鱒沢村の笠の通という家の権現様は、小正月の晩にその家で村の若者等を呼んで神楽をすると、自分も出て踊りたがって、座敷であればれてしようが無かった。そこで若者たちはまず権現を土蔵の中に入れて、土戸をしめておいてから踊ったこともあるそうな。
「遠野物語拾遺57」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「注釈遠野物語拾遺」に記されている内容をざっと書いてみよう。
笠の通という家は、江戸期は善行院と称する旧修験家であり、遠野郷羽黒派の頭襟頭であった。遠祖は藤原北家の流れと称し、維新前は藤原姓であった。羽黒修験として笠通山に出羽三尊を祀り、日照りの年には雨乞いの護摩祈祷などで、験力を示したという。笠通山の元は出羽通山で、藤原家の修験が出羽の月山からこの山を遠望した時に、あたかも笠の形に見えた事から、笠通山と呼ぶようになってという謂れがある。権現は代々踊りたがって暴れた話が伝わっているらしい。
附馬牛の宿の新山神社の祭礼の日、遠野の八幡様の神楽を奉納したことがあった。その夜八幡の権現様は土地の山本某という家に一宿したが、その家も村の神楽舞の家であったので、奥の床の間に家付きの権現様が安置してあって、八幡の権現をばその脇に並べて休ませた。ところが夜更けになって何かはなはだ烈しく闘うような物音が奥座敷の方に聞こえるので、あかりを附けて起きて行って見ると、家の権現とその八幡とが、上になり下になって咬み合っておられる。そうしてとうとう八幡の権現の方が片耳を喰い切られて敗北したということで、今にこの獅子頭には片耳が無いという話。維新前後の出来事であったように語り伝えている。
「遠野物語拾遺58」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
山本某の家は真言宗の修験山伏で、奉納神楽を伝承していた家系のようである。この山本某の家の権現様は、延宝九年(1681年)の銘があるという。片耳を取られたという八幡の権現様だが、山伏神楽の流れを汲む奉納神楽で、片耳の権現があったと伝わっているが、今は無いらしい。

遠野市小友町に、こういう歌が伝わっている。
秋田のごげさんが
たらのこ食いてえて
おききとないた旧正月から小正月にかけて春祈祷が権現様を持って行われたという。その時に、上記の言葉を歌の様に唱えながら太鼓を叩いて、村中を廻ったという。これを小友町では「カドススマス」と呼んだそうだ。「カド」は「門前」の事を言い、「ススマス」は「獅子舞」の事を言うのだそうだが、権現も獅子舞も同じだとして「ススマス」と呼んだらしい。
このカドススマスが来ると、各家々では米・豆・麻糸をあげるのだというが、霞証文をもって祈祷した当時の名残であるという。その為か、踊る人間以外に「ものしょい」という物担ぎ専門の人間も連れてきて溜まった米などを担いで帰ったそうだが、一日では終わらない為に、部落の宿や民泊をしたらしい。小友町の宮崎の家では、泊めても良いが踊らせるなと伝わっているというのは、踊る場合はその家の女の衣装を貸し出さなくてはならなかった為の様。それは衣装が、滅茶苦茶にされる為であったようだ。
この権現様が村中を廻る春祈祷の時は、方々の神社から権現様が出て来る為に喧嘩になったそうな。それは霞という実入りの伴う領分が存在したので、その実入りの奪い合いからの喧嘩であったようだ。当然、同じ家に泊まった場合は、やはり喧嘩が起きたそうで、それが権現様の喧嘩として伝わったようである。遠野の神社に祀られている権現様の耳や舌が取られて無くなっているのは、毎年の喧嘩による災難でもあったのだろう。
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