紀元前の古代中国には、まだ四神の観念が発生する前に
「天地玄黄(てんちげんこう)」という観念が広まっていた。四神という四方に拡がる水平軸の考えよりも単純な、天と地という垂直軸により成り立っているという観念。そして天とは玄であり、黒。これは陰陽五行において、北を表す。また地とは、黄で示すのだが、これは地面の更なる下の黄泉をも含むものとなる。つまり古代中国の天とは、北の事であった。厳密にいえば、北に聳える山。そして古代中国における玄武とは、水神を意味すると云う。
この観念を遠野世界に照らし合わせれば、それは早池峯山となろう。遠野で、人は死ぬと魂は早池峯へ昇ると伝えられるのは、遠野で一番天に近い山という事もあるのだが、恐らくこの古代中国の「天地玄黄」の観念が伝わっていたのだと思える。それは何故かといえば、例えば早池峯山頂には、開慶水と呼ばれる聖なる泉がある。その開慶水を、東禅寺の無尽和尚は願い、それが聞き届けられた。これは陰陽五行において、まず陰陽の陰が北に位置して、水を発生させた事に繋がる。この北とは北天であり、北に聳える山。つまり遠野世界においては、早池峯の山頂が北天となる。その頂で発生した水を「天地玄黄」に則り、地へと降ろす観念が、東禅寺の開慶水の伝説として語られたのであろう。水はまず、初めに天で湧き、地へと降りる。そして再び、地面から涌き出て、天へと返っていく。この地から涌き出る水の観念が、黄泉国の言葉となったようだ。そして恐らく、早池峯の麓である大出・小出は、本来水の涌き出る生出(おいで)という地名からの転訛であろうが、その地名の観念は、やはりこの
”早池峯からの水が降りてくる地”の意味があったのではなかろうか。
人間の頭(あたま)とは、天の霊(あまのたま)から発生した言葉である。つまり、天から降って来た霊が坐した場所が、人間の頭。枝垂れ桜などの枝垂れ系の樹木が霊界と繋がっているという迷信は、これに関係する。霊は天から降って来て、枝垂れの枝を伝って、地へと深く潜って行く。そして再び、地から湧き出して枝垂れの枝を伝い、天へと戻って行く。また天から降った霊華(蓮華)を末娘が奪い、早池峯へと飛んで行ったとの伝説もまた、北天である早池峯から降った蓮華の花が、末娘を引き連れ再び早池峯へと返るのは、当然の事であった。
岩手県で、一番高い山は岩手山である。しかし信仰の広さを早池峯と比べてしまうと、どうしても見劣ってしまう。それは何故なのかと考えた場合、それは岩手山が火山であり火を吹く山であるという事になるので゛はないか。何故なら、万物を焼き尽くしてしまう火神が鎮座する山だと認識されるからだろう。陰陽五行の陰陽で、陽より先に陰が水を北天で発生させたという考えは、万物を生み出すという観念が先立つからである。そういう意味から、水神が鎮座する早池峯に対する信仰が、岩手山よりも広がっているのは当然の事であろう。山神を信仰するのは、山の恵みを期待するからである。その山神の殆どは、女神と信じられている。
例えば「播磨国風土記」での美奈志川(水無川)で男神と女神が、水争いをする。男神は、水を北に流そうとするが、女神は南へと流そうとする対立の話がある。また穴師の里でも、女神は北から南へと川を流すのだが、男神がそれを邪魔している。何故に、女神は北から南へと川を流そうとしているのか。「肥前国風土記」では、佐嘉川は北の山より南に流れると紹介し、そこに女神がいるとしている。そう、常に女神のいる山は北に鎮座し、川を南へと流しているようだ。そして同じ「肥前國風土記」での、姫社の郷でも荒ぶる神の紹介の前に、山道川の源は北の山から南に流れていると紹介している。つまり、女神の坐す山は、北から南に川が流れている事を強調しているようにも思える。これは風水的にも、北に祖宗山となる高山が聳える地が理想とされる事とに対応する。岩手県の大迫の早池峯神社が何故、遠野の早池峯神社に向って建てられたのかを考えた場合、それは遠野の早池峯神社経由で拝む事によって”北に聳える早池峯”を意識するからだ。この紀元前の古代中国で発生した陰陽五行という観念は、脈々と伝わり、日本へも渡って来ている。そして先に紹介した「天地玄黄」も、天である北は常に上に位置しているという観念が、現代においても「北上(ほくじょう)」という言葉に生きている。「北上」「南下」とは、常に北が上に位置し、南が下に位置しているという事から語られる言葉である。そこで思うのは日本の古代、朝廷を中心とし北を重視した信仰が定着している中、蝦夷という民族が北を支配していたという事実があった。この北の脅威を取り除く為に、どうしたのか。それが恐らく、養老年間に蝦夷平定の為、熊野から最強の水神を運んできた事に関係するのではなかろうか。
北天に発生する水であり水神であるが、古代の蝦夷国には存在しなかった。そこで当時の朝廷は、その当時の祟り神でもあり、三韓征伐の先鋒にもなった天照大神の荒魂である瀬織津比咩という水神を、北の地に聳える山へと鎮座させた。それはまず室根山であったが、現在の祭神は違う神となっている。また別に、氷上山も早池峯と同じ女神である事がわかっている。氷上神社に祀られる祭神は現在、天照大神が祀られる形にはなっているが、本来は天照大神荒魂であったのだろう。ここで解せないのは、他の山々に祀られた筈の水神の名前が消され、その神名が生きているのが早池峯だけになっているのは、何故か。それは恐らく、岩手山との対比の為ではなかろうか。陰陽五行に則れば、まず陰陽が発生しなくてはならない。神道における祭神の原初は、彦神姫神の二柱の祭祀が普通であったのは、この陰陽の設定と重なる。左は火(日)を表し、右は水を表す。火と水を合せて、新たな命を生み出す原初的な観念からであった。その観念に照らし合わせた場合、岩手三山というものは、有り得ない。岩手三山の伝説は、男神が岩手山で、本妻が姫神山、妾が早池峯。いや、本妻と妾は逆であるなどとの伝説がある。しかし、水と火の二元を考えた場合、それに対応できるのは水神が祀られる早池峯と、火を吹く火山である岩手山だけとなる。
岩手県の神社庁に伝わる早池峯縁起などを読んでみても、また遠野に伝わる伝説を読んでみても、北天の早池峯という存在意義を外して、盛岡側がその大元となるような伝説だけが残っているのは、中世以降に現在の岩手県一帯を支配した盛岡南部が、その伝説の背後に潜んでいるのを感じる。岩手三山伝説そのものは、南部藩となってから作られたものであろう。何故なら、本妻だ妾だと曖昧な伝説が広がってはいるものの、岩手三山の中ではやはり、早池峯の存在感だけが浮き上がっている。早池峯を頂点とした三山伝説が岩手県各地に点在している事からも、早池峯が特別な存在であるのが理解できる。姫神山が早池峯の親神のような伝説(烏帽子姫)などは、あくまでも早池峯の起源を有したいが為に作られたと思えてしまう。ともかく岩手県の三山伝説の原初は、火神である岩手山と水神である早池峯の陰陽の二つの山で信仰され、後から変更されたのではなかろうか。