遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
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又兵衛の矛(其の三)

f0075075_16132484.jpg
画像は里中満智子「ギリシア神話」から三叉槍を持つポセイドン。

又兵衛人形と杖の井の伝承を掛け合わせて浮かび上がるのは、ギリシア神話のポセイドンの三叉の鎗ではないだろうか?ポセイドンは海の神であり、地震の神でもある。E・ナック「古代ギリシア」によれば、三叉の槍により地面を引き裂くと水が噴出する事から、ポセイドンは泉と川の神でもあったという。これと同じものは「又兵衛の矛(其の一)」で紹介したように”杖の井”の伝承であろう。これには何故か弘法大師が数多く登場し、同じように地面に杖を突き刺すと水が涌いたなどの伝承が全国に拡がる。樹木は地下との交流アイテムであるとされるが、日本での地下とは根の国・底の国であり黄泉国を意味するのだが、ポセイドンの形容に「大地を抱く者」「大地を揺する者」があるが、三叉槍によって地面を突き刺し水を湧かせる事から大地の奥底に関係する神として知られ、冥界の神ハデスと同一視されていたようだ。「ギリシア神話」では、天をゼウスが、地下である冥界をハデス。そして海をポセイドンが支配した事にされているが、ポセイドンそのものはゼウスやハデスよりも古くから信仰されていた神であったようだ。これが日本神話になれば、太陽であり天が天照大神となり、月が月読命で海原が素戔男尊という事になっている。しかし、海原を支配している筈の素戔男尊は、根の国をも支配してしまった。思うのだが、太陽の光の届かない夜は、ある意味冥界にも等しいのかもしれない。その月の輝く夜を支配したとされる月読命だが、「古事記」「日本書紀」で大気都比売神と保食神という神のストーリーに素戔男尊と入れ替わり、関わって来る。これはポセイドンとハデスが同一視されていたように月読命と素戔男尊が同一視して良いほどの、怪しい入れ替わりであると思われる。

またポセイドンに対しての生贄として馬を捧げる信仰があったのだが、古代日本においても、丹生川上神社に生きた馬を生贄として捧げた事から、水神に対する信仰がギリシアと日本とで重なってくる。また藤縄謙三「ギリシア神話の世界観(ポセイドン神の成立)」によれば、ポセイドンの名前は「大地」と「夫」の結合語で「地母神の夫」という名前であると云う。杖を大地に突き刺すのが大地との交流であり、聖婚を意味する様である。それはつまり、水源を示すものであり、地母神の場所を示すものと考えて良いのではないか。昔観た映画「人食い残酷大陸」においても、男がペニスを立て、大地に穴を掘って腰を振るのも大地との聖婚であり、豊穣祈願の神事であった。考えてみれば、鮭は女神を慕って溯上するものと考えられている。また「肥前国風土記」「遠野物語拾遺33」の話も女神を慕って鮫や鰐が溯上するのも同じ。水源が女神の位置を示すものであるならば、それに鮭などが群がるのも女神との聖婚を求めてのものかもしれない。
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又兵衛祭の祭壇を見て、やはり重要なのは、又兵衛人形だろう。この祭において又兵衛人形は、そのまま突き刺すのではなく、まず穴を掘ると川側なので水が湧き出す。その水の湧き出した場所に、又兵衛人形を差し込むのだが、本来はそのまま突き刺していたのではなかろうか。不安定な為、確実に又兵衛人形を刺し飾るのは、穴を掘った方が無難だったからではないか。穴を掘って水が湧くというのも川側だからだけでは済まされなく、やはり水源を意図する必要からではなかっただろうか。そして気になるのは、”犯罪者”である又兵衛を槍で突くのが三本の槍によるものであるという事。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
石上山の麓に、沼平という地名があり、そこはかって大きな沼であったという。その沼には大蛇が棲んでおり、いつも暴れるので村人は、恐れていたそうな。その話を聞いた東禅寺の無尽和尚が大蛇退治をし、その大蛇を供養したのだと。大蛇は沼の傍らに埋め、その上に柳の木の枝を逆さにして弔ったという。死人のあった時、その墓場に柳の枝を逆さに立てて拝むと、死人は極楽往生が出来るとという事である。無尽和尚は、大蛇の極楽往生を願ったのだろう。今でも沼平には、逆さに立てた柳の枝に根が生えて育ったと云われる古木が残存している。

                           「上閉伊今昔物語」

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遠野にもいくつかあり、また全国にも弘法大師などが植えた逆さの樹木伝説がある。樹木を逆さに植えるという事は、樹木の根を上にするという事。先に紹介したように、樹木の根は地面の下に拡がるものであるから、樹木とは現世と根の国であり、黄泉国との入り口でもある。その樹木を逆さにすれば、根が広がる形である。又兵衛人形は、樹木を逆さにした形を意味しているのではないか。
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程洞神社に、二又に分かれた杉の木がある。その間に小さな社を置いて祀っている。二又とは女性の股を意味し、その間は子供の生まれる場所で聖なる場所の意味もある。それは、形を変えて信仰されている。例えば四畳半の半畳を真中にしてはいけないという禁忌がある。これは昔、切腹する場が四畳半で半畳を真中にしたからだとされるが、その真意は真中は霊界と繋がると云う迷信からの発生の様だ。これは八畳間の真中でも、同じような禁忌がある。また現代でも未だに行き続ける迷信に、三人で記念写真を撮ると真中の人物は早死にするとか、悪い事が起きると云われる。これもまた二又の真中が何かを発生させる場所であり、それが悪い方向へと考えられた為の様だ。とにかく二股の真中は、何かが発生する聖なる場所であるのだが、これが恐らく樹木を逆さに植えたという伝承に結び付いているものと思える。つまり、樹木を逆さに植えたという伝承も、地面に杖を突き刺して水が涌いたという伝承も、同根から分離したものであろう。又兵衛祭における又兵衛人形もまた、その亜流であると考えて良いのではなかろうか。ただしその原型は、どうもポセイドン信仰に行き着きそうである。

