
種山高原には、かって坂上田村麻呂が陣を構えエミシと相対したという伝承がある。またその峰伝いにには、大森山があり、その頂で人首丸が討ち取られたとして、その人首丸の墓石がある。種山から大森山は、朝廷側にとって鬼の巣食う山々であった。
その種山の東側の谷に、写真のような石碑がある。正しくは庚申塔なのだが、篆書体で刻まれ、鬼の姿を示している。実はこれ、「七庚申」と呼ばれるものであり、年によっては、庚申の日が5回ある場合を「五庚申」七回ある場合を「七庚申」と呼んでいるようで、一般的には「五庚申」の年は凶作で、「七庚申」の年は豊作だと云われている。しかし岩手では、この「七庚申」は凶作の最もたるもので、それこそ”鬼”が来ると呼ばれる年でもあったそうだ。文字でデザインされたものは、庚申だけに多分”猿”を表したものかもしれないが、「示」+「申」=「神」であるから、”神”は元々祟りを成す存在でもあったので、その”神”は”鬼”にも成り得たのだろう。また、この地に田村麻呂伝承が根付いている事から、それを意識しての鬼の庚申塔なのかもしれない。
「蝦夷と東北戦争」という本には
”庚申年には蝦夷の反乱が起こる” という流言があったと記されている。これは養老四年(720年)に陸奥蝦夷の反乱があり、宝亀十一年(780年) に伊治呰麻呂の乱が起きた事。
「続日本後記」では
「奥邑の民が、共に庚申を称し、崩れるように逃げる人々は、押さえ留めることができません。これは昔の蝦夷の仕業に懲りているからです。」
この↑記述は、承和七年のもので、庚申の年には蝦夷の反乱があるだろうという恐怖が、庚申と重なって伝えられているというのは、庚申=蝦夷=鬼と伝わったのかもしれない。
とにかく庚申=蝦夷に対する恐れは、民衆の間で深く伝わったようだ。なの
で、この石碑もまた、民衆が伝えたものが形を成したものなのかもしれない。
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