金子氏は、東北芸術工科大学大学院博士課程日本画専攻在学中の人物だ。
掲載した写真の中には、遠野をイメージしたものもあるので紹介したい。
「肉体の美しさは、ただ皮膚にあるのみだ。もしも人間が、透視力を持った
ボエオティアの山猫のように、皮膚の下にあるものを見る事ができるならば、
誰もが女を見て吐き気を催す事になるだろう。女の魅力も、実は粘液と血液、
水分と胆汁とから出来ている。いったい考えてもみよ、鼻の孔に何があるか、
腹の中に何が隠されているか。そこにあるのは汚物のみだ。それなのに、ど
うして私たちは、汚物袋を抱きたがるのか…。」
上記の言葉は、フランスの修道士オドン・クリュニーの言葉であるが、金子氏の
作品を見て、この言葉を思い出した…。
脱皮を繰り返して成長する蛇は、内部に新しい皮膚が誕生している為に、新たな
姿を晒す事ができるのだが、人間はそうはいかない。皮膚の下に隠れるおぞまし
いものが存在しているのだと思う。そのおぞましいものと感じるものは、やはり同
じ人間の心に生ずる。つまり美的価値観に相対するのが、異形の人々であり、
空想された異形の者達だ。それは美しい皮を一枚剥ぐだけで、それが出現する。
人であれ、風景であれ、世の中には薄皮一枚で、裏と表が繋がっているものだと
思う。美しい花であれ、その下には醜い造形である根という存在がある。
「古事記」において、天孫族であるニニギは表面的に美しいコノハナサクヤヒメだ
けを娶り、醜いイワナガヒメを拒んだ。しかしコノハナサクヤヒメとイワナガヒメは、
表裏一体の存在だった。それは人間の表に見えるモノと見えないモノの違いだけ
である。
金子氏の作品は、あくまで個人の自意識であろうが、自分の中に存在するものを
穿り出すように、絵に叩きつけているような気がする。他の作品を見たのだが、描
かれている作品の殆どが男であるというのは、自分自身の皮膚を剥いで作り出し
た作品なのだと思う。空に浮かぶ雲には、常にうねりが生じ、不安を醸し出す。自
分自身の闇の領域にある葛藤が生み出した作品群であると思われるが、実はこ
の作品には、人間本来に隠れている素顔もまた描かれているのだと思う。