以前書いた「遠野物語拾遺20」の話は、まるで北欧神話「バルドル」の話と同じであった。ギリシア神話や北欧神話がどういう経路で日本に辿り着いたのか、それを紐解く資料に乏しいので、そこまではやろうとは思わない。ただ言えるのは、全くの影響無しに日本神話が作られたものととは考え辛いという事。別に、伊弉諾の黄泉国からの帰還も、「ギリシア神話」でのオルフェウスの話に酷似している事は、あまりにも有名な話である。また別に熊野の鴉の牛王神(ゴオウジン)が、もしかして北欧神話のオーディンではないかと噂されるのも、完全に否定できるまでの根拠に乏しいからである。時代を考えみても、明らかに日本神話より北欧神話やギリシア神話の方が、遥に昔の話である事から、現代では模倣と云われてもおかしくはない。また、遠野のデンデラ野の語源が未だに不明であるが、古代エジプトのハトホル神殿はデンデラという地に鎮座しおり、デンデラは魂の復活の意味があるという事から、もしかして遠野のデンデラ野の源流もエジプトに!?となりそうな気配もある。しかしどう考えても荒唐無稽にも思えるが、完全否定できないのもまた事実ではある。ただ、古代日本に大陸から、あらゆる人々が日本に渡り集り、また遣唐使や遣隋使などからも日本人が大陸に渡り、様々な知識や伝承を持ち帰っているのも確かである。又兵衛人形は、「杖の井」「逆さに植える樹木譚」の亜流であると思えるが、やはりその原型はポセイドンの三叉鎗から来ているものであると考えた方が自然ではなかろうか。

# by dostoev | 2018-04-15 21:17 | 民俗学雑記

又兵衛の矛(其の二)

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岩手県宮古市に、奇妙な祭が伝わる。神野善治「鮭の精霊とエビス信仰 -藁人形のフォークロア-」によれば、藁で作られたY字型の人形は又兵衛と呼ばれ、地元では逆さ磔にされた後藤又兵衛の姿を象ったものとされているよう。しかし、この後藤又兵衛という名前は後から付けられたものであるようだ。初めに信仰儀礼があり、後から人形の股を開いた形に、又兵衛という名前を付けて作られた伝説であるようだ。取り敢えず「宮古のあゆみ」に、それが記されている。

「時代は不明であるが、南部藩が津軽石鮭川を直営した頃、後藤又兵衛という役人が、津軽石に出張して来た。其の年は未曽有の豊漁であったが、住民は、打ち続く凶作で、南部藩の援助も及ばず餓死者が続出した。又兵衛が『神が村人に与えた鮭である。この様な時に鮭を与えることが殿様の慈悲である』と言って、自由に鮭を住民にとらせた。人々は、この又兵衛の慈悲行によって救われた。南部藩庁では行き過ぎとして、又兵衛を逆さ磔の極刑に処した。津軽石人は、又兵衛の『身を殺して仁をなした』人間愛を銘記して、旧暦十一月一日、寒風すさむ丸長川原に、又兵衛刑死の姿に、藁人形を作り、神酒を捧げて又兵衛のに霊を慰め、加えて豊漁を祈念する習慣になっている。」

この後藤又兵衛という人物が南部藩の役人となっているが、該当する人物は存在せず、また南部藩において、実際にこういう事件の記録も無い事から、やはり後から話が加えられたものと考えられている。ところで谷川健一監修「鮭・鱒の民俗」での谷川健一は、又兵衛人形の又の形状は、恐らく鮭の尾ヒレを表しているのではないかと考えているようだ。また、鈴木鉀三「三面川の鮭の歴史」によれば、三面川の河口から五十町ほどの地点に標をたて、御境としたという。その御境から下流に又兵衛という名称があった事から、又兵衛という名称は漁場との関連、もしくは二股に分かれた川に関連しているものとも考えられているようである。

この鮭が溯上し、又兵衛人形が立てられる川は、宮古市の津軽石川となる。この津軽石川に鮭が溯上する由来譚に、何故か弘法大師が登場している。そのあらすじを下記に紹介しよう。

「この津軽石というのは、津軽の黒石という所から来た人達の作った村で、その昔はシブタミ村といったという。昔、弘法様が津軽を漫遊していた時に黒石の川で鮭がとれているのを見て、これを食べてみたいなぁといったが、村の人は乞食坊主みたいな者に何もやれないとことわった。弘法様は仕方無くそこの河原の石をひとつ拾って来た。そして弘法様がこの津軽石を訪ねて来た時に、川で同じように鮭がとれていて、食べたいなぁというと、村の人は鮭を煮たり焼いたりして御馳走してくれた。ほうしてタモトから石をとり出して川にほうりなげて、今後いつまでも鮭が帰ってくるように祈ったと。ほれから、弘法様が津軽から石を持って来て鮭がとれるようになったのでシブタミ村を津軽石という名前にしたわけだな。(宮古市在住の方の談)」

鮭の溯上に宗教者が関わっているのは「又兵衛の矛(其の一)」にチラッとは書いた。その中で多いのが、弘法大師である。東北地方に広く分布する「弘法とサケ」という弘法伝説であるが、これは鮭に限らず前回紹介した「杖の井」などもそうである。遠野にも来た筈の無い弘法大師伝説がいくつかあるが、恐らく信仰の変遷からの流れであったろう。東の天台、西の真言と云われる様に、東には天台宗の慈覚大師伝説が多く、また別に西には真言宗の弘法大師伝説が多くあった。しかし、早池峯妙泉寺そうであったが、当初天台宗であったものが真言宗の支配に移り変わっていた。天台宗から真言宗に代わった事によるのか、真言宗は、弘法大師の奇跡の伝説を広める事によって、天台宗からの信者を獲得していった経緯もあるのではなかろうか。
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この又兵衛人形の起源だが、同じ宮古市内の山口の小笠原家で発見された天保四年(1833年)の「覚書」の文書に「小盗はやり盗まづり、人形作、鎗つきまくり、三日の内まつり申候」という記述から、盗人送りの人形突きの祭があった事が確認された。これは別に津軽石地域の出来事が記されている安永六年(1777年)の「日記書留帖」には、一匹の鮭を盗んだ浪人が村人達によって殺され、その祟りによって鮭が上らなくなったので、それから河原で祭をする事になったと記されているようだ。内容は祭場の側に穴を掘るのだが、川の側である為にすぐに水が溜まる。そこに等身大の藁人形が運ばれ、二人の人間によって足を一本ずつ掴まれ、腹這いの格好で頭を水溜りの穴に突っ込まれる。そこへ竹槍を持った三人の男によって藁人形は槍で突き刺され、穴の中に蹴り落し土をかぶせて埋め、墓を作って供養するという盗人除けの呪いの祭りであったよう。飢饉の時は食料の盗難が深刻な為に、この祭が行われたのではないかと憶測されている。しかし、菅豊「修験がつくる民俗史」によれば盗人送りの祭とは別に、18世紀初頭には既に鮭に関する儀礼があった事を紹介している。それは毎年鮭漁の開始時期に稲荷山へ登り、湯釜を立てて、その託宣によって漁の豊凶を占ったようだ。そして河原においては「くいを立て、神になぞらえて…。」と、又兵衛人形と似たような儀礼が行われたようである。現在の又兵衛祭りは、この鮭に関する儀礼に盗人除けの呪術が結び付いて出来上がったものだと考えられている。恐らく又兵衛という名前も、鮭の儀礼で立てられた人形の形状から名付けられたものであろう。つまり、元々鮭の儀礼に立てられた人形の形は二又であったと思われる。

