今はあまり行われぬ様になったことであるが、以前は疱瘡に罹った者があると、まず神棚を飾って七五三縄を張り、膳を供えて祭った。病人には赤い帽子を冠らせ、また赤い足袋を穿かせ、寝道具も赤い布の物にする。こうして三週間で全治すると、酒場という祝いをした。この日には親類縁者が集まって、神前に赤飯を供え、赤い紙の幣束を立てる。また藁人形に草鞋と赤飯の握飯と孔銭とを添えて持たせ、これを道ちがいに送り出した。この時に使う孔銭は、旅銭ともいった。そうしてまた疱瘡を病まぬ者には、なるべく病気の軽かった人の送り神が歓迎せられた。
「遠野物語拾遺262」トップの画像は、綾織砂子沢に祀られる疱瘡神。疱瘡が流行した時は、遠野からも大勢参詣に来たそうである。日本国内における疱瘡の古い歴史は、天平年間の聖武天皇時代が初見のようだ。朝鮮半島から渡って来た流行病とされ、その為に神功皇后の三韓征伐の際に登場した住吉三神が効果的だとされ、住吉三神を疱瘡退治の神として祀ったようである。
疱瘡に対して赤尽くしにするのは、赤は不動明王の纏う焔を意味して、病魔を焼き尽くすからだとされる。その起こりは江戸時代の様で、元禄時代の人物である
香月牛山「小児養育草」では、子供が疱瘡にかかった場合
「屏風衣桁に赤き衣類をかけ、そのちごにも赤き衣類を著せしめ、看病人もみな赤き衣類を著るべし」とある。しかし
「本朝医談」という書物では、疫病の時に赤い衣を着せる習俗は耶蘇教、つまりキリスト教徒より伝わったものでは無いかとしている。
キリスト教では、赤は血に象徴される救済または愛を意味する為、確かに病人を救う為に、赤い衣を着せるのはキリスト教でも自然の成り行きの様な気もする。時代的にも赤い衣を使用し出したのも近代である事から、キリスト教説も面白いと思う。また不動明王に関しても、例えば「不動明王」の名が書かれた札を燃やして水に落ちた灰ごと飲めば病が治るとしたのも、胡散臭い似非宗教者の商売でもあったので、その赤い衣の発生の正当性は何とも言えない。「遠野物語拾遺235」に赤い衣を著た僧侶が二人登場するが、その僧侶の宗派はわかっていない。
赤坂憲雄「遠野/物語考」では、その赤い衣の僧侶を
「天狗の眷属」の暗示としているが、現実的では無いだろう。赤い衣の僧侶が乗っていた風船、もしくは気球であれば、時代的にも西洋文化の進出の様でもある。つまりそこには、キリスト教者の姿が見え隠れする。遠野にも多くの隠れキリシタンが居た事から、いつの間にかその影響を受けて神仏と習合し、その習俗が拡がった可能性もあるだろう。とにかく赤色は、仏教的にもキリスト教的にも病魔に有効であった事が、民間の習俗として定着した理由であろう。