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  <title>不思議空間「遠野」　－「遠野物語」をｗｅｂせよ！－</title>
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  <modified>2026-01-01T20:18:23+09:00</modified>
  <author><name>dostoev</name></author>
  <tabline>遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求</tabline>
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    <title>早池峯神社への初詣(2026.01.01)</title>
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    <issued>2026-01-01T17:12:00+09:00</issued>
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    <author><name>dostoev</name></author>
    <dc:subject>遠野情報(雑記帳)</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202601/01/75/f0075075_17011850.jpg" alt="_f0075075_17011850.jpg" class="IMAGE_MID" height="334" width="500" /></center>今年は、午前中は出れなくて、午後になってから遠野の早池峯神社へと初詣。神社へと向かう途中ですれ違う車もそこそこいたので、午後になっても早池峯神社への初詣客はそれなりにいるようだ。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202601/01/75/f0075075_17060562.jpg" alt="_f0075075_17060562.jpg" class="IMAGE_MID" height="334" width="500" /></center>とは言っても、そんなに混雑する事無いのが早池峯神社でもある。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202601/01/75/f0075075_17065790.jpg" alt="_f0075075_17065790.jpg" class="IMAGE_MID" height="320" width="480" /></center>社務所へと向かう、初詣客。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202601/01/75/f0075075_17080452.jpg" alt="_f0075075_17080452.jpg" class="IMAGE_MID" height="480" width="344" /></center>ところで去年、客に見せてもらった神符がある。今まで遠野の早池峯神社では、祀る神をあくまで早池峯大神としており、神名である瀬織津比咩の名前は扱われなかった。ところがどうやら去年あたりから、神名を扱う神符も販売するようになったようだ。少々絵柄が漫画っぽい気もするが、これはこれでいいのだろう。<br />
<br />
<br />
]]></content>
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    <title>岩手県に歴代総理大臣が多い理由の俗説</title>
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    <issued>2025-12-31T12:00:00+09:00</issued>
    <modified>2025-12-31T12:00:03+09:00</modified>
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    <author><name>dostoev</name></author>
    <dc:subject>民俗学雑記</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202511/23/75/f0075075_07082722.jpg" alt="_f0075075_07082722.jpg" class="IMAGE_MID" height="677" width="500" /></center>岩手県出身の総理大臣が過去に、原敬、斉藤実、米内光政、東條英機、鈴木善幸と5人いる。これは山口県、東京都に次ぐ全国3位であり、当然の事ながら東北では1位という結果となる。しかしその根底には、藩政時代の苦難の歴史からだという俗説が存在する。<br />
<br />
岩手県を南部藩とした場合の、全国一位というものがある。それは、百姓一揆の多さである。だいたい江戸時代になってから明治維新までの間に起きた百姓一揆は、伊達藩で５件である。ところが南部藩においては、１５３件も発生しているのは異常である。その根底には飢饉があるものの、百姓一揆の発生には、藩の失政が大きかったようだ。<br />
<br />
<br />
例えば享保十二年から三つの村の地頭であった南部藩士の四戸氏は、私生活と藩の役目を務めるが、生来が横暴で贅沢で失費が多く、３５年に渡りその肩代わりを農民に押し付けていた。例えば御用金の申付けは、多い時は一年で５、６回(享保三年、文化四年、十二年)も徴収していた。また文政四年には法外な税金を命じ、反対農民からは土地を没収。南部藩内でこういう統治が行われていれば、自然と農民達から「伊達藩へ移りたい」という声が聞こえてきたそうである。<br />
<br />
<br />
ところで、南部藩を小馬鹿にした有名な話がある。伊達藩と南部藩との境界を定めようと、夜明けと共に各々、その定めようとする地域へと向かい、落ち合った場所を境界に定めようした。ところが、伊達藩は早い馬に乗ってきたが、南部藩は歩みの遅い牛に乗って来た為に、かなりの境界を損したという話を昔からよく聞いていた。これが作り話というのは理解できるが、どこから発せられた話かと考えた場合、恐らく南部藩の内部の民衆から出てきたのではと思ってしまう。何故なら、南部藩の圧政に苦しみ伊達藩の優良さに憧れた民衆の抵抗の一つとして作られた話と思ってしまうのだ。<br />
<br />
<br />
ここでは１５３件も起きた百姓一揆の背景を紹介しようとは思わない。ただ江戸時代から、南部藩が統治した約２６０年余りに発生した１５３件もの百姓一揆には、必ず数多くの百姓を束ね指導する者達がいた事実がある。その指導者たちは、南部藩に百姓一揆の代表として罰せられ、処刑されてきた。それにも関わらず、常に百姓一揆の指導者を輩出してきた歴史が、南部藩であり岩手県の人々の中に存在していたのではないか。日本一多かった百姓一揆の歴史から岩手県民の中に脈々と受け継がれたものが、歴代の総理大臣を輩出した根底にあるのではないかとの俗説があるようだ。<br />
]]></content>
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    <title>遠野の要石トイウモノ</title>
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    <issued>2025-12-05T16:46:00+09:00</issued>
    <modified>2025-12-05T16:46:16+09:00</modified>
    <created>2025-12-05T16:46:16+09:00</created>
    <author><name>dostoev</name></author>
    <dc:subject>「トイウモノ」考</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202511/26/75/f0075075_17580182.jpg" alt="_f0075075_17580182.jpg" class="IMAGE_MID" height="625" width="500" /></center>上の図を見てわかる通り遠野には、全部で13か所の要石伝承が伝わる。これは、伊能嘉矩「猿ヶ石川流域に於ける不地震地帯」で紹介されているものからの引用。ところで全国的に見た場合、要石の伝承が伝わっているのは、かなり限られている。ネットで検索しても、出てくるのは有名な鹿島神宮と香取神宮。そして、鹿島神宮から要石を分霊された宮城県の鹿島神社。他には、静岡県の要石神社くらいだった。野本寛一「地霊の復権」にも要石が紹介されており、そこには三重県の伊賀に鎮座する延喜式式内社大村神社の要石が紹介されており、それ以外はネットで検索したものと同じだった。つまり、全国で要石があるとわかっているのが五件しかないという事からも、要石は希少だと理解できる。<br />
<br />
これらとはまた別に、伊能嘉矩は「猿ヶ石川流域に於ける不地震地帯」において、「古事記」を引用し「多芸志之小浜」の地も要石のある不地震地帯ではないかと述べている。この多芸志之小浜とは、出雲大社の鎮座する地である。<br />
<br />
<br />
「大倭日高見の國を安國と定め奉りて下つ磐根に宮柱太敷き立て　高天原に千木高知りて　皇御孫命の瑞の御殿仕へ奉りて　天の御蔭日の御蔭と隠り坐して　安國と平けく知ろし食さむ國中に成り出でむ」<br />
<br />
<br />
早池峯の神名が登場する「大祓祝詞」に、上記の一文がある。簡単に訳せば、安定した地盤に神社を立て神を祀り、この国を治めるという事。出雲大社もそうであるように、神社が建立される地には、古代から安定した地盤が求められている。遠野の13か所の不地震地帯でも、殆どが神や仏を祀る地となっている。<br />
<br />
<br />
