
学生時代、日本史の教科書に掲載されていた一枚の写真。それが自分の住んでいる遠野の写真という事で、同級生の間で、なんとも言えぬ雰囲気が流れた。ただ、飢饉では食べるものが無く、餓死する人が多かったという話から、大根を食べれるだけましだろうとは思っていたが、時代は昭和9年。江戸の三大飢饉と呼ばれるが、それが東北に到っては四大飢饉とも云われる。いや、小規模の飢饉を入れれば、もっとあるだろう。その江戸時代よりも昭和の時代は、作物の品種改良なども含む農業技術も発達した事から、江戸時代の飢饉よりも酷いという事は無かったろう。
平成5年(1993年)にも岩手県内では、冷害の影響から人間様の食べれるような米はまったく出来なかった。米の自由化の前だった為、例えば
「釜石に闇米が来るぞ!」という情報を聞いて、トラックを借りて買い出しに出たほどだった。その時に購入した米の産地は、長野米や茨城米だったと覚えている。遠野で農家をしている人に聞いても、初めて米を買って食べたと。それが外来米のせいもあってか
「こんな不味い米は初めて食べた。やはり、自分の作る米が一番いい。」などと言っていた記憶がある。ところで一枚の写真だが、この飢饉の起きた昭和9年時の遠野の現状を
「遠野市史」で確認してみた。まず、昭和9年は冬から災害に見舞われていたようだ。
3月、大降雪・暴風あり、県下の死者数百数十人・家屋倒壊損傷四百戸以上。遠野は北国とは云われるが、日本海側の豪雪地帯に比べれば降雪量は少ない。それでも大雪による家屋の倒壊が多かったのは、建物の問題もあったのではなかろうか。この頃にはまだ多くの曲り家があり、メンテナンスもしていない茅葺屋根は雪で潰れた可能性はあっただろう。
7月~、低温冷雨続き下旬豪雨になり、河川大増水し被害甚大。天候不順で七月イネの病虫害発生。八月にかけて低温・長雨が続き、降雹などあって出穂せず。明治三十八年以来の大凶作になり、反当八斗五升三合・平年作の54%の減収になる。加えて伝染病流行。
以前の猿ヶ石川は、画像のように水量も川幅も現在と比べても段違いの規模を誇っていた。当然長雨に豪雨が重なれば、かなりの被害が起きたのは想像できる。それは家屋だけでなく、田畑にもかなりの影響を及ぼした事だろう。それに加えての冷害だ。
自分が小学校の頃、光興寺という高台の地域によく縄文式土器や石器を探しに行ったものだった。縄文時代の住居の殆どが高台であったのも、洪水を避ける為に高台に住んでいたという事が理解できる。しかしそれ以降、縄文人の嫌った低地に住む人々がいて、遠野の伝説を探ってみても、洪水で被害に遭ったという話などを確認できる。これは現代でも同じ事であり、例えば釜石市は新日鉄釜石と鉱山で賑わい、多くの人が移り住んだ。その為住居が足りなくなり、山を切り崩して住むようになったのだが、やはり大雨による土砂災害などで、今まで人の住んでいなかった土地は被害を受けている。今回の広島県の土砂災害も似た様なものだろう。人が多く住み付けば、その安全な土地の許容量をオーバーし、今まで避けられた土地に人が住み付いて災害が繰り返される。恐らく、画像の子供達が食べている大根とは、雨による洪水などの影響を受けなかった高台で採れた大根なのだろう。平年の半分の作物があれば、どうにか生きていけたのだろうと思う。また江戸時代と違って流通も良くなってきたであろうから、昭和9年での餓死者の話は聞いた事がない。ただそれでも、3月の豪雪と7月の洪水で、多くの人が亡くなったのであろう。
遠野の歴史は、飢饉や水害などの歴史であると言って良い。それによって多くの人が亡くなっていったのだが、それでもその後、少しづつ人口を増やしていった遠野は、昭和29年に遠野市として成立したのだった。
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