不思議空間「遠野」 -「遠野物語」をwebせよ!-:「遠野物語考」50話~
2023-12-05T15:53:53+09:00
dostoev
遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
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「遠野物語51(オット鳥)」
http://dostoev.exblog.jp/29587244/
2018-02-18T21:29:00+09:00
2018-02-18T21:29:43+09:00
2018-02-18T21:29:43+09:00
dostoev
「遠野物語考」50話~
山には様々の鳥住めど、最も寂しき声の鳥はオット鳥なり。夏の夜中に啼く。浜の大槌より駄賃附の者など峠を越え来れば、遥に谷底にて其声を聞くと云へり。昔ある長者の娘あり。又ある長者の男の子と親しみ、山に行きて遊びしに、男見えずなりたり。夕暮になり夜になるまで探しあるきしが、之を見つくることを得ずして、終に此鳥になりたりと云ふ。オットーン、オットーンと云ふは夫のことなり。末の方かすれてあはれなる鳴声なり。
「遠野物語51」
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正直「遠野物語51」は、コノハズクの写真を撮影してからアップしようと思っていたが、何年かかっても撮影できずにいた。最近、もしかして生きているうちに撮影できないのでは?と思うようになり、今回ウィキペディアの画像を拝借して記事を書く事にする。
今の時代は便利なもので、こうしてYouTubeでアップされているコノハズクの鳴き声の動画を紹介する事が出来る。聞けばわかるように、これは「遠野物語拾遺118」と同じく、擬音や鳴き声をどう文章化するかの話になる。高橋喜平「遠野物語考(オット鳥考)」では恩徳の三浦氏にコノハズクの鳴声を確認するが、恩徳の三浦氏はコノハズクを飼っていた事があり、オット鳥の鳴き声に似ているとの証言を得ている。ただし明確に「オットー」と鳴いているというわけでないのは、動画からよく理解できる筈。あくまで「オットー」と鳴いている様に聞こえるか?と問われて、似ていると感じる人がいるというだけである。鳴き声は、聞く人によってそれを表音化、もしくは文字化した時に、各々の違いが出て来るもの。
ところで「注釈遠野物語」を読むと、やはりコノハズクの解説となっており、本編に対する解説が成されていない。長者の娘が、別の長者の息子に連れられて山に入って遊んだという内容だが、簡単に帰れないところをみると、奥山まで行ったのであろうか。その後に悲しさからか、オット鳥になってしまった話になっているが、ある意味"かどわかし"の話にも思える。かどわかしは誘拐であるのだが、昔話では何も誘拐するのは人間だけでは無かった。例えば、鷲や鷹に、赤ん坊がさらわれた話は広く伝わる。例えば「遠野物語拾遺138」も、鷲にさらわれた話である。また天狗が人を誘拐する話があるが、その天狗の正体は鳶であった。「今昔物語」にも空を飛ぶ天狗の正体は鳶であるとの話もある。鳥もまた、しばしばその姿のままだけでなく、人の姿に化けて悪さをする場合があるようだ。またこれは小説だが泉鏡花「高野聖」では、山に住む女を慕った男達が、全て動物に変ってしまった物語でもあった。それは女が山の魔性の者であったからなのだが、ここで気になるのは、長者の娘を山奥に連れて行った長者の男の子が果たして人間であったのか?という事。"男の子"と記してある事から、取り敢えず長者の息子であるのだろう。昔は女人禁制の山も多く、また山とは何が棲んでいるかわからぬ恐怖があった。それでも山奥に行くものは、行者かマタギや杣人か、はたまた山菜・キノコを求める者達くらいであったろう。長者の子供が、そういう危険を冒してまで山奥に行くとは考え辛い。これは長者の男の子の正体が、人間では無かったのではないかとも思える話である。
「今昔物語」で、厠に入った女性が化物になって出てきた話がある。また別に、金剛山で修行を積んでいた聖者が、ふとした縁で、ある夫人を自分のモノにしたいと思い、山で命を絶ち鬼となって再び夫人の前に現れる話がある。ここで共通するのは、厠も山も異界の入り口であるという事。厠が今では化粧室ともされるのは、この「今昔物語」の話が大きい。化けるという事は、異界の力を借りると云う事。人に化けている妖魔の正体を見破る方法に「狐の窓」というものがあるが、その呪文に「けしやうのものか、ましやうのものか正体をあらわせ」というものがあるが、「けしやうのもの」とは「化粧をしている者」の事で、正体を隠している者を意味している。
悲しみに暮れ、泣き疲れ果ててオット鳥になった娘であったが、オット鳥になった要因は、山の気を浴びたという事もあったのかと思える。そしてこの話は、先に紹介した泉鏡花「高野聖」での、人間の思いが様々な獣に変化させたものに近いと思われる。「高野聖」で女にやましい考えを持った男は、畜生に変わり果てた。悲しみに全てを包まれた娘は、オット鳥に変った。全ては、山での出来事である。
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「遠野物語50(カッコ花)」
http://dostoev.exblog.jp/21838645/
2014-04-20T08:45:00+09:00
2023-12-05T15:53:53+09:00
2014-04-20T08:45:37+09:00
dostoev
「遠野物語考」50話~
死助の山にカッコ花あり。遠野郷にても珍しと云ふ花なり。五月閑古鳥の啼く頃、女や子ども之を採りに山へ行く。酢の中に漬けて置けば紫色になる。酸漿の実のやうに吹きて遊ぶなり。此花を採ることは若き者の最も大なる遊楽なり。
「遠野物語50」