もう一度、上の図に戻るが、何故に早池峯神社を中心に放射状に広がっているような図にしたのかというと、基本的に要石は神社の敷地内に置かれているものであると理解できるからだ。その遠野の13か所もの要石の中で、一番古くに要石伝承があっただろうと想定できるのは、やはり遠野で一番古い早池峯神社であろう。それ故、早池峯神社を中心とし遠野郷全体に、地震の来ぬ地が制定された可能性はあると思う。何故なら、遠野七観音の制定も似たようなものであろう。十一面観音の中心が早池峯神社であり、それを遠野郷にさらに分布させたが最後は、早池峯へと帰結する流れ。言葉を換えれば北極星である早池峯の周りを回る北斗七星のようなものが、遠野七観音か。また、岩手県内にいくつもある三女神伝説もまた早池峯へと帰結する事からも、北極星の様に常に中心となるのは早池峯である。そう、常に早池峯が信仰の中心となっていると思ってよいだろう。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202512/01/75/f0075075_10122973.jpg" alt="_f0075075_10122973.jpg" class="IMAGE_MID" height="360" width="480" /></center>それでは何故、早池峯神社に要石伝承があるのか。恐らくだが、玄武が関係しているのではなかろうか。「日本書紀(推古天皇七年夏)」に、こう記されている。「地震りて舎屋悉く破たれぬ。則ち四方に令して、地震の神を祭らしむ。」と。この地震の神が定かではないが、推古時代において、気になるものがある。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202512/05/75/f0075075_09553066.jpg" alt="_f0075075_09553066.jpg" class="IMAGE_MID" height="375" width="500" /></center>その気になるものとは、推古天皇時代に造られたとされる上の画像の亀石。私は、これが要石ではなかったかと考えている。亀石とされるが、要は玄武をイメージしたものではなかろうか。玄武は、守護や不滅、永続などの象徴である事からも、地震の来ぬ安定の地のシンボルとして好ましい。ましてや、北に聳える早池峯の神は、妙見神とも重なる水神である。それ故に、不地震伝承が付随するのは、当然の事だと思える。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202512/05/75/f0075075_10452832.jpg" alt="_f0075075_10452832.jpg" class="IMAGE_MID" height="375" width="500" /></center>また、早池峯妙泉寺の末寺であった土淵の常堅寺には亀甲の石垣が採用されているのも、北の玄武を意識した早池峯の影響を受けてのもののよう。つまり、玄武の堅朗を願ってのものだったろう思う。また玄武は、北方七宿を束ねる神格である事から、遠野七観音は北斗七星ではなく、北方七宿(斗・牛・女・虚・危・室・壁)を意図して建立された可能性もあるのではないか。<br />
<br />
<br />
<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202512/01/75/f0075075_10123697.jpg" alt="_f0075075_10123697.jpg" class="IMAGE_MID" height="360" width="480" /></center>とにかく遠野が全国と違って異様なのは、神社境内内部では無く、遠野郷全体に要石伝承が点在しているという事。ただそれを納得する、一つの理屈が存在する。それは、遠野郷全体を宮とする考えだ。先に紹介した早池峯の女神の名前が登場する、天智天皇時代に作られた「大祓祝詞」の一節。<br />
<br />
<br />
「大倭日高見の國を安國と定め奉りて下つ磐根に宮柱太敷き立て　高天原に千木高知りて　皇御孫命の瑞の御殿仕へ奉りて　天の御蔭日の御蔭と隠り坐して　安國と平けく知ろし食さむ國中に成り出でむ」<br />
<br />
<br />
この冒頭の「大倭日高見の國を安國と定め」とあるのは、大和国が蝦夷国の別称である日高見国の平定を述べている。養老二年(718年)に室根山周辺の地域を平定するために、紀州熊野から熊野大神である早池峯の女神が運び込まれた。早池峯の女神は、伊勢神宮の荒祭宮に祀られる天照大神荒魂でもある。<br />
<br />
<br />
「日本書紀(神功皇后記)」で三韓征伐に出航する前「和魂は王身に服ひて壽命を守らむ。荒魂は先鋒として師船を導かむ」とある。「住吉大社神代記」でもほぼ同じ事が記されているが、その注釈に「荒魂は現魂の意があり、外に進み現れ出て神威を顕現する魂なり。」と説明されている。確かに、椿大神社に合祀されている石神社に伝わる「石神社略縁起并古書」では、倭姫命が、この霊巖は太神宮荒魂を奉斎し"石太神"と唱え、暫くした後に天照大神も影向したとあるから、どうやら天照大神荒魂は、先導神のようでもある。先んじて、戦も含めその場の穢祓をする存在であると考えて良いだろう。実際にその後の文に「荒魂を撝ぎたまひて、軍の先鋒とし」とある事から、まさに戦の先人に立ち、神威を持って敵を威圧する為の荒魂であろう。<br />
<br />
<br />
崇神天皇時代、疫病が流行ったのは神の祟りと考えられ、祀っていた天照大神の神霊を込めたとされる御神体の八咫鏡を豊鍬入姫命に託したが、その後倭姫命へと託され各地を彷徨い、伊勢へと至った。ただ、近江雅和「記紀解体」によれば、崇神天皇から離れ遷座の地を求め彷徨ったとされる旅の面々を見る限り、それは武力平定の移動であったろうと述べている。それは天照大神荒魂の性質から、彷徨ったのは天照大神の和魂ではなく、荒魂と考えた方が良いだろう。恐らく各地の武力平定の旅であったろうと想定できる。そしてそれは、蝦夷国である日高見国でも同じ事が行われたのだろう。明確な記録として残っているのは、室根山だけであるが、遠野の早池峯に祀られのも、そういう流れがあったものと想像できる。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202512/05/75/f0075075_15590696.jpg" alt="_f0075075_15590696.jpg" class="IMAGE_MID" height="338" width="480" /></center>話を戻すが、早池峯を中心として遠野郷全体を早池峯の境内と考えた場合、当然の事ながら要石が分布しているのはありと思う。それは、遠野七観音も同じ。例えば、遠野福泉寺の敷地内に、新西国三十三番観音霊場巡りや、新四国八十八ヶ所の写し霊場が配置されており、それ疑似的に巡るものと同じと考えて良いだろう。先の倭姫命が八咫鏡を以て各地を彷徨った果てにたどり着いたのが、元伊勢とも云われる滝原宮であった。この滝原宮は伊勢の別宮であり、「伊勢神宮のはるか遠い地の宮」という意味から「遥宮(とおのみや)」と呼ばれる。そうつまり、遠野郷全体が、伊勢神宮の別宮「とおの宮」としてあるならば、遠野郷全体に要石が分布されていても、何ら不思議はない。<br />
<br />
<br />
「古事記」において、倭建命が詠んだ歌がある。<br />
<br />
<br />
倭は国のまほろば　たたなづく青垣山籠れる　倭しうるはし<br />
<br />
<br />
「青垣山籠れる」とは盆地であり、遠野盆地のような地形を意味する。ところで、この倭建命と倭姫命は、甥と叔母の関係である。同じ一族として同じ想い、同じイメージを共有していた可能性は否定出来ないだろう。その倭姫命の血脈がどこまで続いたのかはわからない。遠野盆地の北に聳える早池峯に天照大神荒魂を祀る事にした経緯は、未だ謎。ただ、この倭姫命や倭建命の意識が脈々と受け継がれていた場合、遠野盆地の北の早池峯に天照大神荒魂を祀り、遠野盆地全体を素晴らしい伊勢の別宮「とおの宮」として考えられた可能性もまた否定できないだろう。倭建命の歌を少々変えれば、こうなるだろう。<br />
<br />
<br />
遠野は国のまほろば　たたなづく青垣山籠れる　遠野しうるはし<br />
]]></content>
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    <title>呪術人形</title>
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    <issued>2025-11-21T07:13:00+09:00</issued>
    <modified>2025-11-21T13:57:28+09:00</modified>
    <created>2025-11-21T07:13:37+09:00</created>
    <author><name>dostoev</name></author>
    <dc:subject>民俗学雑記</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202511/20/75/f0075075_20402862.jpg" alt="_f0075075_20402862.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center>２０２１年、土淵の山口部落から入った山道の辻に、露出した木の根に括りつけられている人形を見つけた。なんでこんなところに人形があるのだろうとは思ったが、なんとなく気になる事があった。<br />
<br />
実は現在の宮古市に属する地にも、山口村があった。その山口村の天保年間の記録「山口村肝入文書」には、こう書かれている。<br />
<br />
「山口村では盗みに困り果て、見せしめの藁人形を辻に立て、三日三晩竹槍で突かせたが、盗みは増えるばかりで効き目が無かった。」<br />
<br />
<br />
どうやら人形は、盗人に対して使用する呪術に用いてものであったよう。ただ逆に遠野の山口村では、「遠野物語拾遺７１話」に記されているように、村内で盗難に遭った場合、三峰様を衣川から借りてきて利用している。宮古市の山口村では、村外部の人間に対しての呪術に人形を利用し、遠野の山口村では村内部の人間に対し、三峰様を利用していた。ただ、この人形の利用に関してだが、宮古市の山口村だけの話であっただろうか。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202511/21/75/f0075075_04535174.jpg" alt="_f0075075_04535174.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center>実は「東和町史」の伝説の項に「人形長根」の由来が記されている。<br />
