不思議空間「遠野」 -「遠野物語」をwebせよ!-:「遠野物語拾遺考」70話~
2022-06-20T12:42:47+09:00
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遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
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「遠野物語拾遺76(オシラ神の名と形)」
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2015-11-10T22:20:00+09:00
2022-06-20T12:42:47+09:00
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「遠野物語拾遺考」70話~
神の数は伝説その他から考えて、当然に二体であるべきであるが、四体または六体の例も稀では無い。気仙の盛町の近在には、十二体のオシラサマを持つ家もあるといい、二戸郡浄法寺村の野田の小八という家では、オシラは三体でその一つは小児の姿であるという。しかし普通には村々の草分け、即ち大同と呼ばれる家のものは二体であるらしい。そうするとあるいは家を分けて後に出た家だけが、何か理由があって新たにその数を加えたものでは無かったか。土淵村五日市の北川氏は、今は絶えてしまったが土淵の草分けと伝えられていて、この家のオシラサマは二体であった。その分家の火石の北川家では四体、そのまた分家の北川には六体であった。その形像も火石北川の本家の四体にには馬頭のものも交っているが、分家の六体はすべて丸顔である。田の代掻きの手伝いをしたという柏崎の阿部家のオシラサマは四体であった。一体は馬頭で一体は烏帽子、他の二つは丸顔である。長はいずれも五、六寸で、彫刻は原始的だが顔に凄味を帯び、馬頭などはむしろ竜頭に似ている。
「遠野物語拾遺76」
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佐々木喜善「遠野のザシキワラシとオシラサマ」を読むと、あらゆる事例が記されている。この「遠野物語拾遺76」に書かれている、数に関する話で気になったのは、気仙郡の鈴木家に伝わるオシラサマであり、祖父の代6体であったのが、父の代になって一体増やしたとある。その理由は"巫女以外の者には解き得ぬ事である"と結んでいる。つまり、増やすのは巫女・・・ここでは家巫女として存在した、祖母の事であろうか。ただ、衰退した家運の家では、オシラサマを増やす事は無かったようである。
また、この「遠野物語拾遺76」では、「草分け、即ち大同と呼ばれる家のものは二体であるらしい。」とは書いているが、佐々木喜善によれば、大同の家にはオシラサマは無かったが、山崎の作右衛門という人の家から別れて、大同の家にオシラサマが来たという事らしい。となれば「遠野物語24」において、大同家の初めが坂上田村麻呂時代なのか、それとも南部時代なのかという歴史の混同の帰結が、どうも南部時代になりそうである。ただオシラサマの歴史がどれだけ遡るかはよくわからぬが、佐々木喜善の意見に何となくだが、納得出来るものがある。佐々木喜善は、オシラサマをアイヌの信仰からきている説を唱える学者に対し、こう言い放っている。
「我等が家には先祖代々の遠い昔から、この神があったのである。そして又我等の祖先の人達は、勿論これはアイヌの神の名残であるなどとは信じなかった。アイヌとは犬の事だと思ったり、犬と人間の合いの子だと考えていたり…。」
アイヌとエミシの混同は、未だに決着をみていない。ただエミシであろう奥州藤原氏のミイラのDNAを調べると、アイヌとは違っていたようだ。しかし、東北に拡がるアイヌ語地名から、アイヌがかって住んでいたとされる為、エミシとアイヌはどこかで繋がっていたのではないかとされている。また「古事記」の一文が理解不能であったのが、アイヌ語で訳して、やっと理解出来た事例もあった。ただ遠野という閉ざされた田舎は、口承伝承の存在は大きかった。現代とは違い、その土地に長く住み続ける事、その血を代々繋げ続いている事が自負でもあった時代、祖先から伝わるのは家系の矜持でもあった。つまりオシラサマを信仰し続けた事が、祖先の継承であり矜持であると思って良いだろう。そこにはアイヌという言葉が微塵にも入る込む余地は無いと思える。確かに、アイヌという知識が無い者が、突然"アイヌ"という言葉を聞いて「犬?」と思うのは自然な事ではなかろうか。