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死助の山とは、死助権現を祀っていた山で、その死助権現は現在笛吹峠に祀られている。界木峠から笛吹峠に行く途中に死助の山があるのだが、今は鹿の巣窟になっている為、日中でもかなりの鹿に遭遇する事が出来る。
カツコ花は敦盛草であり、平敦盛の母衣に見立ててその和名が付いたが、カッコ花の由来は、遠野にカッコウが渡って来る6月頃に咲く花であり、そのカッコウがよく啼く山で咲いている事からカツコ花と呼ぶようになったという。だからといって、カッコウがいるからカツコ花が咲いているとは限らない。またカッコウの啼く頃に死助山へと行った事が、そのカツコ花を見かける事は無かった。
この画像は以前、遠野の産直で販売されていたカツコ花だが、値段から想像するに、その貴重性がわかるというもの。「若き者の最も大なる遊楽なり。」一文があるが、今では、山菜・茸を採集して、日々の生活の足しにするのと同じ感覚で、楽しんで山のモノの恵みにあやかるという事なのだろう。]]>
「遠野物語52(魔王鳥)」
http://dostoev.exblog.jp/21062512/
2013-12-10T22:18:00+09:00
2018-01-03T12:14:58+09:00
2013-12-10T22:18:00+09:00
dostoev
「遠野物語考」50話~
馬追鳥は時鳥に似て少し大きく、羽の色は赤に茶を帯び、肩には馬の綱のやうなる縞あり。胸のあたりにクツゴコのやうなるかたあり。これも成長者が家の奉公人、山へ馬を放しに行き、家に帰らんとするに一匹不足せり。夜通し之を求めあるきしが終に此鳥となる。アーホー、アーホーと啼くは此地方にて野に居る馬を追ふ声なり。年により馬追鳥里に来て啼くことあるは飢饉の前兆なり。深山には常に住みて啼く声を聞くなり。
「遠野物語52」
遠野の諺に「六角牛サ三回雪ァ降れば、里サも来る。」というのがある。雪は高い山から、だんだん低い場所に移動してくるのを知ってての言葉だ。よく、桜前線を追って、日本縦断をする人がいるようである。桜は暖かい南の地から、だんだんと寒い北国へと移動する。これが里の単位で考えれば、暖かい里から始まる桜は、だんだんと高い山へと移動して行く。ただ桜は、山神が山から降りて来た為とも伝えられており、季節の循環を伝えているものだろう。逆に紅葉は、高い山からだんだんと里へと降りて来るもの。春の風物詩の代表格が桜なら、秋の代表格は紅葉であろう。そして冬の代表格は、やはり雪だ。
山は、万物の根源でもある。海に囲まれた日本列島は、その海から発生した雲などが、山へと雨を降らせて、それを樹木などが吸い蓄え、ゆっくりと川へと流し、再び海へと注がれる。水の循環の重要な基点は、やはり山である。その水源を有する山は、樹木や大岩などがあり、沢山の山菜・キノコが発生し、鳥屋獣が生息する地でもある。つまり、人間様にとって水と食料が豊富にあるのが山という事だろう。山神は男か?女か?というテーマがあったが、圧倒的に山神は女であるという回答は、山がいろいろなものを産み出し恵み与える存在で、それが母親のイメージとダブった為だろうと思う。ところが桜の花だけは、山では無く里から咲き乱れ、それを山に伝えるのはおかしいという事から、山神が里に下りてきたという伝承が発生したのではなかろうか。
「遠野物語52」に、馬追鳥が紹介されている。その馬追鳥は、高橋喜平「遠野物語考」で「アオバト」と断定している。「遠野物語52」では「アーホーアーホー」と馬追鳥は啼くと記されているが、鳴き声というものは難しく、例えば猫の鳴き声も犬の鳴き声も、日本と西洋ではその鳴き真似がまったく異なってしまう。つまり文化と伝わる言語が微妙に聴き取りの音に変調をきたせているようだ。つまり、日本も各地によって方言が違うように、同じ鳥の鳴き声であっても、その擬音として表現する鳴き声に違いが出るのだろう。
高橋喜平は、鳥類図鑑でアオバトは「アーオーアーオー」と啼くと記されている事を紹介している。川口孫冶郎「自然暦」で、恐山では「マオが鳴くと必ず天気が悪くなる。」と伝えられ、そのマオとはアオバトの方言であると。また、高橋喜平が盛岡でアオバトが啼いている時に、古老に啼いている鳥の名を聞くと「ここらではマオウドリと言っている。」と。ところが「注釈遠野物語」では、その高橋喜平「遠野物語考」を参考文献とし「遠野を中心とする地方だけが「マオー」といい、その鳴声に馬追鳥という漢字をあて、ウマオヒというルビを付けた。」と書き記しているが、遠野を中心とする地方に盛岡が入っているのか?という疑問を感じる。
とにかく馬追鳥は「マオウトリ」であるのは確かのようだ。「遠野物語52」には「年により馬追鳥里に来て啼くことあるは飢饉の前兆なり。」とあるが、高橋喜平は自らのエッセイに、こう記している。
「山村ではマオウを見た者は死ぬといい伝えられおり、非常に淋しい声でマオウと啼き、その啼き声が鳥の名になっていた。どことなく赤ん坊の泣き声に似ていたが、夜の深山に啼くせいか、怨嗟そのもののようなひびきをもっていた。」
これを読むと、まるでシューベルトの歌曲「魔王」のようである。考えてみると「馬追」を「マオウ」としているが、マオウという響きは既に日本に伝わっているではないか。仏教用語で、六道輪廻世界観において欲界の第六天にあたる他化自在天にあり、仏道修行を妨げる「第六天魔王」は後に、織田信長の異名ともされた。また江戸時代の寛延二年(1749年)に、実体験に基づいた「稲生物怪録」が書かれたが、その物語の中に魔王・山本五郎左衛門が登場する。それは田中貢太郎「日本怪談全集」において掲載されているが、それは「稲生物怪録」は別に「魔王物語」として広まっていたようだ。魔王(マオウ)という響きは「遠野物語」が書かれた時代でも、その響きは伝わっていた筈。飢饉をもたらす馬追鳥の啼き声はそのまま魔王の咆哮のようにも聞こえるが、気休めから「馬追」という漢字をあてる事によって、その魔を緩和させようとしたのではなかろうか?