# by dostoev | 2018-04-04 06:24 | 民俗学雑記

又兵衛の矛(其の一)

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遠野の町に宮という家がある。土地で最も古い家だと伝えられている。この家の元祖は今の気仙口を越えて、鮭に乗って入って来たそうだが、その当時はまだ遠野郷は一円に広い湖水であったという。その鮭に乗って来た人は、今の物見山の岡続き、鶯崎という山端に住んでいたと聴いている。その頃はこの鶯崎に二戸愛宕山に一戸、その他若干の穴居の人がいだかりあったともいっている。

この宮氏の元祖という人はある日山に猟に行ったところが、鹿の毛皮を著ているのを見て、大鷲がその襟首をつかんで、攫って空高く飛び揚がり、るか南の国のとある川岸の大木の枝に羽を休めた。そのすきに短刀をもって鷲を刺し殺し、鷲もろ共に岩の上に落ちたが、そこは絶壁であってどうすることも出来ないので、下著の級布を脱いで細く引裂き、これに鷲の羽を綯い合せて一筋の綱を作り、それに伝わって水際まで下りて行った。ところが流れが激しくて何としても渡ることが出来ずにいると、折りよく一群の鮭が上って来たので、その鮭の背に乗って川を渡り、ようやく家に帰ることが出来たと伝えられる。

                       「遠野物語拾遺138」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
何度か記事に取り上げた事のある、宮家と鮭の関係。実はこれ以外にも、佐々木喜善「聴耳草紙」「鮭魚のとおてむ」というタイトルで、別の話が紹介されている。
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昔、遠野郷がまだ大きな湖水であった頃に、同町宮家の先祖が、気仙口から鮭に乗って、この郷へ入って来たのが、この郷での人間住居の創始であるというように語られている。

この家の幾代目かの主人、大層狩猟が好きであった。その頃今の松崎村のタカズコという所に、鷹が多く棲んでいて飛び廻り、人畜に危害を加えてしようがなかった。この人ある日その鷹を狩り獲ろうというので、山へ登って行くと、かえってやにわに大鷹に襟首をとらえられて宙高く引き上げられてしまった。その人はどうかして逃れようと思ったけれども、かえって下手なことをしたなら天から堕落される憂いがあるからそのまま拉し去られて行くと、やや久しくして高い断崖の上の大きな松の樹の枝の上に下された。その人は腰の一刀を引き抜いて隙があったらその鷹を刺そうと構えたが、どうも寸分の隙もあらばこそ。そうしているうちにどこからか一羽の大鷲が飛んで来て、鷹の上を旋回して、鷹かまたは自分かを窺うもののようであったが、鷹が首を上げてそれを見る隙に、その人は得たり賢こしと一刀を擬して柄も通れよとばかり鷹の胸を刺し貫いた。何条堪まるべき、鷹は一たまりもなく遥か下の岩の上に堕ちた。それと一緒にその人も岩の上へ落ちたが鷹を下敷にしたのが幸いに怪我はなかった。

そのうちにかの大鷲も、いずこへか飛び去ったので、そこを立ち去ろうとして、よく見るとそこは海と河との境に立った大岩であった。そこで自分の衣物を脱いで引き裂き、斃れた鷹の羽を絡んで一条の網を作って、これを岩頭に繋ぎ、それを頼りとしてだんだんと水の近くへ降りて見ると、水が深くてなかなか陸の方へ上ろう由もなかった。途方に暮れていると折しも一群の鮭魚が川を上がって来た。その中に一段と大きな鮭が悠々と岩の岸を通って行くから、その人は思わずこの大鮭の背に跨った。そしてやっとのことで陸に近づき上陸をして四辺を見れば、そこは気仙の今泉であった。

その人はすぐに故郷へ帰ることもならない事情があったと見えて、しばらくその地に足を停めているうちに、世話する人があって鮭漁場の帳付となった。勿論文才もあり、勤めも怠けなかったので、大層人望が厚かった。

今泉と川を隔てた高田とには常に鮭漁場の境界争いがあって、時には人死になどさえもあった。そんな時にはその人の仲裁でどっちも納まっていたが、ある年鮭が不漁なところから人気が悪く、重ねて例年の川の境界争いも今までになく劇しかった。この時ばかりはその人の仲裁も何の甲斐もなく、日に夜に打ち続いて漁師が川の中で闘争を続けていた。その時、その人は遂に意を決して川の中央へ出て行って、両方の人々に聞こえるような高い声で叫んで言った。今泉の衆も高田の衆もよゥく聴いてくれ。今度ばかりは俺の誠意(まごころ)も皆様に通らなくて毎日毎夜、夜昼こうやって喧嘩を続けているが俺にも覚悟がある。俺は今ここで死んで、この争いを納めたい。そこで皆様は、俺の首の流れる方を今泉の漁場とし、胴体の流れる方を高田の漁場としてくれ。それよいか、と言って、刀を抜いて後首から力まかせに自分の首を掻き切って落した。そしてしばらくたつと暴風雨が起こって、その人が自害した辺に中洲ができ上がった。それで両地の境界が定まって、自然と川争いも絶えたという。

その後その人の子孫は先祖の故郷の遠野へ帰った。そして先祖が鮭のために生きまた鮭のために死んだのであるからというので、家憲として永く鮭を食わなかった。もし食えば病むと伝えられて今でも固く守っている。    