また佐々木喜善はオシラサマについて、こうも語っている。
「あったから祭っているという方がこの神の素質には自然であり、かつ遠い起源を自ら物語っている。何所に行っても我々が祀り始めたとは言わぬ。」
遠野には、ヒョウハクキリ(ホラ吹き)などが大勢いたという。そういう中で、ありもしない話を自慢げに話す輩が多かった時代でありながら、ことオシラサマに関しては、決して「我が家がオシラサマの起源だ!」などと語る者が無かったというのは、それだけオシラサマが崇敬され、また恐れられていた証ではなかろうか。実際に、喜善の親類の子供は、年頃になるまでオシラサマが奥座敷に居る為、怖くて奥座敷に行けなかったと。また、何も知らない者でさえ、オシラサマがいる奥座敷へ行くと寒気がしたという。そして喜善自身もまた、昼間でも気味が悪くて行けなかったと述べている。これは、オシラサマが様々な御利益の神であるとされているが、その本質が祟り神である事を裏付けているのではないか。
奥羽では、概ねオシラサマは桑の木で作られた男女二体の像であるようだ。ただ、他の材質で作られたオシラサマもあるようだが、喜善は大同のオシラサマを見ている時、その家の巫女婆様が、この神は桑の木で作ったものだと言いながら、よく見ると杉か檜の材で作ったものであった事を報告している。やはり、本来は桑の木で作る事を基本としているのが真実なのであろう。その桑の木に関しての俗信は、旧暦6月1日に桑の木の下に行くと、人間は蛇の様に皮がムケ返るといって、その日は決して桑の木の下に行かなかったという。雷除けにもなった桑の木であるが、雷そのものが蛇であると伝えられている。古くは「日本霊異記」で少師部栖軽が雄略天皇に命ぜられ、雷神を捕まえたその姿が、目が赤カガチに輝く蛇体であった。雷が蛇神であるなら、桑の木もまた蛇神と繋がる樹木と考えて良いだろう。つまり蛇神=雷は、桑の木を忌み嫌うのではなく、庶民将来の様な護符と同じ意味だと考えるべきだろう。実は、オシラサマの伝承に、意外なものがあった。不動の変形をオシラサマとして崇敬し、その神体は桑の木で作るものだとされている。その不動は阿遮羅であるから、アシャラ尊がオシラサンとして祀られたというものだ。姉崎正治「中奥民間の信仰」には、「阿遮羅尊、即ち不動なるも、オシラサンとして祀れる者は、不動と同一なる事を知らざるなり。」という。不動は水との縁が深く、水神としても祀られている。水神の大抵は蛇神である事から、オシラサマという語源がアシャラソンから来ていたとしても不思議では無いかもしれない。ただどうしてもオシラサマは、女の手で綺麗な布を着せられ、白粉を塗られる事から、蛇神は蛇神でも、女神であるのだと理解できるのだが…。
オシラサマの顔が、姫頭、馬頭、烏帽子、鳥頭、など様々あるが、佐々木喜善は暗示を受けたモノの形を彫刻して持つようになったのではとしている。実際に、菊池長四郎という男が初めて馬頭のオシラサマを見て、狐頭であるとずっと信じていたそうである。また、オシラサマはお知らせする神であるから、時を知らせる鶏もまたオシラサマであるとして、鳥頭が作られた可能性に言及している。ただ原初はやはり、姫頭と馬頭では無かったか。これはどうしても、今でも語られるオシラサマの話になってしまうが、本来は白馬に乗った女神を表したのが、オシラサマの原型である気がする。この辺は、別の機会に書く事としよう。]]>
「遠野物語拾遺78(縄文の女神)」
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2015-11-08T19:06:00+09:00
2020-06-24T06:35:26+09:00
2015-11-08T19:06:42+09:00
dostoev
「遠野物語拾遺考」70話~
オシラサマは決して養蚕の神としても祭られるだけでは無い。眼の神としても女の病を禱る神としても、また子供の神としても信仰せられている。遠野地方では小児が生れると近所のオシラサマの取子にして貰って、その無事成長を念ずる風がある。また女が癪を病む時には、男がこれを持ち込んで平癒を祈ることもある。二戸郡浄法寺村辺では、巫女の神降しの時にもこれを用いるそうだが、同じ風俗はまた東磐井郡でも見られる。
「遠野物語拾遺78」