山とは非情なものである。山に、山神に対する祈願とは「御怒りを鎮めてください。」であり、一方的な神の祟りを恐れた人々が山を神として崇めたのだった。遠野地方ではヤマセが吹くと飢饉となると言われたが、その風とは山が起こすものと信じられてきた。馬追鳥は深山に棲み、なかなかその姿を見る事が無かったという。姿が不明ながら、その恐ろしい啼き声は、山の魔王の啼き声とも捉えたのではなかろうか?
留場栄・幸子共著「遠野地方のむらことば」には「オット鳥ァむら近ぐで鳴げば、餓死になる。」というものがある。「遠野物語51」には、そのオット鳥が紹介はされているが、飢饉や餓死との結び付きは紹介されていない。そのオット鳥はコノハズクであるのだが、コノハズクの民俗には死に結びつく匂いはしない。もしかしてこの遠野地方の諺は、馬追鳥と間違って記されたものではなかろうか?山からは、人の生活の目安である紅葉が降りて来て、そして雪も降りてくる。そして深山に棲むというマオウ鳥もまた降りてくるのは、その基本が山であり、その山そのものが人の生き死にを左右しているからではなかったか。その生き死にの中のマオウ鳥の啼き声は、あたかもシューベルトの「魔王」のように人の死を司っていると信じられていたのかもしれない。]]>
「遠野物語53(郭公と時鳥)」
http://dostoev.exblog.jp/20523793/
2013-10-06T22:32:00+09:00
2021-09-12T11:30:10+09:00
2013-10-06T22:32:48+09:00
dostoev
「遠野物語考」50話~
郭公と時鳥とは昔有りし姉妹なり。郭公は姉なるがある時芋を掘りて焼き、そのまはりの堅き所を自ら食ひ、中の軟かなる所を妹に与へたりしを、妹は姉の食ふ分は一層旨かるべしと想ひて、包丁にて其姉を殺せしに、忽ちに鳥となり、ガンコ、ガンコと啼きて飛び去りぬ。ガンコは方言にて堅い所と云ふことなり。妹さてはよき所をのみおまれに呉れしなりけりと思ひ、悔恨に堪へず、やがて又これも鳥になりて包丁かけたと啼きたりと云ふ。
「遠野物語53」
画像は残念ながら、郭公でも時鳥でもないが…来年は鳥の撮影に頑張ろうか…。
この「遠野物語53(郭公と時鳥)」は、佐々木喜善「聴耳草紙」にも紹介されているが、類似の話は全国にもいくつかあるようだ。読んでいると、僅かな食べ物を分けながら食べる姉妹の時代背景に飢饉を感じる設定になっている為か、かなり悲惨な話となっている。
ここでは姉妹が鳥へと変身しているが、仏教思想からは畜生道に堕ちたとも捉える事が出来る。「ギリシア神話」にも動物になった話がいくつかあるが、それは神の勝手気ままな生き方に巻き込まれ動物にされ、カリストーとアルカスのように最後は大クマ座と小クマ座の星になった話がある。しかし、このギリシア神話の話は、女神ヘラの怒りがおさまらない為、決して地上に降りない様天を彷徨うようにされたとも云われる。そういう意味では「郭公と時鳥」も同じで、永遠に鳥の姿のまま贖罪が未来永劫続くと云う事なのかもしれない。
可愛そうなのは郭公の姉なのだが、実は郭公という鳥は農民に嫌われている時代があった。平安時代の作者不詳「栄花物語」には、郭公が登場する歌がある。
「早苗植うるをりにしも鳴く郭公しでの田長とうべもいひけり」
この歌は、郭公の鳴く季節は田植え時なので、賤(しで)の田長を呼ぶ鳥だと云われたようだ。その当時、農作業を監視する農民にとっては嫌な存在が田長である農夫長であったようで「しでの田長」の「しで」とは卑しい存在として「賤」という漢字を冠されたようだ。また「賤(しで)」は「死出(しで)」にも通じる事から、使われる農民達から一層忌み嫌われたという。しかし、美を鑑賞し歌を詠う平安貴族にはそれが面白くない。だから清少納言「枕草子(第二百九段)」に、下記の事を書き記している。
賀茂へまゐる道に、「田植う」とて、女の、新しき折敷のやうなるものを笠に着て、いと多う立ちて、歌を唄ふ。折れ伏すやうに、また何ごとするとも見えで、うしろざまにゆく。「いかなるにかあらむ。をかし。」と見ゆるほどに、郭公をいとなめう唄ふきくにぞ、心憂き。
「郭公、おれ、かやつよ おれ鳴きてこそ、我は田植うれ」
と唄ふをきくも、いかなる人が、「いたくな鳴きそ」とは、いひけむ。仲忠が童生ひ、いひおとす人と、「郭公、鶯に劣る」といふ人こそ、いとつらう、憎けれ。
この「枕草子」の問題は、「郭公」が「ホトトギス」を意味しているという事だ。実は「栄花物語」も同じく「郭公(ホトトギス)」の事を詠っていた。何故にこういう混同があったのかは、その色合いが似ているからのようだが、鳴き声はまったく違う。そして大きさもカッコウの方がホトトギスよりも大きい。つまりカッコウの体が大きいから、この話では姉になったのだと思えるのだが、何となくスッキリしない。ここでのカッコウは、果たして郭公だったのか?農民に忌み嫌われたのは「郭公(ホトトギス)」であった。しかし郭公(カッコウ)もまた、托卵という他の鳥の巣にある卵を捨てて、自分の卵を代わりに置き、他の鳥に育てれるという子供である雛の成りすましを図る狡い鳥である認識がある。つまり、どちらの「郭公」も、あまり良い印象が持たれない鳥であった。
