同じ様な話がまだ他にもある。稗貫郡外川目村の猟人某もこの女に行逢った。鉄砲で打殺そうと心構えをして、近づいたが、急に手足が痺れ声も立たず、そのまま女がにたにたと笑って行過ぎてしまう迄、一つ処に立縮んでいたという。後でこの男はひどく患ったそうな。およそ綾織宮守村の人でこの女を見た者は、きっと病気になるか死ぬかしたが、組打ちをした宮守の男ばかりは何事も無かったと言うことであった。
「遠野物語拾遺114」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「遠野物語拾遺113」でキャシャと、山に出没する赤い巾着の女は違うのではと書いた。ここでも、其れらしき女が登場しているが、今度は手足が痺れ、患い死ぬという話に発展している。「遠野物語拾遺45」では、ハヤリ神を馬鹿にした男が動けなくなった話があるが、これを神仏を馬鹿にして罰が当たった話としている。
小松和彦「日本怪異妖怪大事典」で、山女を調べると似た様な話が紹介されている。その簡単な説明は
「人間の命を奪う恐ろしい存在で、猟師や炭焼きなどが犠牲になる点、雪女伝承にも通ずる部分がある。」とある。確かに雪女は、その姿を見た者を凍らせ、死に至らせしめる。そういう意味では、山女も雪女も同じものだろう。
これは、ある爺様と話した時の事だった。
「お前の知らない事を教えてやる。」とドヤ顔で某爺様が話すには
「兎には二種類の兎が居る。茶色の兎は大山兎で、白い兎は白兎というんだ。」と。昔の爺様は図書館で調べたり、現代の様にネットで検索して調べたりはしない。あくまで自分の経験・体験が絶対だと思っている爺様が、少なからず居る。これを山女に重ねれば、山女が冬になれば雪女になると考えても良いのかもしれない。神々の世界にも四季の彩りを愛でたのか、春の佐保姫、夏の筒姫、秋の龍田姫、冬の白姫と四季の女神を造り配した。そういう意味から、季節ごとの妖怪が発生してもおかしくはない。その本体が、一つだとしてもだ。
遠野世界で山女の話はいくつかあるが、見たら死に至る山女の存在は、何故か綾織と宮守にしかないのは何故だろう。その綾織と宮守の境界には、笠通山が聳えている。まさしく笠通山こそが、綾織と宮守の人間に死を与える山女の姿を見せる場所でもある。笠通山は別名「出羽通(でわがよう)」と云った。笠通山に登る事で出羽山(出羽三山)に登ると同等とされたという事らしい。つまり、笠通山に入るのは修験世界の体験でもある。出羽の修験者を別に羽黒修験と呼ぶ。
羽黒山・月山・湯殿山で出羽三山と呼ぶのだが、古代には湯殿山は入っておらず、鳥海山を入れての出羽三山だった。その中心に立つ神が羽黒権現とも呼ばれる。その羽黒では、羽黒権現様は女神であると云われ、御歳夜の祭りには、羽黒権現様がお気に召した若者にその姿を見せるのだと云う。しかし、その御歳夜に山中で女を見た者は死ぬと伝わっている。これは羽黒権現の姿は、気に入った若者だけが見る事が出来るのだが、それ以外の者は女神とは違う女の姿を見た場合に限って、死ぬと伝わっている。これを笠通山に照らし合わせてみれば、そういう羽黒系のお祭の日に、笠通山で女を見た者は死ぬという事になろうか。古今東西、女神には二面性があり、穏やかな優しい女神の裏側には、狂気の復讐の女神の顔があるパターンがままある。山神の法則に照らした場合、大抵は女人禁制であり、それを破った女には罰が下る。今回の場合は、定められた日には定めた者に対して、女神は姿を見せるが、そうで無い者が山に入った場合、女神の恐ろしい面が妖怪を作り上げて、他の者を死に至らしめさすとも考えられる。この笠通山の女は、いつでも現れるわけではなかろうから、羽黒権現である女神の恐ろしい部分の具現化が笠通山に現れたのであるならば、何か特別な日であったのかもしれない。
また綾織三山(桧沢山・二郷山・笠通山)の一つである二郷山では、見たら死ぬという伝承が三つもある。一つは、謎の生き物の姿を見た場合。一つは、謎の池を見た場合。一つは、敦盛草の影に三本足の猫を見た場合。またこの笠通山の山女に遭遇した場合も、死に至る。ただ桧沢山だけは、死の境界線に彷徨う魂を現世に戻してくれるという伝承が残っている。しかしどちらにしろ、総体的に山というものは生死を司る存在であると思われていたのだろう。この「遠野物語拾遺114」の山女も、その山に含まれる観念が、神であり妖怪となって表立って伝えられるのではなかろうか。