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取子は、注釈によれば「呪術的親子関係ともいうべきもので、生まれた子の無病息災を願って山伏や巫女などの仮親となってもらい、その呪的霊力を得ようとするものである。ここでは、オシラサマが仮親となり、生まれた子はオシラサマの取子となるわけである。」これは昔、民間療法しか無い時代、子供とはすぐに死ぬものだと思われていた。その為に、生まれた我が子を死なせたくない親は、神仏への祈願や、呪術に頼らざる負えなかった。男に女の名前を付けるのも、女の方が強く、生き残る率が高かった事からきている。「南総里見八犬伝」に登場する犬塚信乃(しの)もまた、女の名を付け生きる事を願った呪術であった。
ところで、養蚕とは女の仕事であった。「日本書紀(継体天皇元年)」に「女年に富りて績まざること有るときには、天下其の塞を受くること或り。」とあるが、要は女性が養蚕をしないと天下は凍えてしまうという事。つまり、養蚕という女性の仕事の奨励である。また取子にしてもそうだが、これは母性を訴えてのものだと理解する。烏帽子や丸顔、馬頭など、オシラサマにはいくつかの顔があるが、これらオシラサマの神性は、どう考えても女神である事が前提であるようだ。
金子裕之「日本の信仰遺跡」で、出土する土偶を調べていると形だけでなくキラキラ輝く雲母を意図的に付けてあったり、黒光りするまで磨き込んでいたり、赤彩を施していたりするのは、呪術的意味合いより、オシャレ感覚からだろうと述べている。また、土偶の両耳、両胸、ヘソの部分、そして頭に孔があけられているのは、仮面を含む装飾を施す為のものだろうと。そして金子氏は、この様な土偶を見て連想されるのは、オシラサマであると述べている。
「現代の民俗例であるオシラサマには、仏教など、その後の時代の要素が多数混入している。しかし、それらを取り除き、土偶の出土状況や形態に見られる要素を重ねてみると、縄文時代の土偶の祭が彷彿とあらわれ出るようだ。」
縄文時代には、共同体に土偶をめぐる女性中心の祭祀があったという説がある。オシラサマもまた、女性中心の祭祀である事を踏まえれば、確かに縄文の女神である土偶とオシラサマは、どこか重なってしまう。神の神託を受けて来たのが巫女の歴史でもある。古墳時代の埴輪には、巫女像が出土し、神話には巫女の族長が登場し、大化の改新前後から奈良時代にかけて女帝が相次いでいるのは、巫女という女性を中心とした祭祀があった歴史の名残だと思う。その女性を中心とした原始の形態を引き継いだのがオシラサマ信仰であったとしても、何等不思議は無いだろう。俗に、男神は磐座に降臨する。女神は樹木に降臨するとも云われる説がある。完全に同意は出来ないが、確かに樹木に降臨した女神の例はいくつかある。
また伊勢神宮の心御柱の祭祀には禰宜も関与出来ないのだが、それが出来るのは、度会一族から選ばれた大物忌という童女だけであるという。そしてこの祭祀には、度会と多気の両神郡から持って来た榊で宮を飾らなければならないのだと。では、何故大物忌でなければならないのかとされる理由は、その心御柱の神が祟る恐ろしい神であるからだと。大物忌とはあくまで神を世話する存在であるが、その童女の年齢はまだ人間になりきっていない七歳までの神の子である童女であり、神が女神であるからこそ、同性である童女が世話をするのである。恐らく心御柱も、縄文の祭祀を引き継いだものではなかったか。そして、それも含めオシラサマもまた、縄文の女神祭祀を樹木に置き換えて引き継いだものであろうか。]]>
「遠野物語拾遺73(呪い返し)」
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2014-11-19T18:08:00+09:00
2019-12-04T10:43:19+09:00
2014-11-19T18:08:28+09:00
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「遠野物語拾遺考」70話~
この祭が終ると、すぐに三峰様は衣川へ送って行かなければならぬ。ある家ではそれを怠って送り届けずにいた為に、その家の馬が一夜の中にことごとく狼に喰い殺されたこともあったという。
「遠野物語拾遺73」
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この三峰様の風習は、ある意味呪詛である。これは三峰様を通して、受けた不遇を取り戻す術と考えて良いだろう。俗に「呪い返し」とか、もしくは諺に「人を呪わば穴二つ」という言葉が示すように、呪詛を施した場合、何か不具合が生じれば、自分に返ってくるものである。
