伊能嘉矩「遠野くさぐさ(白見山の山男)」において、
「白見山は、一に白美山と書し、本名を朝倉岳といふ(海抜一千二百メートル)」と記されてあった。これが正しければ、いろいろと思うところがある。また
「白見山は、上閉伊(土渕金沢)・下閉伊(小国)両部の中間に横はる峰嶺にして、山勢幽深を以て名であり。山の中部を大白見といひ、一の大沼あり。」という記述の中の
"大白見"という名称は、意味深である。
まず朝倉岳という山名だが、以前
「朝倉トイウモノ」で、朝倉は星見・月見の意であろうと書いた。これを考え合せ、何故に白見山で
"二十六夜待ち"という月の出を待ち見る習俗があったのか疑問であったものが解消される。
この「白見山の山男」では、白見山の山男が二種類あると記している。
「一をミツヤマと呼び、一身三頭を有し、一をヨツヤマと呼び、一身四頭を有すともいへり。」。普通であれば、こういう化物はいないものと誰もが思うであろう。しかし何か意図して書いているとすれば、その意図は何かという事。ここで思い出すのは北斗七星である。北斗七星の俗称に
"四三の星(しそうのほし)"というものがある。
野尻抱影「日本の星(星の方言集)」には四三の星の詳細が書き記してあるが、元々は双六の賽子の目から始まった言葉であるようだ。双六が伝わったのは文武天皇の時代と言う事から、7世紀には既に賽子があったのだろう。双六で四三の目は、そう出るものではないとされている。とにかく北斗七星の七星を、四つと三つに分けたのが四三の星という事。ここで画像の北斗七星を見ればわかるように、北斗七星の形は変わらずとも、北極星を中心として回転している。その北斗七星を山際で見た場合、三つの星だけが見える場合と、四つの星が見える場合がある。恐らく山男のミツヤマとヨツヤマは、この北斗七星を意図して想像された山男ではあるまいか。ただし、遠野側から東に聳える白見山を望んでも、北斗七星は見えない。これは遠野の反対側の金沢で作られた話であるかもしれない。
また「白見山の山男」には、こういう化物も紹介されている。
其の他、仁科(土淵村に属す)の佐々木七右衛門(明治二十年六十余歳にて死す)といふ者、壮時或る夜中、同山の支脈なる梯子山の中にて山男に出会ひしことありしが、地上を抽くこと一丈余ある地竹の上に、尚ほ上体を一丈余りも高く挺んでて、頭上に方言オトコヤマといふ笠を被りつゝ往くを見たり。驚き恐れて其のまゝ家に逃げ帰りしことありともいふ。
大入道の話にも取れるが、この話は
「日本書紀」で斉明天皇の死後
「朝倉山の上に鬼有りて、大笠を着て喪の儀を臨み視る」を模したものではないかとも思える。笠を被る天体としては、月が有名だ。この「白見山の山男」の話も「日本書紀」の話も、どちらも笠を被った大入道という事から、浮かび上がるのは月であろう。「古事記」では伊弉諾が左目を洗って誕生したのが月読尊という事だが、月は一つ目であるという事。世に多くの一つ目の大入道の話があるが、確かに月を目であるとした話もある事から
「大笠を着て喪の儀を臨み視る」とは、笠を被った月の意であるのかもしれない。
先に紹介したように、白見山の本来の山名は朝倉岳であったよう。朝倉については「朝倉トイウモノ」で書いたが、朝倉には太陽の運行の軌道、もしくは月の運行の軌道に太白を重ね合せた思考があった。もしや冒頭で紹介した
"大白見"とは、
"太白"を意図してのものであろうか。そして朝倉が星見・月見を意図するものであるならば、月や星を擬人化、いや擬妖化したもので、白見山の怪異を表現したのかもしれない。確かに白見山は遠野側から見れば東に聳える山で、白見山近辺からの太陽や月の出を確認できる。また反対側の金沢からは、日の入り、月の入り、そして北極星と北斗七星を確認できる。それは古来から伝わる朝倉の意に対応するものであるから、朝倉岳と命名したのは、その知識があったであろう阿曽沼時代ではないか。