不思議空間「遠野」 -「遠野物語」をwebせよ!-:「遠野物語拾遺考」170話~
2021-10-15T18:16:44+09:00
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遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
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「遠野物語拾遺179(大蛇)」
http://dostoev.exblog.jp/22439710/
2014-06-30T18:57:00+09:00
2016-06-10T19:57:40+09:00
2014-06-30T18:57:02+09:00
dostoev
「遠野物語拾遺考」170話~
遠野の下組町の市平という親爺、ある時綾織村字砂子沢の山に栗拾いに行って、一生懸命になって拾っているうちに、たまらなく睡くなったので背伸びをして見ると、栗の木の枝から大きな蛇が、下を睨めていたという。たまげて逃げて帰って来たそうである。
「遠野物語拾遺179」
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大蛇と云う概念は、この現代となって世界のあらゆる情報が身近になった為か、大蛇のイメージは恐らく、動物園などで見るニシキヘビやアナコンダなどの外国産の大蛇になるのだと思う。今まで発見された最大の蛇としてはオオアナコンダが16・5メートルであるというから、ここまでくれば大蛇というより怪獣に等しい。恐らく遠野で最大の蛇はアオダイショウであろうが日本のギネスでもせいぜい2メートル。しかしその2メートルのアオダイショウでも間近に見れば大きく見えるだろうし、ましてや蛇嫌いの人間が目撃すれば、その大きさは倍以上になって伝わるのだろう。
ところでこの話は、恐らく東禅寺の開祖である無尽和尚の逸話からではなかろうか。無尽和尚が遠野に来たのは、無尽の師匠が白幡を飛ばして、その落ちた場所に庵を建てろというものだった。その落ちた白幡は大蛇であったとか白竜であったと云われるが、それを見た村人は恐ろしくで近寄れなかったという。また、東禅寺での修行から逃げ出そうとした修行僧を、無尽和尚が蛇となって驚かしたという話も伝わっている。その場所はやはり、綾織の砂子沢近辺であった。]]>
「遠野物語拾遺172(大入道の出た通り道)」
http://dostoev.exblog.jp/22178829/
2014-05-31T18:53:00+09:00
2021-01-30T20:42:48+09:00
2014-05-31T18:54:21+09:00
dostoev
「遠野物語拾遺考」170話~
遠野新町の紺屋の女房が、下組町の親戚へ病気見舞に行こうと思って、夜の九時頃に下横町の角まで行くと、そこに一丈余りもある大入道が立っていた。肝を潰して逃げ出すと、その大入道が後から袖叩きをして追いかけてきた。息も絶える様に走って、六日町の綾文という家の前まで来て、袖叩きの音が聞えないのに気がついたのでもう大丈夫であろうと思い、後を振返って見ると、この大入道は綾文の家の三階の屋根よりも高くなって、自分のすぐ後ろに立っていた。また根限りに走って、やっと親戚の家まで行き著いたが、その時あまりに走ったので、この女房は脛が腫れ上がって、死ぬ迄それが癒らなかったそうである。明治初年頃にあった話だという。
「遠野物語拾遺172」
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見出しの画像は、「遠野物語拾遺172」の話と同じ、明治初期の頃の六日町の画像となる。この画像の手前あたりから紺屋の女房は走り、だいたい150メートル程走れば、綾文の三階建ての建物の場所まで行くだろう。ただ画像を見てわかるように、道は土の道でボコボコしており、走るのにはかなり難儀しそうな道ではある。ましてや当時は靴などは無いだろうから、草履か下駄であったろう。
この話の位置関係などは「注釈遠野物語拾遺」が詳しく、新町から六日町にかけての図と、大入道の出た場所が掲載していた。また紺屋とは染物屋の事をいい、「検断勤方記」によれば新町に紺屋は四軒あったそうな。
また別の図で、大入道の出た場所を見ると対泉院という曹洞宗のお寺で、なんとなく理解できそうだ。対泉院は南部氏ゆかりの寺で、寛永四年(1627年)に、南部氏が遠野へ入部すると共に移ってきた。その対泉院に大入道が出たというのも、何となく意図的なものを感じる。
また、この「遠野物語拾遺172」は明治時代初期の話ではあるが、三階建てであった綾文の家とは、かなり珍しかったのではなかろうか。その綾文の三階建ての家の画像は、上の通りである。ただしこの画像は大正時代末期に撮影されたものであるので、その間約50年間、同じ建物であったものかは定かではない。
モノの尺度を語る場合、対比するモノを必ず入れて話すと分かり易いもの。この話でも、たまたま走って一息ついた場所が三階建ての家の前で、大入道の大きさを語るには、綾文の三階建ては格好の尺度となる。逆に言えば、それだけ当時では綾文の三階建ては有名であったという事だろう。
岩手日報社発行「いわてのお寺を巡る」で確認すると対泉院は、かなり富豊な寺院であったようだ。それもその筈か、対泉院を開基したのが南部政持(新田政持)は甲州にいた頃から南部氏の勤王、忠臣として数々の軍功を挙げたと云う。南部氏の菩提寺は大慈寺だが、それに匹敵する寄進を受けたようである。明治時代になって、南部氏の支配が終わっても、対泉院は名高い寺院であったようだ。
ところで六日町は昭和時代もそうだったが、夜になるとかなり暗く感じた通りであった。今でこそ街灯は増えたものの、女性が夜に一人で歩くには怖い思いをしたのではなかろうか。その六日町が明治の初期をイメージすれば、冒頭の画像を見てわかるように街灯は全くない。つまり、紺屋の女房は真っ暗な夜道を歩いたのか?
