昔、源平の戦があって多くの人が討ち死にをした。その屍を埋めて塚の上に植えたのがこの小柿であるという。その人々の霊によって、花は咲いても実はならないと云われている。
「遠野物語拾遺18」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
新潮日本古典集成「宇治拾遺物語」に「柿の木に仏現ずる事」という話に「昔、延喜の帝の御時、五条の天神のあたり、大きなる柿の木の実ならぬあり、その木の上に、仏あらわれておはします」と記されている。この「宇治拾遺物語」に登場する柿の木も、実がならぬとされている。そして、これに関連しそうなのは「万葉集(巻二・101)」で、「玉葛 実成らぬ木にはちはやぶる 神ぞつくといふ 成らぬ木ごとに」という歌だろう。この「万葉集」の歌は、大伴宿祢が巨勢郎女に送った恋歌ではあるが、柿の木だけでなく実の成らなくなった木全般の意味を含む歌となっている。
それでは「遠野物語拾遺18」を改めて読むと、「人々の霊によって、花は咲いても実はならないと云われている。」と柿の実が成らない理由が記されている。
神社に祀る神は、人であったり動物であったり様々であるが、その大抵は祟り神である。例えば、天満宮に祀られた菅原道真は、左遷された怨みを持って死に、雷などの祟りを成したとされ天満宮に祀られた祟り神である。無念を遂げた霊魂は、神に成り得る存在。これを「万葉集」の歌になぞらえれば、"実成らぬ木には、ちはやぶる神が憑く"と考えられていたようである。
考えてみれば、樹木というものは元々人間の体とみなされ、その名称が付けられている。その対比は、次の通りとなる。
目(芽)歯(葉)鼻(花)指(細枝)耳(実)腕(枝)頭(梢)胴(幹)足(根)
神に成り得る人間が死んだ後に、柿の木などの樹木に"神"として新たに憑くという事は、有り得る話である。「遠野物語拾遺18」に登場する柿の木は実が成らないのは、無念を遂げた霊魂が神として、この実の成らない柿の木に憑いたものと考える事ができるだろう。
htmx.process($el));"
hx-trigger="click"
hx-target="#hx-like-count-post-32927704"
hx-vals='{"url":"https:\/\/dostoev.exblog.jp\/32927704\/","__csrf_value":"43fb9e7d4024065b9759cd183e03f25e43cec085103a06cb8cef718452d6d7e19a12679efceca3fc95513d3899a16d981723fe34fda14a606ec062574f8322e2"}'
role="button"
class="xbg-like-btn-icon">