ここで思い出したのは瓜子姫と天邪鬼だった。瓜子姫説話には違うパターンがあるが、どちらも天邪鬼が瓜子姫を殺して成り済ますというもの。その一つに、包丁で殺して食ってしまったというのがある。そして、その天邪鬼もまた正体がばれて殺されてしまう。「郭公」がホトトギスなのか、それともカッコウなのか。当然、姿形の混同から名前が混同したものとも思えるが、動物の体系は現代になって広まったものであり、タヌキとアナグマがかって混同されたように当然の事ながら昔には姿を見ただけで、カッコウとホトトギスを見分ける術が無かったのではなかろうか。
遠野の古老が、かって言っていた「ウサギには大山兎と白兎がいる。」と。それは毛の生え代わりを理解していない為の言葉であった。確かに知識が無ければ、茶色の兎と白い兎がいると錯覚してしまうほど、色の違いがウサギにはある。つまり郭公の生態がわからぬ為に、地域によっていろいろな混同が起こったのだと思ってしまう。それがあたかも、天邪鬼が瓜子姫に成り済ましたように、郭公はカッコウでありホトトギスにもなり、その正体があやふやのまま時代が過ぎ去ったのかもしれない。「遠野物語53」のカッコウとホトトギスの話も、やはり忌み嫌われる存在としてのカッコウでありホトトギスであった為に、二人ともに畜生道に堕ちたと解釈した方が無難であろうか。]]>
「遠野物語57(河童とは)」
http://dostoev.exblog.jp/20003283/
2013-07-12T18:16:00+09:00
2018-02-25T18:23:32+09:00
2013-07-12T18:16:36+09:00
dostoev
「遠野物語考」50話~
川の岸の砂の上には河童の足跡と云ふものを見ること決して珍らしからず。雨の日の翌日などは殊に此事あり。猿の足と同じく親指は離れて人間の手の跡に似たり。長さは三寸に足らず。指先のあとは人のゝやうに明かには見えずと云ふ。
「遠野物語57」
確かに、雨の翌日の早朝河原の砂地に行くと、沢山の足跡がある事がある。鳥の足跡、小動物の足跡、鹿の足跡など、様々だ。ただし、猿は仙人峠の奥から六角牛山の笛吹峠よりから沿岸にかけて目撃されるが、遠野の里ではまず猿の足跡を見る事が無い。たまに、はぐれ猿の目撃例がある程度だ。ところでその足跡だが、いろいろなものが重なっている場合もある。一つ変わった足跡を発見したとしても、連続する足跡を見れば、その箇所だけ踏まれて交わり、変わった足跡になっているのもある。当然の事ながら、それが子供などの足跡で、重なったり滑った足跡になっている場合、それは異形な足跡にも感じる事だろう。
ところで、この動画は青森県で撮影されたものだが、現代となって撮影技術の発達やCGの発達によって、どこまでが本当で、どこまでが作り物かわからなくなってきている。もうかなり古くなってしまったが、映画「ジュラシックパーク」を観ると、恐竜の質感がリアルに感じ、それこそ昭和29年に登場した「ゴジラ」に対して恐怖を抱いた時代に、この「ジュラシックパーク」の映画を観せたとしたら、殆どの人が恐竜は実在するのでは?という錯覚に陥りそうなほど、現代の撮影技術は発達しすぎた。
今でもたまに放送される心霊モノなども、真贋が理解できない程になっている。そういう意味から、この動画をまともに信じる人はいないのではなかろうか?いや、その前に河童は架空の生物だという認識が広まっている中でありながらも、撮影技術の進歩した現代ではなく、この動画がもう少し前の時代に放送されていれば、信じる人がいたのかもしれない。
ただ、遠野市の老人クラブがまとめ毎年発刊される「遠野今昔」の初期には、昭和の時代に目撃された河童の話がいくつかリアルに紹介されている。実際、人魂や狐火などの目撃例も昭和の時代には、まだまだあった。ところが時代が進むにつれ、そういう目撃例は皆無となった。それでも"あらぬモノ"を目撃したという話は、たまに耳には入るのだが、そこにも時代の変遷が伺えるのだ。]]>
「遠野物語59(胡桃の木)」
http://dostoev.exblog.jp/15127820/
2010-12-09T12:51:00+09:00
2021-11-10T18:04:22+09:00
2010-12-09T12:51:22+09:00
dostoev
「遠野物語考」50話~
外の国にては河童の顔は青しと云ふやうなれど、遠野の河童は面の色赭きなり。
佐々木氏の曾祖母、穉かりし頃友だちと庭にて遊びてありしに、三本ばかりある
胡桃の木の間より、真赤なる顔したる男の子の顔見えたり。これは河童なりしと
なり。今もその胡桃大木にて在り。此家の屋敷のめぐりはすべて胡桃の樹なり。
「遠野物語59」
「遠野物語59」で気になるのは「真赤なる顔したる男の子の顔見えたり。」という箇所ではある。現代では河童のイメージが確立され、人間とかけ離れているイメージでありながら、その河童の顔を真赤な顔をした男の子としている。普通に読んでしまえば、それは河童では無くて、座敷ワラシではないのかと錯覚してしまう。
ところで「遠野物語59」では胡桃の木を象徴的に書き記しているので、胡桃を調べてみると似たような話で、座敷ワラシの話が遠野にあった。
「胡桃の古木の三又の間に遊んでいる赤顔のカブキレワラシを見たという話がある。」
また別に、胡桃に関して、別の座敷ワララシの話も伝わる。
「私の家の土蔵にはクラワラスがいると、祖母から聞いた。土蔵の窓からクルミを 投げて、子どもの頭にあてるのだ。」
