小島俊一「宮古・閉伊秘話」の中に「中里の新蔵塔 縄しばり観音さま」という話が紹介されている。ここでの中里とは、岩手県岩泉町の中里である。話は、文化十一年(1814年)あまりの南部藩の悪政に訴え出た中里の者たちの代表三人が罰を食らい亡くなった。その魂を供養するために騒動二十八年後の天保十三年(1842年)八月二日、中里村正徳寺に観音菩薩坐石像(高さ60センチ、台座40センチ)を造立した。その供養観音が「縄しばり観音」 と呼ばれるようになったのは、いつしか誰かが縄で縛ったからとされる。何故に縄で縛ったのかの理由は、どうやら下記の通りらしい。
「願掛けが叶うように観音を縄でぎりぎり縛り、願いが叶うと解き、縛る事で祈願が切実な事を観音様に身をもって体験してもらう呪術」
ところで、この縄しばり観音は昭和36年の三陸フェーン災害によって崩壊したようだ。しかし平成22年(2010年)に、多くの人たちの寄付などによって再興したそうである。現在の縄しばり観音石像は、岩泉町のブログ「
いわいずみブログ」で見る事ができる。
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庶民の間での観音の認識は「仏を呼ぶ音を観て救いに来るのが観音様」だともいわれる。つまり、神や仏との仲介役のような存在。実際には、観音を言い表すには複雑怪奇で単純ではないのだが、庶民の間に普及するには単純な認識によるものが多かったようだ。それは、観音や如来を女性と認識していたよう。昔の時代劇に、遊郭などの女性の女陰を前にして、手を合わせ「ありがたや、ありがたや。」と祈るシーンが表現されていたのも、観音や如来を女性と重ねているふしがあった。実際に、浄土真宗の親鸞は夢に現れた観音と交わった逸話がある事からも、かなり古い時代から女性と観音は結び付けられていたようである。
もしかしてだが、この岩泉町中里の縄しばり観音は、東京都文京区茗荷谷の林泉寺に古くから伝わる「しばられ地蔵」が伝播されて誕生したものだろうか。宮田登「近世の流行神」に、この林泉寺のしばられ地蔵が紹介されている。文化9年(1812年)から文政12年(1829年)に成立した見聞記「遊歴雑記」には、こう記されている。
「志願ある者は荒縄を以て彼尊像を幾重にも縛り、願かなふて後己が縛りし縄を解きて奉るとなん」
宮田登の解説には「縛る事が己が祈願の切実さを、地蔵に身にもって体験してもらいたいことを示す呪術なのであって、こうした直接的な行為を自由に実行できる気安さを持つことが地蔵をして大いに流行させた原因となっている。」と述べている。
この林泉寺の縛り地蔵の姿は、下記の林泉寺HP「
林泉寺」で確認できる。
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観音が女性と結び付くイメージだとして、それを縛るで思い出すのが"緊縛"。緊縛とは、エロスを感じるSM世界の文化でもある。ウィキペディアで緊縛を読んでみると、江戸時代に遡るなど様々な俗説があるが、実際のところ1950年以降に形成されたものらしい。ただ、その緊縛を形成した人物の意識の根底に観音などを縛って願いをかなえる文化があった事を知っていた可能性はあるだろう。それはエロス的表現として、観音像をリアルな女性に変えただけなのかもしれない。
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