<br />
<br />
「小山田の秋葉部落の、大洞坂と花見石山の境の小道を通り、山屋の鳥鳴田(となきだ)前に通ずるところに長根があり、その長根の左右に人間大の藁人形が多数祀られ、道ゆく人に異様な感じを抱かせたものだった。それも数年も経た藁人形が頬冠りのまま朽ちかかってグニャリと路に倒れていると、ほんとうの人体が腐れかかっているみたいで不気味であり、小雨の夜などは女、子供などは通れない寂しいところであった。」<br />
<br />
<br />
この東和町の長根の人形は、呪いの習俗であったそうだ。例えば何かを盗まれれば、その盗人に似た藁人形を作り、呪う箇所へ竹槍や釘を打ち込んだそうである。その実際に行われた呪術の目撃譚が記されている。<br />
<br />
<br />
満州事変の頃に、果樹園から大量の果物が盗まれたそうである。その犯人の凡その見当が付いた為、部落民でその盗人に似せた藁人形を作り、氏神の秋葉神社に部落民一同が集まり、盗罰顕現の大祈祷をなし、藁人形を長根に立て、部落民全員で竹槍で突いたそうである。その呪術の三日後、呪われた男は馬から振り落とされて大腿骨骨折の重傷を負い入院したそうである。それが人形長根での呪術の最後であったようだ。<br />
<br />
<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202511/21/75/f0075075_06335460.jpg" alt="_f0075075_06335460.jpg" class="IMAGE_MID" height="319" width="480" /></center>この人間大、等身大の人形を利用した呪術は、宮古市と東和町で確認できるのだが、果たしてその地域だけの事であったろうか。例えば、三峰様を祀れば狼除けになるとされ、一気に広まったらしい。衣川の三峰神社の分霊がなされたのが、享保年間。つまり、狂犬病による狼の被害が出始めた頃である。宮古市の山口村での人形による呪術は、天保年間。つまり、飢饉の真っ最中である。人のものをも奪って、生き延びた時代と言ってよいのかもしれない。逆に、その防御方法として人形を利用した呪術が広まったとも考えられる。今のところ、宮古市と東和町で確認されているが、他地域でもあった可能性はある。遠野の土淵に、特定はしていないが魔所として「向野の人形森」があったとされる。一つの説では、ひな人形を置いたとの話があるが疑問ではある。東和町の人形長根は、呪いに使用する人形を置いた場所の地名となる事からも、土淵の「向野の人形森」もまた、同じ意味合いの場所ではなかっただろうか。何故なら、東和町から宮古市へと人形による呪術方法が伝わったとして、必ず遠野を経由するからだ。それ故、密かに遠野にも人形による呪術が伝わっていた可能性があると思えるのである。<br />
<br />
]]></content>
  </entry>
  <entry>
    <title>熊の話(其の二)</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://dostoev.exblog.jp/38156133/" />
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    <issued>2025-10-31T09:25:00+09:00</issued>
    <modified>2025-10-31T09:25:29+09:00</modified>
    <created>2025-10-31T09:25:29+09:00</created>
    <author><name>dostoev</name></author>
    <dc:subject>動物考</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202510/26/75/f0075075_09342456.jpg" alt="_f0075075_09342456.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center>X(旧ツイッター)を見ていると、熊が里に降りてきて害をなしているのは、山に設置されたメガソーラーの影響もあるという書き込みをいくつも見かける。それは果たして、どうなのだろうか。<br />
<br />
平成６年(１９９４年)に、遠野の水光園行われた「日本ツキノワグマ集会in遠野」の情報によれば熊の胃袋の中身の90%以上は、ドングリなどの木の実だという。つまり、主食のドングリなどの木の実が不作、もしくは伐採された場合は、熊の主食が無くなるという単純な構造が理解できる。X(旧ツイッター)では、熊が里に降りてくるのにメガソーラーの設置は関係ないだろうとの否定派もそれなりにはいる。しかし単純に、メガソーラーを設置する為に熊の主食であるドングリのなる樹木を伐採すれば、それだけで熊に対する影響は、かなりあるだろう。<br />
<br />
クワガタの話で恐縮だが、クワガタは毒素を持つ針葉樹には生息できない。ドングリなどがなる広葉樹があってこそ、クワガタの生息圏となる。ところがその広葉樹が伐採されて針葉樹が増えれば、限られた広葉樹地帯へとクワガタも密集する。するとまず始まるのが、クワガタの小型化だ。一本の木に沢山のクワガタの幼虫が密集すると、幼虫同士が近づくたびに顎をカチカチ噛んで警戒音を発する。そのストレスが続くと、早くその木から脱出しようとサナギ化が始まる。じっくり育つ環境があれば、かなりの大きなクワガタに育つのだが、小型化したクワガタを目撃するという事は、環境の破壊(広葉樹の減少)が起こっているものと理解できるのだ。遠野市でも、平成の半ば過ぎまで「植樹祭」といえば杉の木を植えていた歴史がある。平成の初期頃に、遠野の山々でクワガタ採集をしてまわったが、やはり懸念していたクワガタの小型化は始まっていたと思える。それと比例するかのように、平成６年に絶滅の危機に瀕しているツキノワグマに対する集会が行われている事からも、ドングリのなる広葉樹は、かなり無くなっていたのだろう。生物の絶滅は、乱獲によるものではなく環境破壊が一番の要因だからだ。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202510/30/75/f0075075_16252484.jpg" alt="_f0075075_16252484.jpg" class="IMAGE_MID" height="319" width="480" /></center>「遠野物語」には、熊の話が殆どない。狼や狐、もしくは猿などが多く登場している。これだけ存在感のある熊が、何故に「遠野物語」に登場しないのか。それは、里の人々が熊を目撃する事が殆ど無かったものと考えてしまう。江戸時代となり、狂犬病が日本に上陸し、今まで山の奥で鹿などを捕食していた狼が、狂ったように人や馬を襲うようになった。それ故に、まず馬を保護する為に曲がり家が普及した。更に、三峰様を祀る(信仰)と狼除けとなるとされれば、一気に三峰様を祀るようになった。江戸時代の記録によれば、関東から東北にかけて一番日本鹿が生息していたのは、遠野の東に聳える五葉山周辺であったよう。それに伴い、その鹿を捕食する狼も、また多かった。和山方面には廃村になった場所がいくつかあるが、目につくのは「三峰様」の石碑だ。和山は五葉山にも近いために、狼もかなり生息していた事だろう。それに伴い、三峰様の石碑が多いのも、当然の成り行きだろう。ともかく、人間に害をなす獣は、ある意味神として祀られる。その根底には「祟らないでください(襲わないでください)」という意識があるからだ。遠野界隈で唯一、熊を祀っている神社は上記に示した画像。川を渡って参拝する、熊を祀る山神社だ。とにかく狼や狐に比べて、これだけ熊を祀る神社が少ないのは、熊が山奥に棲んでいて、人里には殆ど降りてこなかったからだと考える。<br />
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<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202510/30/75/f0075075_17234498.jpg" alt="_f0075075_17234498.jpg" class="IMAGE_MID" height="658" width="500" /></center>一昨年の遠野新聞にも此記事を載せたり。上郷村の熊と云ふ男、友人と共に雪の日に六角牛に狩に行き谷深く入りしに、熊の足跡を見出でたれば、手分して其跡を覔め、自分は峯の方を行きしに、とある岩の陰より大なる熊此方を見る。矢頃あまりに近かりしかば、銃をすてゝ熊に抱へ付き雪の上を転びて、谷へ下る。連の男之を救はんと思へども力及ばず。やがて谷川に落入りて、人の熊下になり水に沈みたりしかば、その隙に獣の熊を打執りぬ。水にも溺れず、爪の傷は数ヶ所受けたれども命に障ることはなかりき。<br />
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　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　「遠野物語４３」<br />
