「いせこよみ」では国土を取り囲んでいるのが龍蛇であったが、
「和漢三才図会」によれば、龍蛇が鯰に変身し、琵琶湖の主になったとの話がある。また、8月15日の月夜に竹生島の砂の上で数千匹の鯰が転げまわったとの記述があるが、これは恐らく月の変若水との関係を伝えるものだろう。要は、鯰は龍蛇と同じ水神の使いであると。

江戸の町に鯰が登場したのは、前回にも書いたが享保十三年(1728年)の大水害の時であった。それまで江戸の庶民は、鯰を見た事が無かったようである。この大水害の時に、鯰の大群が出て、江戸の人々はこれを捕まえて不思議がったという。恐らくこの時から、江戸の人々の意識の中に、鯰が不吉の前兆と刷り込まれたのではなかろうか。
享保十三年の約100年後、文政十三年(1830年)京都で大地震が起きた。その時に、江戸時代後期の歴史家であり思想家、そして漢詩人でもあった頼山陽が地震の詩を書いている。
「大魚坤軸を負ふ、神有り其首を按ず、稍怠れば即ち掀動す、乃ち或は酒に酔へる無きか願欲一たび醒悟し、危を鎮めて其後を善くせんことを」
この詩における大魚とは鯰を指し、神は鹿島神であるのを意味している事から、鹿島神宮で龍蛇の首尾を抑え込んていた要石は、この詩の後から鯰の頭を抑え込むようになったのかもしれない。そしてこの詩の25年後、安政の大地震が起きる。安政二年(1855年)の事であった。

大地震で被害を受けた人々は、どこに怒りをぶつけて良いか分からない。そういう時に描かれたのが、地震の原因である鯰をこらしめる事で、憂さを晴らすという絵。これが龍蛇の姿であったら、これほど滑稽に描かれたのかどうか。江戸の庶民が龍蛇でなく鯰を選んだのは、大地震という災害による悲惨な状況をも笑い飛ばそうという気質からきたのではなかろうか。大地震の後に描かれた、こういう鯰絵は様々な絵柄が大量に出回ったという。

大地震によって損をしたのは、金持ち連中であったと。家屋敷を失い寄付金を強いられた金持ちは、背後に鯰がおぶさるように憑いて泣いている。しかし、商人であれば"損して得とれ"なのだろう。現代でも大地震の被害に対して、金持ちや企業は寄付をしたり、直接物資を届けたりしている。明治時代の三陸大津波の時に岩手県の新聞で紹介されたのは、
「奇特な米商」と題して
「西閉伊郡上郷村の米商細川熊吉なるものは此度の災害を聞くや同胞窮厄を救わん為、自宅より夜通しに米穀を釜石に運び来り海嘯以前よりも価格を引き下げて販売し又大工の不足を憾み自村より十二三名の大工を派遣して一時の急を救へり…。」と。無料では無かったようだが、車の無い時代に夜通し米を遠野から釜石へ運んだのは、とても大変な事だ。それを成し遂げたのは、津波で被災した人達にが困っているだろうという想いからであったろう。そして被災者も、その想いを感じた事だろう。江戸時代で損をし泣いたであろう金持ちの商人も、その後の復興で笑い顔に戻ったのではなかろうか。

地震で家屋が崩壊すると、復興景気で職人の仕事が増え、手間賃が跳ね上がった大工をはじめとする職人は笑いが止まらず、鯰を讃えたと云う絵が上の絵となる。それは江戸時代に限らず現代でも同じで、破壊されれば再生する流れから、2011年の東日本大震災の後の好景気は
"復興バブル"とも呼ばれた。

地震後、仮設住宅ならぬ
"仮設遊郭"が建てられたそうだ。通常、遊郭を利用する事を拒まれた大工をはじめとする職人達だったが、復興景気で儲けた職人をターゲットに、この仮説遊郭は繁盛したという。

地震で家が崩壊し、我が家が無くなった人達は、今では国の主導の元に仮設住宅を当てがられるが、江戸時代の人達はもっと逞しく、使えなくなった襖や障子が貼られた扉で独自に仮設住宅を作り、住んだり商売を始めた様である。瓦版の絵からは、あまり悲壮感が漂っているようには見えないのは、やはり江戸っ子の気質なのだろうか。
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