維新の当時には身に沁みるような話が世上に多かったといわれる。官軍に打負かされた徳川方の一行が迷って来た。お姫様の年ごろははたち前らしく、今まで絵にも見たことが無いうつくしさであった。駕籠にやや年をとったおつきの婦人が乗り、そのほかにもお侍が六人、若党が四人、医者坊主が二人まで附添っていた。村の若い者は駕籠舁きに出てお伴をしたが、一行が釜石浜の方へ出る為に仙人峠を越えて行った時、峠の上には百姓の番兵どもがいて、無情にもお姫様に駕籠から降りて関所を通れと命じた。お姫様は漆塗りの高下駄に畳の表のついたのを履かれて、雇われて行った村の者の肩のうえに優しく美しい手を置いた。その様子がいかにもいたわしく淋しげであったから、心を惹かれた若者達は二日も三日も駕籠を担いでお伴をしたという。佐々木君の祖父もの駕籠舁きに出た者の一人であった。駕籠の中のお姫様は始終泣いておられたが、涙をすすり上げるひまに、何かぼりぼりと噛まれた。多分煎豆でも召上がっているのであろうと思ったところが、それは小さな菓子であった。今考えると、あの頃からもう金平糖があったのだと、祖父が語るのを佐々木君も聞いた。またお姫様が駕籠から降りて関所を越えられる時に、何故にこんな辛い旅を遊ばすのかとお訊きしたら、お姫様はただ泣いておられるばかりであったが、おつきの老女がかたわらから戦が始まった故と一口答えた。あれはどこのお城の姫君であったろうかと、常に追懐したという。
「遠野物語拾遺231」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
遠野を統治していた南部藩は幕府側に属していた為、それを頼って来たものだろうか。物部氏、平家の落人、源義経、長慶天皇、新選組の土方歳三、多くの敗者が北に逃げて来た歴史の中に、このお姫様一行も含まれるのだろう。
ところで金平糖は砂糖菓子になるのだが、室町時代以降ポルトガル船によって砂糖が持ち込まれ、菓子文化が始まりを告げる。桃山時代となって西欧菓子の製法も伝わり、その゜お菓子を南蛮菓子と呼んだ。それ以前の菓子には、中国から伝わった唐菓子があるが、砂糖が使われず、米・麦・豆を粉にして酢・塩・胡麻を加える菓子であるから砂糖菓子の魅力には勝てないのだろう。漫画
「信長のシェフ」でもその甘い洋菓子の美味しさに、その時代の人々の驚きを表現しているが、洋菓子文化の始まりが桃山時代であるから、漫画の表現と言えどもリアリティを感じる。
洋菓子を南蛮菓子と呼んだのは、ルソン・シャム・マカオなどの南方の国を南蛮人と呼んでいたのに加え、ポルトガル人やイスパニア人がその南蛮国を経由して来るので、まとめて南蛮人と呼ぶようになった。その為、南蛮人の作る菓子だから南蛮菓子となったようである。秀吉の生涯を綴った
「太閤記」には
「下戸にはカステイラ、ボウル、カルメヒラ、アルヘイト、コンヘイトなどをもてなし…。」と記されている。様々な洋菓子が伝えられたが、日本人の好みに合わない菓子は消えてしまったようで、後世まで残った南蛮菓子には
「コンペイトウ(金平糖)、カステラ、タルト、ビスカウト(ビスケット)、ポーロ、カルメル(キャラメル)、ブロフ(パン)、ヒリオス(ドーナツ)」くらいのようである。その中でも金平糖は保存が効くので、この「遠野物語拾遺231」でのように、こんな遠くの遠野まで持ち込んで食べたのだろうと思う。泣きじゃくるお姫様を慰めたのは、やはり甘いお菓子であり、それは現代でも女性を慰める食べ物として甘いお菓子は市民権を得ている。