橋姫神社の社伝によれば、孝徳天皇の時代(646年)に、元興寺の僧である道登が宇治橋を架けるにあたって、その鎮護祈願から、宇治川の上流桜谷に鎮座する佐久奈度神社の祭神瀬織津比咩を勧請し、橋上に祭祀したとするが、佐久奈度神社そのものは天智天皇時代に創建されたものであるから、年代のズレが生じている。しかし本来、桜谷の桜谷明神として祀られていた瀬織津比咩であった事から、佐久奈度神社に祀られるのはその後であろうから、橋姫神社に瀬織津比咩が勧請されたのは、あくまでも桜谷の瀬織津比咩として勧請されたものと思える。
ところで、桜谷は鎌倉時代の歌論書
「八雲御抄」で、
「さくらだに(是は祓の詞に冥土をいふと伝り)」と記され、冥土の入口と思われていたようだ。
「蜻蛉日記」にも、佐久奈谷へ行こうと言うと
「口引きすごすと聞く(引き込まれる。)…。」とあるのは、桜谷=冥土(黄泉国)の入口と古くから伝わっている為であろう。琵琶湖畔に、伊弉諾と伊邪那美を祀る多賀大社が鎮座しているが、どこか琵琶湖そのものが黄泉国と通じるという意識があったのではないか。その為、琵琶湖を源流とする宇治川の流れに、似た様な意識が伺える。以前書いた「七瀬と八瀬」で七瀬の祓所に触れたが、佐久奈谷や宇治祓所でもあった。「古事記」において、黄泉国を千曳岩で閉じて現世に帰還した伊弉諾は、真っ先に中津瀬に下りたって禊をした。琵琶湖を源流とする宇治川水系に、こうも祓所が設けられるのは、琵琶湖からの水系が黄泉国との入口と見做されていたのではなかろうか。
「撰集抄」という説話集に、「一条戻り橋」の話がある。祈祷僧浄蔵が吉野の修行から帰って来たところ、一条橋の畔で父の葬列に遭遇し、法力で父を蘇生させた事から、その橋を
"戻り橋"と呼ぶ様になったという。俵藤太が百足退治を懇願する大蛇に会ったのは、瀬田の唐橋。橋とは「あちらとこちら」を結ぶ意があり、それがいつしか「あの世とこの世」を結び付ける様になってしまったのは、水そのものが霊的なものとされている為だろう。川から河童が出て来るのは、水から現れるのではなく、黄泉国から現れるものと考えた方が良い。厠の穴から河童の手が出て、お尻を撫でる話も同じである。厠もまた、霊界と繋がっていると信じられていた。
「創禊弁」には
「山城の風土記に曰く、宇治の滝津屋は祓戸なり。云々。」とあり、また
「万葉集」にも
「ちはやぶる 宇治の渡 滝つ屋の…。」とある事から、滝=祓所という意識があったのだろう。ただ、宇治橋近辺に滝は無いようだが、例えば遠野に砥森滝というものがあるが、これは落差のある滝では無く、激流を滝に見立てて砥森滝と呼ばれていた。つまり、古代の宇治川もまた、滝の様な激流であったのだと思える。事実、延暦16年(797年)に、宇治橋造営の為に、文室多麿が派遣されており、嘉祥元年(848年)には、大洪水の為に宇治橋がやはり破損しているようだ。
わすらるる身をうぢ橋の中たえて人もかよはぬ年ぞへにける
又は、此方彼方に人も通はず 「古今集」この歌は、宇治橋が破損して、誰も通らなくなった事を詠っている。ただ宇治橋だけでなく、全国的に橋が洪水で流され、破損していた筈である。ただ「万葉集」にも詠われている様に
「ちはやぶる 宇治の渡」という形容から、宇治川は神威を感じる流れであったのだろうと察する。その宇治川の滝津屋と呼ばれた場所は、宇治の渡から約2・2キロに渡る範囲であるといい、つまり宇治全体が祓所である霊的な空間として認識されていたのだろう。そしてその中心は、やはり宇治橋であり、橋姫となる。
「古今集」で橋姫の歌に、下記がある。
さむしろに衣かたしき今宵もや我を待つらむ宇治の橋姫
又は、宇治の玉姫何故、橋姫が玉姫という異称で呼ばれたのか。それは恐らく、玉依姫を意味しているのだろう。玉依姫とは、霊(タマ)の依り憑く巫女の意であるという。つまり、祓所である宇治川全体の神の霊威を橋姫が一身に受けているという事。次は、その神の霊威の根源と橋姫を絡めて考えて見る事にする。