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「遠野物語43」に、熊の話が登場する。そこには「六角牛に狩に行き谷深く入りしに、熊の足跡を見出でたれば」と記されている。また現実に、この話を紹介した遠野新聞には「山奥深く分け入りしに淡雪に熊の足跡あるを見出し」と書かれている事からも、山の奥にこそ熊は棲んでおり、滅多に人里に訪れる事は無かったものと思える。江戸時代など、飢饉が頻繁にあっても、熊が人里に降りてきて害をなしたとの話が殆どない。平成の初期に、やはり飢饉があった。岩手県では、人間が食べれる米が出来なかった。その年に、わたしの住む家から歩いて１０分もかからない場所に、光の園幼稚園がある。そこに熊が出没し、残飯を漁っていたと聞いた。そう、江戸時代の飢饉でも熊は里に降りてこなかったが、平成の飢饉時には、熊は人里に降りてきていたのだ。これはつまり、山の豊かさが江戸時代よりも平成時代が、より失せていた可能性があるだろう。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202510/31/75/f0075075_04582269.jpg" alt="_f0075075_04582269.jpg" class="IMAGE_MID" height="667" width="500" /></center>街中での熊の被害が相次いでいる秋田市では、熊一頭の駆除の報奨金を以前よりも増額し、１万円を支給すると発表している。吉田政吉「新・遠野物語」を読むと、熊は昔から大変お金になるもので、狩猟民の間で重宝されたらしい。なので山役人の許可を受け熊を獲り、礼銭という名目の税金を支払わなければならなかったようだ。熊の胆をお金に換えて、一年寝て暮らした猟師もいたという事である。それだけ熊は、お金になった。しかし時代が現代となり、熊を一日一頭駆除し、３０日間続ければ給料が３０万円貰えると考えた場合、昔の相場とはかなりかけ離れているのが理解できる。果たして、現代での熊駆除の適正相場は、いくらであろうか。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202510/31/75/f0075075_07480693.jpg" alt="_f0075075_07480693.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center>神として祀るという話をしたが、熊を神として崇めていたのはアイヌが有名だ。局地的であるが、熊野大社がある紀州では、熊は熊野権現のこの世に現れた姿とみなし、熊を捕獲すると熊野権現を祀っている社の屋根の茅が一本抜けるという可愛らしい俗信があるようだ。また別に、熊が殺されると雪が降るとの俗信もある。<br />
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嘉禎年間(１２３５年～１２３８年)に記された「諏訪上社物忌令之事」によれば、熊は諏訪神が人界に現れる仮の姿だから、熊肉を諏訪神へ供えてはならないと記されている。神とは、人前にそんなに頻繁に顕現するものではない事からも、諏訪地域でも熊が人里に降りてくるのは極稀であるのがわかる。また昔話などには多くの動物も登場するが、これだけ強烈な個性をもった熊が、殆ど昔話には登場していない。皆が知っている有名な話は、せいぜい「金太郎」くらいだろうか。つまり、それだけ一般庶民には認知されていなかったと考えられるのは、やはり滅多に人里に降りてこなかった事が理由にあげられるのではないか。遠野界隈では、狼除けや鹿除けの呪い(マジナイ)は聞くが、熊除けの呪いは聞かない。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202510/31/75/f0075075_08065614.jpg" alt="_f0075075_08065614.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="480" /></center>寛政十一年に記された「日本山海名産図会」によれば、飛騨から日本海側にかけての熊猟は、山の奥へと入り込みまず熊穴を見つけてからの熊猟のよう。熊と対峙して槍で突くのだが、その際に「お前の秘密を知っている、月の輪!」と大声をかけるそうだ。それは、熊が胸に秘めた月輪(ガチリン)の秘密を暴かれたと思って怯むとされ、その隙に槍で突くのだと。その掛け声は、熊の魔力を弱めるものと信じられていたようだ。魔力を弱めるといえば、岩手県沢内村では熊は化身の者だから、捕った熊の両目を抜き取って山に捨てよと伝わるのは、熊の目玉は死んでも撃ち取った者を見ていて祟りをなすので、その祟りを避けるための秘法であるそうだ。この祟り除けの秘法は、あくまでも一般庶民に伝わっているものではなく、マタギなどの狩猟者に伝わっているものである。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202510/31/75/f0075075_08453068.jpg" alt="_f0075075_08453068.jpg" class="IMAGE_MID" height="385" width="500" /></center>話が少々逸脱したが、熊が里に降りてくる要因に、メガソーラーなどの環境破壊は当然あるだろう。ドングリのなる山の木が伐採されれば、熊は現存するドングリの木へと集まる。そこには当然、熊同士の力関係も発生するだろう。例えば、たまに遠野の町に現れるはぐれ猿も、単独で里に降りてくる牡の日本鹿も、争いに負けている筈だ。豊かな山があれば、熊同士の餌の争いの果てに里に降りてくる熊も、少しはいなくなる筈だ。とにかくツキノワグマは一度、絶滅の危機を迎えていた。その要因は、やはり山の木の問題、餌の問題だった筈。日本は、戦時中に東京が焼け野原となり、その戦後の復興に沢山の樹木が伐採されて運ばれたという。遠野の周辺の山々に牧場となっている山が多いのも、その影響を受けている筈。そして財産になるからと戦後、伐採された山々には杉の木が植林されたが、現代では単価の安い輸入材が主流となっている為に、放置された杉林が多い。とにかく、ドングリのなる木が伐採されて熊の餌が不足になり始めたのは戦後からだろう。それが平成の時代に差し掛かった頃に、ツキノワグマが絶滅の危機に瀕した事実がある。それでも立て直して、ツキノワグマが増えたのだが、やはり牧場だけではなく、スキー場やゴルフ場。最近ではメガソーラーと野生の熊の領域を、人間が利潤追求の為に開発している。仏教が導入された奈良時代以降、寺院作りに励んだ日本は土砂崩れが頻繁に起きるようになり、平安の末期には山の木の伐採禁止令が発布された。しかし現代は、そこまでの思い切った政策を打ち出せないまま、山に関してはほぼ放置となっているようだ。確かに、熊は恐ろしい。しかしその恐ろしい熊も、山の奥に潜んでいた状態であったならば、今ほどに熊に対して大騒ぎする事は無かったろう。山と里、熊と人との境界があった、そういう世界が、過去の日本にあったという事だ。<br />
]]></content>
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    <title>細越(遠野市上郷町)</title>
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    <issued>2025-09-28T12:41:00+09:00</issued>
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    <author><name>dostoev</name></author>
    <dc:subject>遠野地名考</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202509/28/75/f0075075_09190033.jpg" alt="_f0075075_09190033.jpg" class="IMAGE_MID" height="294" width="500" /></center>森下年晃「星の巫(かんなぎ)縄文のナビゲーター」では、細越は星の地名だと認定している。その理由が、星の付く地名「星越」に「細越」が沢山あるという理由らしい。つまり「HOSHI」と「HOSO」は転訛の流れがあり、共通地名と考えているようだ。ただ気になるのは「胡四王神社」などの「胡四(KOSHI)」は、越の国の「越(KOSHI)」でもあり、一説には「星王(HOSHIOU)」の転訛ではないかとも云われる。それは胡四王神社の殆どが北を向いている事から、北辰と関係があるのではと考えられているからだった。つまり両方合わせれば、「細越」の原型は「星星」という事にもなろうか。<br />
<br />
森下年晃「星の巫(かんなぎ)縄文のナビゲーター」では、星地名や細越地名は全国に沢山あるとは記しているが、名字も含めた「細越」は、殆ど北東北に分布している。また名字としての「細越」の県別ベスト３は、青森県・岩手県・北海道となっている事からも、細越の地名や名字の殆どは北東北から北海道にかけて分布しているようだ。更に細越名字の市町村別分布のベスト5を挙げれば、青森県八戸市・岩手県宮古市・岩手県盛岡市・岩手県遠野市・秋田県鹿角郡小坂町と殆ど南部氏の関係地域である事から、南部氏が関わっているのでは?と考えてしまう。ちなみに鹿角郡も南部藩時代には、南部藩領となっていた。<br />
<br />
<br />
ところで、遠野市上郷町細越地域をGoogleマップで検索したのが、上記の画像となる。旧国道２８３号線沿いに仙人峠(遠野側)まで続く地域となるが、その面積の凡そ９割近くが山だというのが理解できる。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202509/28/75/f0075075_10561396.jpg" alt="_f0075075_10561396.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center>遠野市には「細越」と同じように、「越」を使用した地名に「小田越」が遠野市の南北に二つある。その「小田越」だが、辞書によれば「小田」とは、「小は接頭語で田んぼを意味する」と説明されるが、遠野の小田越は、田んぼには関係の無い山の奥にある。小田治「黄金秘説」によれば、修験の言葉で「おだ」とは「鉱山を掘る」意であるという。聖武天皇時代、奈良の大仏の金が足りなくて困っているところに、現在の宮城県の遠田郡から金が見つかり、奈良の大仏が無事に完成された。その遠田郡は、それ以前は小田郡であったようだ。また「小」は「ササ」とも読み、「砂金」を意味する。これらから遠野の南北にある小田越とは、産金に関係した道筋を意味しているように思える。何故なら北の小田越の先は霊峰早池峯が聳え、始閣藤蔵が金を見つけたらお宮を建てると約束した山でもあるからだ。また南の小田越も、火石金山への道筋となる。<br />
<br />
<br />
森下年晃「星の巫(かんなぎ)縄文のナビゲーター」では「細越」を星地名と認定しているが、その星もまた産金と関係あるのは以前、何度も書き記した「日本書紀纂疏」の一文から、星と産金の結びつきを感じる。<br />