また「送り狼」という言葉があるが、これは狼のテリトリーに入ったモノを狼は好奇の目で観察し、その対象が敵意が有るか無いかを確認する為、その狼のテリトリーを出るまで付いて回る事を云うようである。つまり、衣川から運ばれて来た三峰様の御眷属様の仮のテリトリーが、運んできた者の家が中心となるという事。御眷属の狼一匹で五十戸まで守護すると云われる事から、運ばれて来た御眷属様のテリトリーは村全体を覆うという事になる。その狼である三峰様は、人の穢れを忌み嫌う。嘘を吐く、約束を守らない事が狼のテリトリー内で行われたのならば、それに対して大神(狼)としての報復が、呪い返しの様に、飼っていた馬が一夜のうちに全て喰い殺されたのだろう。
まあ実際、今まで山の奥で餌となる野生の動物を捕食していた狼が狂犬病に侵されてから、いつしか人間や家畜を襲うようになった。この「遠野物語拾遺73」の時代には既に狼は狂犬病にかかっていたのであろうから、御眷属様を連れてきた事と、狼に家畜が襲われたのが偶然重なったと思うのだが、それでも結局人の心に残るのは、狼であり三峰様という大神の恐ろしさであったのだろう。]]>
「遠野物語拾遺72(狼の権威)」
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2014-11-18T08:39:06+09:00
2014-11-18T08:39:19+09:00
2014-11-18T08:39:19+09:00
dostoev
「遠野物語拾遺考」70話~
字山口の瀬川春助という人も、それより少し前に、浜へ行って八十円の金を盗まれた時、やはりこの神を頼んで来て罪人がすぐに現われ、表沙汰にせずに済んだ。明治四十三年に字本宿の留場某の家が焼けた時には、火をつけた者が隣部落にあるらしい疑があって、やはり三峯様を頼んで来て両部落の者が集まって祭をしたが、その時は実は失火であったものか、とうとう罪人が顕われずにしまった。
「遠野物語拾遺72」
山に囲まれた遠野盆地には昔、多くの狼がいた。その主だった場所が、沿岸域に属する五葉山周辺であった。それは、その当時の鹿の生息数日本一であったのが、その理由となる。鹿は、沿岸域の天候が荒れれば、遠野側に移動し、それを狼が狙った。雪が苦手な鹿は、冬場は沿岸域へと移動し、それと共に狼の群れも移動した。つまり、狂犬病が流行る以前の狼とは、山の奥に棲み、鹿などを捕食している山の主であり、山神の使いでもあった。この話の様に狼を恐れたのは、狼そのものだけではなく、背後にいる山神の存在が大きかったのだと思う。嘘や盗みなどの人の穢れを忌み嫌う狼というのも、ひとえに早池峯の神が穢祓の神であり、それを重ねたのだろうか。
稲荷の眷属が狐であり、その狐の姿に五穀豊穣を見た様に、狼もまた山神の厳しさと恐ろしさを反映させた為、尋常小学校の教科書にも「嘘をつくな!」の言葉と共に、狼に追われる子供の挿絵が使用されたのは、狼が絶滅しても尚、狼の神性が失われ無かった証であろう。
ところで「注釈遠野物語拾遺」によれば、盗まれた80円という金額は、大正元年当時の日雇い労働者の賃金が1日48銭、大工の手間賃が1円18銭であったので、現在の貨幣価値に計算すれば100万円程になる大金のようである。となれば必死になるのは当然なのだが、明治時代であれば警察もあっただろうに、それよりも昔から信じられていた衣川の三峰様の御眷属をわざわざ遠野に借りてきたというのも、迷信がまだまだ横行していた遠野であったという事なのだろう。]]>
「遠野物語拾遺70(化け栗の正体)」
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2014-11-17T17:59:00+09:00
2017-12-13T10:05:38+09:00
2014-11-17T17:59:54+09:00
dostoev
「遠野物語拾遺考」70話~
遠野町字蓮華の九頭竜権現の境内に、化け栗枕栗などという栗の老樹がある。権現の御正体は即ちこの樹であって、昔は女を人身御供に取った。そのおり枕にして頭を乗せていて、人を食ったのが枕栗であるという。
「遠野物語拾遺70」
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蓮華とは会下の事を言うと古老に教えられたが、伊能嘉矩「遠野くさぐさ」によれば、正確には上会下の丘、つまり太平山を指すらしい。阿曽沼時代に、九重山積善寺が建立され、その敷地内にあたる。ところで栗の木といえば「桃栗三年柿八年」と呼ばれる様に、成長が早い事から昔は神社周辺に沢山植えられ、神社の補修材として活用されていた。栗の実が食糧にもなる事から神社にとっては一石二鳥の樹木が栗の木であった。その栗の木が人を喰うとは、どういう事だろうか?