胡桃に関しては、遠野には「遠野物語59」の河童の話以外に座敷ワラシがあるだけだ。もしかしてだが、柳田國男が河童と座敷ワラシを間違って書き記した可能性もあるのではないだろうか?ちなみに胡桃を調べると他県では、胡桃の木に関する俗信がいくつかある。
「茶の間に土蔵に入っていたクルミが投げ込まれ、床一面に散らばったことがあった。おそらくテング様の仕業だろう。」
「クルミの木を屋敷に植えると、気違いが出る。」
「14日、小正月に訪れる魔物や疫病神を退治するために、「十二月様」をタラの木やクルミの木でつくって窓や戸口にたてる。」
「第六天の社の側の胡桃の木の実を食べると大熱を発し、そのことを詫びるまで治らない。」
「門口に胡桃の木を植えて悪魔払いをする。」
これらを読み取ると、胡桃というものは、魔除けにも、魔そのものにも成り得るもののようだ。つまり吉凶両極端の、まるで座敷ワラシの伝承にも通じるかのようだ。ところで胡椒、胡桃、胡麻、胡瓜など、胡という字が付くものは全部張騫が持って来たと云われる。張騫は漢の時代の人物で、シルクロードを開拓した人としても有名となっている。当時の漢は匈奴という北方の騎馬民族に悩まされており、匈奴は大月氏国の国王の首を跳ねてドクロの酒盃にしたということで、漢は大変に匈奴を怖れていたという。この話を知って、果たして織田信長が真似したのだろうか?
漢の武帝は、大月氏国と同盟して匈奴を滅ぼそうと考えていました。そして張騫を大月氏国への使者として派遣したのですが、同盟は得られなかったものの、先に述べた様々な食材が伝わったのだと。
ただ胡桃はかなり以前に日本に伝わっていたのだろうが「胡」という漢字をあてて「胡桃」としている事から、やはり異国の木として広まっていたのかもしれない。つまり胡桃の木が立っている場所、もしくは胡桃そのものが異世界と繋がっているものと信じられていたのかもしれない。そこで胡桃に絡んで、河童・座敷ワララシ・天狗なとと物の怪の類の話であるとか、その異質な胡桃が吉凶を呼び込んで迷信として広がったものなのかも知れない。
この「遠野物語59」における河童の話は、座敷ワラシとの混同とも捉える事ができるが、元は胡桃の木がもたらす異界の話なのかもしれない。]]>
「遠野物語58(河童駒引き考)」
http://dostoev.exblog.jp/15127781/
2010-12-09T12:43:00+09:00
2020-11-09T05:56:37+09:00
2010-12-09T12:43:21+09:00
dostoev
「遠野物語考」50話~
【写真は、土淵の姥子淵】
小烏瀬川の姥子淵の辺りに、新屋の家と云ふ家あり。ある日淵へ馬を冷やしに行き、馬曳の子は外へ遊びに行きし間に、河童出でゝ其馬を引き込まんとし、却りて馬に引きずられて厩の前に来り、馬槽に覆はれてありき。家の者馬槽の伏せてあるを怪しみて少しあけて見れば河童の手出てたり。村中の者集まりて殺さんか宥さんかと評議せしが、結局今後は村中の馬に悪戯をせぬと云ふ堅き約束をさせて之を放したり。其河童今は村を去りて相沢の滝の淵に住めりと云ふ。
「遠野物語58」
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所謂「河童駒引き」の話となるが、殆どの場合、河童は馬を川に引き込もうとするが、失敗に終っている。馬は数頭失っただけで、その家は没落すると云われるほど貴重なものだった。狼に馬を食い殺され没落した家の話が「遠野物語」にも載っている。ただ馬がもしも河童に引き込まれたとしても、大丈夫では無かったのか?本来、馬は水神との繋がりが深い生き物で、タテガミ繋がりから今でも馬の最高位には龍が君臨する。つまり馬と龍とは同属なのであるという考えが伝わっている。
「平家物語」で有名な名馬”いけづき”は、宇治川を渡って主君に名をなさしめた存在でもあった。また江戸時代には、将軍の御前で、完全武装した騎馬武者が大川を渡った事が度々あったという。馬そのものも水神との繋がりもあり、水を怖がる馬の存在とは、あまり聞いた事が無い。もしも河童に誤って川に引き込まれたとしても、馬は自ら這い上がってきたものと思うのだが…。
河童駒引きの話は、里に流れる馬洗い場に、その話の多くが語られる。実はその馬洗い場と呼ばれるものは、本来雨乞いの祈願場所であったのが、いつしか馬の安全祈願の場所に変わったのでは?という説がある。馬を洗うというのは普通であり、人間にとっては勤労の友でもあるのが馬で、野良仕事が終った後、体を洗ってあげ、その後に厩舎休ませるのが日常であった。坂東武者は、陸奥制服の戦場に大釜を携え、連日湯を沸かして愛馬を洗っていたという伝承があるように、馬を洗う行為は、馬との結びつきの深さを示すものだった。
また雨乞いの多くは、山の頂で千駄木を焚くか、山に流れる滝壺に馬などの死体などを捨てて、その水を穢すなどという方法がある。奈良県の吉野には、丹生川上神社という古くから伝わる神社がある。祭神は罔象女神。、カグツチを生んで陰部を火傷し苦しんでいたイザナの尿から、生まれたとされる女神だ。
天武天皇の時代から信望され続けられてきた、この丹生川上神社の歴史は1300年にもなる。この神社は、雨乞い神事の為だけの神社みたいなものだ。雨が降り過ぎ、雨を止ませようとする時は白い馬を。雨が必要とされる時は、黒い馬をこの神社に奉納した。その奉納された馬達は、丹生川の馬背という場所で洗い清められて、その後”馬谷”という地へと放たれていたというのだが、この馬の奉納神事は応仁の乱の頃に途絶えたのだというが、この雨乞いの概念は、広く全国にも伝わったようである。