                          「鮭魚のとおてむ」
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「遠野物語拾遺138」も「鮭魚のとおてむ」の二つの話は連動するものであり、どちらも常識的には有り得ない話ではある。強いて言えば、宮家と鮭には密接な関係があるという事が誇示されているかのよう。ただ、大川善男「遠野における一神社考」において大川氏は、この伝承を一笑に付し、単なる福岡県の鮭神社を模倣したものだとしている。しかし、鮭が溯上する地域は東北・北海道にかなり集中しており、その東北において、宮家の伝承に近似したものがいくつも点在している。つまり宮家が模倣したというよりも、鮭の溯上する東北を中心に広まった伝承であると考えた方が無難であろう。大川氏の指摘する鮭神社に伝わる古文書によれば、祭礼の日に社殿まで鮭が遡上してくるのだが、これは豊玉姫尊が御子である鸕鷀草葺不合尊の元へ遣わされるものであり、これを途中で殺すと”災い” があるとされる。この鮭神社の古文書に記される伝承は、鮭に助けられた宮家の伝承というより、例えば花巻市大迫に伝わる「傀儡坂物語」に近い。

大昔、亀ヶ森の蓮花田村の長が、川に登ってくる鮭が思いのほか大漁で、その鮭を運ぶ人手が足りなくて困っていた。その時、一人の傀儡女が長い旅を続けたのかボロボロの格好をして足取りも重く、村長の方に歩いてきたのだと。その道は、早池峰に続く道であったが、村長はこの鮭を運ぶのを手伝わないと、この道は通さないと言った。 そして無理やり、その傀儡女に鮭を背負わせ、何度も手荒く運ばせたところ、無理がたたり傀儡女は倒れてしまったという。

「罪の無い私を、こんな目にあわせたからには山河の形が変わり、この川の流れが別の場所に変わるまで、この川上には決して鮭を登らせないから。」

と言い残し、傀儡女は息絶えたのだと。それからこの川には鮭が登る事無く、そして傀儡女が倒れた場所を傀儡坂と呼ぶようになった。
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鮭神社の伝承では、川を遡上する鮭を途中で殺すと災いがあるとしているが、「傀儡坂物語」では、早池峯へ向かう途中の傀儡女を殺した為に、それから鮭が溯上しなくなるという災いが降りかかった。鮭は海神の使いとして溯上するものと考えられているが、「傀儡坂物語」での傀儡女もまた、海神の使いであると考えて良いだろう。菅豊「修験がつくる民俗史」を読むと、多くの宗教者が鮭の伝承に関わっているを考えみても、まず神ありきであり、その神の元に集まるものたちを邪魔する事は、神の祟りに遭うという認識で良いのだと思う。そして、その鮭の背に乗って助けられた宮家の人間もまた、海神に関係する宗教者の一人であったかとも思える。何故なら「鮭魚のとおてむ」の話では、最後に首を切り落とす行為は自らを生贄とする呪術でもある。宮家の首を切って中洲を作って境界とした話と重なるであろう話は、鈴木鉀三「三面川の鮭の歴史」にやはり鮭に関する話が紹介され、三面川の河口から五十町ほどの地点に標を立て、御境としたという。
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境界といえば、樹木が思い浮かぶ。「古事記」において、八上姫と結婚した大国主は、八上姫を因幡から出雲へ連れてきたが、本妻の須世理姫を恐れて、八上姫が生んだ子供を木の股に刺し挟み因幡に返してしまった。それからその子供の名前を木俣神、またの名を御井神といった・・・という話。この木俣神は、伯耆国の阿陀萱神社で阿陀萱奴志多喜妓比売命という神名で祀られている。その由緒は、下記の通りとなる。

多喜妓比売命は大己貴命の御子なり、母は八迦美姫命と申す。神代の昔、出雲国直会の里にて誕生あり。八迦美姫命、因幡へ帰らんと大己貴命と共に歩行し給ふ時に、御子多喜妓比売命を榎原郷橋本村の里榎の俣に指挟て長く置き給ひしときに、我は木俣神なりと申給ひて宝石山に鎮座し給へり。

また、同地に鎮座する御井神社の祭神も木俣神であり、その由緒に「木俣の神、又は御井の神と申し上げ、安産守護、水神の祖として広く信仰をあつめている。」としている。水神の祖とはどういう事なのかだが、安産守護に関しては二股は女性の股を意図としている事からのものだろう。とにかく木俣神は、御井神であり、多喜妓比売命という神名であった。この三つの神名は、まったく関係なさそうでありながら、実は深い繋がりを持つ神名である。

”樹木は地上と地下の境界”であり、地下である根の国の入口として認識されていた。遠野の東禅寺跡に、早池峰権現が無尽和尚の杖をとって地を突いたところ、水が湧きだした事から「杖(またふり)の井」、または開慶水と伝えられる。開慶水は別に早池峯山頂にもあるのだが、早池峯権現がこの東禅寺にも開慶水を与えたという話である。ところで「杖(またふり)の井」とは、二股の木を地面に突き刺して涌き出た泉の事を云う。どうやら二股の部分が地との交流を促す呪力があると信じられていたようだ。二股の杖は西洋では占杖といい、この杖で地下水や地下鉱脈を探るのに使われたという。古今東西、二股の杖は、地下との交流・交信の手段のアイテムであると認識されているのは興味深い事だと思う。

# by dostoev | 2018-04-01 09:56 | 民俗学雑記

春の兆し

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春の兆しは何かと考え、やはり自分は花が咲き始めるのが実感としてある。春一番に咲くのは、福寿草。しかし、この福寿草は、毒花としても有名だ。毒花といえば別に水芭蕉もそうである。熊は、この毒花である水芭蕉を冬眠明けに、内容物を吐き出す為に喰らう。毒を喰らう事によって、熊の一年が始まるという事。春を象徴する花が、実は毒花であるというのは、とにかく興味深い。
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福寿草は、綾織地区でよくみかける。
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とにかく、ある程度咲いていたが、これからもっと経てば、福寿草が野一面に咲き誇る。
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別に、アズマイチゲも咲いていた。体感する気温も含め、冬の終りを感じる日が続くか。ただ、2011年は3月11日の前に小春日和が続き、この様に福寿草やアズマイチゲが咲き乱れていた。しかし地震以降、急に冬が戻ってきて、4月まで雪が降り続いた。桜の開花も5月の連休になってからと、季節が地震の為に急激に変わったのを記憶している。
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フキノトウも地面から顔を出していた。恐らく、すでに出ていたのだろうが、数日前の大雨や気温の高まりから一気に雪が溶けて、顔を覗かせたのだと思う。
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大雨の影響で、山への道はどうなった?と見に行ったが、さすがにもう少しかかるようだ。だけれど着実に雪は溶けて、桜の開花まで一気にいきそうな気配を感じる。

