昔上郷村大字板沢の太子田に、仁左衛門長者という長者があった。それから佐比内には羽場の藤兵衛という長者があった。ある時この羽場の藤兵衛が、おれは米俵を横田の町まで並べて見せるというと、仁左衛門はそんだらおれは小判を町まで並べて見せようといったという。これほど豪勢な仁左衛門長者ではあったが、やはり命数があって一夜のうちに没落してしまった。ある年の春のことであった。苅敷を刈らせに多くの若い者を、吾が持山へ馬を曳かせて出したが、先立ちの馬が五、六町も離れた切懸長根まで行っているのに、まだあとの馬は厩から出あげなかったという話である。ところが山に登ってまだ苅敷を採り切らぬうちに、にわかに大雨が降って来たので、若者共は空馬で帰って来た。仁左衛門長者はこれを見て、おれの家では昔から山降り前に家に帰って来た例が無い。おれの代にそんな事をさせては名折れだといって、大きに叱って大雨の中を引き返させた。しかし若者だちは山には行かれぬので、大平の河原に馬を繋いでおいて、その夜は近所の家に入って泊った。ところが次の朝起きて河原を見ると、一晩の大水の為に有る限りの馬が、一頭も残さず流されていた。これが仁左衛門長者の滅亡であったという。
「遠野物語拾遺133」財力比べの話はさて置いて、馬が居なくなった為に没落した話は、それだけ馬が重要な役割を果たしていたからだ。遠野は、岩手県の中心に位置する。内陸部と沿岸の中間にあり、いくつかの街道が開けていた。五輪峠は、江刺方面へ。赤羽根峠は、大船渡や陸前高田の沿岸部に。堺木峠と笛吹峠は、大槌・釜石の沿岸部に。立ち丸峠は、小国経由で宮古へ。小垰は、大迫経由で盛岡へ。そして、花巻街道と呼ばれたのは、宮守経由で花巻へと繋がっていた。各地域の中間に位置する遠野には、様々な品が集まり賑わいを見せ
「市日市日に牛馬三千」と云われた。つまり、市が開催される日には、今で言えば車が三千台終結したようなものだった。
大槌街道に関する、物資の出入りの記録がある。
【入荷】海産物・鮮魚・魚油・魚かす・塩
【出荷】藁製品・米・雑貨・雑穀類・味噌・醤油・衣類花巻街道に関する物資の記録は、下記の通り。
【入荷】米・雑貨・紙
【出荷】木炭・木材・馬・鮮魚この記録を見ると、あくまで遠野は中継点であったのがわかる。例えば、大槌から鮮魚が入荷し、花巻に出荷されているのは、遠野側が中間マージンを取り、更にその荷を馬に乗せて運んだのだろう。駄賃付ともいう運送方法は、軽便鉄道が開通するまで、続けられた。この様に馬は、物資の輸送に加え、農耕や山仕事の動力となり、馬そのものも馬市での収入は、馬の生産に携わる人達の家計に大きく貢献しており、遠野の経済は馬によって担われて来た。その馬を全て失った仁左衛門長者が没落するのも、当然の事であったろう。