ただ真っ暗であれば、大入道さえ見えなかったのではと思える。つまり紺屋の女房は、手に提灯が何かを持って歩いていたと想像できる。その時、対泉院の辺りで振り返った時、そこに誰かが立っていたのではなかろうか?それは当然、紺屋の女房より背の高い男が。つまり紺屋の女房は、下から背の高い男を提灯で照らしたものだが、それが大入道に思えて逃げ出した。何故なら、お寺という死人を扱う場所で誰かに遭遇した為、気が動転したのではなかろうか。いくら高名なお寺であっても、庶民にとっては幽霊などをイメージしてしまうのが、お寺でもあるのだ。
その時紺屋の女房は慌てていた為に何かを落とし、それを拾った誰かが届けようと追いかけて来たが、余りに必死に逃げるので、その誰かは追いかけるのをやめた。つまり紺屋の女房が綾文の家に着いた頃は、当初より若干の距離が離れた事だろう。そして恐らく、紺屋の女房は手にしていた提灯を途中に落としたのでははなかろうか。地面に落とした提灯が追ってき誰かを下から照らした場合、その姿はかなり大きくなっている筈だ。これらの話のパーツを上手に組み替えて、面白恐ろしく伝えたのが、この「遠野物語拾遺172」ではなかったろうか。]]>
「遠野物語拾遺173(狐への意識)」
http://dostoev.exblog.jp/22170861/
2014-05-30T18:10:00+09:00
2014-05-30T19:21:06+09:00
2014-05-30T18:11:05+09:00
dostoev
「遠野物語拾遺考」170話~
佐々木君の友人中館某君の家は、祖父の代まで遠野の殿様の一の家老で、今の御城の一番高い処に住んでいた。ある冬の夜、中館君の祖父が御本丸から帰宅すると、どこからどこまで寸分違わぬ姿をした二人の奥方が、玄関へ出迎えに立っていた。いくら見比べてもいずれが本当の奥方か見分けがつかなんったが、家来の者の機転で、そこへ大きな飼犬を連れて来ると、一人の方の奥方は狼狽して逃げ去ったそうな。
「遠野物語拾遺173」
御城のあった鍋倉山は、昔からいろいろな動物がいた。画像は、本丸の裏側に位置する行燈堀付近で撮影した狐だが、遠野は山で囲まれている為に、いろいろな動物の通り道にもなっている。そして当然、熊も出没する。今は公園になっている場所に展望台があるのだが、ある年の早朝に管理人が行ったところ、展望台から熊が出て来た為に、今では夜に鍵をかけて、翌朝まで中には入れないようにしている。
狐に騙された話は、遠野だけでなく全国に広がり、それだけ狐が人間にとって身近な存在でもあったという事だろう。鍋倉山に御城があったとしても、城から個人宅へ行くのにも、獣は蠢き、鳥などの鳴き声は響き渡っていた筈だ。恐怖心からの妄想は、際限なく涌き出た事だろう。現代となっては狐が人に化けるという事は有り得ない事と認識されているが、どこかで狐の神秘さと恐怖さを抱いている日本人の姿を垣間見てしまう。例えば、立ちションベンが多い場所に、鳥居の絵を描いただけで立ちションベンをする者がいなくなるというのは、その典型だろう。赤い鳥居を見て真っ先に思い浮かべるのは、稲荷様である。何故なら日本で一番多い神社であり、遠野の中でも、個人の庭に稲荷を祀る家が、どれだけ多いのか。
ところで、古い地図を見るとわかるように、鍋倉山の中での中館家の下には稲荷神社がある。遠野の街から中館家へ帰るとしても、意識は稲荷へ行くのではないか。常に中館家の下に位置する稲荷であるから、中館氏の中にも稲荷であり狐に対する意識が強くなり、笑い話としてこの様な話を作ったのではなかろうか。稲荷に好かれ、狐に好かれた中館家としての話を。]]>
「遠野物語拾遺178(五郎兵衛淵)」
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2013-11-25T18:12:00+09:00
2018-03-21T12:48:58+09:00
2013-11-25T18:12:22+09:00
dostoev
「遠野物語拾遺考」170話~