# by dostoev | 2018-03-13 17:28 | 遠野の自然(春) | Comments(0)

「遠野物語拾遺294(遊び)」

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その他、的射り、ハマツキ、テンバタ(凧)上げ等をするのもの日で、節句前の町の市日などには、雉子の羽を飾り、紅白で美しく彩色をした弓矢や、昔の武勇談の勇士を画いたテンバタが店々に飾られた。

                        「遠野物語拾遺294」
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ハマツキというものが、わからなかった。"羽根つき"か?と思ったがさにあらず、「遠野ことば」で調べると、棒倒しとされているが、正確には「釘倒し」「釘刺し」なのだろう。地面に刺さっている相手の釘を倒し、なおかつ自分の釘が地面に刺さっていないといけないというルールらしい。また凧を「テンバタ」と呼んだというのは、自分の子供の頃には、伝わっていなかった。地域性も、あっただろうか。

この「遠野物語拾遺294」は、「遠野物語拾遺293」に続くものとして書かれているが、これではまるで正月の遊びである。憶測だが、3月3日は桃の節句で女の子の集まりだった為に、男の子は別に集まって、こういう遊びをしたという事だろうか。節句前の市日に売られているという事からも、3月3日の節句は、子供達にとって大々的なお祭りでもあったのだろう。

# by dostoev | 2018-03-12 19:13 | 「遠野物語拾遺考」290話~ | Comments(2)

「遠野物語拾遺295(女だけの集まり)」

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お雛様に上げる餅は、菱型の蓬餅の他に、ハタキモノ(粉)を青や赤や黄に染めて餡入りの団子も作った。その形は兎の形、または色々な果実の形などで、たとえば松パグリ(松毬)の様なものや、唐辛、茄子など思い思いである。これを作るのは年ごろの娘達や、母、叔母達で、皆が打揃って仕事をした。

                         「遠野物語拾遺295」
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雛祭りは桃の節句であるが、桃の"節供"でもあった。その時の季節のものを雛段に供え、神と一緒に食べ、災いや穢れを祓う儀式であった。今では色とりどりのお菓子が供えられているが、それ以前は普通に蓬餅を供えていたようだ。蓬には、病を寄せ付けない力があったと信じられていた。餅の形が菱型になったのは、江戸時代からであったよう。菱型になった理由もいろいろあるようだが、あくまでも節句の儀式の意義を前提として上書きされたもののようである。

ところで「遠野物語拾遺293」で書いたが、昔の暦によれば3月3日は「大潮」で固定されていたようだ。その為に潮干狩りの解禁の日でもあるから、旬のものとしてアサリを食べたのだろう。しかし、思う。桃の節句が女だけで組まれているのは、やはり意味があるのだろう。五節句は、穢祓の儀式でもある。その穢れとして、女だけの血穢というものがある。それを、まとめて祓う儀式であるのだろうか。3月3日が大潮であるという事は、その日は新月か満月であるという事。五穀豊穣を願う十五夜の儀式もまた、満ち足りた月を豊穣に見立ててのものである。また別に、古来から月を見ると妊娠するなどという迷信があったのも、月と女が密接に繋がっていたからであろう。ある地域の女だけの講では、大根で男根を作り床の間に飾る風習もある事から、女だけの講には性的要素が含まれているようだ。遠野の綾織地区では、女だけの山神講が組まれているが、山神に捧げるものに男根が含まれるのを考えれば、同じ流れを持つものであろう。宮田登「女の霊力と家の神」によれば以前、遠野を支配した阿曽沼氏の拠点であった栃木県佐野市では、やはり女だけの月待ち講があった。しかしそこで説かれるのは、女は存在する事自体が血穢を伴っているので罪を生じているのだと。これは仏教思想と相まって、かなり強調されているものと思える。しかし、大林太良「稲作の神話」によれば、日本神話においての大気都比売神、もしくは保食神が殺されるくだりを「豊穣を前提として女神の死があった。」と指摘している。ここでフト思うには、人身御供とされる殆どが女の娘であったという事。中世以降の男性中心の神道上の禁忌と、仏教上の女性差別はしばしば一致すると云われるのは、新たな生命を生み出す女性の出産する能力というものが男を超越する能力であるからこその妬みによる差別であったのかもしれない。しかし、いざという時の男は、その女性の能力に頼る為、神を鎮める為に人身御供として女性を差出した。

性に伴うオーガスムスには「小さな死」という意味がある。これはつまり、生殖行為には生と死が伴うという考えから出来た言葉でもあった。男にとって、血を大量に流すとは、死を想起させるものである。しかし生理や出産による出血は、女にとって普通の事であるけれど、男から見た場合、そこに生と死を見たのかもしれない。大気都比売神の死による、穀物の誕生は、まさに女の生と死を意味しているのだろう。古代では、月や太陽は、死んで再び甦る存在として認識された神でもあった。まさに男は、女に神を見たのかもしれない。

全国にいくつもの女講が組まれているのだが、遠野においての女講は、やはりオシラサマであろう。女によるオシラ遊ばせは、オシラサマについた穢れを祓うもの。しかし、自らの穢れを祓うものではない。これがもしかして3月3日の桃の節句そのものが月待ちも含めた、女性全体の穢祓の日であるのかもしれない。「遠野物語103」では、満月の夜に雪女が童子を引き連れて来るとされているが、これは満月と出産を重ね合せた話であろうか。3月3日が大潮で満月を意味する日であるならば、女達を集めてまとめて穢祓をするのは、血穢を祓うものであり、ある意味女達の死を意図してのものであろうか。そして新たなる再生をも重ねる為に大潮である満月の日に、女達だけの祭が桃の節句である雛祭りなのであろうか。黄泉国の黄泉平坂において、伊弉諾は黄泉醜女に対して桃を投げた。それによって黄泉醜女は逃げた事から、桃は厄除けの実としても尊重されたとするが、伊弉諾はその桃の実に、大いなる神の実であるとして、意富加牟豆美命(オオカムヅミ)の名を与えたという。桃の実とは、桃の木の新たな生命である。つまり桃の節句に集まる女性達は、そのまま神の新たな生命である御子を意味するのではなかろうか。

