熊野の牛王神は極端な話になってしまったが、とにかく熊野に祀られる神と天照大神が深い関係にあると考えている。
田村圓澄「伊勢神宮の成立」に、面白いデータが載っていた。「日本書紀」において「天照大神」という神名が記されるのは、神代記から神功皇后記までで、その後は何故か天武天皇時代にならないと「天照大神」という神名は出て来ないという。では、その神功皇后から天武天皇時代の間の時代に「天照大神」の代わりに記される神名は何かというと、「日神」と「伊勢大神」であるそうだ。「日神」も「伊勢大神」も「天照大神」だろうと思うのが一般的であろうが、違和感もある。何故なら、天照大神は別に「大日女」「大日女尊」「大日孁貴神」などと呼ばれる。全て神名に「女」の漢字が使用され女神だとわかるが、「日神」という表記であれば男神であってもおかしくはないからだ。また日神と伊勢大神の使い分けも、何故にここまで統一性が無いのか気になる。あたかも、日神と伊勢大神はまた別の神では無かろうか。
また神武天皇の話も、神功皇后の話も7世紀後半の造作であるなら、「伊勢神宮の成立」に示されたデータから、神代記から神功皇后の話の中に天照大神という名が登場しているのは、意図的と言わざる負えない。何故なら皇祖神は天照大神であり、伊勢大神では無いからだ。現在の伊勢神宮は698年に建立され、その前に祀られていた滝原宮から遷宮したとある。しかし、伊勢神宮の建設中、持統天皇は滝原宮へは向かわず、真っ直ぐ建設中の伊勢神宮に行幸していたというのは、持統天皇の中で新たな天照大神を心待ちにしていたからであろう。つまり、滝原宮に祀られていた神は、天照大神では無いという事。滝原宮に天照大神が祀られているならば、自らの皇祖神を無視して伊勢神宮だけに通う筈が無い。天照大神の宮を造る事は天武天皇の発想だとされている。そして、その発想を実行に移したのが持統天皇であったが、完成したのは息子である文武天皇二年(698年)の時であった。
滝原宮に祀られる伊勢大神が天照大神では無い理由が、もう一つある。持統六年に、度会・多気の二郡から赤引糸が貢納するようになっているとの事だが、持統天皇は天照大神の皇孫であるから、天照大神を奉祭する立場なのだが、逆に天照大神側が持統天皇に貢納するのはおかしい。つまり、滝原宮に祀られる伊勢大神とは、天照大神では無いのだろう。その滝原宮の伊勢大神には未婚の王女が奉侍していたというが、これで思い出したのが、伊勢神宮内部に立てられている心御柱の祭祀である。心御柱は、伊勢神宮の謎であり
「秘中の秘」であるという。
関裕二「伊勢神宮の暗号」で、この心御柱を解説している。心御柱の祭祀には禰宜も関与出来ないのだが、それが出来るのは、度会一族から選ばれた大物忌という童女だけであるという。そしてこの祭祀には、度会と多気の両神郡から持って来た榊で宮を飾らなければならないという。では、何故大物忌でなければならないのかとされる理由は、その心御柱の神が祟る恐ろしい神であるからだと。その恐ろしい神に相対する事の出来るのは、昔話などで鬼を退治してきた童子・童女の神秘に頼ったからであるとされる。酒呑童子や茨城童子など、鬼もまた童子であり、それを退治できるのも金太郎や桃太郎の、普通では無い童子であった。そして心御柱では童子では無く童女が採用されているのは、それは女神であるからではなかろうか。大物忌はあくまで神を世話する存在であるから、その神が女神であるからこそ、禰宜は近付かず、童女の大物忌が世話をするのだろう。
ここで滝原宮の伊勢大神に戻り、心御柱を照らし合わせて考えれば、滝原宮に祀られる伊勢大神とは女神であり、祟る恐ろしい神である事がわかる。だからこそ、未婚の王女が奉侍していたとの事は、それが大物忌であったのだろう。田村圓澄「伊勢神宮の成立」では、心御柱は元来、滝原における伊勢大神の憑代であり、神籬であったと考えられるとしている。実際、この心御柱の祭祀と荒祭宮と滝祭神でも同じ事が成されると云う。つまり伊勢神宮で祀られる神とは本来、天照大神では無く、恐ろしい祟り神という推測が成り立つ。ここで
「日本書紀(神功皇后記)」での天照大神の言葉が甦る
「我が荒魂をば皇后に近くべからず」祟り神である荒魂は、天照大神やそれを祀る者達にも恐ろしいと思わせる神だと理解できる。となれば、崇神天皇時代に、祟った神は天照大神では無く、荒魂の方だったのではなかろうか?それが笠縫村から倭姫に託され彷徨い、滝原宮に祀られたのが、本来の伊勢大神であり、天照大神では無かった事になる。