踊鹿(おどろか)という地名がある。それ以前は、
"驚岡"という漢字表記であったようだ。一昔前、遠野の町外れにはキツネの関所と呼ばれる地がいくつかあった。一般的には、現在遠野市観光マップにも載っている五日市の狐の関所。釜石街道のへの出口には、鴬崎の狐の関所。松崎方面の出口には、加茂明神の畑中の狐の関所。花巻街道ならば、間木野の狐の関所。そして、宮古街道へは八幡山の驚岡(今では踊鹿となった。)の狐の関所。他に、やはり遠野の町外れにある愛宕神社下の鍋ヶ坂の狐の関所。盛岡街道となれば、赤坂の狐の関所などがある。
踊鹿という地名も印象的だが、それ以前の驚岡もまた印象的だ。「驚く」という表記を使用している事から、何となく民話的な響きを感じてしまう。狐の関所でもあった事から、やはり狐に驚かされた話があるのかとも察してしまう。ところが、この驚岡での狐の話では狐もまた人間によって驚かされていた。
「ものがたり青笹」によれは、やはり狐の力によって昼間でありながら真っ暗闇になった話が紹介されている。
栗橋村に、駄賃付けをしている男がいた。いつも青笹の飯豊に泊って遠野の町に行っていた。ある日の朝早く、男は踊鹿の辺りを歩いていると、狐が何やら穴を掘っているのに出くわした。そこで男は、狐を驚かせてやろうと傍にあった柴を狐めがけて投げたところ、見事に命中したと。その後、男は遠野の町で用を足した帰り道、再び踊鹿に差し掛かったところ、突然辺りが真っ暗闇になったという。男は暫くおろおろと歩いたそうだが、暗闇に不安になり「助けてけろ!」と叫んだところ「どうした?ここは新堤だぞ?」という通りがかりの人物の声に、ふと改めて辺りを見渡すと、いつの間にか明るくなっていたという事である。これも狐の仕返しだったか…。
この狐を驚かせた事によって、昼間なのに暗くなり、狐に復讐される話は「遠野物語拾遺118」「遠野物語拾遺203」にも紹介されている。
上郷村佐比内の佐々木某という家の婆様の話である。以前一日市の甚右衛門という人が、この村の上にある鉱山の奉行をしていた頃、ちょうど家の後の山の洞で、天気のよい日であったにもかかわらず、にわかに天尊様が暗くなって、一足もあるけなくなってしまった。そこで甚右衛門は土に跪き眼をつぶって、これはきっと馬木ノ内の稲荷様の仕業であろうと。
どうぞ明るくして下さい。明るくして下されたら御位を取って祀りますと言って眼を開いて見ると、元の晴天の青空になっていた。それで約束通り位を取って祀ったのが、今の馬木ノ内の稲荷社であったという。
「遠野物語拾遺189」
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遠野の元町の和田という家に、勇吉という下男が上郷村から来ていた。ある日生家に還ろうとして、町はずれの鶯崎にさしかかると、土橋の上に一疋の狐がいて、夢中になって川を覗き込んでいる。忍び足をして静かにその傍へ近づき、不意にわっと言って驚かしたら、狐は高く跳ね上がり、川の中に飛び込んで遁げて行った。勇吉は独笑いをしながらあるいていると、にわかに日が暮れて路が真闇になる。これは不思議だ、また日の暮れるには早過ぎる。これは気をつけなくては飛んだ目に遭うものだと思って、路傍の草の上に腰をおろして休んでいた。そうするとそこへ人が通りかかって、お前は何をしている。狐に誑されているのでは無いか。さあ俺と一緒にあべと言う。ほんとにと思ってその人についてあるいていると、何だか体中が妙につめたい。と思って見るといつの間にか、自分は川の中に入ってびしょ濡れに濡れておりおまけに懐には馬の糞が入れてあって、同行の人はもういなかったという。
「遠野物語拾遺203」
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驚岡の話も含めて、狐の仕業によって昼間なのに暗くなる話があるのだが、これとどうも豊臣秀吉が
「おどろおどろしきことを語れ」と曾呂利新左衛門に命じて語られた
「曾呂利物語」に由来するようだ。
ある山伏が、昼寝をしている狐の耳もとで法螺貝を吹き鳴らした。狐は肝をつぶして逃げた。そのまま山伏が歩いていると、まだ昼間なのに暗くなってきた。泊る宿もないので、葬場の火屋の天井に上がっていると、死人が火の中から飛び出し、山伏に掴みかかってきた。山伏は気を失ってしまったが、気が付いてみると、まだ昼のうちで、しかもそこは火葬場でもなかった。狐の仇討であった。
「曾呂利物語」
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「驚」という漢字表記に気になり、狐の話を紹介してみたが、本来の狐の関所は現代の整備された地ではなく、それこそ狐が出そうな
"おどろおどろしい場所"であったから、狐の関所とされた。「おどろおどろしい」の例文としては「陰気なおどろおどろしい景色」などと表現するが、簡単に言えば「不気味な場所」という意味になる。「おどろ」とは「棘」の事であり、それは
「草木の乱れ茂った所。転じて、もつれからみあっていること。」という意味となる。恐らく驚岡の本来の意味は
「恐ろしい狐の出そうな不気味な場所」としてあった地に、後から狐の話が加えられ稲荷神社が建立されたのだと思う。踊鹿稲荷神社の建立時期は不明だが、豊臣秀吉に聞かせた「曾呂利物語」の成立が17世紀になったからの事。豊臣秀吉は1598年(16世紀)没であるから、その死後に文章化されたのだろう。神社の建立に携わったのは大抵山伏であった事から、まだ開発されていなかった"おどろおどろしい"地に神社を建立し、それと共に「曾呂利物語」の焼き直しの話を加えたのは山伏であろう。
踊鹿稲荷の社の反対側の少し離れた右側にも階段があり、そこを登ると森の中に画像の石灯籠がぽつんと一つだけある。これは何を意味するのか、よくわからない。ただその石灯籠を見、その場所の雰囲気も加えて思い出したのが、泉鏡花の俳句だった。
「五月夜や尾を出しそうな石どうろ」
まさに泉鏡花の俳句を現実のものにしそうな、踊鹿稲荷神社の石灯籠ではないか。是非、五月夜に行って欲しい場所である。