常光徹「妖怪の通り道」には「なめら筋」とも呼ばれる妖怪の通り道が紹介されている。その中に、妖怪の通り道にポンプ場とそれを管理する為の宿直室が作られ、5人の職員が交代で泊まっていたが、毎晩うなされるような怪異が発生したのだと。その妖怪の道は地域によって呼び名が異なり、魔ドウ、魔ドウ道、ナワメ、縄目の道、ナワメノスジ、マショウミチ、マドノミチ、ナマメスジ、ナメラスジなどと様々あるようだ。
例えば奄美大島では
「山の峰の真ん中、筋道は神の通り道」とされ、その道筋は避けて休むのだと云う。これは神社の境内を歩く時は、真ん中は神の歩く道であるから、真ん中は避けるのと同じ考えから来ているのだろう。ある説では、神社の往来をスムーズにする為に作られた説だというものがあるが、こうして真ん中の道は神の道だという伝承もある事から、恐らくその起源は古く、後から往来をスムーズにする為という説が発生したのではなかろうか。
上記で紹介した妖怪の通り道の発生は、未だに定かでは無いようだ。切れ目なく続く道に人々は何か特別な心意を抱いたのではなかろうかと著者は書き綴っているが、それは土地を左右に分ける一筋の中央線で、よく言われる境界の怪異と同じものではないかと考えているようだ。縄と境界で思い出すのは、
小野重朗「十五夜綱引きの研究」だ。この綱引きの習俗は殆ど九州で行われ、他の部落と綱引きをするようだが、十五夜に行われる事から、五穀豊穣に関する儀式でもあるようだ。ただ綱引きの綱は、蛇や龍神と見立てられている事から、その根底にはやはり古代蛇信仰があるのだろう。今では儀礼的になり、初めから決められている方が勝つ事になっているが、凶作・不作は部落の生死に関わる事であろうから、以前は必死な争い事になっていたのだろう。その争いをやめる為に、いつしか毎年交代に勝つ部落を決定したのだと思われる。この綱引きの習俗は農事に関わるのだが、その綱自体が蛇であり、ある意味綱が蛇の道を示しているかのようだ。つまり、勝った方に水神でもある蛇の御加護向うという事になるのだろう。
その蛇の道で思い出すのが、蛇神である三輪山伝承である。活玉依比売の前に突然立派な男が現われて、二人は結婚した。そして活玉依比売は、すぐに身篭ってしまう。不審に思った父母が活玉依比売を問いつめたところ、名前も知らない立派な男が夜毎にやって来る事を告白した。父母は、その男の正体を知りたいと思い、糸巻きに巻いた麻糸を針に通し、針をその男の衣の裾に通すように教えた。翌朝、針につけた糸は戸の鍵穴から抜け出ており、糸をたどると三輪山の社まで続いていた。これは
「日本書紀」では倭迹迹日百襲姫がやはり、三輪山の大物主の正体が蛇と知って驚いて、箸でホトを刺してしまい死ぬ話となっている。活玉依比売の伝説からすれば、一筋の糸が蛇の道を示している最古の話であろう。蛇とは狐や猫と並ぶ陰獣でもあり、人間を祟る存在でもある。倭迹迹日百襲姫が箸デホトを刺して死んだのも、約束を破った祟りとして考えて良いだろう。
ところで、遠野にもそういう道を聞いた事がある。かみさんの以前に住んでいた住まいが、そういう通り道であったそうだ。毎晩、霊の類が通り過ぎて行き、怖い思いをしたというが、確かに周囲には寺社が乱立している為に、霊の通り道になったのだろうか。実話に基づく永久保貴一の漫画に、やはり奈良県の団地が霊の通り道となっていて大変であった話があった。先に紹介したポンプ小屋も、同じようなもので、神であり霊であり、妖怪の通り道を妨げる事によっての怪異は、現実に起きている事例がかなりあるようだ。
そして縄で思い出したのが、遠野のマタギに伝わるサンズ縄だ。
「遠野物語62」にも紹介されている
サンズ縄は三途縄と書き、棺桶を縛る紐をこっそりとくすねて手に入れるか、葬儀の参列に使用する竜頭に紐をこすり付けるだけでも良いとされている。「古事記」での黄泉の国の描写には蛇も登場する事から、蛇は黄泉の国への使いでもあるのか、その三途縄もまた蛇なのであろう。
その三途縄を三囲引き巡らせて結界を張るのだが、つまり縄である蛇が一筋の道であり、魔の道ではあるものの、それが円として無限に循環するような形になっている為、その円の中心には魔が侵入しない様になっているという事だろう。だから結界として成り立つと考えられたのが三途縄ではなかったか。
山でタバコを吸うと蛇が寄って来ないなどの、マタギの蛇に対する警戒心は、山の魔物が蛇であると言っているようなものだ。三輪山の蛇の通り道は白い糸で示されてから、古来から山の魔物の通り道は一筋の糸であり縄のような細い道筋であるように伝わったのであろう。それを逆手にとったのが、遠野に伝わる三途縄の結界ではなかったろうか。