然らば則ち石の星たるは何ぞや。曰く、春秋に曰く、星隕ちて石と<br />
為ると「史記(天官書)」に曰く、星は金の散気なり、その本を人と<br />
曰うと、孟康曰く、星は石なりと。金石相生ず。人と星と相応ず、<br />
春秋説題辞に曰く、星の言たる精なり。陽の栄えなり。陽を日と為<br />
す。日分かれて星となる。<br />
<br />
故に其の字日生を星と為すなりと。諸説を案ずるに星の石たること<br />
明らけし。また十握剣を以てカグツチを斬るは是れ金の散気なり。「古事記」では、火之迦具土神が伊弉諾によって首を切られた後に誕生したのが、山の神である。どうやら細越、そして小田越は、根底に星を意識した金の散気満ち溢れる山への道筋のようである。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202509/28/75/f0075075_11152608.jpg" alt="_f0075075_11152608.jpg" class="IMAGE_MID" height="375" width="500" /></center>ところで先に南部氏の名が登場したが、南部氏は甲斐源氏の流れをくむ氏族である。仏教民俗学者の五来重によれば、「甲斐源氏を研究するには、山伏を切り離して本質は窺い知れない。」と述べている。また「修験道と金は密接な関係にある。」とも述べている事からも、遠野市上郷町の細越の殆どの面積が山で覆われ、それが仙人峠へ続く金の道筋のように思える。それはつまり、根底に星を意図しながら産金への道筋を示す地名ではないかとの憶測が成り立つのではないか。平安時代の末期、武士が台頭して武力によって資源を蓄え密教に帰依して鉱山を保護し、自らも修験者となっていったのが甲斐源氏であり、その中の一つの氏族が南部氏である。「星の巫(かんなぎ)縄文のナビゲーター」の著者は、「細越」は縄文語と考えているようだが、恐らく南部氏が命名した地名ではなかろうか。この細越地区には、由来に南部氏の影響を受けている日出神社があり、南部八景に数えられる片岩がある事からも南部氏の影響を感じる道筋でもある。<br />
]]></content>
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    <title>遠野不思議　第九百四十四話「くねくね」</title>
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    <issued>2025-08-17T08:03:00+09:00</issued>
    <modified>2025-08-17T12:25:22+09:00</modified>
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    <author><name>dostoev</name></author>
    <dc:subject>遠野の妖怪関係</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202508/17/75/f0075075_07453324.jpg" alt="_f0075075_07453324.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center>昭和時代には聞いた事のなかった「くねくね」という怪異、平成の世となって突如として現れた。恐らく誰かの創作だろうという事だが、口裂け女同様令和の世となっても、その存在は生きているようだ。正直「くねくね」というものがどういうものかよくはわかっていない。ただ、"白いくねくね動くもの"という存在の話は、以前聞いた事がある。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202508/17/75/f0075075_07492041.jpg" alt="_f0075075_07492041.jpg" class="IMAGE_MID" height="320" width="480" /></center>これは、平成初期の頃の話。名前は憶えていないが、私の経営する民宿に大学生の男の子が二人が２泊程度の予定で宿泊した。その大学生二人は、続石へと行く途中、鳥居に気付いて続石手前の愛宕神社も、ついでに訪れようとした。ところが社近くまで辿り着くと、何やら白っぽい影のようなものがくねくね動いている。初めは誰かが掃き掃除をしているものだと思ったそうであるが、どうも様子がおかしかったと。一緒にいた友達は、なんとなく恐ろしくなったので帰ろうという事で帰ったそうな。<br />
二人で話し合ったところ、結局愛宕神社の神官さんが本殿前を掃除していたのだろうという事で、翌日再び綾織の愛宕神社へと向かったそうな。そして社に近付くと、やはり昨日と同じに白い影みたいなものがくねくね動いていたそうな。そこで目を凝らしてよく見たが、やはり人では無く、白い影だったのであったという。宿に帰ってきて、「続石手前の神社で、こういうの見たんですが、あれなんですか?」と聞かれたが、私が答えれる筈も無し。ただ今となっては、「くねくね」というものに似ているので紹介しようと思う。]]></content>
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    <title>本当は恐ろしい卯子酉神社</title>
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    <issued>2025-08-16T18:21:00+09:00</issued>
    <modified>2025-08-16T20:03:41+09:00</modified>
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    <author><name>dostoev</name></author>
    <dc:subject>民俗学雑記</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202508/15/75/f0075075_18243317.jpg" alt="_f0075075_18243317.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center>かなり昔に「卯子酉神社(血の呪法)」という記事を書いた。その後、補正の意を込めて「冥界との縁結び」という記事を書いた。今回は、後に分かった事を付け加える補助的な記事となる。<br />
<br />
この卯子酉神社の前身は、倉堀神社であり水神を祀っていた。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202508/16/75/f0075075_10594344.jpg" alt="_f0075075_10594344.jpg" class="IMAGE_MID" height="320" width="480" /></center>遠野の町の愛宕山の下に、卯子酉様の祠がある。その傍の小池には片葉の蘆を生ずる。昔はここが大きな淵であって、その淵の主に願を掛けると、不思議に男女の縁が結ばれた。また信心の者には、時々淵の主が姿を見せたともいっている。<br />
<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　「遠野物語拾遺３５」<br />
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「遠野物語拾遺35」に書かれている通り、当初は"淵の主"、つまり水神に願をかけていた事になる。ところで「遠野物語拾遺35」を読んで気になるのは、卯子酉の祠の傍らの小池に片葉の蘆が生ずるが、その理由が記されていない。「片」とは「不完全」を意味する漢字である。また「片葉」は「かたわ」にも通じる言葉であり、縁結びには程遠いように思えるが、それが独身者という片者であれば、納得はする。ところで長沢利明「片葉の葦」を読むと、全国の片葉の葦の伝承地の殆どが、悲劇を伝える話が付随している。長沢利明氏は「片葉の葦」の地をこう表現している。<br />
<br />
<br />
「おおいなる悲しみと悔しさ、そして恨みと怨念が込められた地、非業の死をとげた者たちの御霊のさまよう地。」<br />
<br />
<br />
全国的に見ても、片葉の葦の伝承地には恐ろしいイメージがあるようだ。この情報からも、以前書き記した「冥界との縁結び」の裏付けの後押しとなる。また民俗学的に、片葉の植物は神霊であり心霊を乗り移らせる呪具とされる。そして、片葉の植物が生じる場所は、呪具を採集する場所として神聖な土地と考えられるようだ。では、その呪具とはなんであろうと考えた時、思い浮かぶのが"赤い布切れ"である。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202508/16/75/f0075075_16333846.jpg" alt="_f0075075_16333846.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center><br />
ところで話は飛ぶが、以前「池之端(其の二)」という記事に、遠野の池端氏の伝承を紹介した。そこにも片葉の葦の話がある。<br />
<br />
<br />
昔、池端の家の先祖が遠野にやってきた時、敵に追われて川岸まで追い詰められていた。その時、川に鮭が溢れるようにやってきて、その上を渡って危難を逃れる事ができた。また、鮭の背を渡って向こう岸に辿り着いた時、川辺の葦を掴んで岸に上がったので、それ以来片葉の葦となったという。それが、倉堀の卯子酉神社の片葉の葦であるという。(池端寛1927年生まれの話)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー上記の話は、池端家当主の話した内容を、当時の遠野物語研究所の方が書き記したものである。私は「池之端」という記事で池端氏は、古代の豪族秦氏の流れではないかと書いた。とんでも説と呼ばれる「日ユ同祖論」がある。それによれば、秦氏はユダヤ人の流れを汲んでいるという。その秦氏と葦は、深くかかわる。ヘブライの民にとって「東方の日出づる国」は「天国」を意味し、その大地であるカナンと呼ばれる地は「葦の原」を意味するという。つまり、遠野の池端氏の祖が命からがら助かった卯子酉神社の地は、ヘブライの民にとっての「天国」でもある「葦の原」であっただろうか。<br />
