御伽話のことを昔々と云ふ。ヤマハゝの話最も多くあり。ヤマハゝは山姥のことなるべし。其の一つ二つを次に記すべし。
「遠野物語115」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
山人に魅せられた柳田國男は遠野を訪れ、その山人の幻影を探した。南方熊楠に批判されようと、どこかでその夢を捨てきれなかったのかもしれない。日本の文化は西日本から開け、それから関東へと移行しつつあった中、東北はまだ未開の地であるという意識が、柳田國男を遠野の地へと駆り立てたのだろう。しかし現代になり、東北は独自の文化をはぐくんでいたが、中央の歴史からは省かれていた為、未開の地であるという柳田國男の幻想は杞憂であったのかもしれない。東北の中央には奥羽山脈が走り、遠野は沿岸寄りの北上山地に属する。殆どが山に覆われた東北の中の遠野であるから、柳田國男は佐々木喜善の話に興味を持って遠野まで来たのだろう。だからこそ、遠野の話は無数にあるものの、
柳田國男「遠野物語」には、山の話が多い。
ヤマハゝは山姥であり、やはり山に属する物の怪の類と広まっている。ただ、画像の絵は、御伽話で有名な金太郎と、その母である山姥である。この絵の山姥は、物の怪のような恐ろしい存在としては描かれて無く、どちらかといえば母性の象徴として描かれている。恐らくこれは、山そのものが様々なものを産み出す母性そのものであり、山神が女神であるという伝承に基づいて、その山の神である女神の具現化としてが山姥であろう。しかし、この絵と対照的に人を食べる恐ろしい山姥の姿もあるが、ここで神と云う存在を振り返れば、神とは元々一方的に祟りを為す存在であるが、人々に恵みをもたらす存在でもある。この二面性を神として捉えた場合、和魂と荒魂の二面性となる。ローマ神話での月の女神ダイアナは優しい母性の象徴となるが、もう一人の月の女神ヘカテは復讐の女神である。これは女性に存在する母性と嫉妬の二面性を山の神である女神に重ね、母性の山姥と恐ろしい山夫場は、日本の神の概念からすれば和魂と荒魂の関係となろう。
ところで画像の金太郎は山姥の子供であるから、熊と相撲を取っても勝てるくらいの力持ちである。早池峯や六角牛の山の神から石などを授かった者達が大力を得るのは、この金太郎も含め、山そのものが異界であり、あらゆるものを有する属性から、その力が与えられたものと感ずる。
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