鶏頭山は早池峯の前面に立てる峻峯なり。麓の里にては又前薬師と
云ふ。天狗住めりとて、早池峯に登る者も決して此山は掛けず。山口
のハネトと云ふ家の主人、佐々木氏の祖父と竹馬の友り。極めて無法
者にて、鉞にて草を苅l鎌にて土を掘るなど、若き時は乱暴の振舞のみ
多かりし人なり。
或時人と賭をして一人にて前薬師に登りたり。帰りての物語曰く、頂上
に大なる岩あり、其岩の上に大男三人居たり。前にあまたの金銀を広
げたり。此男の近よるを見て、気色ばみて振り返る、その眼の光極め
て恐ろし。早池峯に登りたるが途に迷ひて来たるなりと言えば、然らば
送りて遺るべしとて先に立ち、麓近き処まで来り、眼を塞げと言ふまゝ
に、暫時そこに立ちて居る間に、忽ち異人は見えずなりたりと云ふ。
「遠野物語29」
「遠野物語29」では、その当時、人々の間では早池峰よりも薬師岳を恐れている
記述になっている。それは何故なのかと考えると、山に入っての圧迫感が違う。
早池峰も、初めは密林の中を抜けるのだが、あとは開放感のある空間を登り頂
まで行くのだが、薬師岳の場合、その密林地帯が長く、また早池峰よりも湿気を
多く伴っている。また小動物の糞も、あちこちにある事から、早池峰は神が鎮座
する山という認識の対比として、薬師岳は山の生き物が棲息する生々しさを感じ
る為だろう。
岩質も早池峰の蛇紋岩とは違い、花崗岩質でやはり、早池峰の対極にある感じ
だ。写真の通り、ヒカリゴケなるものもある。このヒカリゴケは、遠野の世界の中
で唯一薬師岳だけにあるというのは、その自然の神秘性を昔の遠野人は、まざ
まざと感じたのだろうか。
当然"生物"としての頂点である、天狗の話があってもおかしくないのだろう。