
奈良県明日香村に、亀石と呼ばれる奇妙な石がある。
画像は、ウィキペディアから借用。この亀石は、恐らく土木好きと云われた斉明天皇時代に造られたものか、はたまたそれ以前に遡るか定かでは無いという。この亀石の伝説には、奈良盆地一帯が湖であった頃、対岸の当麻の蛇と、川原の鯰の争いの結果、当麻に水を吸い取られ、川原あたりは干上がってしまい、湖の亀はみんな死んでしまった。亀を哀れに思った村人たちは、「亀石」を造って亀の供養をしたという。亀石の以前は北を向き、次に東を向いたと言う。そして、今は南西を向いているが、西に向き、当麻のほうを睨みつけると、奈良盆地は一円泥の海と化すと伝えられているそうな。
この伝説にも鯰が登場しているが、ここでは蛇との争いの話しになっている。そして、そのとばっちりを受けた亀の話が語られているが、要はこの亀石を動かすと、奈良盆地は水没するという事らしい。阿蘇での伝説は、巨大な鯰が水の出口に引っ掛かっていた為に、湖の水が抜けきらないところを健磐龍命が鯰を引っこ抜いて、湖の水が無くなった事になっている。鯰は水神の使役であるが、亀もまた水神との関係が深い。つまり、奈良盆地が水没しない様に、亀石が防いでいるという事だろう。つまり、この
"亀石"は
"要石"でもあるという事ではないか。
西山克「皇統と亀」には、称光天皇(1412~1428)が便所で用を足そうとした時、亀が現れて天皇に喰らい付いた話が紹介されているが、これは
"霊石"の祟りであるとされている。中世宗教界の中には、しばしば亀が登場しており
"金亀(こんき)"という概念上の亀は舎利塔や楼閣を背負う亀として認識されているのは、古代中国を含む様々な国に、大地などの根底には亀が居て、その大地を支えているなどの伝説が日本に上陸して定着した為であろう。これは亀そのものが堅牢さの象徴となり、磐に等しいものとして認識されているからだ。祝詞等などで読み上げられる中に
「底つ磐根に宮柱太しり立て…。」という一文は、堅牢な社の建て方を謳っている。社寺の石垣などには亀甲の石垣を組んでいるのは、亀の堅牢性を具現化してのものだ。つまり亀は、堅牢な磐でもあり、それが発展し龍脈を抑え、災害を抑える要石となったのではなかろうか。
「日本書紀(巻一聞書)」には、
「国中の柱つまり国軸として、常陸の鹿島動石(ゆるぐいし)、伊勢の伊勢大神宮…。」とある。ここでは要石ではなく動石と表記されている事から、要石という名称は後の事であろう。要石が国軸であるのはわかるが、それでは伊勢神宮の国軸とはなんであろう。それは
"心御柱"と呼ばれるものであった。真言密教の秘伝によれば、心御柱は龍樹菩薩と呼ばれ、柱そのものは白蛇棲むとされ、それは龍でもあるとされる。またその心御柱は須弥山とも呼ばれ、白蛇が棲む須弥山は、龍が取り巻いていると。つまり、須弥山と呼ばれる琵琶湖の竹生島を七匝している大鯰は、龍でもあった。これは中世に記された
「鼻帰書」に記されているものだが、これを記したのは独鈷を重視する修験によるものである。だからといって中世になってから、心御柱や竹生島、鹿島の動石が神聖視されたわけではなく、既に聖地とされていた場所に、御託を並べたものであろう。ちなみに竹生島を大鯰が七匝するくだりだが、
南方熊楠「四神十二獣について」において
「観仏三昧海教」という書が紹介されており、そこに
「四海の中に須弥山あり。仏は山を繞こと七匝」と記されているから、「渓嵐拾葉集」は、これを採用したのだろう。
四神のうちの北に鎮座している亀に蛇が巻き付いた姿で表されている玄武は、
「史記」によると
「北宮、玄武」、つまり玄武は星でもあるが、その星は「日本書紀纂疏」にも記されている様に、古くから石・岩・磐・巌と信じられてきた。ここで、
玄武=亀=星=石=要石との図式が成り立つか。
ところで、亀と蛇が一体で玄武というわけではない。
大形徹「魂のありか」では、玄武の詳細であり、古代中国での亀の立ち位置が調べられており、亀とは
「好んで蛇を喰らう」であるようだ。先程紹介した、南方熊楠「四神十二獣について」においても、熊楠は玄武が蛇を食べる亀である事を述べている。玄武の役割は、護衛であり、その堅い甲羅による防御である。玄武が鏡や墓室に描かれているのは、その主を悪神である蛇から守護する事であるからだ。
「山槐記」には
「地動は、龍動くところなり。」されている。それが日本にも伝わり、地震は地下に潜む龍が動いて起こるものであると認識されたようだ。それを別に龍脈とされ、その龍脈を抑える為に
"玄武としての要石"が必要とされたのだろう。

ところで前回、
「日本書紀(斉明天皇元年 夏五月)」の記述
「空中にして龍に乗れる者有り。貌、唐人に似たり。靑き油の笠を着て、葛城嶺より、馳せて膽駒山に隠れぬ。」は、未だに謎となっていると紹介した。紀元前4510年頃の古代中国で、仰韶文化の西水坡遺跡から龍に騎る人の姿が造られていたのが発見されている。それは龍は魂を乗せて天界へと運ぶものとされていたようだ。上記の絵は、長沙子弾庫楚墓から出土した龍に乗る人物の絵である。これを龍船というらしいが、要は魂を天へと運ぶ船であるようだ。日本でも、これに影響されたのか補陀落渡海の思想があり、海の彼方に浄土、もしくはニライカナイがあると信じられていた。それが古代中国では、海の彼方、水平線の彼方は天の河と繋がっていると信じられていたようだ。古代中国において天河と繋がっていると信じられていたのは、南北に流れる漢水であったようだ。それは天の河がやはり南北に流れているのと重ねられているからである。つまり、葛城から膽駒山とは、北へ向かう天の河の流れを示しているものであろう。

二度目の即位であった斉明天皇だが、この二度目の即位の後に何気なく記された龍に乗る者の意味とは、魂を賭して自らの信念を遂げ、天の河に到ろうとする斉明天皇の信念の表れではなかったか。となれば、香具山の西から石上山までに至る水路を掘ろうとしたのも、天河に繋げようとする意志であり、冒頭に紹介した亀石などの奇石も恐らく斉明天皇によるもので、天の河と繋がる、理想の都を目指したものでは無かったか。
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