その秦氏と物部氏は、結びつく。物部氏は、聖徳太子の時代に戦に負け逃げ延び、その一部の物部氏が逃げ延びた先が秋田県であり、秋田物部氏は有名である。そして、遠野にも、その聖徳太子の時代でもある奈良時代の遺跡から「物部」と書かれた須恵器が出土している事から、遠野にも物部氏が逃げ延びてきているのがわかる。また秦氏は、平安京を造った後に用無しとなり、桓武天皇に追われてやはり全国に逃げている。その秦氏の一部の人間がたどり着いたのが、遠野の琴畑ではないかとの話もある。<br />
秦氏と同族でもある物部氏は、呪術に長けていた。その物部氏には、十種神宝(とくさのかんだから)と呼ばれるものがあり、その中に三つほど「比礼」が含まれている。比礼とは、女性のスカーフのようなもので、首からかける布切れである。宗像のみあれ祭りで使用される白い布切れは、水を意図しているようだ。滝を「瀑布」と表現するように、風にたなびく白い布切れは、水を意図しているのは理解できる。では、赤い布切れは何であろうか?当初、赤色は血の色と考えていたが、卯子酉神社での作法である「左手だけで赤い布切れを結ぶ事とが出来れば、縁が結ばれる。」は本来、男性限定の作法である。女性は右手でやらなければならない。何故なら左手(ひだりて)の「ひ」は、男性を意図する「火」「陽」を意味している。古代中国の皇帝の玉座は南に面しており、常に北を見据えていたのは陰陽のバランスを取るためであった。南は陽であり赤色で、男性を意味する。北は陰であり黒色で、女性を意味する。その赤と黒が交われば紫となり、至高の色となる。それ故に、遠野の卯子酉神社は、男性を意図する赤い布切れを使用して、男性が女性との縁を願う地という事になろう。ただしその女性とは、その卯子酉の地に埋葬された女性の可能性が高い。そのことに関しては「冥界との縁結び」で書いた。<br />
鎌倉時代に、天武天皇の墓が暴かれ、頭蓋骨が盗まれるという事件があったらしい。何故に頭蓋骨を盗んだのか。それは恐らく、呪術を行う為だったと推測されている。呪術に効果的な頭蓋骨とは、一に宗教者の頭蓋骨。次に高貴な者の頭蓋骨であるそうだ。天武天皇の頭蓋骨は、高貴な者の頭蓋骨に属するだろうが、また別に天武天皇は奇門遁甲に長けていたという事から、はた目からは呪術を使うものとして宗教者とも思われていたのではないか。それ故に、その頭蓋骨は貴重な呪術のアイテムとなったのだろうか。<br />
ところで赤い布切れだが、それが物部氏の比礼と同じ呪具だとしても、比礼よりも小さく大きさが違う。しかし呪術には、いろいろな概念があり、それを効果的に大きくするには、小さな思いが籠ったものを沢山合わせて一つの呪具にする方法がある。要は、一人の想いが籠った比礼一枚より、一枚一枚に一人一人の念が籠った小さな比礼を沢山集めて一つの比礼にする方法。それが卯子酉神社の赤い布切れに合致する。遠野の卯子酉神社には、全般的に男性よりも多くの女性観光客が集まり、それぞれの念を込めて赤い布切れを結ぶ。しかし本来、男性が女性との縁を結ぶ方法であるから、遠野の卯子酉神社で行う女性観光客のその行為は、逆の効果となる呪術である。「冥界との縁結び」と重なるが、恐らく卯子酉神社に人柱として埋葬された独身の女性宗教者との縁を結ぶ呪法となっているのではなかろうか。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202508/16/75/f0075075_17404981.jpg" alt="_f0075075_17404981.jpg" class="IMAGE_MID" height="336" width="480" /></center>猿ヶ石川は、早池峯(厳密には薬師岳)を源流とする川である。その猿ヶ石川で気になるのは、「遠野物語５５話」の冒頭。そこには、こう書かれている「川には河童多く住めり。猿ヶ石川殊に多し。」。河童は、遠野だけでなく岩手県内にも多く、その話を残している。悪戯をするだけなら可愛いのだが、人を川に引きずり込んで殺してしまうという話もかなり多い。その猿ヶ石川にある河童淵の一つに、穴あき淵がある。河童に引き込まれた人間の死体は、その穴に入るという伝承だが、それ以外にも釜淵や鍋ヶ淵と呼ばれる淵がある。民俗学的に、鍋や釜は非業な死を遂げた者を意図している言葉でもある。宮城県の塩釜神社にも、どうやら誰か隠された者が祀られているらしい。遠野の中で一番河童が棲むとされる猿ヶ石川だが、その「猿ヶ石川の河童」にもやはり人柱なり、人の死を含む暗喩となっている可能性があるのではないだろうか。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202508/16/75/f0075075_18084379.jpg" alt="_f0075075_18084379.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center>「遠野の民は、死んだらその魂は早池峯へ昇る。」という俗信がある。その早池峯の神は、水神であり、また山神でもある。古代中国では、この天の川を「霊魂の集まり帰るところ。」「霊魂昇天の道」とし、日本にも伝わっている。これは「万葉集(巻三　四二〇番歌)」「…天の川原に出で立ちて禊てましを高山の巌の上にいませつるかも」において、天の川は死者があの世へ行く為の道であり、そして川であり、禊する場所と信じられていたようだ。そう、天の川とは"祓川"でもあった。天の川は、南から北へと流れるように伸びている。早池峯の神を祀る来内の伊豆神社に夜に行き確認した事だが、早池峯が見えない伊豆神社から早池峯の方向を確認するには天の川の流れゆく先が早池峯だと思えばよい。その天の川が、早池峯への道筋だが、もう一つの道筋は猿ヶ石川である。猿ヶ石川の語源は様々な説があるが、恐らく妙見神でもある早池峯を意図しているのではないかと考えている。それは妙見とも結びつく「見ざる言わざる聞かざる」の猿の庚申の石碑が、猿ヶ石川沿いに多く見かけるのと関係しているのではないか。<br />
そしてまた、その早池峯の山頂手前に、賽の河原と呼ばれる地があるが、本来は祭礼の河原であり、神々が集う地であったそうだ。それはつまり、出雲神でもあるという事。神無月は、出雲に神々が集まり人々の縁を結ぶ会議が行われるとされているが、早池峯の神こそが出雲大神であるから、縁結びと関係が深い。恐らく、卯子酉神社の前身である倉堀神社に祀られていた水神とは、早池峯の神ではなかったろうか。<br />
<br />
<br />
]]></content>
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    <title>慰霊の森での思い出体験</title>
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    <issued>2025-07-05T10:59:00+09:00</issued>
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    <author><name>dostoev</name></author>
    <dc:subject>民宿御伽屋情報</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202507/05/75/f0075075_10140888.jpg" alt="_f0075075_10140888.jpg" class="IMAGE_MID" height="375" width="500" /></center>今から30年くらい前の事だったか。岩手県に「ふうらい」という季刊誌の雑誌があった。その雑誌の編集長と知り合いになり、ある日「御伽屋さんで、遠野怪談夜話をしませんか?」と言われた。結局怪談作家でもある平谷美樹さんをゲストに迎え、夏のある夜の日に「遠野怪談夜話」が行われる事となった。<br />
<br />
御伽屋の一階フロアに外部の人や、宿泊客なども参加し飛び入りの怪談話も飛び交い、無事に終了。しかし、怪談話にあてられたのか、宿泊客3名がそのままフロアに残って雑談が始まった。そうしているうちに、誰かが「そういえば、岩手県には慰霊の森という有名な心霊スポットがありますよね?」と言った。すると他の宿泊客も興味深そうに慰霊の森の話に聞き入っていた。そんな中、誰かが「行ってみたい!」と言い始め、他の宿泊客も興味津々に賛同し始めた。自分もまた気持ちが盛り上がってしまったので、「それじゃ今から行きますか。」と言ってしまったのは、もう夜中の12時頃の事だった。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202507/05/75/f0075075_10280489.jpg" alt="_f0075075_10280489.jpg" class="IMAGE_MID" height="375" width="500" /></center>雫石にある慰霊の森の入り口に到着したのが、夜中の2時過ぎだった。慰霊の森へ行く階段があり、さてその階段を登ろうかという時、「ゴォ～～～ッ！！！」という今にも着陸しようと近づいてくる飛行機の轟音が響き渡っている。誰かが、「この時間に飛行機って、飛んでました?」と言った。私は「夜中でも、自衛隊機がかなりの上空を飛んでいる事はあると思います。」「ただ、この辺には飛行場は無いですし…。」と言いながら時間を確認した。夜中の「2時5分」だった。その慰霊の森へ行く階段の右手に、日航機墜落事故の詳細が記してある看板があった。その看板を見ると、日航機の墜落は「2時5分」と記されており、誰かが「エーッ!!!」と声を上げると共に、背筋にゾゾッと寒気を覚えたものだった。ただ日航機の墜落は、昼間の2時5分であり、夜中の2時5分ではない。しかし単なる偶然と片付けるには、不可解な飛行機の轟音だった。その後に、階段を上って行ってみたが何もなし。それから宿へと帰った頃には、空も明るくなっていた。<br />
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    <title>緊縛トイウモノ</title>
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    <issued>2025-06-03T13:04:00+09:00</issued>
