
片葉の葦の伝説における、片葉は「かたわ」に通じ、体の一部が欠損している不遇の者と結び付く場合が多い。その中でも、葦の根元には鉄分が吸い寄せられ、それを採集しての産鉄があった事からも、蹈鞴系との関連が多く語られる。片足、片目は鍛冶師が方足で鞴を踏む事とから片足がダメになり、また炎の燃え盛る炉を片目で見続ける為に、片目がダメになっていた事から、片足、片目は、蹈鞴の代名詞のように語られている。
「遠野物語32」では、旗屋の縫が追い詰めた鹿の片脚が折れた山を、それから片羽山と呼ぶようになったと記している。当初、山名に「はやま」が付く事から、片羽山は葉山信仰に関係するかと思っていたが、周辺の山々には鉱山が多く、また片羽山は片葉山、そして「かたわやま」とも呼ぶ事からも、「かたば」「かたわ」なのだろう。片葉山で鹿の片脚が折れた話も、
「片葉の葦」→「片脚」を意図しているのかもしれない。

倉掘家が愛宕山に住んていたという事は、その麓である卯子酉神社の場所は、雄大な猿ヶ石川の影響で、まだ人が住めなかったという事だろう。現在の卯子酉神社の脇には、小さな小川が流れている。それが水神の碑の建つ池跡の側を流れている事からも、この小川と池は繋がっており、猿ヶ石川に注いでいたか、猿ヶ石川そのものに含まれていたと思える。
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遠野の町に宮という家がある。土地で最も古い家だと伝えられている。この家の元祖は今の気仙口を越えて、鮭に乗って入って来たそうだが、その当時はまだ遠野郷は一円に広い湖水であったという。その鮭に乗って来た人は、今の物見山の岡続き、鶯崎という山端に住んでいたと聴いている。その頃はこの鶯崎に二戸愛宕山に一戸、その他若干の穴居の人がいだかりあったともいっている。
この宮氏の元祖という人はある日山に猟に行ったところが、鹿の毛皮を著ているのを見て、大鷲がその襟首をつかんで、攫って空高く飛び揚がり、るか南の国のとある川岸の大木の枝に羽を休めた。そのすきに短刀をもって鷲を刺し殺し、鷲もろ共に岩の上に落ちたが、そこは絶壁であってどうすることも出来ないので、下著の級布を脱いで細く引裂き、これに鷲の羽を綯い合せて一筋の綱を作り、それに伝わって水際まで下りて行った。ところが流れが激しくて何としても渡ることが出来ずにいると、折りよく一群の鮭が上って来たので、その鮭の背に乗って川を渡り、ようやく家に帰ることが出来たと伝えられる。
「遠野物語拾遺138」
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「遠野物語拾遺138」にも記されている様に、遠野は湖水であったとされている。ただ考古学者の調査によれば、尾瀬みたいな湿地帯であっただろうという事だった。実際、遠野盆地の石碑と、伝承を照らし合わせると、その裏付けが成される。恐らくだが、の湖水という表現は、卯子酉神社から見た、猿ヶ石川の情景では無かったか。それに加え、今は無くなってしまった松崎沼、別に蓴菜沼とも称すが、古くは船を浮かべて遊んでいた程広い湖水のようなものだったらししい。猿ヶ石川全体の中の、部分部分を切り取って見た場合、人によっては湖水と感じる人もいたのではなかろうか。

現在、愛宕山前に流れる猿ヶ石川に沿って、舗装された遊歩道がある。これが天保年間に築かれた堤防に対し、更に土を盛って完成した堤防となる。つまり、この堤防が無かったら、卯子酉神社までは、まだ猿ヶ石川の影響を受けていた事になるだろう。

大正時代の卯子酉神社前を流れる、猿ヶ石川の画像は、現在の猿ヶ石川と比較しても、川幅と水量は、比較にならない程雄大である。これが、卯子酉神社の池に猿ヶ石川が繋がっている時代は、それこそ湖水に思えたのではなかろうか。江戸時代の、愛宕橋が建つ以前は、船で対岸へと渡していた程、猿ヶ石川は広大で、悠々と流れていた。

ところが現代になると、上の大正時代の猿ヶ石川と比較すると、だいたい同じ位置から撮影しても、ススキなどの雑草で、川が見えないくらいの規模に縮小している。本当は、川近くまで行って撮影したかったが、愛宕山の対岸は雑草が背丈を超え、また複雑に絡み合う雑草の為に、行くのを断念。

昭和50年頃の愛宕の画像を見ても、大正時代とは、かなりの水量の違いがわかるであろう。恐らく戦後の復興で、山の木が伐採され、ブナやミズナラなど雑木から杉に移行しての変化が、この猿ヶ石川の規模の縮小になったのだろう。

そして現在は、上の昭和50年頃の写真の、半分程度になっている。この写真も、同じ位置から撮影したかったが、愛宕山からの景色は、木々が生い茂り、視界を遮ってしまう為、同じ位置からの画像は撮影出来なかった。

卯子酉神社境内に、愛宕神社が祀られている。祭神は、加具土命。倉掘家が当初、愛宕山に住んでいた為だろうか。愛宕山の愛宕神社の祭神は、伊邪那美と加具土命。火神である加具土命を産んだ為に、ホトを焼かれて伊邪那美は死んでしまう。その伊邪那美が死ぬ寸前に、嘔吐から誕生したのが金屋子神。尿から誕生したのが罔象女神。この罔象女神は、先に紹介した通り、やはり縁結びで知られた多賀神社の祭神でもあり、天保年間に築かれた堤防の際に、祀られた神である。金屋子神を紹介したのは、片葉の葦の伝説には、産鉄が関係する場合が多い為に、それに関連する鍛冶師に信仰される神としてのもの。愛宕神社は、火伏せの神として有名だが、本山でもある京都の愛宕山の縁起では、龍女を祀る。また愛宕の「宕」は
「人を石詰にして殺す」意味が含まれる。つまり愛宕とは
「愛する者を石に詰めて殺す」意か。実際、愛宕氏神社の祭神加具土命は、愛すべき母親を殺してしまった忌子でもある。しかし伊邪那美の嘔吐から生れた金屋子神は、何故か死体を好む。では、伊邪那美の尿から生れた罔象女神は、何を好むのか?いずれにせよ、死の匂いが漂う神々の集まりである。
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