橋野の沢檜川の川下には、五郎兵衛淵という深い淵があった。昔この淵の近くの大家の人が、馬を冷しにそこへ行って、馬ばかりおいてちょっと家に帰っているうちに、淵の河童が馬を引き込もうとして、自分の腰に手綱を結えつけて引張った。馬はびっくりしてその河童を引きずったまま、厩に入り、河童は仕方が無いので馬槽の下に隠れていた。家の人がヤダ(飼料)をやろうとして馬槽をひっくりかえすと、中に河童がいて大にあやまった。これからは決してもうこんな悪戯をせぬから許してくなさいといって詫証文を入れて淵へ還って往ったそうだ。その証文は今でもその大家の家にあるという。
「遠野物語拾遺178」
岩倉山を源流とする沢檜川は、透明度が高い綺麗な川だ。この五郎兵衛淵の上流には瀧澤神社の奥の院があり、伝説では鮫が川を遡って瀧澤神社の奥の院まで行ったという事であるが、奥の院にはどうやら水の女神が鎮座している。その女神に参詣する為、「肥前風土記」に記されている様に、いろいろな水の眷属が女神に参詣する為に遡上し、そして定着もしたのだろうか。
河童と詫証文の話は多々あるが、この詫証文という特異性は、どこかで熊野が発行する起請文を思い出す。まあ一般的な証文は、金銭の貸し借りでよく発生し、古文書などの殆どは、そういう金銭の証文だったりする。その証文に神威という権威付けしたのが熊野の起請文でもある。ただ大抵は、人間が神との契約を結ぶものが起請文であるが、この河童の詫証文の場合は、河童という妖怪が人間と結ぶ契約書でもある。柳田國男曰く「妖怪とは、神の零落したものだ。」という言葉が、ここで生きてくる。本来河童とは、神の領域に近い存在であろうが、零落した事によって人間の領域に近付き、その人間の作った契約書である詫証文を重要視せざる負えない河童は、哀れな存在と成り果てた。これは江戸時代になり、例えば神威のある恐ろしかった天狗などが、いつの間にか人間側に零落し、いつの間にか人間にも騙される存在になってしまった。闇の領域に棲んでいて人間を驚かせていた妖怪たちが、太平の世となさった江戸時代において闇の領域が薄れ、明るい太陽の元へと引き出され、人間と対等か、それ以下の存在に堕ちてしまったのは、逆にそれだけ日本人の学問が発達した為であるのかもしれない。
江戸時代に、江戸の商人が今の秋田県へと旅した時、行く先々で「オニが出るから気を付け為され。」と注意されたのだが「今のこの時代に、オニなぞ居る筈もない!」と完全否定していたのは、実は現代とそう変わらない時代であったような気がする。ちなみにオニとは、秋田弁による訛りであり、狼である「オイヌ」が転訛し「オニ」として聞こえたものだった。とにかく、妖怪としての権威は失墜し始めた時代の話であったろう。]]>
「遠野物語拾遺176(猫川)」
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2012-04-07T07:45:00+09:00
2020-11-13T18:51:51+09:00
2012-04-07T07:44:41+09:00
dostoev
「遠野物語拾遺考」170話~
青笹村の猫川の主は猫だそうな。洪水の時に、この川の水が高みに打ち上がって、大変な害をすることがあるのは、元来猫は好んで高あがりをするものであるからといわれている。
「遠野物語拾遺176」
猫川は10㎞ほど西の方へ流れ、早瀬川に合流する小さな川である。上流には砂防ダムによって溜まったダム湖があり、水量はまずまずといったところだろうか。ただ過去には暴れ川の異名を取ったほどで、その影響なのか「遠野物語拾遺176」には、洪水の話が語られている。
しかし正保四年(1674年)の「新谷御番所文書」には「左比内川(さひないがわ)」と記されている。この猫川が流れる地域を佐比内と呼ぶ事から、本来は左比内川であり、後に猫川になったのかもしれない。しかし、いつの頃に猫川となったのか定かでは無い為、もしかして以前は猫川であったのが復活した可能性も、また否定できない。
ただ、この地域には猫に関する伝説を発見する事が出来ないでいる。ただ可能性が一番高いのはやはり、鉱山に関する呼び名から猫という名が付けられたのだと考えている。
