中世に建てられた館は、鎌倉時代~南北時代~室町時代~戦国時代と推移するにしたがって、防衛的要素が強化されたようであるけれど、当初の目的は少し違う次元にあったのではないだろうか?
中世という時代は、古代よりも文明・文化が発達している感もあるけれど、意外に迷信がまかり通っている時代で、混沌とした時代でもあるようだ。それを初めから"館"は「要塞」…もしくはアイヌ語で言う「チャシ(砦)」として扱うと、とんでもないような気がする。遠野の館跡を見て気付くのは"水"だ。堀跡もあるので簡単に要塞だと思うかもしれないが、元々は別の意味合いも含めて、館が建てられたような気がする。各館に付随する伝説…ホウリョウであったり、ハヤリ神であったり、羽衣伝説であったり…。遠野における羽衣伝説なぞ、館絡みで七箇所も点在している。
中世に成立した、神々の改竄。豊受大神などは、天の羽衣伝説を伴い、全国に散らばった。これは中世の、新たな創世神話に基づくものからの発信のようだ。この豊受大神には、「水」の重要性を説き知らせるための意図も含んでおり、その地に根付く基本構想となる新たな信仰の始まりの印が、水と月の女神にも昇格し、天照大神の上に位置するようになった豊受大神の存在が大きいのかもしれない。
「御鎮座伝記」
イザナギ・イザナミの二神が大八州を生み、海神、河神、風神などを生んで、
一万年以上の時間が流れた。しかし水の動きは現れなかった為に、天の下
は飢餓状態となった。そこで二神が八尺瓊勾玉を空に捧げたところ、化生し
た神を豊受大神という。この神は、千変万化し、水の働きを体現して、命を継
ぐ作用をする…。
それと小友町の南館跡の造りは、まるで陰陽五行に則った造りをしているので、この時代にはまだ陰陽道の呪法を信じているふしがある。となると、別に書いた阿曽沼の呪法も信憑性を増すというものだが…。
またやはり、小友町の西舘は玄武の造りをしており、やはり陰陽道だ。つまり館を理解する為には、陰陽五行の知識が必要となると思う。それと、後に日本的に融合された、地神との兼ね合いも必要。遠野の伊豆権現が伊能曰く「エゾの神」であるなら、安部比羅夫がエゾの平定後にエゾの神を祀ったのは「御霊信仰」の証。その地に攻め入り殺戮し国譲りとなり、殺した人々を祀った出雲大社と同じもの。安部比羅夫もまたエゾ地に対して同じ考えの下にエゾのカミを祀った。そして遠野の伊豆権現もまた、坂上田村麻呂の娘が三山を分け合った場所という説もあるので、征服の後の信仰としての伊豆権現という意味合いにも取れる。
奥州藤原氏の滅亡後、この地を与えられた阿曽沼にも同じ考えが基本となり、遠野各地に館を築き、阿曽沼の発展を基本構想の元に遠野各地の地神を奉り融合してきたのかもしれない…。
ただし、当初に書いたように後半は、この陰陽五行から離れ、純粋な要塞としての意識が高まるようではあるが…とにかく一方向だけの知識じゃ"館"を理解できないような気がする。とにかく「館考察」も、今後の宿題としよう…。