栃内のカクラサマは右の大小二つなり。土淵一村にては三つか四つあり。何れのカクラサマも木の半身像にてなたの荒削りの無格好なるもの也。されど人の顔なりと云ふことだけは分かるなり。カクラサマとは以前は神々の旅をして休息したまふべき場所の名なりしが、其地に常います神をかく唱ふることゝなれり。
「遠野物語74」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
画像の様にカクラサマは、確かに半神像となっている。この摩耗ぶりは
「遠野物語72」に記されている様に、子供の遊び道具にもなったせいだろうか。
柳田國男は
「奥州のカクラサマは路傍の神には珍しい木像である。しかとは判らぬが円頭の御姿であった。地蔵の一族でないまでも、其外戚の道祖神の姿を彷彿とさせる。」というように、カクラサマを道祖神と同じとみている。遠野郷にカクラ神社と名が付く神社はいくつかあるが、確かに集落の入り口であったり外れに鎮座している事から、道祖神に近いのだろうか。カクラは神楽や神坐とも書き記す事から、神の集まる意を持ち得るとは思う。しかし、ここで一つの疑念が生じる。確かに村の辺境は境界である為に、道祖神であったり様々な神名が刻まれた石碑が置かれるのは、別に霊界と繋がっている意識下にある。道祖神であり石碑は石造りである為に、雨風にも晒されても半永久的に残るものだ。それならば、カクラサマそのものも石造りにして置けば良いものを、わざわざ木彫りとして社を建てて祀るというのは、ある意味人間を祀るに等しいのではなかろうか。
半身像でフト思い出したのは、西洋の
アンドロギュヌス像である。昔、男と女は一体の完全体であった為、驕り高ぶり神の怒りに触れて、真っ二つにされてしまった。その事から、自らの半身を求める様に男は女を、女は男を求める様になったとの神話がある。またギリシア神話では、ミノス王が海神を騙した為に、その報いとして王妃パシファエは聖牛に恋をして孕み、生まれたのが半人半牛の
ミノタウロスだった。それはつまり、半身像という形は、人の罪であり業の深さを意味し、半分に引き裂かれた意味を持たないだろうか?
佐々木喜善は
「この神はオシラ神とは、全く反対の性質を持ち居給ふが如し。オシラ神の民家、屋内以外の処に無きが如く、この神は決して家屋内又は堂社等にある事無し。形態に於いても霊験に於いても二神は遂に全く相違す。」と述べている。つまり似ていながら対極にあるのが、このカクラサマなのだろう。対極の構図は、神道であるなら高天原と黄泉国であり、仏教であれば極楽浄土と地獄。これが西洋となれば、天国と地獄に相当する。オシラサマに関しては、今でも語り部のレパートリーとなって、娘と馬の悲哀物語として語られるのだが、その対極のカクラサマは語られる事の無い存在である。
伊能嘉矩「遠野くさぐさ」では
「野外に於ける一種の神にカクラサマと呼ぶあり。木造の半身像にて、多くは荒削りに形つくられ、男女二体より成り。是れ太古八百万の神々の中にて剰れる神にまし此神より除外されたまひしなりと。」つまり、西洋で云えば堕天使となるのがカクラサマという事か?
このカクラサマに関しては、もう少し調査が必要だろう。オシマサマばかりに目が向けられているが、そのオシラサマの対極にあるこのカクラサマには、深い闇を感じてしまう。