近年土淵村字恩徳に神憑きの者が現れて、この男の八卦はよく当たるという評判であった。自分で経文を発明し、佐々木君にそれを筆写してくれといって来たこともあった。山口の某という男がこの神憑きの男に八卦を見て貰いに行って帰っての話に、自分は不思議なことを見て来た。あの八卦者の家は常居の向うが一本の木を境にして、三間ばかり続いて藁敷り寝床になっていたが、そこには長い角材を置いて枕にし、人が抜け出したままの汚れた布団が幾つも並んでいた。家族は祖父母、トト、ガガ、アネコド夫婦に孫子等十人以上であるが、皆そこに共同に寝るらしかったと語ると、傍でこの話を聞いていた村の者が、何だお前はそんなことを今始めて見たのか。あの辺から下閉伊地方ではどこでもそうしているのだと言った。佐々木君が幼時祖父母から聴いた膽沢郡の掃部長者の譚には、三百六十五人の下婢下男を一本の角材を枕に寝かして、朝になるとその木の端を大槌で打叩いて起こしたという一節があって、よほどこれを珍らしいことの様に感じており、ことさら長木の枕という点に力を入れて話されたものだという。
「遠野物語拾遺257」
遠野の立丸峠の手前に、恩徳という小さな集落がある。藩政時代には、南部藩直営の金山があり、明治からはそれが民間の手に渡り、大正九年に閉山するまで他の土地の者が行きかう賑やかな山村であったという。金山閉山の頃から、ここでハッケ(八卦)の仕事をしていた「平助ハッケ」は本名を恩徳平乃助という。大正10年頃に小国の「中村ハッケ」に師事しているが、ハッケが突然当たるようになったのは、稲荷が憑いたとも山神がついたものと云われていた。その憑いた元と云われるのが、写真の稲荷神社である。
平助ハッケは、その他に「瀧上様」という神様を使役していたという。「瀧上様」は河童の事らしいが、平助ハッケは、この河童を使って人を病気にしたり治したりという。平助ハッケは、この使役する河童から依頼者の障りを聞きだし、治療に役立てていたようである。平助の拝み方はまず、遠野周辺の山々から、神社仏閣の名を次々に読み上げ神を降ろしていたと云われている。そして、半紙を二つに折って折れ目を口でずっと舐めるのだそうだ。すると濡れた箇所から神が裂け、その裂け具合から占っていたそうである。しかし当初は無料で占っていた様だが、途中から欲が出て来て金を取るようになってから当たらなくなったそうである。
恩徳に住んでいる方と話した事があるのだが、元々遠野の人では無く、川井村や宮古方面から移り住んだ人が多いようだ。それ故に檀家となっている寺も、遠野では無く川井村の寺であったりする。それ故に恩徳の地にも下閉伊郡の風俗が入り込んでいるのは当然の事なのだろう。膽沢郡は現在の胆沢であり、奥州市に属する。一本の角材を枕にし、それを叩いて寝ている者達を起こす方法は、確か西洋でもあった筈だ。それも一般庶民の中にではなく、やはり山などの閉ざされた空間で働く人夫達に適用されていたと思う。確かに、一斉に起こすには合理的な力技であろう。