家を出て最初に女に遭うと、その日は一日よいことがあるが、和尚であったら三歩戻って唾をするものだという。蛇に逢えばその日は吉。またその蛇が道切りであって、右手から出て来た時は懐入りといって、金が入るという。
「遠野物語拾遺255」
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よく、最初に逢うのは男か女かと賭ける話がある。どちらが良いとは何とも言えぬが、例えば隣国の韓国では、その日のタクシーの客が女だと縁起が悪いとして、乗車拒否をするニュースがあった。これは地域性や国柄もあって、不確かな縁起担ぎであろう。ただ、和尚の場合は死をイメージするからか嫌われるのはわかるが、地域によっては霊柩車に遭うと縁起が良いというところもあるので、やはり何とも言えない。唾を吐くのは、唾そのものが浄化を意味するもので、その場所を一旦リセットする意味として考えたら良いだろう。唾はモノの化生を意味するもので、素戔男尊が穿いた唾で宗像三女神が誕生したように、そこを浄化して新たな生命を生み出す意にもなる。死の穢れのイメージの坊さんに遭遇したら唾を吐く行為というものは、理にかなっている呪術でもある。
よくトイレなどには南天の実を置くのが良いというのは、トイレが不浄の溜まる場所であり、
「今昔物語」では厠に入った者が化物になって出てきた話があるのは、厠(トイレ)が霊界と繋がっていると信じられていた事もある。地面に穴が開いている、井戸やトイレは、確かに地の底=黄泉の国=霊界のイメージを持つのは当然なのだろう。そこで何故に南天の実を置くのかと言えば、南天=難転(難を転じる)という日本に古くから伝わる語呂合わせの文化でもある。難を転じて福を為すという、常に前向きの考えがそうしたのだろう。例えば、葦は「悪し」であるから縁起が悪いので「葦(良し)」と読む事にしようなどと、日常の悪しきものを良きものに変えようとしているのも、一つの言霊信仰であろう。言葉とは魔法であり、その魔法の言葉を信じれば、自分自身に何か良い事が起きるという錯覚に陥るのは、精神的にも良い。例えば、単なる水を良薬だと偽って患者に飲ませて快方に向かったという話を聞くが、それもまた言霊の力であると思う。「縁起担ぎ」は別に「ゲン担ぎ」とも言うが、これは「縁起」をひっくり返して「ぎえん」と呼ぶようになり、後で「ゲン」と呼ぶようになってしまった。言葉をひっくり返して呼ぶのは、現代でもかなり行われている。
蛇もまた、右から来ようが、左から来ようが、要はその人の決め事が言霊となる。あまりに左から何度も来る蛇に遭遇するならば、それこそ「ヘビ」を「ビヘ」などとひっくり返して呼ぶ事が、その難を逃れる術となる。その蛇だが、縁起物として蛇皮の財布は金運を招くなどと、蛇と金が結び付く諺などが多いのは、採掘・治金などのタタラ筋が蛇信仰をしていたのは有名で、例えば倒されたヤマタノオロチの尻尾から出て来たのが草薙の剣であるのも、一つの金の発見となる。古代から言い伝えられてきた蛇と金の結び付きが、この現代にも脈々と伝わっているという事だろう。