遠野には、梨木平と呼ばれる地名が四か所ある。一つは、達曽部と大迫の境界にある梨木平。一つは、琴畑部落にある梨木平。一つは、上郷町来内と遠野町の境界近くにある梨木平。一つは、上郷町にある梨木平。この梨木平を岩手県、いや日本全国規模で探せば、もっと見つかるだろう。上の画像は、実を成さない梨の木で、梨木明神として祀られている。
梨木平を調べていて、何らかの信仰の匂いを感じつつも、梨木平そのものがどういう意味を持つのかは、未だに理解出来ていなかった。ただ信仰と考えた場合、まず東北に布教に来たのは天台宗である。その天台宗から、わずかに糸のほつれでもないかと調べてみた。
天台宗関係の本を読んでいると、「諸国一見聖物語」に実成らぬ梨の話が紹介されてあった。その実成らぬ梨の木は、比叡山の西坂本の麓にあると。比叡山とはつまり、天台宗総本山延暦寺のある山である。その実の成らぬ梨の木を見て、徳一和尚という人物が一首詠んでいる。
「草も木も仏に成ると云ふ山の麓に成らぬ梨もこそあれ」
その歌に対して、伝教大師という人物が歌を返した。
「草も木も仏に成ると云ふ山の成らぬ梨こそ本の仏よ」
天台宗には「天台本覚論」という思想があり、人間だけでなく草木のような情の無いものでも成仏が出来るとされている。その中で、実の成らぬ梨の木とは、超自然的なものが宿る存在であり、元から仏であろうという意味の歌となる。それは当然、仏だけでなく神とも解釈できる。この前
「遠野物語拾遺18(実を結ばない小柿)」其の二」で紹介した「万葉集」の歌がある。
「万葉集(巻二・101)」で、「玉葛 実成らぬ木にはちはやぶる 神ぞつくといふ 成らぬ木ごとに」
この「万葉集」の歌からも、梨の木だけでなく実の成らぬ木というものは、普通ではない物事を超越した存在と考えられていたようだ。ここからは、私の憶測となるが、梨木平という地名は天台宗が持ち込んだものと思える。その地名の意味としては、実が成る代わりに仏であり神が斎く地であると。「平」とは凹凸の無いもので、一律で全面的であるとされる。それはつまり、その仏であり神の元、平等となる場所という地名では無いかと考える。ちなみに、宗像の辺津宮には神が斎いだ木が祀られているが、古代から木に斎くのは女神だとされる。天台宗の総本山がある比叡山は、北斗七星が降臨した地であるとされる。となれば妙見の女神が斎いたのが、比叡山の麓にある実の成らぬ梨の木であろうか。