この生き馬の奉納は後に、絵馬となったり藁の馬となったり形を変えていき、それが現代にも息づいている。奈良時代から平安時代の遺跡には、馬を象った小さなものが様々発掘されている。それがどうも、水周りに多く発掘されるという事から、積もり積もった罪や穢れを川の流れに乗せて祓ってしまおうという祭りの為の小道具に使われたのでは?という説がある。つまり馬という存在は、人を乗せるだけでなく、また畑を耕すだけでなく、穢れなどの持ち去って欲しいモノを負わせる乗り物であったという事だ。つまり馬という存在は、人間社会においてとても重要な存在であったという事だ。
同じ水神系の繋がりで考えても、河童と馬とでは比較にならないほど、馬の存在は大きくて重い。普通に考えても、河童が川に引きずり込もうなどとは出来ない存在が馬だった。だから河童は、逆に川から引き出されてしまった。ならば「河童駒引き考」と云われる考え方とは別に、河童は陸に引き出して欲しかったとの考えもまたできるのかもしれない。何故なら、河童という存在は、ある意味人間の穢れの塊ともとれるからだ。
遠野の河童は、赤いと云われる。その赤とは間引きされ、川に流された子供の魂が具現化したものとも云われる。どんな理由であれ、命をあるものを川に流して殺してしまうというのは、捨てる側、捨てられる側、互いの穢れである。
「遠野物語56」では、河童の子を産んで忌子として捨てられた話が紹介されている。しかし捨てた者は、もしや見世物にすればお金になると思い、その場所に戻ったがすでにいなかった。これはつまり、穢れによって生まれた忌子が捨てられた瞬間、既に人間の子供からの零落を示すものなのかもしれない。
歴史上、御霊信仰…つまり、殺した相手の祟りに、多くの天皇達は苦しんできた。その為、傍には陰陽師などを置き、呪い返しなどを行ってきたのだが、その人を殺したという苦しみからは逃れる事は出来なかったのだという。河童の正体が、もしも捨てられた子供達の霊の具現化だとしたら、常に捨てた親達は、どんな子供達であろうと、心の奥で苦しんできたのだと思う。犬や猫を飼えないからと、川に流してきた人々も、やはり同じものが心の奥に引っかかっているものだ。川に流すのも、そこには水神が鎮座し、人々の穢れをまとめて祓い流す場所でもある為、間引きの子供であろうと、犬・猫の類であろうと流してきたのは、その川に対する浄化を信じてきた為なのだろう。
その忌み嫌われ穢れた河童は、川に棲み付いたものの、大抵の場合は淵と呼ばれる場所に棲みついている。水の流れが穢れを流し去るのであるが、淵とはつまり淀みだ。淀みには、モノが溜まる。流し雛であろうと、灯篭流しであろうと、とにかく途中引っかからないように流すのが原則となるのは、留まるものは浄化されないもの。つまり、魂であれば、成仏できないモノとなる。
土淵の常堅寺の裏手には、河童淵であると宣伝され、今でも多くの観光客で賑わっている。今では浅い小川であるが、昔はもっと水量もあり深かったという。そしてその河童淵と呼ばれたのは、やはり淀みであったからのようだ。間引きにより流された赤子が、その常堅寺の裏手に流れ着き溜まる。それを住職が供養したのだという話を聞いた事がある。つまり、流されたものは水の流れの浄化により供養されるのであるが、淵などの淀みに引っかかり流れずにいた赤子は、穢れたままであり、成仏できぬ存在として認識されたのかもしれない。つまり河童とは、穢れが溜まる淀みという負の水神として祀られた。当然、柳田國男の考えでいえば、神が零落した存在が妖怪であるので、河童は水神でありつつも、零落した存在である為に、あくまで神ではなく妖怪として語られる事となった。
しかしそこには、浄化したい、成仏したいという正の意識が常に河童の自己意識に存在したのかもしれない。いや正確には、川に流され成仏できなかった赤子などが、河童に零落し伝えられてしまった為、正の水神である馬の力により、負のエネルギーが溜まる淵から引きずり出して成仏させてあげたいという気持ちが、河童が馬によって引きずり出された話が全国に広がったのかもしれない。つまり「河童駒引き考」とは本来、河童が馬を川に引き込むものとして考えられていたが、実は馬が河童を淵から引きずり出す為に作られた話では無かったのだろうか?]]>
「遠野物語55&56(河童の子)」
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2010-12-09T12:31:00+09:00
2016-06-01T05:32:56+09:00
2010-12-09T12:31:06+09:00
dostoev
「遠野物語考」50話~
川には河童多く住めり。猿ヶ石川殊に多し。松崎村の川端の家にて、二代まで続けて河童の子を孕みたる者あり。生まれし子は斬り刻みて、一升樽に入れ、土中に埋めたり。其形極めて醜怪なるものなりき。
女の聟の里は新張村の何某とて、これも川端の家なり。其主人に其始終を語れり。かの家の者一同ある日畠に行きて夕方に帰らんとするに、女川の汀に踞りてにこゝと笑ひてあり。
次の日は昼の休に亦此事あり。暫くすること日を重ねたりしに、次第に其女の所へ村の何某と云ふ者夜々通ふと云ふ噂立ちたり。始には聟が浜の方へ駄賃附に行きたる留守をのみ窮ひたりしが、後には聟と寝たる夜さへ来るやうになれり。
