【一般的な遠野七観音伝説】
この遠野七観音は、慈覚大師が遠野において1本のカツラの霊木を得、この木から観音菩薩像を刻み、遠野郷の7箇所に祀ったものであると。遠野の歴史は、飢饉の歴史である。其れ故に、様々な思いが巡っていたのだろう。苦しい時の神頼みではあるが、今と違い昔は単純な願いだった。
「白いまんま(米)が食べれますように…。」
「おとっつあん(父)、おかっつあん(母)の病気が良くなりますように…。」そこで男連中は遠野三山を1日で巡れば願いが叶うとされ、女子供はこの”遠野七観音”を1日で巡れば願いが叶うとされている…。
滋覚大師の伝説が発生し、850年頃に遠野七観音が作られたという。それと共に、七つの井戸の伝説もまた伝わっている。七つの井戸といえば、小野篁の伝説が有名。小野篁の時代は805年なので、その伝説が遠野まで伝わってできたのが遠野七観音なのかもしれない。ただし、どういう意味を持って?と考えると、憶測の域はでないのであるが…。
井戸は冥界に通じているという話の他に、井戸に人形を投げて呪い放つという場所として使われた。冥界に通じる七つの井戸水により仏像を清めて、遠野の七箇所へと分散して奉ったといえば聞こえが良いが、当時の遠野は朝廷にとっての鬼門の地の筈であるが…。
青森の北斗七星型に建立された神社が鬼門を押さえる為にできあがった事を考え合わせると、遠野もまた封印する為の七観音という考え方もまたできる。
呪法を永続的にする為には、庶民の信仰心を利用するというのが手段であった過去の例から考えると、滋覚大師の伝説はでっち上げで、実は鬼門の地である区域を呪法によって未来永劫押さえる意図から、遠野七観音が作られたと考えても不思議ではない。平城京やら平安京などは、陰陽五行により発展させる為の街作りであったが、何も陰陽五行は発展させる為のものだけではなく、その地を封印する為にも使われるものだからだ。
とにかく七つという数字は聖数で、浄化の意があるのだが、中央から見ればあくまでも東北は鬼門である。つまり発展しては欲しくない地である事には変わりないのは、江戸まで続く歴史を見れば納得する筈。だから遠野七観音は、呪術的な意味合いが濃いと思った方が良いのかもしれない。朝廷にとって、東北は鬼門の位置だった為に坂上田村麻呂を遣わし、蝦夷征伐を敢行した。風水的に、鬼門を押さえたい為だった。まあ主な理由は他にあるのだが。その田村麻呂が、青森に北斗七星の形に神社を建立し封じ込んだというのは、周知のとおり。しかし、その田村麻呂は遠野にも訪れたという。
さて…そこで、風水的な封印は施されたのだろうか?朝廷を中心に見ると、東北は鬼門。その鬼門の東北全体を見渡すと、更なる鬼門の位置にあるのは岩手という事になりそうだ。奇しくも田村麻呂の東征の後に建立された北は早池峰神社及び、南は伊豆神社には瀬織津姫という穢れ祓いの強力な神を奉っている。南北の軸を中心に、施された呪法があるに違いないと考えてしまう。陰陽五行に基づいた風水は、都市を発展させるデザインと共に、発展を押さえるという施しもできるからだ。
東北でいう、西に位置するのは山形。元々西には、白虎を配する。それと西には悪気が抜けるという意味合いがあり、死の匂いもする。出羽三山神社なんど、天海が絡んでいるという事から当然、裏鬼門という意識の元に山形を押さえた風にとれる。例えば、出羽三山三社の階段に彫り上げている瓢箪は風水でいう「収殺」。つまり邪の気を瓢箪の中に吸収すると意味から使用されたものと考える。更に空海の真言密教が蔓延る山形には死の匂いがプンプン。やはり全国の裏鬼門という位置に属しているのが山形なのではと考えるのも、いた仕方ないものだろうか…。
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