その化け栗には、九頭竜権現を祀っていたという。樹木信仰の場合、長い樹齢を迎えた樹木は神として昇華するように、恐らくその栗の木は、かなりの老木であったろうと思える。通常の栗の木は50年程度でくたびれるというが、六角牛山登山道の枝垂れ栗は樹齢260年以上と云われ、綾織長松寺入り口の枝垂れ栗もまた、かなりの樹齢を有すると思える。そして九頭竜権現だが、有名なのは戸隠の九頭竜権現であり、阿曽沼はその戸隠に参詣したとの言い伝えが残っている。
その九頭竜は名前の通り、竜である。竜が人を食べる話で古いものは「古事記」のヤマタノオロチの話である。そのヤマタノオロチと共通するのは、女を人身御供に取ったという事か。しかし突き詰めれば、ヤマタノオロチの話も、一つの神事であると言わざる負えない。ヤマタノオロチを呼ぶのに酒を用意し、女を捧げるというのは、御神酒を上げて神婚を結ぶに等しいからだ。曾て出雲大社の宮司が、余りに巫女に手を出すもので、それを禁止されたという例がある。また、平清盛もまた厳島神社の巫女を自分好みの巫女を配して、頻繁に遊びに行ったという。この出雲大社も厳島神社もまた、龍蛇神を祀っている。ヤマタノオロチ伝説が「古事記」には載っていて何故「出雲風土記」には載っていないのか?という謎があるのだが、地元出雲では伝え知らぬヤマタノオロチ話を、後に出雲大社の巫女に手出す不祥事をヤマタノオロチ話として伝えた可能性があるのかもしれない。そして当然、遠野の太平山にあった神明社の宮司が、巫女として募集した村娘を食べた話になるのではなかろうか。
ところで積善寺のあった地を九重沢と呼ぶのだが、それは積善寺の山号が九重山となっている為であろう。しかし、遠野の積善寺の上の山は九重山とは呼ばない。あくまで積善寺の山号であろうとなるのだが、ここで気になるのは、九州の九重山であり、阿蘇九重国立公園となっている山である。遠野の積善寺内太平山では、九頭竜権現、白山権現、熊野権現を祀っていたという。それと同じ信仰形態が、阿蘇九重国立公園に属する九重山に見える事から、遠野の積善寺の山号は、九州の九重山から取ったのではなかろうか。これについては、後に詳細を書く事としよう。]]>
「遠野物語拾遺77(抜粋)」
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2010-12-06T12:11:43+09:00
2010-12-06T12:11:41+09:00
2010-12-06T12:11:41+09:00
dostoev
「遠野物語拾遺考」70話~
遠野の町あたりでいう話では、昔ある田舎に父と娘とがあって、その娘
が馬にとついだ。父はこれ怒って馬を桑の木に繋いで殺した。娘はその
馬の皮を以て小舟を張り、桑の木の櫂を操って海に出てしまったが、後
に悲しみ死にに死んで、ある海岸に打上げられた。その皮舟と娘の亡骸
とから、わき出した虫が蚕になったという。
「遠野物語拾遺77(抜粋)」
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オシラサマの話は、形を変えて遠野に伝わっているが、この話はまた他の話しと、少し違う。皮舟というものが登場し、海へと流れている。
現実的には、遠野から海へ出る為には猿ヶ石川から奥羽山脈沿いに流れる北上川に合流し、そのまま宮城県の石巻へと流れ、海へと辿り着く。ただこれは、かなりの長旅である為に、現実的に不可能だ。また土淵・青笹・上郷の山を越えれば、海へと辿り着く鵜住居川や甲子川、大槌川があるのだが、これならば遠野市からはみ出す形になってしまう。つまりオシラサマの雑多な話は、遠野だけではなく沿岸地域からも遠野の町に流れて伝わっているものと考える。沿岸と内陸の丁度中間にあたる遠野には、頻繁に市場が開かれ、その時にいろいろな話が集まってきたのだろう。