河童なるべしと云ふ評判段々高くなりたれば、一族の者集りて之を守れども何の甲斐も無く、聟の母も行きて娘の側に寝たりしに、深夜にその娘の笑ふ声を聞きて、さては来てありと知りながら身動きもかなわず、人々如何にともすべきやうなかりき。
其産は極めて難産なりしが、或者の言ふには、馬槽に水をたゝへ其中にて産まば安く産まるべしとのことにて、之を試みたれば果して其通りなりき。その子は手に水掻あり。
此の娘の母も亦曾て河童の子を産みしことありと云ふ。二代や三代の因縁には非ずと言ふ者もあり。此家も加法の豪家にて〇〇〇〇〇と云ふ士族なり。村会議員をしたることもあり。
「遠野物語55」
上郷村の何某の家にても河童らしき物の子を産みたることあり。確なる証とては無けれど、身内真赤にして口大きく、まこといやな子なりき。忌はしければ棄てんとて之を携えて道ちがへに持ち行き、そこに置きて一間ばかりも離れたりしが、ふと思ひ直し、惜しきものなり、売りて見せ物にせば金になるべきとて立帰りたるに、早取り隠されて見えざりきと云ふ。
「遠野物語56」
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この話は、河童の夜這いという話となる。遺伝子的に現代では考えられないが、古代では人間の女と獣が結び付く事が懸念されていた。その為、女人禁制の山の説にはいろいろあるが、山の獣と交わらないよう、女性を山へ立ち入る事を禁じたという事もあったようだ。
またそれとは別に昔、東禅寺という若い坊さんを抱えた修行寺があり、煩悩に打ち勝てなかった修行僧が夜な夜な寺を抜け出し、近隣の村などに夜這いをかけたという話がある。お忍びで通った峠を、今では忍峠(しだとうげ)と呼び、そのリアリティは今でも遠野に生き続けている。夜這いは然程、遠野にはなかったのでは?という話もあるが、自分の知っている限りでは、昭和50年代前半までは行われていた話を、内密に聞いている。
また交通網が発達していない昔は、遠野の各町村は孤立していたようであり、何かが無い限り…例えば、買い物や商取引などの用事が無ければ、大抵の場合村の内部に閉じ篭っていたようである。その為に、婚姻は村内部で行われる事もしばしばあり、血が濃くなっていったという。その場合、やはりというか奇形児の発生もかなりあったのだと云う。それを危惧して、例えば沿岸から海産物を売りに来た人物に、家の娘を嫁にやるなどという親同士の結び付きが生まれ、娘達は、まだ見ぬ旦那と婚姻を果たさねばならない憂き目にもあっていたようだ。
しかし東禅寺の若坊主が夜這いしていたのと同じように、各村々でも夜這いは行われていたようだ。家の者にとっては、まだ嫁入り前の娘が妊娠したとなると、誰の仕業か!と激高してしまったようだ。何故なら、親同士の取り決めで、嫁ぎ先が決まっていた場合、その娘は傷物となるわけであったから…。その為に生まれてきた赤ん坊を親は許すはずも無く、処分されたという話もまた聞いている。
神が零落して河童という妖怪になったという説があるが、人間が零落しても、やはり河童という妖怪になったのだろう。殺人事件において、被害者の体を切り刻むという行為は、相手に対する怨みの深さを表す行為であると言われる。この「遠野物語55」においても、生まれたであろう河童の子供が無残にも切り刻まれるというのは、気持ち悪いというだけでなく、それだれ憎しみを持っていた表れなのだろうと考える。そこにあったのは、もしかして人間のエゴもあったのかもしれない。
例えば、結納金というのがある。娘を嫁がせる代わりに、お金を納めてもらうというものだ。これは体の良い人身売買みたいなもので、金持ちの家に見初められれば、娘の家には多額の結納金が入る。しかし娘が傷物にされてしまうとなると、娘が孕んだ後に生まれてきた赤ん坊は、憎んでも憎みきれない存在となってしまう。これを「遠野物語55」を現代に当てはめてみれば、生まれてきたものが人間であれば殺人という罪となる。しかし、河童の子であれば人間では無いのだ。
日本語に「何処の馬の骨かわからぬ…。」などという、相手を称して動物に対比させる言葉がある。つまり日本人の意識の中に、どこか認めない相手に対しては、人間では無いと思わせる観念があるのだろう。人間を罵倒する言葉に、多くの動物の言葉があるのは、その観念を如実に物語っているのかもしれない…。
また、ある父親が生まれてきた我が子を見て「こんなの、自分の子供じゃない!」と騒いだという話を聞いた事がある。実は、生まれたばかりの赤ん坊は顔は赤く、毛も無く、へたすりゃ顔もうっ血して、人間の子供というより、猿の子供?と思わせる場合もままある。正直本当の可愛さは、やはり生まれて時間が経過してから、やっと人間に近くなるような気がする。
ある地域では、小猿を食べる習慣があるのだと。その小猿の毛をむしり茹でると、それは猿ではなく、まるで人間の赤ん坊を茹でているように見えるのだと。それを知らない者が、その茹で上がった猿の子を食べる姿を見れば、まるで人間の赤ん坊を食べているようだと。
つまり、生まれたての赤ん坊という存在は、人間であって人間には成り切れていない存在でもある。テレビなどで登場する赤ん坊は、本当に可愛らしい赤ん坊を採用してブラウン管に映し出されているのだが、なかには実際に人間の子らしからぬ赤ん坊に見える赤ん坊もいるのは、否定できない事実だと思っている。
