐す石神であり、與止日女である事がわかる。しかし「出雲風土記」から多伎津姫(湍津姫)は多久村で生まれた石神とされる。この多伎津姫は風土記の中で與止日女と結びつく。肥前国一宮である與止日女神社の與止日女は瀬織津比咩と習合しているのを考え合わせるとだ…。
素戔嗚の剣から生まれた三女神は、当然の事ながら荒ぶる女神の属性を備える。「宗像大菩薩御縁起」によれば、7代天皇期に、宗像神は出雲より宗像に遷行。つまり宗像神は出雲神でもあるのだ。また別に、大国主と多紀理毘売命が結びついている事から、出雲との結び付きは深い。しかし「先代旧事本紀」では、大国主(大己貴神)と結びついているのは多伎津姫となっている。ただどちらにしろ、荒ぶる女神には変わりないのだろう。
遠野の多賀神社に何故、伊弉諾と水神がペアで近江の国の多賀大社から分霊されたのかを考えると天智天皇以前の古くから佐久奈谷(桜谷)は黄泉の国と繋がるという伝承が意味するのは、その水神が伊邪那美と同じ属性を持つからだろう。それは先にあげた人の命を奪う、もしくは尽くす神の属性、つまり荒ぶる女神の属性であるからだろう。
また、近江の国の琵琶湖湖畔の佐久奈谷(桜谷)が宇治の橋姫神社と結び付いたのは、この地に鎮座する佐久奈度神社に祀られる瀬織津比咩であるからであった。
また天智天皇の時代、「大祓祝詞」が作られ、その世界観が近江の国の琵琶湖周辺の地と結び付けられたのを考えれば、琵琶湖そのものが罪や穢れを呑み込む黄泉の入り口であったのだろうと認識できる。
これらの事から察すれば、筑紫の神…つまり人の命を尽くす神とは、「大祓祝詞」において、根の国、底の国…つまり黄泉との繋がりを持つ瀬織津比咩であるのは間違いないだろう。それはつまり、人の命を送る女神が瀬織津比咩であり、それを受けるのが黄泉津大神である伊邪那美という事になる。それが黄泉の入り口で繋がっているという事ではないか。(続く) ]]>
多賀という語源(其の三)
http://dostoev.exblog.jp/17530141/
2012-05-12T05:06:59+09:00
2012-05-14T12:28:32+09:00
2012-05-12T05:06:31+09:00
dostoev
遠野・語源考
以前に「大祓祝詞」の移し世として近江国の琵琶湖は大祓祝詞の世界観を具現化させた地では無いかと書いた。その大祓祝詞に関係の深いものが「古事記」による伊弉諾が黄泉の国から出て行った行動である。それは筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原において穢祓して、多くの神々を生んだ行為である。
伊弉諾は当初、伊邪那美と結びついて多くの神々を生んだ。しかし伊邪那美は死に、黄泉津大神となってしまった。そして伊弉諾は筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原において穢祓し、多くの神々を生んだ事に対し、違和感を覚えるのだ。日本の神々を祀る神社の原初は、彦神と姫神を祀っているのが一般的である。聖なる数字である"3"には、真中の意味も含まれるのは、陽数である1=男であり、陰数である2=女となる。その1と2が結びき、その間(真中)から3が生れるのだと。つまり、伊弉諾の阿波岐原において神々を誕生させるには姫神が足りないのが理解できる。
ところで黄泉の国において登場し、伊弉諾に対し何かの言葉を放った謎の神とされる菊理媛神は白山に鎮座する水神でもあるとなっている。恐らく伊弉諾に対し、穢祓を勧めたのは菊理媛神であろうという事だ。
産湯には、穢祓の意味があるという。新しく生まれ出た生命の体の穢祓を行って祝い、再生された魂を寿ぐための儀式とされていた。つまり伊弉諾の阿波岐原での行為は、神々を誕生させる為では無く、生まれた神々を産湯によって穢祓し祝っている行為であったのだと考える。となれば既に神々は誕生していた事になる。姫神無しで?と思うのだが、実は既に姫神と結びついていたのだと思う。その姫神とは、水神であったのだろう。それは菊理媛神であったのかもしれない。もしかして、他の水神であったのかもしれない。水神であるが故に、水は水神の依代である事から、穢祓そのものは水神との「目合ひ」であったのだろう。それ故に、遠野の多賀神社に分霊された祭神は、伊弉諾と水波能売命となったのだと理解できるのだ。伊弉諾は、伊邪那美と決別した後に水神と結ばれ、多くの神々を誕生させたと考えるのが本来では無かったのか。
以前書いたように、京都の宇治とは「兎路」であって、琵琶湖の桜谷で祀られていた水神の信仰が続く道でもあった。それは、伊勢神宮の宇治橋まで続く。そして琵琶湖に近似した島である淡路島の語源は阿波路であると言い、それは阿波の国に通じる道であるというが、その阿波の国の岐の神を祀る一宮を考え合わせると、そこには黄泉の国と阿波岐原の両面が信仰された現世であったのではないかと考えるのだ。(続く…。)]]>
https://www.excite.co.jp/
https://www.exblog.jp/
https://ssl2.excite.co.jp/