ところで水には浄化、死者の魂送りなどの意味があり、死者の国も海の彼方にあると信じられていた。また船には、他界へと導くモノとか、安息所、霊魂の住処、棺、墓地、などの意味もある。
帆船の支柱を生命の樹と呼んだという。また住吉三神の筒に関係してか、舟の支柱に穴があり船の魂を入れる場所をツツと言ったらしい。つまり帆船などの支柱は、魂の宿る樹でもあり、海洋の上にも一つの樹木信仰が見いだせる。
そしてその舟なのだが、この「遠野物語拾遺77」では”皮舟”とある。古代の皮舟とは、骨組みに皮を張り、その上から瓦などに使う赤土(埴土)もしくは馬などの糞を塗りたくり防水の役目を果たした。これから「皮舟」は「泥舟」とも云われた。
泥舟といえば「日本書紀」において素戔男尊が新羅の国から土舟で出雲に渡ったという記述がある。この土舟も、また同じだろう。アイヌの風習には、死者を土舟に入れて川や海に流すので、やはり舟は死者を乗せる棺の意味もあり、また魂を運ぶものでもあるのだと思う。
思い出すのは「カチカチ山」で、泥船にのって溺れ死んだタヌキは、その前にウサギから櫂の一撃を食らっている。「遠野物語拾遺77」での皮舟の櫂は、馬が死んだ桑の木で作られた櫂だ。この櫂という”樹”という存在も、生と死に、何らかの影響を与えているのだろう。
また「遠野物語拾遺77」での話では、娘の死体から湧き出した虫が蚕になったというものは「古事記」では素戔男尊が大宜津比売神を殺し食物が湧き出た話や「日本書紀」での月読命が保食神を殺し食物が湧くという話が挿入されているのがわかる。つまり、馬と結び付いた娘とは、神婚によって”神”となった存在として捉えてもいいのかもしれない。馬の最高位は竜となる。つまりオシラサマの話に登場する白馬は、白竜となり娘を天空へと運ぶ存在でもあった。
空と海との違いがあるが、要は異界へと赴いた娘が人間と言う存在から”神がかった”のだと考える。イザナギとイザナミの間に最初に生まれた蛭子は、葦舟に入れて流されたがエビスという大きな神の存在になって帰って来たという。また塩土老翁が、山幸彦を龍宮に送り、シオミツダマとシオヒルタマを手に入れたなど、異界へと旅立った者は”神がかる”のだろう。故に海へ旅立った娘は、穀物神になった。しかしそのきっかけとなったのは、馬の死であり、桑の木ではないだろうか…。
古来から太陽は夕に死に、朝に生まれるとされ、毎日生死を繰り返していると信じられていた。大国主が何故に偉大な神として崇められるのかも、何度も生き返った事が大きいのかもしれない。つまり神という存在は、死んでも復活できるものだと。この「遠野物語拾遺77」での娘は桑の木が神としての依代となり、娘が神懸りし穀物神として生まれ変わったのだと伝える話であったのではなかろうか。]]>
「遠野物語拾遺71(三峯様)」
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2010-12-06T12:02:00+09:00
2017-12-24T07:56:28+09:00
2010-12-06T12:02:39+09:00
dostoev
「遠野物語拾遺考」70話~
この地方で三峰様というのは狼の神のことである。旧仙台領の東磐井郡衣川村に祀ってある。悪事災難のあった時、それが何人のせいであるという疑いのある場合に、それを見顕わそうとして、この神の力を借りるのである。
