以前
「早池峯山と火葬の話」という早池峯の神が火葬を忌み嫌うという内容の記事を書いたが、これは吉田政吉「新遠野物語」に紹介されていたもので、どちらかというと怪異のフィクションに近いものであった。「遠野旧事記」には、元禄の中頃まで死者が出た場合、十月から二月まで火葬が行われていたという。しかし早池峯山が開いている三月の中旬から、山閉じの九月の中旬までの間、火葬の煙を早池峯の神が忌み嫌う為、参詣人の身が穢れるのを恐れて火葬を禁じていたそうな。
早池峯の神は水神であり穢祓の女神でもある。しかし火葬をした場合に参詣人の身が穢れるというのは、穢祓の神威を停止するだけでなく逆に、その穢れを振り撒くという事だろうか。厄災が振り撒かれるが、蘇民将来の札を貼っている家には厄災が降りかからないという牛頭天王の伝承と繋がる可能性を持つ話ではあると思う。自分は、天安河原で素戔男尊と対峙したのは天照大神の荒魂だと考えている。その天照大神の荒魂とは、早池峯の穢祓の女神でもある。遠野全体に、厄災を振り撒く牛頭天王(素戔男尊)と穢祓の女神である早池峯大神が一緒に祀られている社をいくつか目にしている。延長年中に早池峯山頂の本宮と后宮が修理されたという記録から、それ以前から本宮には恐らく男神が祀られ、后宮には現在の祭神である早池峯の姫神が祀られていたのだろう。その男神が祀られていた事実を考えれば、その男神とは素戔男尊の可能性があるのかもしれない。厄災神と穢祓の女神の夫婦神…いや実際は、男神として天照大神が祀られ、女神として天照大神の荒魂として伊勢神宮の荒祭宮に祀られる早池峯大神である瀬織津比咩であるか。
話が横光に反れてしまったが、火葬を忌み嫌うのは早池峯大神だけではなく、火葬に対する俗信も広まっていたからのようだ。それは「火葬の時の煙の"気"が井戸に入れば、井戸水が穢れる。」というものであった。それ故に人々は火葬があると聞けば、火葬場からいかに離れていようと、井戸に蓋をしたのだという。今の時代よりも、更に水の大切さを切実に感じる時代、水を守る意識の高さからの話である。そして火葬は、通年通して行われなくなったのだと。
しかし南部家では、代々火葬を行ってきたものであったが、遠野を統治してから火葬を止めざる負えなかったというのは、どういう心境であっただろうか。早池峯妙泉寺には、南部氏以前に統治していた阿曽沼氏からの書が伝わっているという。それは、"早池峯への寄進を引き継いでくれ"というものであった。それを引き継ぎ南部直栄は、更に玄米と共に七十石を寄進したそうである。これらから、いかに早池峯大神が、阿曽沼氏からも南部氏からも恐れられていたかわかるというもの。まあこれは、南部氏の本拠である八戸の櫛引八幡に、早池峯大神が大きく関わっていた事に由来するのであろうが、その南部氏が代々伝わる家の火葬習俗を諦めたのは、それだけ早池峯大神の神威であり、その祟りが恐ろしかったのだろうと思えるのだ。