先月の事だった。弓道をしている人が泊まってくれて話が進む中、
オイゲン・ヘリゲル「日本の弓術」の話になった。オイゲン・ヘリゲル氏は、弓聖と云われた阿波研造氏の神業に心を奪われ、その後に「日本の弓術」を著したのだった。しかし、本のタイトルは弓術では無く、弓道とすべきだったと思う。とにかく、弓道に携わる人にとって「日本の弓術」はバイブルのようなものなのだろう。
ところで上の画像は
、「弓をひく-静けさの動学、国弓」(ヒョヒョン出版)の著者、金炯国(キム・ヒョングク)ソウル大学環境大学院名誉教授(69)。2006年に出版され、今や忘れられてしまったこの本は、2011年に公開された映画「最終兵器 弓」の人気に助けられ、再版されたという。金炯国曰く
「映画のおかげで弓に対する関心が高まり、感謝している。映画に出てくる的は、私の本を見て考証したのだそうだ。」と述べている。 金炯国は、著作の中で、こう語っている・・・。
「弓を引く瞬間は的だけが見える。緊張の中で見詰める的は、ある瞬間、なんとしても到達すべき深い願いの化身になる。過去に対する後悔もなく、未来に対する不安もない時間」
弓を手にして的を狙うまで、5秒から10秒ほどの時間が流れる。そしてついに手が弓の弦から離れ、2秒後には、的に当たる「タン」という音が響く。「私と的が一つになる『物我一体』の瞬間」
上記の言葉から、すぐに思い出したのが弓聖と云われた阿波研造氏がオイゲン・ヘリゲル氏に語った言葉だった。この阿波研造に会う為に大正13年に来日し、昭和4年まで師事したドイツの哲学者オイゲン・ヘリゲルの著作「日本の弓術」に似たような文章が書いてある。下記の言葉は、阿波研造氏が弓道を通した禅思想に基づく無の思想の境地でもある。
「私は的が次第にぼやけて見えるほど目を閉じる。すると的は私の方へ近づいてくるように思われる。そうしてそれは私と一体になる。…的が私と一体になるならば、それは私が仏陀と一体になる事を意味する。そして私が仏陀と一体になれば、矢は有と非有の不動の中心に、したがってまた的の中心に在ることになる。矢は中心から出て中心に入るのである。それ故あなたは的を狙わずに自分自身を狙いなさい。するとあなた自身と仏陀と的を同時に射当てます。」
来日したドイツ人のオイゲン氏の前で、暗闇の中で的の中心に矢を当て、次の矢は矢筈に当て、先の矢を真っ二つに引き裂いだそうだ。阿波氏の言葉と、それを実践した神技に驚嘆したオイゲン氏は、先に紹介した「日本の弓術」が書き始めたのが昭和4年以降で、日本での発行が昭和16年(1941年)であり、2012年に69歳の金炯国氏は、まだ生まれていなかった。
弓道に対する阿波氏と金炯国の言葉の構成は違うが、これは禅思想の
"無の境地"を説いたもので、阿波氏は
「仏陀一体」と述べているのに対し、金炯国は
「物我一体」という言葉を使用している。弓を通して日本の弓道を調べれば当然、オイゲン・ヘリゲル氏の「日本の弓術」という書籍に辿り着く筈。恐らく日本の弓道に対抗して努力したのだろうとは認めるが、中身の哲学が禅思想に基づかなければ辿り着けない思想である。その精神を表面の言葉だけパクッたのが、韓国人の名誉教授金炯国だったのだろう。