# by dostoev | 2018-03-11 14:18 | 「遠野物語拾遺考」290話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺293(三月の節句、子供達の楽しみ)」

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この地方では、三月の節句に子供達が集まってカマコヤキということをする。むしろ雛祭に優る楽しみとされていて、小正月が過ぎてからは学校の往還にも、カマコヤキの相談で持ち切りであった。まず川べりなどの位置のよい処を選んで竃を作り、三日の当日になると、朝早くから色々な物を家から持ち寄る。普通一つの竈には、五、六人から十七、八人位までの子供が仲間になって、銘々に米三合、味噌、鶏卵等の材料及び食器や諸道具を持ち寄るが、なおその上に是非とも赤魚、蜊貝などが入用とされていた。炊事の仕事は十三、四歳を頭にして、女の子供が受持ち、男の子は薪取り、水汲み等をする。そうして朝から昼下りまでひっきりなしに御馳走を食べ合うが、それだけでは満足せず、時どきよその竃場荒しをはじめる。不意に襲って組打ちをして竈を占領し、そこの御馳走を食い荒らすのであるが、今はあまりやらなくなった。もう自分の方で腹一杯食べた後であるから、組打ちには勝っても食べられぬ場合が多い。佐々木君の幼少の頃、餓鬼大将田尻の長九郎テンボが隣部落の竈場を荒して、赤魚十三切れ、すまし汁三升、飯一鍋を一人で掻きこんだまではよかったが、そのために動けなくなって、川べりまで這って行くと、食べたものを全部吐いてしまったなどという笑い話も残っていて、この地方の人々には思い出の多い行事であった。

                       「遠野物語拾遺293」
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カマコヤキというのは知らなかったが、年代の様々な子供達が集まって料理を作って食べるという、学校行事にもある野外炊事のような行事であるよう。漢字をあてれば「竈コ焼き」か。また別に「竈コ炊き」とも呼ばれた様である。雛祭が女の子限定とされる事からも、子供達にはこちらの方が楽しみだったのだろう。「注釈遠野物語拾遺(下)」によれば、昭和20年代後半まで行われていたと云う。それ以降廃れてしまったという事はつまり、戦後の物資不足の影響もあったのではなかろうか。しかしその後、この行事が復活しなかったのは、学校教育の更なる普及と学校給食が始まった為だろうか。

アサリと赤魚が食材として登場しているが、昭和の時代にはかなり流通が良くなったので遠野にもかなり普及していたのだろうか。時期的に潮干狩りの始まりでもあるが、沿岸から運ぶのにはかなり大変であったと思われる。仙人峠のトンネルが開通したのが昭和34年であるから、釜石からの海産物はこの時代、軽便鉄道を途中まで乗ったとしても仙人峠を歩いて運んだものだろう。昔の暦によれば三月三日は大潮で、潮干狩りが始まる日とされていたようだ。この三月三日にアサリを食べるのは、やはり雛祭りと同じで、その時期の旬のものを食べ、無病息災を願うと云うものであったのだろう。

ところで長九郎テンボの笑い話が紹介されているが、平成の世でも似たような話はある。例えば綾織の正〇郎という口八丁手八丁の男が農繁期に、ある農家から手伝いを頼まれた。しかし正〇郎は「腹が減って仕事が出来ないから、何か食わせろじゃ。」と。家の者は仕方なく正〇郎に食事を与えた。正〇郎は遠慮せずに出されたものを全て食べつくし、御櫃のご飯もたらふく食べたそうな。家の者は「さあ、じゅうぶん食べただろうから仕事を手伝ってくれ。」と言うと正〇郎は「お腹が苦しくて、仕事が出来ね!」と言って、その場で寝始めたそうな。家の者は呆れ果てたというが、これが笑い話として遠野のあちこちに広まったようである。

# by dostoev | 2018-03-10 19:09 | 「遠野物語拾遺考」290話~ | Comments(1)

お雛様と瀬織津比咩(其の二)

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穢祓の五節句に七夕が入っているが、七夕伝説の古くは古代中国での牽牛と織女が年に一度、天の川で逢瀬の話が広く知れ渡っている。それが日本神話においては、天安河で武装した天照大神と素戔男尊との対峙が原初となるだろう。ただ、その天照大神の武装した姿に違和感を覚える。何故なら「日本書紀(神功皇后記)」を確認してみると「和魂は王身に服ひて壽命を守らむ。荒魂は先鋒として師船を導かむ」とある。また別に「荒魂を撝ぎたまひて、軍の先鋒とし、和魂を請ぎて、王船の鎮としたまふ。」事から実際、率先して戦に参加しているのは天照大神荒魂だけであり、和魂である天照大神は皇族を護る為に、その場を動く事が無い存在となっている。また七夕の習俗に、藁の馬を作り、翌日には川へと流すものがあるが、その藁の馬は水神を乗せる為のものである。つまり七夕は星祭でありながら、水神の祭りでもある。ところが天安河で素戔男尊を対峙したのは、太陽神である天照大神というのは理に適わない。これまでに神社関連の本をいくつか読んできたが、天照大神の"荒魂"部分が省かれ、天照大神の行動であるかのようなものが、かなりある。初めに立ち返るが、五節句の根底は、水による穢祓の思想である。天安河で素戔男尊に対峙した武装した天照大神とは本来、天照大神荒魂でなくてはならない。何故なら、天照大神荒魂こそ、武神でもあり水神であり穢祓の神であるからだ。