まず近親の者二人を衣川へ遣って御神体を迎えて来る。それは通例小さな箱、時としては御幣であることもある。途中は最も厳重に穢れを忌み、少しでも粗末な事をすれば祟りがあるといっている。一人が小用などの時には必ず、別の者の手に渡して持たしめる。そうしてもし誤って路に倒れなどすると、狼に喰いつかれると信じている。
前年、栃内の和野の佐々木芳太郎という家で、何人かに綿カセを盗まれたことがある。村内の者かという疑があって、村で三峰様を頼んで来て祈祷をした。その祭りは夜に入り家中の燈火をことごとく消し、奥の座敷に神様をすえ申して、一人一人暗い間を通って拝みにいくのである。集まった者の中に始めから血色が悪く、合せた手や顔を震わせている婦人があった。やがて御詣りの時刻が来ても、この女だけは怖がって奥座敷へ行き得なかった。
強いて皆から叱り励まされて、立って行こうとして、膝はふるえ、打倒れて血を吐いた。女の供えた餅にも生血が箸いた。験はもう十分に見えたといって、その女は罪を被せられた。表向きはしたくないから品物があるならば出せと責められて、その夜の中に女は盗んだ物を持ってきて村の人の前に差し出した。
「遠野物語拾遺71」
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現在、三峰信仰は廃れ、全国でも本山の秩父以外には、岩手県衣川の三峰神社を含めても3つしかなくなってしまった。これは明治半ばには狼がほぼ絶滅したのが大きいのと、日本が近代化の波に飲み込まれ、科学が蔓延りこのような狼を神と崇める三峰神社は邪神として扱われてしまった。遠野でも数人の古老に聞くと「三峰は邪教」だという言葉を発する。
遠野では、石碑として三峰山などは見かけるが、祀っている祠はせいぜい昔から祀っている個人の敷地内に留まるのだと思う。またこの「遠野物語拾遺71」では、衣川の三峰神社に御神体を迎えに行くとあるが正確には、御神体ではなく下記の写真と同じ御眷属である。
この御眷属は、神と同等の力を持ち三峰講を開いた者達に貸し出し、そのご利益を与えるのであった。
「遠野物語拾遺71」では栃内の和野でこの御眷属を借りたようであるが、残念ながら三峰講中の帳面には遠野への貸し出し記録は載っていなかった。これ以前の記録は、どうも紛失してしまった模様。ただこの衣川の三峰神社、源頼義、義家親子が蝦夷の豪族である安倍一族を征伐する為に、衣川の柵跡に二神を祀ったのだという。蝦夷であった岩手県にとっては、なんとも皮肉な神でもある。もしかしてこの歴史が、邪教と云われる所以だろうか?
三峰神社の御神体は狼そのものであり、正式には大口眞神という。そしてイザナギとイザナミも祀ってあるのだが、これはヤマトタケルが三峰山で東夷征伐の武運を願い成就したものに繋がる。どちらにしろ、蝦夷の地にとって三峰様は厄介だったのだろう。この三峰様が民間に広まったのは、火難・盗難・悪病・災難除けであるのだが、その根本は蝦夷征伐の願いが成就したご利益にあやかってのものである。
この衣川に三峰様が勧請されたのは、享保元年3月で、昔は御祭日が3月であったのが今では2月16日となったのだという。また昔は神輿も担がれ、そこそこの賑わいを見せたようだが、今ではその当時の神輿も300年の年月という積年の重みに、触れば朽ち果てる程の状態となっている。
ただこの三峰様の御分霊の勧請は簡単ではなく、当初本山から断れ続けられたそうなのだが、わざわざ南部の名馬を信者と共に連れ奉納したところ、その熱意に動かされてやっと三峰様の御分霊を勧請してもらったのだという。]]>
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