柳田國男「桃太郎の誕生」に、「但馬國養父郡に養父水谷大明神があり、この末社について、鈴鹿翁の神社覈録から但馬考を引用して、次のようにある 「末社三座あり、末社のうち山口神社を、俗に狼の宮と称す。麋鹿の田畝を害する時これを祈る。加地屋敷は猫の宮と云ふ。鼠の蠶を害することを防ぐ。」とある。
加地は鍛冶でもあるので、それが猫の宮と呼ばれるのなら、やはの金属系、鉱山系と猫は結びつくのだと思う。実は、有名なネコババという言葉が、やはり製鉄系に関する逸話から来ている。
「ネコ流し」というものがある。「ネコダ」と呼ばれるムシロのようなものをを川や水路に敷いて置き、その上に砂金や砂鉄などが混ざっている泥を流すと、泥だけは流れ、重い金や砂鉄はネコダに付着するというもの。これをネコ流しと呼ぶのが、いつしか省略されて「ネコ」と呼ぶようになったという。このネコを管理するのが大抵老婆であったのだが、佐渡金山などで、そのネコを管理する筈の老婆が金を盗む事がままあった為、いつしか"ネコババ"と呼ばれるようになったという。
では何故「ネコ」という呼称が登場するのかだが、若尾五雄「黄金と百足」では、糠、奴可など「ヌカ」の付く地名が転訛して「ネコ」になったのではないかと推測している。それだけ、猫と鉱山は結びついているからであると。先程の「ネコ流し」において泥を流すのだが、その泥を「ヌカ」とも呼んだ事から、鉱物を含むモノを「ヌカ」であり「ネコ」と呼んだと考えられるようだが、断定はできないようだ。
だいたい猫が初めて日本に輸入されたのは、仁和元年(885年)唐から輸入された黒猫を宇多天皇が飼ったのが始まりとされているが、それ以前に「日本霊異記」に、死んで猫になった話が紹介されている。しかし「古事記」や「日本書紀」には猫の記述が無い事から、タタラが普及して、かなり時代が過ぎてから猫が日本に登場した事になる。それ故に、日本の古来からの文化であるタタラに、後から登場した猫が何故に結びついたのか、その辺が謎となる。
山伏の使う鉱山用語で「ネ」は「山根、磐の根、鉱脈」を意味する。「ネコ」にあてる漢字には「根古」「根子」などとあるが、動物の猫はネズミを捕るからネコと呼んだ説の他に、いつも寝ているから、寝ている子供と同じだという事で「寝子」とも云われた。鉱脈、鉱物は、土の下で寝ているものであり、「根古」という表記はまさに古くから土の下に寝ているものであり、動物の猫の意味に重なってしまう。化け猫の伝説の中に、風や金属などが含まれるというのは、恐らくタタラと結びついての事だと思う。
そしてだ、猫川の上流には佐比内鉱山が古くから栄えている。つまり猫川という名称はやはり、鉱山と結びついた為に付けられた名だと思う。暴れ川として猫と結びついたのは恐らく、化け猫に対する霊性が付随してのものでは無かっただろうか。]]>
「遠野物語拾遺175(猫の価値)」
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2012-01-17T05:30:00+09:00
2021-06-04T05:52:32+09:00
2012-01-17T05:30:11+09:00
dostoev
「遠野物語拾遺考」170話~
明治になってからも、町にはこんな事件があった。下組町の箱石某という家の娘が、他家に縁づいて子を産んで死んだので、可愛そうに思ってその子を連れて来て育てていた。ある晩いつものごとく祖父が抱いて寝たのが、朝起きて見ると、懐に見えず、あたりを見廻すと座敷の隅で死んでいた。よくよく見ると家に飼っている虎猫に、喰い殺されていたのであった。それを警察へ連れて行って殺して貰おうとしたが、どこへ逃げたか行方知れずになった。後に愛宕山で見かけたという者もあったが、勿論二度とは姿を見せなかった。
「遠野物語拾遺175」
とにかく「遠野物語拾遺174」で書いたが、猫が人を襲うという事は、化け猫の伝説意外に無いのが実情。ただ唯一昭和43年に富山県で、野生化した虎猫に人が襲われるという事件があった。当初は山猫と思われたようだが、実態は飼い猫が野生化したものだったらしい。この昭和43年という時代の天候を調べてみないと何とも言えないが、例えば今から10年前くらい、北陸方面に台風が頻繁に襲った時があった。その為にストレスと山の餌が無くなった為に、里に降りてきた熊の被害が、過去最多だった時があった。要は、餌が無いと野生の生き物は気が立つのだ。当然、飼い猫であっても餌が無ければ気が立つ。ましてや元飼い猫であれば、恐らく山に捨てられたであろう猫は、人間に対して不信感を持っていたのかもしれない。