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    <author><name>dostoev</name></author>
    <dc:subject>「トイウモノ」考</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202505/05/75/f0075075_17080279.jpg" alt="_f0075075_17080279.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center><br />
小島俊一「宮古・閉伊秘話」の中に「中里の新蔵塔　縄しばり観音さま」という話が紹介されている。ここでの中里とは、岩手県岩泉町の中里である。話は、文化十一年(１８１４年)あまりの南部藩の悪政に訴え出た中里の者たちの代表三人が罰を食らい亡くなった。その魂を供養するために騒動二十八年後の天保十三年(１８４２年)八月二日、中里村正徳寺に観音菩薩坐石像(高さ６０センチ、台座４０センチ)を造立した。その供養観音が「縄しばり観音」 と呼ばれるようになったのは、いつしか誰かが縄で縛ったからとされる。何故に縄で縛ったのかの理由は、どうやら下記の通りらしい。<br />
<br />
<br />
「願掛けが叶うように観音を縄でぎりぎり縛り、願いが叶うと解き、縛る事で祈願が切実な事を観音様に身をもって体験してもらう呪術」<br />
<br />
<br />
ところで、この縄しばり観音は昭和３６年の三陸フェーン災害によって崩壊したようだ。しかし平成２２年(２０１０年)に、多くの人たちの寄付などによって再興したそうである。現在の縄しばり観音石像は、岩泉町のブログ「いわいずみブログ」で見る事ができる。<br />
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー<br />
庶民の間での観音の認識は「仏を呼ぶ音を観て救いに来るのが観音様」だともいわれる。つまり、神や仏との仲介役のような存在。実際には、観音を言い表すには複雑怪奇で単純ではないのだが、庶民の間に普及するには単純な認識によるものが多かったようだ。それは、観音や如来を女性と認識していたよう。昔の時代劇に、遊郭などの女性の女陰を前にして、手を合わせ「ありがたや、ありがたや。」と祈るシーンが表現されていたのも、観音や如来を女性と重ねているふしがあった。実際に、浄土真宗の親鸞は夢に現れた観音と交わった逸話がある事からも、かなり古い時代から女性と観音は結び付けられていたようである。<br />
<br />
<br />
もしかしてだが、この岩泉町中里の縄しばり観音は、東京都文京区茗荷谷の林泉寺に古くから伝わる「しばられ地蔵」が伝播されて誕生したものだろうか。宮田登「近世の流行神」に、この林泉寺のしばられ地蔵が紹介されている。文化９年(1812年)から文政１２年(1829年)に成立した見聞記「遊歴雑記」には、こう記されている。<br />
<br />
<br />
「志願ある者は荒縄を以て彼尊像を幾重にも縛り、願かなふて後己が縛りし縄を解きて奉るとなん」<br />
<br />
<br />
宮田登の解説には「縛る事が己が祈願の切実さを、地蔵に身にもって体験してもらいたいことを示す呪術なのであって、こうした直接的な行為を自由に実行できる気安さを持つことが地蔵をして大いに流行させた原因となっている。」と述べている。<br />
<br />
<br />
この林泉寺の縛り地蔵の姿は、下記の林泉寺HP「林泉寺」で確認できる。<br />
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観音が女性と結び付くイメージだとして、それを縛るで思い出すのが"緊縛"。緊縛とは、エロスを感じるSM世界の文化でもある。ウィキペディアで緊縛を読んでみると、江戸時代に遡るなど様々な俗説があるが、実際のところ１９５０年以降に形成されたものらしい。ただ、その緊縛を形成した人物の意識の根底に観音などを縛って願いをかなえる文化があった事を知っていた可能性はあるだろう。それはエロス的表現として、観音像をリアルな女性に変えただけなのかもしれない。<br />
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    <title>遠野　風の丘と桜</title>
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    <dc:subject>遠野不思議（桜）</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202505/04/75/f0075075_19030039.jpg" alt="_f0075075_19030039.jpg" class="IMAGE_MID" height="334" width="500" /></center>４月２７日撮影]]></content>
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    <title>「現代遠野物語」　第百二十一話(現代の山口孫左衛門の没落)</title>
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    <issued>2025-05-04T18:32:00+09:00</issued>
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    <author><name>dostoev</name></author>
    <dc:subject>「現代遠野物語」１２０話～</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202505/04/75/f0075075_17502159.jpg" alt="_f0075075_17502159.jpg" class="IMAGE_MID" height="375" width="500" /></center>此兇変の前には色々の前兆ありき。男ども苅置きたる秣を出すとて三ッ歯の鍬にて掻きまはせしに、大なる蛇を見出したり。これも殺すなと主人が制せしをも聴かずして打殺したりしに、其跡より秣の下にいくらとも無き蛇ありて、うごめき出でたるを、男ども面白半分に恙く之を殺したり。さて取拾つべき所も無ければ、屋敷の外に穴を掘りて之を埋め、蛇塚を作る。その蛇は蕢に何荷とも無くありたりといへり。<br />
<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　「遠野物語２０」<br />
<br />
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー<br />
この「遠野物語２０」の冒頭に「此兇変の前には色々の前兆ありき。」と書かれているのは、山口家の没落を意図している。ザシキワラシが出て行った話も含め、没落の前にはいろいろな前兆があったとされる。その一つとして、蛇の事が紹介されている。大きな蛇を打ち殺した其の跡の秣(まぐさ)の下から「いくらとも無き蛇ありて、うごめき出でたるを」と記されている。これは蛇が冬眠する時に沢山集まって塊となる場合がある。昔、「日本沈没」のテレビドラマで、地震という変事の兆候としてこの無数の蛇の塊を登場させていたのを記憶している。実は、これと同じ事が平成の世に起きていた。<br />
<br />
<br />
山口商店という豆腐を作る、町工場があった。平成の世となり、話によればコンサルタント会社にそそのかされ、工場を広い敷地に移転して事業拡大をしたそうである。その工場の跡地から、夥しい蛇が出てきて、それを"処分"したそうである。しかし蛇は祟るものとしても知られるため、そこに蛇塚を建て、今でもその地にあると云う。しかし、その後、山口商店は没落してしまったのは、まるで「遠野物語２０」と同じだと噂された。<br />
<br />
<br />
山口部落の山口の語源とは、広く山の入り口を意味する。この山口部落は、沿岸に通じる境木峠の入り口でもある事から、この地に移り住んだ者が山口を名乗ったものと思われる。山口部落にある薬師堂の辺りは山口館があった場所として知られる。その館主は、山口修理であると伝わる。山口修理は、阿曽沼氏の家臣であったと云われるが、はっきりとはわかっていない。当初は柏崎館にいたものを、後から山口館に移り住んだと伝えられる。その家系に、「遠野物語」に登場する山口孫左衛門がいるのだが、その孫左衛門の血筋は松崎へと移り住み、遠野の山口という姓は、阿曽沼時代からの山口修理であり、山口孫左衛門の血筋であると云われる。歴史は繰り返すというが、奇妙な蛇の話の重複からの没落を、なんと言ってよいものであろうか。<br />
]]></content>
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    <title>野良子猫</title>
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    <author><name>dostoev</name></author>
    <dc:subject>民宿御伽屋情報</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202502/02/75/f0075075_10084673.jpg" alt="_f0075075_10084673.jpg" class="IMAGE_MID" height="334" width="500" /></center>去年の１１月20日頃から毎晩、家の猫達が夜遅くなると「ギャァ～!」と騒いでいる。猫達で喧嘩しているか、それとも野良猫が入ってきたのだと思っていた。何故なら裏口に、自由に出入りできる猫の入り口があるからだ。しかし、毎晩騒ぐとなるとなんだろ?と意識していた。<br />
<br />
ある夜の遅くに目覚めた自分は、トイレに行こうとした。すると、たまたま誘導灯の灯りの照らし出された灰色の小さな動物に遭遇した。その灰色の動物はピョン!と跳ねて逃げて行った。その時は、ネズミの大きいやつ?と思っていた。そして、その後に遭遇した時に、その正体を確認したら子猫だった。灰色と思ったのは、誘導灯の薄暗い灯りで、よく見えなかったせいもあったのだろう。<br />
