村々には諸所に子供等が恐れて近寄らぬ場所がある。土淵村の竜ノ森もその一つである。ここには柵に結われた、たいそう古い栃の樹が数本あって、根元には鉄の鏃が無数に土に突き立てられている。鏃は古く、多くは赤く錆びついている。この森は昼でも暗くて薄気味が悪い。中を一筋の小川が流れていて、昔村の者、この川で岩魚に似た赤い魚を捕り、神様の祟りを受けたと言い伝えられている。この森に棲むものは蛇の類なども一切殺してはならぬといい、草花の様なものも決して採ってはならなかった。人もなるべく通らぬようにするが、余儀ない場合には栃の樹の方に向って拝み、神様の御機嫌に障らぬ様にせねばならぬ。先年死んだ村の某という女が生前と同じ姿でこの森にいたのを見たという若者もあった。また南沢のある老人は夜更けにこの森の傍を通ったら、森の中に見知らぬ態をした娘が二人でぼんやりと立っていたという。竜ノ森ばかりでなく、この他にも同じ様な魔所といわれる処がある。土淵村だけでも熊野ノ森の堀、横道の洞、大洞のお兼塚など少なくないし、また往来でも高室のソウジは恐れて人の通らぬ道である。
「遠野物語拾遺124」画像の竜ノ森には、小さな社がある。そこには、寶龍権現が祀られている。寶龍は、熊野の飛龍が転訛したものであり、龍蛇神となる。古い栃の樹の描写があるが、現在その栃の樹は無い。栃の樹の実は、縄文時代から貴重な食料であった。実際、この竜ノ森には縄文の遺跡があった事から、縄文人が住んでいて、栃の樹も食べていたのだろう。遠野で有名な栃の樹といえば、同じ土渕の稲荷神社と、上郷の日出神社にある。古代から神社は、一つの生活空間であった。神社の杜には、神社の補修材としても成長の早い栗の樹や、大量のデンプンを含む栃の樹が植えられていた。ただ、食料として米が確保されるに従い、栃の樹は土師氏達によって伐採されていったようだ。
全国にある栃の樹の根元から冷水が湧き出している場合が、いくつかある。上郷の日出神社の栃の樹も、そういう伝承が付随している栃の樹である。恐らく、この竜ノ森の栃の樹も、冷水が湧き出していたのではないか。
一本の小川は江戸時代に人為的に引かれた用水路であるが、その近くには山口川が流れている。水脈が近い為に、栃の樹の根元から水が涌いていた可能性はあるだろう。何故ならここは竜ノ森という名称であり、竜蛇神が祀られている事を踏まえれば、この栃の樹を含む竜ノ森の情景が神社の様な聖域に見えた事からではなかろうか。昭和の時代に、似た様な事件があった。上郷町宇南田に、沼の御前を祀る地がある。そこも神域となっていたが、その神域で獲った岩魚を皆で食べた為に神罰にあたった話が伝わっている。
しかし、その聖域が魔所と呼ばれるようになったのは、やはり死んだ女の姿を見たとか、見知らぬ態の女を見たなどという話が広まった為であろう。これは、死霊の森というイメージが定着したからであろうか。例えば
「遠野物語拾遺121」では、タイマグラに見慣れぬ風俗の人達がいたというだけで怪しげな場所、ある意味魔所になっている。
他の、熊野ノ森や横道の洞など、以前は人の往来があった場所が、いつしか廃れ寂しくなった所を魔所と呼ぶ様になっているのは、現代において廃墟を幽霊屋敷と呼ぶのと同じ感覚であろうか。そういう意味では、縄文人が住んでいた竜ノ森の近辺も、今ではまったく人気が無くなっている為、同じ様な感覚で名付けられたのかもしれない。他の魔所は、一つ一つチェックして別記事に書く事としよう。