そしてもう一つ、虎猫は凶暴だという口承伝承がある。これは何故かというと山猫の伝承の殆どが虎猫の為であったようだ。実際に離党の野生猫は虎猫である。そして、北陸にはかなりの山猫の伝承がある。先程紹介した昭和43年の、元飼い猫に襲われた事件があったが、それも当初は山猫伝説は正しかったのか?と地元民は、思っていたらしい。しかし、こういう事件がある為なのか、今でも虎猫は凶暴であるという認識を持っている人はいる。話は違うが、ある実験で他の猫がいる中にペルシアネコを放したところ、他の猫達が逃げたというのを聞いた事があるが、確かに猫の種類によって凶暴な種というのはいるのかもしれない。しかしそれでも飼い猫が自ら進んで家の家族を襲うという事は無い。ただ、個人的に嫌われる人はいるだろうが(^^;
ところでネズミが赤ん坊を噛み殺して、そのネズミを捕まえようとしたところを家の者に目撃されて、猫の仕業になった事件があった。似たような話で、サソリに刺された男が、ふと目にしたのは大きなタランチュラで、サソリでは無くタランチュラに刺されたと思い込み、タランチュラとは怖いものだという話が全世界に広まった事実がある。そういう意味で考えると、子供を噛み殺したのはネズミではなかったのか?
「甲子夜話」には、こう書かれている「奥州は養蚕第一の国にて、鼠の蚕にかかるを防ぐとて、鼠を殊に選ぶことなり。上品の所にては、猫の価金五両位にて、馬の価値は一両なり。」とある。通常であれば南部駒は名馬が多く、猫よりも価値は高いのだが、その馬産と共に重要な産業であった養蚕が、あまりにも鼠による被害が多い為に一時期、猫の価値が上がったらしい。
鼠は寺などの経典をも食い荒らすなどし、様々な場所でかなりの被害をもたらしたようだ。その為なのか、妖怪「鉄鼠」なるものも生まれたのかもしれない。とにかくネズミも猫も肉食ではあるが、飼わわれている猫というものは、餌をくれる飼い主と、その家族を覚えているもの。ただし猫を乱暴に扱う者に対しては、その者を避けるきらいがあるが、自ら進んで攻撃をしかける事は無いものだ。それ故に、この「遠野物語拾遺175」における子供を噛み殺したモノは、猫では無く鼠では無かっただろうか?]]>
「遠野物語拾遺174(猫又)」
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2012-01-16T06:07:00+09:00
2015-05-11T16:27:29+09:00
2012-01-16T06:07:43+09:00
dostoev
「遠野物語拾遺考」170話~
遠野の家中の是川右平という人の家で、冬のある晩に主人は子供を連れて
櫓下の芝居を見に行き、夫人はただ一人炉傍で編物をしながら留守をして
いると、その側にいた虎猫が突然人声を出して、奥様お退屈でしょう。今
旦那様たちが聴いてござる浄瑠璃を語って聴かせますべといって、声も朗
らかに、ひとくさり語った。そうしてこの事を誰にも話すなと念を押して、
主人の帰って来た時には、何くわぬ顔をしてネムカケ(居睡)をしていたと
いう。
成就院という寺の和尚は是川氏の某友だちであった。ある時やって来て話
をしているうちに、主人の側にネムカケをしている虎猫を見て、おやこの
猫だ。先だっての月夜の晩に、おわ方の庭へ一疋の狐が来て、しきりに踊
りを踊りながら、どうしても虎子どのが来なけれゃ踊にならぬと独り言を
いっていた。そこへ赤い手拭を被って虎猫が一疋、出かけて来て二疋で踊
った。しまいには今夜はどうも調子がなじまぬ。これで止めべといってど
こかへ行ったが、それが確かにこの虎猫であったと話した。
その夜和尚が帰った後で、奥様は先夜の浄瑠璃の話を主人にしたそうであ
る。そうしたらその翌朝、いつ迄も起きて来ぬので主人が不審に思って見
ると、その奥様は喉笛を咬み切られて死んでいた。虎猫もまたその時から、
出て行って帰って来なかったという。今から八十年余りも前の話である。
