山口直樹「日本妖怪ミイラ大全」に、「真似牛の角」の話が取り上げられている。遠野の善明寺に伝えられる「真似牛の角」との違いを確認してみよう。
宮城県北部、栗原市栗駒にある浄土宗の名刹、往生寺には、奇妙な一対の角が残されている。西暦1200年頃、栗駒町から八里ほど南の小牛田町に、貧しいながら情け深く、信仰心に篤い農夫がいた。ある時農夫は、貧相な旅の僧を助け、手厚くもてなした。するとこの僧は居心地が良いので、いつまでも農夫の世話になり続けた。
ところがある夜、その僧が夢に現れ「念仏も唱えずに過ごした自分が恥ずかしい。この罪は免れないので、農業に務めて御礼がしたい。」と告げた。その言葉通り、僧は大牛に変わっていた。そしてこの大牛の働きにより、農夫は裕福になったのであった。
数年後、この話を聞いた栗駒の農夫が、奥州に浄土宗を広めていた金光上人を無理やり招き入れ、もてなした。しかし、金光上人は毎日のように念仏を唱えるから、一向に牛にならない。それどころか逆に、農夫自身が牛になってしまったのである。金光上人は京都の法然上人のもとへ走り、助けを請うた。すると法然上人は自身の坐像を自ら刻み、それを金光上人に託した。金光上人は栗駒へ戻ると法然上人坐像を祀り、農夫の家族らと念仏を唱えた。すると角も毛も落ちて、農夫は元の体に戻ったのである。
この角の逸話は、御利益のあった小牛田の小牛田の牛物語を真似た事から「真似牛伝説」と呼ばれ語り継がれている。その戒めとして真似牛の角は、今も往生寺に残されている。

遠野市善明寺に伝わる
「真似牛の角伝説」と善明寺の寺宝の
「真似牛の角」
今の宮城県遠田郡に貧しいけれど、信心深い農夫がいた。ある時、通りかかった乞食僧を助け世話したところ、実は偽の坊主で、その罪業の深さにより、ある日大きな牛になってしまった。貧しい農夫は、この牛の働きにより次第に裕福になった。
近郷の栗原郡に住んでいた愚かな農夫は、その話を妬ましく思い、自分も旅の僧が来るのを待っていた。そこに通りかかったのが金光上人で、農夫は無理矢理上人を納屋に閉じ込めて、牛になるのを待っていたところ、逆に悪心の報いか、体には黒い毛が生え牛になってしまった。ただ顔は人間のままで頭には角が生えていた。金光上人の法力ではどうしようもなく、師である法然上人に救いを求め、京都に戻ったという。法然上人は自ら自分の木像を作られ、金光上人に手渡し「自分は助けに行けないが、これを私だと思い、念仏の功徳を広めるように。」と諭された。
栗原郡に戻った金光上人は七日間の法要を勤め、牛になった農夫を元に戻してやった。この農夫はその後悔い改め、金光上人の弟子となり、正牛坊と名乗り、金光上人を追って遠野に辿り着き、遠野の地で亡くなったと云う。その時の正牛坊の所持していた牛の姿の角の一本が、画像の角だという。

実は、何故「真似牛」と呼ぶのか知らなかったのだが、宮城県小牛田町の
「牛飼長者伝説」に類似している事からの命名であるようだ。その「牛飼長者伝説」とは下記の通りとなる。
牛飼村に伊藤孫右衛門という百姓が住んでいた。或る日の事、一人のみすぼらしい格好をした旅の坊さんが家の前で佇んで、食事を乞うていた。孫右衛門は坊さんを家の中に招き入れ食事を与えた。そして、その坊さんの為に、新しい小屋を建てて住まわせ、朝夕心を尽くして、食事や身の回りの世話をした。春が過ぎたある朝、孫右衛門がいつものように小屋に入ると、大きな牛が一匹横たえていた。その顔は間違いなく坊さんの顔であった。坊さんは「私はこれまであなたが汗水して手に入れた食物をたらふく食べ、無為徒食で生きて来た為に、罰が当たりました。これからはあなたの家畜となって一生懸命働きましょう。」と涙ながらに話した。牛の力によって、孫右衛門の田畑の開墾は進み、しかも収穫量も増えたので、孫右衛門は牛飼村一番の長者になった。

まず小牛田の伝説は、その牛の顔が間違いなく坊さんの顔であったという事から、件のようである。「件」とは「人」と「牛」が組み合わさって「件」という牛人間であるが、戦や天変地異などの真実を語る神の神託を唱える巫女の様な存在でもある。そういう意味では、遠野に伝わるオシラサマと近いが、これは別の機会に書く事としよう。
遠野の善明寺に伝わる地名は宮城県の遠田郡であるが、「牛飼長者伝説」の牛飼村は小牛田町の大字に「牛飼」という地名がある事から、そこではないかと云われている。
「和名類聚抄」では小田郡と呼ばれていたようだが、遠田郡も小田郡も同じである。
小田治「山伏は鉱山の技術者」によれば、小田とは鉱山堀に繋がる地名であり苗字である事から、もしかして小牛田と岩手県に広く伝わるウソトキ伝説との関連も見出せるかもしれない。また遠田郡は聖武天皇時代に、にらの大仏の建造に必要であった金が初めて日本で発見された場所でもある。そういう事から、金と牛との関係が深いであろう。

ところで牛の角だが、遠野に放牧されている牛は画像の様な短角牛であり、その当時の牛の品種はよくわからない。ただ、「件」の絵の角と短角牛の角が近いので、妙に角ばって見えるものの、その時代にいた牛の角であろうか。

ただ、遠野の善明寺に伝わる角は、妙にほっそりとしている。これはカモシカの子供の角のように見える。普通の牛の角は、仔牛であっても、もっと太い筈だ。牛もカモシカも同じウシ科に属する為、似ているといえば似ている。

カモシカは成長すると、画像の様に太くごつくなる。牛鬼は西日本で広く伝わるよ妖怪だが、そのモデルはカモシカであると云われている。東北に比べて西日本ではカモシカが少ない為に、たまに出現するカモシカを妖怪としてみたのかもしれない。そういう意味から考えれば、真似牛とは小牛田に伝わる伝説に似ているから真似牛伝説となったのだが、牛に似ているカモシカも真似牛であるとも云えるのか。ただ、小牛田の伝説には角が残っていないのに対して、栗駒の往生寺も、遠野の善明寺も角がしっかりと残って伝わっている。どちらも真似牛と呼ばれる事から、伝説の原型は小牛田の伝説であろうが、角を有する事で寺に伝わる伝説の方がリアリティが増す。それが布教の手段と考えてしまえば、角を持ち込んで小牛田の伝説に結び付けたとも考えられる。
栗駒の往生寺と遠野の善明寺に伝わる話は、ほぼ同じなのだか、往生寺には伝わらない後日譚が遠野の善明寺には伝わっている。邪な考えを持った農夫が自分に尽くしてくれた金光上人の弟子となり、遠野に来たと云う事だ。しかし、往生寺にも善明寺にも、その農夫の角が伝わるという事は、やはり浄土宗の布教活動の一環として「真似牛伝説」が利用されたのではなかろうか。何故なら寺そのものが伝説の起源を強く名乗らず、「真似牛」であると甘んじている事が、その真実なのであろう。
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