雛祭りの雛段に飾られる人形が、男雛と女雛を主体とし、その下に五人囃子と三人官女が加えられるのだが、天照大神と素戔男尊の誓約の場面を思い起こすと、五柱の男神と宗像三女神が意図的に置き換えられたように思えてしまう。
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雛人形の源流が、男雛と女雛の一対である事は、先に記した。その雛人形に求められたのは、穢祓の思想である。「雛」とは、可愛いものでもあり、小さなものでもあるが、この場合は人間に模した形代であり依代であろう。自らに憑いた穢を形代に移して、川へと流す。ここに「大祓祝詞」の世界観が実践されているものと思える。「大祓祝詞」では、国内の穢れを瀬織津比咩が川から海へと流し、速秋津比売が受取り、最後には根の底へと速佐須良姫が導き、罪や穢れを無くすと云うもの。山中他界とも云い、また海の果ては常世の国とも云われる。地上である人間の住む世界を離れれば、その先にあるのはニライカナイか、根の国か黄泉国か。地上に住む人間にとって、高山も海も他界であった。その境界に位置し、人間の罪や穢れを受け祓う神が瀬織津比咩である。この境界に立つ女神として象徴的なのは、琵琶湖畔の桜谷における伝承であろう。琵琶湖の下もまた異界であり、俵藤太が竜宮へと引き込まれた舞台でもある。その琵琶湖畔にある桜谷には、黄泉国に引き込まれそうになる地として知られていた。そこに祀られていたのは瀬織津比咩であり、後に佐久那太理明神として佐久奈度神社に祀られたのはまさに、この世とあの世の境界に立ち、穢祓を行う女神でもあったからだ。

艮(丑寅)の方位は東北であり、また、あの世とこの世の境界でもある。朝廷の地からの艮とは、陸奥国であり、今の東北である。鬼は角が生えており、虎皮のパンツを履くのは、この艮(丑寅)の思想から来ている。艮とは、あの世との境界であるから、鬼が現れるのだ。鬼の思想は仏教からきているものだろう。穢れの黄泉国を、仏教の地獄に置き換えれば、地獄の鬼が出現する艮という方位は、穢れの方位でもある。だからこそ、穢祓の神が必要な場所でもある。養老年間に室根山に瀬織津比咩が運ばれたのは、鬼を平定する為であったと云われるが、別の意味では穢れた地の浄化の為であったと思う。そしていつしか瀬織津比咩は、早池峯山にも祀られた。始閣藤蔵が早池峯の神へ、金が採れたらお宮を建てると祈願したのは、すでに早池峯に瀬織津比咩が祀られていたのであろう。早池峯神社の創始は始閣藤蔵から始まったとされるが、それ以前に早池峯には瀬織津比咩が鎮座していたのだろう。

「早池峯山妙泉寺世代年表」において延長年中(923年~931年)に「本宮・后宮修理」と記されている。后宮とは女神であろうから、これは瀬織津比咩の事を示しているのだろう。では本宮には、なんという男神が祀られていたのか?という疑問が生じる。これは仮説になるが、神仏習合時代が始まり薬師如来の垂迹とされた神とは素戔男尊であった。御存知、早池峯山の出前には薬師岳があり、薬師信仰があったものと誰もが思っている。神仏習合時代になり水神である瀬織津比咩は、水の気の深い十一面観音と習合し、瀬織津比咩の本地は十一面観音とされ、それが今でも続いている。薬師如来の本地は妙見神とも云われるが、原初的な神が仏教と習合された時、素戔男尊の本地が薬師如来とされたのは、かなり興味深い事だと思える。今の早池峯信仰は、手前の薬師岳を含めての早池峯信仰となる事を思えば、瀬織津比咩と素戔男尊の組み合わせこそ、まさに穢祓信仰の原初となるであろう。
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「遠野物語」で有名になったオシラサマであるが、その原初は娘と馬の一対であったとされる。これは「大祓祝詞」によれば「畜犯せる罪」にあたるものである。伊弉諾と伊弉弥は「近親婚の罪」であり、いずれも"一対"でなくては犯す事の出来ぬ罪である。オシラサマもそうだが、人間の穢れを代りに受け、それをオシラ遊ばせにより祓われるものである。着せ替え人形という子供の玩具があるが、これは着せ替えをして楽しむと云うもの。しかしオシラサマの場合、着せ替えではなく重ね着をしている。それはつまり、常に人の罪や穢れを受けている状態であるという事。何故それが出来るかと言えば、オシラサマが人間を超越した神であるからだろう。神とは、人間の背負いきれない罪や穢れを、簡単に背負う事の出来る存在。そして、人がどうしても祓う事の出来ぬものを、いとも簡単に祓う事の出来る存在。その組み合わせがまさに、瀬織津比咩と素戔男尊の組み合わせだと思えるのである。「大祓祝詞」に登場する根の国底の国に坐す速佐須良姫とは、須世理姫であると云われる。素戔男尊の異称に"建速須佐之男命"というものがあり、これは速佐須良姫と同根であるとされる。根の国・底の国に住む女神とは神話上では須世理姫しかいない事からも、恐らく瀬織津比咩が人間の罪や穢れを川から海を経由して根の国底の国へと流し、全てを無くするという穢祓の思想であろう。つまりこの「大祓祝詞」からも瀬織津比咩とは、黄泉国であり、あの世の境界に坐す存在である事が解る。また「大祓祝詞」には、素戔男尊の行った罪が列挙されているが、逆に言えば素戔男尊こそが人間の罪や穢れを一身に受ける事の出来る存在ではなかろうか。罪や穢れを受け、それを祓う存在が一対の男神と女神とされるのならば、それに最適な組み合わせこそが、瀬織津比咩と素戔男尊の組み合わせであろう。「お雛様と瀬織津比咩(其の一)」に書いた様に、遠野周辺の八坂神社では、素戔男尊と瀬織津比咩の異称が習合されている場合が多い。異質は小友町の八坂神社で、主祭神は応神天皇となっているが、これも恐らく背後には神功皇后がいて、「近親婚の罪」を意図しているものと思われる。ともかく穢祓の思想によって誕生した雛祭りであり雛人形の背景には、人間を超越した力を持つ神が配されたのだろう。その男神と女神のモデルとは、素戔男尊と瀬織津比咩ではなかろうか。

# by dostoev | 2018-03-05 11:45 | 瀬織津比咩雑記 | Comments(1)

お雛様と瀬織津比咩(其の一)