「遠野物語拾遺174」
日本の古来から伝わる殆どの猫のデータを集めた、平岩米吉「猫の歴史と奇話」を読んでも、猫が人間を噛み殺したという話は載っていない。ただ化け猫となって、主人の復讐を遂げた話は、かなり存在する。
これは漫画だが、猫が人間を襲う話は、美内すずえ「金色の闇が見ている」がせいぜいだろうか?また西洋でも猫に対する信仰や崇拝はあったが、その中に虎やヒョウにライオンなども猫として扱われていた為、人間を襲う話はある。しかし飼い猫が人間を襲う話はまずない。
日本国内で、猫の伝承を調べると、一番多いのが熊本県となる。その熊本県には根子岳(猫岳)という山があり、猫の修行場であるという伝承を伝えている。根子岳に棲む猫の大王は大きな黒猫であるといい、修行に来た猫達に三日三晩稽古をつけてくれるのだと。修行する猫の大抵は肥満猫だが、7歳を超えた猫なども来るというので、ある意味猫又になる為の修行か?修行の後は痩せて帰って来るというのだが、その帰ってきた猫の傍には、決して"赤ちゃんを寝かせない"という言い伝えが 残されている。「遠野物語拾遺175」には、子供を食い殺した猫の話が紹介されているが、この熊本の伝承と何ら関連があるのかもしれない。何故なら、遠野の大半を示す菊池の家系は、九州の熊本から来たと云われるからだ。
また「遠野物語拾遺174」を猫では無く、遊女として考えるとどうであろうか?狐と言うと大抵は、女に化けるというのが古代から伝わっている俗信であるが、江戸時代になると幕府公認の娼婦を「狐」と呼ぶのに対し、町場にうろついているいる娼婦を「猫」と呼んだという。
その中で寺院の境内で商売する娼婦を「山猫」と呼んでいたようだが、京都の東山にいる娼婦もまた「山猫」と呼んでいたようだ。西洋に目を向けても18世紀のヨーロッパでも娼婦を「キャット」と呼び、売春宿は「キャットハウス」と呼ばれていた。これは発情期などの猫が、夜を彷徨い雄猫を呼び込む習性からきているようだ。「泥棒猫」という呼称も、物を盗むというより、男を誘惑し奪うという意味合いからの「泥棒猫」であって、どうも娼婦のイメージが猫から離れない。
話は飛んでしまったが遠野の鍋倉山に南部城があり、その山並びに成就院という寺があった。その山寺ともいえる成就院に出没する虎猫を、山猫、つまり娼婦…というより、遊女と捉えれば、遊女は浄瑠璃などの芸能にも長けていた事から、どこかしっくりとくる。遊女と呼ばれる白拍子などは、全国を巡り、その合間で男の相手をした。そしてある地に辿り着くと、どこぞの家にも厄介になったりしたという。遊女との刃傷沙汰の映画もあった事から、「遠野物語拾遺174」の物語を遊女に置き換えても、何等問題は無いのだろう。
ところで吉田兼好「徒然草 第八十九段」には「奥山に、猫またといふものありて、人を食らふなる」と人の言ひけるに…と始まるように、この時代では猫又とは、人を食うものと信じられていたようだ。
ウィキペディアで猫股を調べると、奥山に棲む猫又と家に飼われていて、年老いて尻尾が二股になって猫又になったものがいるという。猫又に対する恐怖は、庶民の間で続き、猫又にならないよう生まれた子猫の尻尾を切って来た歴史がある。その俗信が何世紀にもわたって続いた為に、日本猫の特徴に短尾というのも、日本人が尻尾を切ってきた事により、遺伝子に組み込まれた為であったようだ。
何故に、ここまで猫は恐れられたのかを考えると、やはり夜の巷を闊歩する猫に恐怖を感じたのだと思う。夜というモノは、人では無いモノの蠢く時間帯でもある。発情期になると、夜の夜中に不気味な鳴き声をあげる猫は、恐ろしくもあったのだと考える。そして猫の目の変化だ。昔は、猫の瞳の変化は時を知らせるものとして信じられてきたようだ。そして、それはどうも猫の瞳に月が宿っているものと思われた節がある。日本の古来は太陽暦では無く、太陰暦であった。月に関する神秘の伝承はあるが、太陽が昼なのに対し、月は夜を司る象徴でもある。その人で無いモノが蠢く夜を支配する月が、猫の瞳に宿るとなると、それはもう人知を超えた神に近い存在ともなる。