ただ「遠野物語55」に登場する河童の子を産んだ娘は、既婚であるにもかかわらず、河童の夜這いを受けた事になる。ただしだ…この娘の家は有力者の家であるという事は、娘も何不自由なく過ごし、野良仕事に従事する娘達とは、肌の色も白かったと思われる。美人の定義に色白というのがあるが、大抵の場合は野良仕事をしない良家の娘が殆どそれに当てはまる。
オシラサマの話でもそうだか、大事な娘に手を付ける者は酷い仕打ちを受けるもの。ただ、良家の家の娘ほど自由奔放であり、自らの思いを成し遂げるのを普通にやってのけるものだ。オシラサマの話でも、自分が愛した存在が馬であれば、その馬を求める。オシラサマの物語も、この河童の子を産んだ話も、実はそれほど違う話ではないのかもしれない。
この「遠野物語55」は既婚でありながら、未婚時代に結ばれていた男を家に呼び込み結ばれた話でもあったのかもしれない。ここに良家の娘の、自由奔放さが伺われる。ただし世間体から、河童の夜這いとなって伝わった可能性がある。
ところで「遠野物語56」では、その生まれた”河童の子”を”道がえ”に棄ててきたとある。道がえとは村外れなどの辻であり、村外れの辻は異界の入り口でもある。魔物が現れる、侵入する場所でもあるので、石碑・石塔を建てるのは、その侵入を防ぐものでもある。逆に、河童の子をそこに棄ててくるのは、異界に返すという意味合いも込められているのだ。]]>
「遠野物語54(機織)」
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2010-12-09T12:22:00+09:00
2020-09-13T22:54:14+09:00
2010-12-09T12:22:24+09:00
dostoev
「遠野物語考」50話~
閉伊川の流れには淵多く恐ろしき伝説少なからず。小国川との落合に近き所に、川井と云ふ村あり。其村の長者の奉公人、ある淵の上なる山にて樹を伐るとて、斧を水中に取り落としたり。主人の物なれば淵に入りて之を探りしに、水の底に入るまゝに物音聞ゆ。之を求めて行くに岩の陰に家あり。奥の方に美しき娘機を織りて居たり。そのハタシに彼の斧は立てかけてありたり。之を返したまはらんと言ふ時、振り返りたる女の顔を見れば、二三年前に身まかりたる我が主人の娘なり。斧は返すべければ我が此所にあることを人に言ふな。其礼としては其方身上良くなり、奉公をせずともすむやうにして遣らんと言ひたり。
その為なるか否かは知らず、其後胴引など云ふ博打に不思議に勝ち続けて金溜まり、程なく奉公をやめ家に引込みて中位の農民になりたれど、此男は疾くに物忘れして、此娘の言ひしことも心付かずしてありしに、或日同じ淵の辺を過ぎて町へ行くとて、ふと前の事を思ひ出し、伴へる者に以前かゝることありきと語りしかば、やがて其噂は近郷に伝わりぬ。
其頃より男は家産再び傾き、又昔の主人に奉公して年を経たり。家の主人は何と思ひしにや、その淵に何荷とも無く熱湯を注ぎ入れなどしたりしが、何の効も無かりしとのことなり。
「遠野物語54」
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この閉伊川と小国川の合流地点に腹帯ノ淵と呼ばれる淵があり、古来から大蛇が棲むと云われてきた。ところで出雲には、斐伊川というのがある。閉伊の語源は定かではないが、出雲の斐伊川には、有名なヤマタノオロチの話があり、産鉄と繋がる。実は、この閉伊川と合流する小国川は白望山を源流として流れ落ちて合流するのだが、この白望山にはタタラが存在する。もしかして閉伊川は、出雲の斐伊川の転訛によってなったとも考えられるのではないか?
また文中の記述に”ハタシ”と書き記しているのがあるが、これは機織の事である。しかし白望山の麓に琴畑という集落があるが、実はこの集落には秦氏が流れ着いて居ついたという伝説がある。畑仕事の合間に琴を奏でたので、琴畑となったというのだ。白望山を中心に、各々の麓に様々な伝説が広がっているのだと考える。白望山の伝説は産鉄集団から広まったものが多いのではと思うのだが。
水辺に住む機織女の話は、日本だけでなく、世界中に広がる。鳥の系統トーテムを持つ産鉄騎馬民族が蛇信仰を持つ農耕文化地域に侵入する。軍事的な征服者はやがて、征服した地の豊かな文化に魅了され、文化的な被征服者となったパターンが、いつくか存在する。鳥のトーテムが蛇にとって代わるのだ。
元々白鳥であれ鶴であれ、首の長い箇所は蛇とも混同された。馬が水に入れば龍となり、白蛇が自ら天空へと飛べば白鳥に変化するのは古今東西の物語に記されている。となればヤマトタケルが白鳥になって飛ぶ、もしくはヤマタノオロチ退治の話が、狩人や鍛冶屋、もしくは百姓が白鳥乙女、もしくは天女を捕まえた話との混同、いや混沌というべきか。また蛇神が白鳥を捕らえて竜宮へ連れて行く話となり、水辺の白鳥は機織姫へと変化する。これらは蛇神信仰と産鉄・鍛冶民族との融合となって複雑に絡み合う。
【山神神社に祀られている神像と一緒にある斧と石臼のミニチュア】
この「遠野物語54」では斧を返す代わりに、長者の奉公人の羽振を良くする。また「遠野物語27話」では蛇神である淵の主の宝である石臼を手にし繁栄した池端家の伝承がある。斧も石臼も採掘に関係あるものだ。つまり富を得る話は、採掘・産鉄と繋がっていくのだろう。もしかして黄金を手にした話の変化だったのかもしれない。]]>
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