<br />
<br />
その頃の遠野は、既に気温が低下しており、かなり寒い日が続いていた。この子猫は、家の猫の出入り口から侵入し、この建物内部に潜んで生活していたようだった。ある日の晩は、プーンとウンチの臭いが漂っているなと思ったら、この野良子猫が家の猫用のトイレでウンチしているのを目撃。ちゃっかり、家の猫用の餌を食べ、猫用トイレを使用し、あたかも自分の住まいのように生活していたのだった。しかし、ある日の事、家の猫に見つかり、家の外へと追い出されたのだった。<br />
<br />
何となくその子猫が気になったので、家の猫の裏の出入り口辺りにトレイルカメラを仕掛け、餌を置いてみた。するとやはり、この家に未練があるのか。というより、この遠野の冬の寒空で、餌付きの温かい空間に出入り自由の場所は、ここしかないだろうという判断から、やはり子猫は入ってきた。そして、そのまま家の内部に入り込み、潜んでいたところを保護(捕獲?)したのだった。使っていないゲージがあったので、取り敢えずそこに生活させる事にした。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202502/02/75/f0075075_10372561.jpg" alt="_f0075075_10372561.jpg" class="IMAGE_MID" height="334" width="500" /></center>当初は、誰彼構わず「フーッ！」と威嚇していた子猫だったが、次第に慣れてきて、手にもじゃれるようになっていた。何度触っても大人しくしていたので、もしかしてと思い、外に出してみた。すると、何故かパニック状態になり、そのまま裏の出入り口から外へと逃げていったのだった。さてどうしようかと思ったが、いずれ帰ってくるものと思い、ゲージの入り口を開けて置いたら、4日後の夜、ふと見たらゲージの中に自分で入っていた。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202502/02/75/f0075075_10463773.jpg" alt="_f0075075_10463773.jpg" class="IMAGE_MID" height="334" width="500" /></center>家の猫のランちゃんが、この野良子猫を気に入り、ゲージ越しに仲良く接していた。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202502/02/75/f0075075_10480024.jpg" alt="_f0075075_10480024.jpg" class="IMAGE_MID" height="334" width="500" /></center>さあ、このまま家で飼おうと決心したところ、別世帯で住んでいる息子が一目見て気に入り、この野良子猫を飼いたいと言ってきた。この子猫が長生きしたとして20年。自分は80歳を優に超えているので、息子に託した方が正解なのだろうと、息子にゲージごと譲ることにした。12月の末、家の息子がこの野良子猫を引き取りに来たが、持ってきたケースに鍵がかかっておらず、狭いところに閉じ込められた野良子猫はパニックになり、そのケースの扉をこじ開けて、外へと再び逃げて行った…。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202502/02/75/f0075075_10533234.jpg" alt="_f0075075_10533234.jpg" class="IMAGE_MID" height="334" width="500" /></center>恐らく今回もと思い、ゲージの入り口を開けて待っていたら、間一日経ってから、再びこのゲージに戻ってきていた。外に出たはいいが、遠野の寒空を食べ物も無しに過ごす事を、やはり出来なかったのだろう。そして息子に連絡したところ、すぐに引き取りに来たのだった。わずかな間ではあったが、もうすでにかなりの思い入れが生じてしまい、別れは寂しいものとなってしまったが仕方がない事。今は新しい家に住み、かなり慣れてきたと聞いている。<br />
]]></content>
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    <title>明るい未来の遠野</title>
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    <issued>2025-01-12T16:29:00+09:00</issued>
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    <author><name>dostoev</name></author>
    <dc:subject>遠野情報(雑記帳)</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202501/12/75/f0075075_15574286.jpg" alt="_f0075075_15574286.jpg" class="IMAGE_MID" height="772" width="500" /></center>昭和３８年(１９６３年)１１月２０日発行の地図に、昭和３５年(１９６０年)の国勢調査による岩手県各市町村の人口が掲載されていた。遠野市の人口は、３６９２０人。令和６年(２０２４年)の広報遠野１２月号には、遠野市の人口が２４０２２人となっており、だいたい６４年間で遠野市の人口は１２８９８人減少したという事。ただ、実際の遠野市の人口は２万人程度だという噂はチラホラ聞こえる。となれば実際は、１万７千人程の人口が減ったのかもしれない。<br />
<br />
昭和３５年は終戦から約１５年経っており、高度成長期の真っただ中だった。全国で観光開発がなされて行き、遠野市は「遠野物語」に着目し、観光資源として全国に発信し始めたのが昭和４０年代の後半。岩手県の遠野市なんて、殆ど知る人もいない時代に、遠野市を宣伝し始め、観光客を呼び込み始めたのだった。とにかく遠野市は、これからもっと発展し続けるだろうと、いろいろな建物も建造されていった。とにかくこの頃には、明るい未来だけが見えていたのだろう。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202501/12/75/f0075075_16102892.jpg" alt="_f0075075_16102892.jpg" class="IMAGE_MID" height="334" width="500" /></center><br />
ところで昭和３５年の北上市の人口が４２９７９人となっており、この昭和３５年の遠野市との人口は、北上市とそんなに差が無かったのには、少し驚いた。そして昭和４０年代になっても人口は増えるものと認識されており、このままでは食糧難になるだろうと懸念されていたのを記憶している。バイパスの通る以前の遠野は、遠野中学校より北は、ほとんど田んぼ。それだけ米が必要とされていた時代でもあった。いつしか減反、減反と遠野市の田んぼも減っていき、少子化時代の突入で今では学校が合併され続けている。人は、力である。人が減る一方の地域は、その力が失われていくという事。明るい未来を見つめていた遠野市の行く末は、果たしてどうなるのだろうか。<br />
<br />
<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202501/12/75/f0075075_16241799.jpg" alt="_f0075075_16241799.jpg" class="IMAGE_MID" height="632" width="500" /></center>ちなみに、この昭和３８年発行の岩手県地図だが、あからさまな間違いがあった。下附馬牛町を「下附馬子」。そして土淵町を「土源」と記していた。これに気付かなかったのは現在とは違い、この頃の遠野市の知名度が低かった為なのかもしれない。<br />
]]></content>
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    <title>「現代遠野物語」　第百二十話(笛吹峠の人骨)</title>
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    <issued>2024-01-08T21:47:00+09:00</issued>
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    <dc:subject>「現代遠野物語」１２０話～</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[大槌町に、遠野の宮守町から嫁いだ高齢の女性がいる。その女性から聞いた話だが、その女性は、笛吹峠にある能舟木の、俗に"呪い屋敷"と呼ばれる家に嫁いだそうである。呪い屋敷の謂れは昔、旅の女六部を殺した事により祟りにあった事から、近所で「呪い屋敷」と呼ばれていたそうである。<br />
<br />
宮守町の女性が嫁いだのは、昭和時代の事であった。その当時の呪い屋敷の姑は、まるで西洋の童話に出てきそうな赤毛の魔法使いのお婆さんの様であったそうだ。実は、その姑の血筋は、笛吹峠の鉱山で働かされていた外国人であった。そしてその姑は、巫女でもあった。ある日、その姑が能舟木から笛吹峠へ抜ける旧道を歩いている時、とある方向を指さして「あそこは、恐ろしい。」と怯え、家に帰った事があった。その後、その姑が怯えた辺りが大雨で流れた時に、おびただしい人骨が出てきたそうである。ただ、その人骨がどういったものなのかは、わからないそうである。<br />
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<br />
処刑場跡地から、おびただしい人骨が出てくることは、よくある事である。しかし、歴史的に笛吹峠の一角に処刑場があったという話は知らない。恐らく、旅人が殺され埋められた場所の可能性があるだろう。「遠野物語５話」に笛吹峠を避ける話が載っているが、もしかしてこの人骨との関連もあるのかもしれない。<br />
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