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三月三日の雛祭りの日、遠野では約一週間前から「遠野町屋のひなまつり」が開催されていた。それと「流し雛」のイベントは、確か去年から行われるようになった筈。元々の発生は、古代中国の祓いの行事からだった。上巳節という三月初めの巳の日に行われたのはやはり、川と蛇が繋がるからであったろう。禊は身を削ぐ、もしくは身を殺ぐという蛇の脱皮と関連されるように、穢れた古い衣服を脱ぐ、肌に着いた穢れを落として清めるなどの生活習慣に結び付くものと、新たに生まれ変わるという意味も有している。似た様なものに、胎内潜りというものがある。早池峯山頂、もしくは小友町に胎内潜りの大岩があるが、年に一度その大岩を潜ると、生れ変る、もしくは若返るとされている。これは恐らく「諏訪縁起事」での甲賀三郎にも結び付くものと思える。狭い穴を潜るには這って進むのだが、それがまるで蛇を想起させるのだろう。甲賀三郎も狭い洞窟を這って進み、人間から蛇へと生まれ変わった。ともかく禊と蛇、そして水は、密接な繋がりにある。

ところで五節句というものは、禊祓の日でもある。一月七日は人日。三月三日は上巳の節句。五月五日は端午の節句。七月七日の七夕や九月九日の重陽の節句もまた禊祓の日でもある。その他に、六月と十二月の晦日は大祓となり、常に日本人は穢祓を意識していたのが理解できる。これらに加え、古代出雲や宗像で三月会とされていた祭礼は、今では五月に行われる、出雲大社の大祭礼となっている。そのどれも、穢祓の神を必要とする祭であった。
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雛祭りの原型は、禊祓いからの流し雛であった。そして、斎串を十字に交叉させた祓の呪具に頭部を付け、目鼻を描いた天児や這子が、男雛・女雛一対の雛人形の源流であるようだ。これらから、立ち雛が始まったとされる。祀られる神の原型は、彦神と姫神の一対が普通であった筈だが、その元親でもある伊弉諾と伊弉弥が袂を分かってからなのだろうか、仲睦まじく夫婦神として祀られているのは道祖神くらいではなかろうか?その道祖神もまた人々の穢れを引き受ける存在でもある。村境に建てられ祀られる道祖神は、賽ノ神として、村の穢れを引き受け、また外からの穢れを防ぐ神であもある。一般的に、猿田彦と天鈿女命の夫婦神が道祖神と呼ばれている。しかしその穢れ塞ぐ原初もまた、伊弉諾と伊弉弥から発生している。黄泉国から逃げた伊弉諾は、現世と黄泉国を千曳岩で塞ぐのだが、これが塞ノ神の原型となる。境界とは曖昧なもの。ましてやそれが、この世とあの世との境界であれば、尚更気を付けなければならないだろう。その境界を、古代人はしばしば意識してきた。それは、艮(丑寅)である。艮は方位であり東北を意味するのだが、その意味は「全てのモノの境」であり、空間的に言えば「あの世と、この世の境」である。それはつまり、伊弉諾と伊弉弥を隔てた境界でもある事から、艮に立つ神とは、黄泉国の穢れを祓う存在では無くてはならない筈だ。それ故に、塞ノ神でもある道祖神として猿田彦と天鈿女命が立つ事に違和感を覚える。

ところで七夕もまた禊祓いの日になっているが、恐らくその原初は、天照大神と素戔男尊が天安河原で対峙し、誓約をしたエピソードに行き着く。「大祓祝詞」を読んでいくと、そこに記されている罪のいくつかは、素戔男尊が犯したものである。その罪深き神が素戔男尊である為に、それを恐れて天照大神は武装して天安河原で対峙した事になっている。しかしここでこの神々は、五柱の男神と宗像の三女神を誕生させる。

ここでもう一度考えてみると、日本神話では伊弉諾と伊弉弥の兄妹による近親婚という罪によって、多くの神々が誕生する話になっている。また神話上は、伊弉諾の左目から天照大神が生れ、鼻から素戔男尊が生れた事になっており、右目から生れた月読命を含めて三貴子と呼ばれるが、それは三兄弟という事になろうか。その兄弟である筈の天照大神と素戔男尊が結び付いて子を成しているというのは、更なる罪を重ねたという事になろう。つまり日本の神々は、常に罪を負っている存在でもあるという事なのだろう。人がいるからこそ、祀られる神が存在するという事は、人が神々に我が罪を投影し、それを代りに受けてくれるのが神であり、それを祓ってくれるのもまた神であるという事になろう。遠野周辺の八坂神社を見ていくと、ある事に気付く。それは八坂神社に祀られる素戔男尊と合祀されているのが、早池峯大神であり、祓戸大神であり、九頭竜であり、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命となっている。名前は違うが、全て瀬織津比咩と結び付く神名となっている。

# by dostoev | 2018-03-03 21:41 | 瀬織津比咩雑記 | Comments(0)

流し雛神事の日

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今日、3月2日は流し雛が行われる日となっていた。しかし生憎の悪天候の為、神事は執り行われたが、川への流し雛の行事は中止となった。川への流し雛には、園児達が参加する予定であったようだが、吹雪の中に園児達を参加させるのはどうなのか、という事で中止になったよう。ただ穢れのついた雛は神事によって穢れが祓われ普通のモノとなった為、保管して来年の流し雛の時にでも一緒に流すとの事。
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人型の形代を紙で作った船に乗せて流すのは、自分自身の依代に穢れを付け祓って川へと流すものであり、雛祭りの原型となる。古くは古代出雲や宗像で三月会とされていた祭礼で、穢祓の神を必要とした神事でもあった。今では五月に行われる、出雲大社の大祭礼となっている。
ところで神事が始まる寸前に、タッチ式自動ドアが誰もいないのに開いた。何人かの意識が玄関にいくも、そこには誰も居ない。その後に遅れて来た人も普通に自動ドアを開けて入った事から、この時だけ異様な感じがした。もしかして、誰かが入って来たか、もしくは出て行ったのだろうか?
その後に神官さんから祝詞が唱えられ、神事が始まった。
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本来は、来内川へと流す流し雛が、ここから行われる筈だった。昨日は暖かく一日雨が降っていたが、夜になって気温の低下と共に雪に変わり、風も強くなった。それが今日、三月二日には朝から吹雪となっていた。形代と紙で作った船を流そうにも、流す前に強風で吹き飛んだかもしれない。


# by dostoev | 2018-03-02 15:59 | 遠野体験記 | Comments(0)