ましてや猫の語源の一つに、昼間に寝ているばかりなので寝る子と書いて「寝子」ともいうが、熊本の根子岳の名称は、根の国の子である猫ともなる。それはつまり、スサノヲがイザナミのいる根の国に行きたいと駄々をこねた、黄泉の国ともなる。山中他界という言葉は、ひとえにこの世では無い黄泉の国を意味する言葉だが、猫股が奥山に棲むというのはつまり、人の棲む世では無い、黄泉の国という事となる。ローマ神話において、月の女神は優しいダイアナと復讐の女神ヘカテと、二面性を表す。猫にも月の女神と同じように、昼の顔と夜の顔があるように二面性がある事から、確かに猫の瞳に月の属性を宿していても違和感はない。これらから考えても、猫はじゅうぶん人間にとって恐怖の存在に成りえたのだと思う。]]>
「遠野物語拾遺177(大牛)」
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2010-12-11T19:36:00+09:00
2021-01-02T14:23:51+09:00
2010-12-11T19:36:21+09:00
dostoev
「遠野物語拾遺考」170話~
小槌川の明神淵であったかと思うが、その近所に毎晩大牛が出て、畑の麦を食ってならなかった。畠主が鉄砲を打ちかけ、打ちかけ追って行くと、その牛は淵の中にざんぶりと水音を立てて入ったまま、見えなくなったという。
「遠野物語拾遺177」
この物語は、単なる大きい牛が出たのか?という話に終わりそうだが、最後は淵の中に入って見えなくなるという、所謂水神系に近い話で終わっている。元々牛の角の形は三日月をイメージされたようで、月の信仰と結び付いていた。
牛鬼というものがいる。牛鬼は、水から現れる妖怪というか化け物だ。この牛鬼はどちらかというと西の方面に出没しているのだが、そのモデルはカモシカであるという。東北でのカモシカは珍しくないが、西日本でのカモシカは珍しいらしく、それが妖怪に結び付いたという事だ。
そして気になるのは、やはり六角牛山の存在であろう。六角牛の本来は、住吉神を祀っていた。住吉神に結び付くのは、神功皇后である。「備前国風土記」には、神功皇后の船が瀬戸内海を渡っている土岐、海から突然大牛が現れ、神功皇后の乗っている船を転覆させようとしたが、神功皇后の守護神である住吉神が翁の姿で現れ、その大牛を投げ転ばしたという。今でいうところのウルトラマンみたいな存在が、住吉神であった。その住吉神を祀っているのが六角牛山。その六角牛の峰続きに進めば、この「遠野物語拾遺77」の舞台である明神淵に辿り着く。
明神淵は流れが緩やかな、神秘的な淵だ。この小槌側沿いには、いくつもの深い淵が点在する。その中の一つ”明神淵”に、何故に大牛の物語が簡単に紹介されているのか?想像するに、これは一つの物語の断片のような気がする。奇妙な事に、東北にもいくつか神功皇后の話が流れつき定着している地域がいくつかあるが、この物語も、その断片では無かったろうか?何故なら小槌地域にも、六角牛を祀る石碑があるからだ。この小槌においても、六角牛は信仰の対象であったのは、六角牛に祀られている住吉神の神徳が大きいからだろう。]]>
「遠野物語拾遺170&171(ノリコシ)」
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2010-12-04T11:34:00+09:00
2021-10-15T18:16:44+09:00
2010-12-04T11:34:58+09:00
dostoev
「遠野物語拾遺考」170話~
【金子富之氏幻想作品】
ノリコシという化け物は影法師の様なものだそうな。最初は見る人の目の前に小さな坊主頭になって現れるが、はっきりしないのでよく視ると、その度にめきめきと丈がのびて、ついに見上げる迄に大きくなるのだそうである。段々に下へ見下ろして行けば消えてしまうものだといわれている。
土淵村の権蔵という鍛冶屋が、師匠の所へ徒弟に行っていた頃、ある夜遅く余所から帰って来ると、家の中では師匠の女房が燈を明るく灯して縫物をしている様子だった。それを障子の外で一人の男が隙見をしている。誰であろうかと近寄って行くと、その男は段々と後ずさりをして、雨打ち石のあたりまで退いた。そうして急に丈がするすると高くなり、とうとう屋根を乗り越し(ノリコシ)て、蔭の方へ消え去ったという。
