
土淵村の若者達が4人、5人、琴畑川へ木流しに行った時の事である。不動ノ滝の傍らにある不動堂に泊まっていたが、夜嵐が烈しかったので、堂の戸を堅く締切っておいたのに、夜明けになってみると、その中の一人が堂の外に投げ出されたまま、前後不覚で熟睡をしていた。宵に締めた戸はそのままであったから、これは神業であろうと言い合って恐れた。六、七年前の冬の事である。
「遠野物語拾遺119」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この「遠野物語拾遺119」を読めば、この琴畑川において木流しの仕事が行われていたのがわかる。ところで、この木流しの仕事だが、川を利用して木材を運ぶ仕事の為それなりに危険を伴う。そこで江戸時代の遠野では金毘羅参りへ行き、そして水上の安全を願って川沿いに金毘羅の石碑を建てている。

土淵を見ると、やはり小烏瀬川沿いに金毘羅の石碑が建っているのがわかる。しかし、琴畑の周辺には金毘羅の石碑がまったく無いのに気付く。

せいぜい、小烏瀬川と琴畑川の合流点である一の渡に、金毘羅の石碑が一基だけ建っている。だが、ここから琴畑部落までにある石碑といえば、鍋割の道路沿いに庚申の石碑が一基。あとは、琴畑部落内の川沿いに、やはり庚申の石碑が一基。
柳田國男「路傍の石塔の多きこと諸国その比を知らず。」と云われるように、遠野には石碑・石塔が多い。しかし琴畑部落周辺に、石碑を殆ど見る事は無い。石碑群が置かれるのは大抵の場合、村外れの境界となる。つまり冒頭の地蔵端と、もう一つは白滝の不動堂が恐らく琴畑部落の境界であり、遠野の習俗的にはそこに石碑が置かれる筈である。

地蔵端の小高い山は、琴畑川を見下ろすように屹立している。恐らく、その頂に祀られていた神仏は、琴畑川の安全をも願って祀られていた可能性はある。ただ現在は、祀られていた社の残骸だけがある。
信仰が廃れる場合の殆どは、別当の死による管理者の不在。そしてもう一つは、国から邪宗扱いされ自然消滅した場合だ。例えば明治時代になり、三峯信仰や妙見信仰は邪宗扱いされた為に公的な神社は廃社となった場合がある。遠野にも三峯神社跡地というものが存在するが、かつては社があり、賑わった時もあったようだ。過去に昭和一桁生まれの古老から「三峯は邪教だ。」との言葉を聞いた事がある。そういう認識が明治時代、人々の意識に刻まれていたようだ。
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