「遠野物語拾遺170」
この権蔵は川狩の巧者で、夏になると本職の鍛冶には身が入らず、魚釣りに夢中であった。ある時山川へ岩魚釣りに行き、ハキゴ一杯釣って、山路を戻ってきた。村の入り口の塚のある辺りまで来ると、草叢の中に小坊主が立っているので、誰であろうと思って見ると、するすると大きくなって雲を通す様に高い大入道となった。驚いて家に逃げ帰ったそうな。
「遠野物語拾遺171」
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「遠野物語拾遺172」にも、遠野新町に現れた大入道の話が紹介されているが、この影のような黒いモノに遭遇している話しの殆どが、土淵村の権蔵という男に限定されている。ノリコシに似たような大入道系の話は、全国に沢山広まっているが、ノリコシが影のようなものであるならば、その色は黒では無いかと考える。
「遠野物語拾遺170」で権蔵がノリコシに遭遇したのは、夜である。また、「遠野物語拾遺163」で黒いものに突き飛ばされたのも、夜である。夜の闇というのもあるのだろうが、もう一つ、黒色に関連するものがある。それは死体を意味する黒不浄だ。「遠野物語拾遺163」では葬式の晩の話しであり「遠野物語拾遺170」では、権蔵の職業は鍛冶屋であると示されている。昔は人の死を穢れとして
扱い、それに黒色をあて黒不浄として古来から呼ばれていた。
昔、死体は穢れるもので、誰もその死体に触れて供養するという事の無かった時代があった。当然、葬式という概念は無く、平安末期にやっと浄土宗の坊さんが死体に向かって手を合わせるようになり、死体を弔う風習が確立されてきたのだという。
それとはまた別に、権蔵の職業は鍛冶屋だという。鍛冶屋といえば、金屋子神を祀る信仰があった。金屋子神は、死体を好むからなのだそうだ。古来のタタラ筋は、死体を忌み嫌ってはいなかった。死体やドクロを、炉の傍らに祀ると湯の湧きが良いと信じていたようだ。熊野修験の言葉に「死んだら金になる。」という言葉があるのだが、これは仏陀の教えからは"外道"と呼ばれる「アララキ」が熊野に入っていたからだといわれているかららしい。
ではこの「アララキ」とは…例えば、石見神楽の演目に「八幡」というのがあり、異国より飛来した自在天である第六天を筑紫の八幡麻呂が退治するというもの。また別の演目に似たような筋立てで「弓八幡」というのがあり、ここに登場する魔王は「塵輪(じんりん)」となっている。この「塵輪」は「八幡愚童訓」によると「形は鬼神の如し、身の色赤く、頭は八にして黒雲に乗り、虚空を飛行して日本に着き、人民を取殺す…。」と。まるでヤマタノオロチぽいが、石見神楽では「アララキの里に棲む鬼」と表現している。
そしてこの「アララキ」とは何ぞや?と調べると「第六天信仰」となってしまう。つまり第六天魔王は「阿羅邏鬼(アララキ)」であり、それを祀るのは三宝荒神となってしまう。アララキの元は「阿羅邏伽羅摩」であって、仏陀の悟りを開く前の教えを広めたものであり、仏陀はこれを受け入れなかったのだとか。なので阿羅邏仙人と呼ばれるのは、仏陀側の立場になると外道仙人と呼ばれたそうな。
しかし、この教え云々より阿羅邏外道仙人には、医術も含め、その当時の高等な製鉄技術有していたのだと。しかし何故仏陀がこれを否定したのかというと、この古代製鉄文化の最秘奥義は「自ら灼熱の熔鉄に身を投じる」というものらしい。なので仏陀は否定し、受け入れなかった。
ところでパーリー語というのがあって、その言葉に「タッタ」というのがあり、これは「熔鉄」の意味があるのだとか…この言葉は殆どタタラに近い。話しはかなり外れてしまったけれど、とにかくタタラ筋は黒不浄を呼び込む存在。権蔵の見たものは定かでは無いが、これら一連の物語に現れる影のような怪物は、人の死という黒不浄を呼び込んだものを具現化した形で語られた可能性があるのではと考えてしまう。この話しを伝えたものは、権蔵本人なのか、それとも権蔵を知っている者が、その権蔵に関するイメージを伝えたものなのか。]]>
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